国道252号旧道 駒啼瀬  第1回

所在地 福島県大沼郡三島町
公開日 2007.6. 7
探索日 2007.5. 7

翠霞に浮かぶ旧国道

宿を抜け出し、気になる場所へ… 


平成19年5月7日 午前5時01分 

 私はまだ日の空けぬうちに、こっそりと宿を抜け出すと、車に積んであった自転車を取り出し、静かに漕ぎだした。
朝食までには戻らねばならないが、2時間くらいは余裕がある。

これから行く場所は、タイトルの通り、国道252号の旧道の一部である。
以前、「街道WEB」にてこの道がはじめて紹介されたときから、ずっと訪問の機会を覗っていた。
今回の旅は、普段の山チャリではなかったのだが、まだ皆が寝静まっているこのチャンスを、逃すわけには行くまい。
なにせ、私が泊まった宿とその旧道とは、まさに目と鼻の先だったのだ。



 日の出は何時なのだろう。
四方を高い山に取り囲まれた、この只見川沿いの夜明けは、だいぶ遅れる。

既に旧道の入り口を過ぎ、いま足元にある2車線幅の舗装路は、難所を迎える前の、まだ平穏な旧道である。
ここの旧道は変わっていて、現道よりもかなり低い位置で峠をパスする。
故に、これから峠に向かおうというにもかかわらず、現道から分かれた旧道はぐんぐんと下っていく。



 旧道に入り約1km。
やがて家並みも途切れ、するとクリーム色がかった靄の中に、巨大なアーチ橋が見えてくる。
旧道はこの巨大な橋(歳時記橋という)へ、自然なカーブを描いて吸い込まれていく。



 この優雅な名の橋からの眺めは、それを見た全てのオブローダーに、興奮と挑戦を強要する!






崖の中腹に、くっきりと一本のラインが見える!


それは、未だ消え得ぬ、道の痕跡であった。







このラインこそが、昭和46年まで、国道だった道。

川井新道」という名の… 

 …旧道である。




 谷を覆う川霧の向こうに、ぼんやりと、そのシルエットを見せる、コンクリートの橋体。

ほぼ垂直に切り立った崖に刻まれた、道という名の、創意と工夫。芸術作品。

この姿を見て、黙っていられるオブローダーは居ない。
なにせ、あの穏健派で知られるTUKA氏でさえ、思わず雨の中で突撃してしまったほどの引力、蠱惑のエナジーを持っている。

これは私にとっても、タマラナイ!
思わず気が急いて。川底へ飛び込みそうになった。






 ここは、福島県の南西部に位置する沼沢郡三島町。
この山深き地を、深蒼の只見川とともに東西に横断するのが、国道252号。この辺りでは、古くは沼田街道と呼ばれていた道である。
藩政期には会津地方の特産品を多く運んだ沼田街道だが、馬の背にも耐え難いほどの難路が、多く存在していた。
この地にあった駒啼瀬(こまなかせ)峠もまた、その名の示すとおりの難所であった。

そして明治。この道もまた、近代的な街道として生まれ変わる時を迎えた。
かの道路県令三島通庸の洗礼を受けたかは定かでないが、旧来の峠を廃して、新たに、川縁の崖に馬車の通る道が拓かれた。

一名、川井新道と記録されている。



 時は流れ昭和。
既に馬車の時代はとうに過ぎ去り、それよりも遙かに巨大で重い自動車が、陸上の覇者となっていた。

沼田街道も長い県道の時代を経て、昭和38年の4月1日。只見川流域一帯の期待を一身に背負い、2級国道252号会津若松柏崎線へと昇格したのである。
しかし、なおもしばらくこの明治の道は、増え続ける交通量を度重なる改修で受け流しつつ、活躍した。

現道である駒啼瀬トンネルがようやく開通したのは、昭和46年である。
新しいトンネルの道は、奇しくも、明治時代に破棄された古い峠の真下を貫いている。

今日旧道は、只見川の河谷浸食による消滅の時を、ただじっと待っているようだ。
築かれた、幾多の道路構造物とともに…。



旧道への挑戦

 現れた戦慄の斜面 


5:09 【現在地

 歳時記橋から只見川下流方向を見渡すと、夏場以外であれば、右岸を這うように続く道の姿を、見ることが出来る。
もっと通りやすい場所は無かったのか。明治の道路技師の観察眼を思わず疑いたくなる。
散々荒れていると言うことは、TUKA氏の調査で把握しているが、果たしてこの全線を突破することは出来るだろうか。
また、近年ここを通り抜けた人は、いるのだろうか。
慣れない土地故、何も知らない状態でのチャレンジとなる。



 旧道への入り口は、少し分かりにくい場所にある。
歳時記橋の袂から自然に分かれるのではなく、その少し上流側より川側へ下る細道があり、そこがかつての国道敷きである。
写真はその入り口を示す。(左の斜面に寸断されたアスファルトが、旧道だ)


 旧道へ下りてすぐ振り返ると、そこにはヨレヨレになった道路標識が立っている。
まだ辛うじて青色の下地と、雷のような二本のギザギザ線が見て取れる。
これは「警笛ならせ」の標識らしい。
もしかしたら、本来の向きとは逆になってしまっているかも知れない。(この方向の見通しはよいし、向かって右側に立っているので)



 歳時記橋の橋台は、旧道を通すための暗渠を一体化した構造となっており、ここをくぐって進む。
なお、歳時記橋の竣工は平成5年のことであり、その頃には既に旧道は通行不能だったろう。
もっともこのような道であっても、公図上でいまも道となっていたりすれば、念のため余地を残すことは普通である。



ドーン と来たね!

 トンネルをくぐると同時に、もうそこは廃道最前線。
もともと未舗装だったことが良くなかったのだろう。
既に山菜伸び放題、取り放題の、草藪廃道1ヶ月前の状況となっている。

まずはペコちゃんに通せんぼされるが、これを軽やかにスルーする。



はい!二発目!

路面に打ち込まれた、通行止の標識。
しかし、肝心の柵やゲートは見あたりません。

でもよく考えたら、ここには不要だな。

だって、見た感じヤバイもの。
これじゃ、マニア以外は入っていかないって。
まあ、マニアだったら柵があっても乗り越えちまうしな。


柵無し、標識のみ、荒れ放題を見せる。  コレ最強。



 路肩には、累代の道にまつわる遺物が存在。 まずは見慣れたガードレール。
そしてその外側には、いまでは道路構造物としては滅多に使われなくなった、コンクリート支柱のガードパイプ、その支柱だけ。

しかし、ほんと道幅ギリギリの所に作ってやがる。
雨の日とか、路肩が弱っていそうなときには、絶対に寄りたくない端だな。
かなり無理して拡幅したのだろう、往時の道幅は6mくらいもあったようだ。



 まだ歳時記橋から100mかそこらしか来ていないが、既に廃道のまっただ中。
そして、不吉な感じに下ってきている。
駒啼瀬という険しい峠を越える道を作ろうという時に、敢えて谷底へ下って道を得ようとした明治の道路技師は、なかなか挑戦的だ。
今日ならば何のひねりもなく、トンネルバーンで終わったろう。

この先、次の集落である檜原までは、おおよそ1.5kmほどある。
最初からこの状態だというのは、かなり本気。






 そうそう。

皆様にとっては。べつにどうでも良いことだろうけれど…。



 あの……

   あのね…


 ボク…








チャリ
連れて来ちゃったー!

後悔したさ。
すぐに後悔した。

でも、気づいたときにはもう遅かった。
入り口から200mも来ると、既に路面に平坦な部分など完全に失われ、落石や土砂崩れ、そして路肩の墜落によって生じた、狭くて斜めで、しかも湿気っていて、土っぽくて、良く滑りおる。
いと、いといと恐ろしい廃道が、現物として出現していたのだ。

さらに悪いことには、容易にチャリを置き去りに出来ない、事情がある。

拘りという、 よく分からない事情が!




あわわわわ

わわわわ


最近は、ちょっとばかり安全圏に身を置いていたつもりなのに(笑)、
気が付きゃ今日も、
 命がけ。





 私を誘う、本当ならばあってはならない、良くない踏跡。

いつもお前に騙される。



また俺、こんな所に登ってしまったら…

 登ってしまったら…


 俺…





こええー…

この水の色はさ、思い出すじゃんかよ。
ヤメテケレってば…、マジで。

玉川思い出すじゃん。溺れかけたあの水を。
しかも、足元滑るものここ。
チャリ邪魔だって。チャリ俺にのしかかってくるなって。

頼むからー。









 








!!