一般人は通れなかった、かつての国道
現在の槇木沢橋の隣には、さらに高くさらに長いうり二つの橋、新槇木沢橋(仮称)が現在急ピッチに建設されている。
三陸地方の大動脈、国道45号線。
仙台市青葉区を起点に青森市までの525kmあまりの、山あり谷ありの長い長い道のりである。
しかし、現在でも十分に長いこの国道は、昭和40年代に一時改良を完了する以前には、さらに200km以上も長かった。
一時改良によるこの極端な距離の短縮は、三陸地方の名物であるリアス式海岸に突き出した幾つかの半島の基部にトンネルが掘られ、従前は半島の突端まで大きく迂回していた道が大幅に短縮された事が大きいのだが、この一時改良以前には、一級国道に指定されていながらも車が満足に通れない区間も存在していた。
それが、下閉伊郡田野畑村にある槇木沢橋一帯だ。
昭和40年の一時改良によって、高さ105m(当時日本一)の槇木沢橋が開通する以前、一度谷底まで降りて同名の木橋を渡り再び登り直すというルートが国道に指定されていたものの、これはあまりに険阻な道で、現役当時から廃道同然の道だったと言われる。
今回紹介するのは、木橋で谷を跨いでいたという旧国道である。
この道は、第2次世界大戦中の昭和16年に陸軍の要請によって開削された道であり、開通後もしばらくは一般者の立ち入りが許されない特別な道だった。
戦後一般に解放されたが、木橋を含む道は元もとが突貫工事の産物で、好んで立ち入ろうとする者がない状況だった。
木橋自体は昭和34年に、再び木橋へと架け替えられた記録があるが、いずれにしても安心して通れる道ではなかったと伝えられている。
三陸国道事務所刊「今、この道ゆけば(U)」を参考にしました。
A地点 旧道入口(大芦側)
今回の旧国道探索は、2005年8月23日に、徒歩にて行われた。
メンバーは、情報提供者のnumako氏(※氏のサイトは「numakoのhome[directory]page」)と、お馴染みのミリンダ細田氏だ。
旧国道は2万五千分の一地形図「小本(北西)」に点線として描かれており、これを元にしての探索となった。
(
ウォッちず「小本(北西)」より転載。作者一部加工。)
現地には、3つの時代に利用された3つの道が並走している。
海岸線に近い場所とはとても思えないほどに地形図には等高線が密に並んでいるが、村を分断する様に東西に走るこの槇木沢渓谷を安全に越える道の完成は、田野畑村の悲願であり続けた。
藩政時代から「浜街道」と呼ばれた道(図中では右側の道)が存在していたが、この道は文字通り断崖を這うように上り下りする道で、当時田野畑村に他所から赴任してきた役人達がこの谷を渡る道があまり難儀なことから、辞職を決心して引き返したなどという話が生まれ、「辞職坂」「決心坂」などと呼ばれていたと村史は語る。
次に、今回紹介する旧国道が、軍事道路として昭和16年に突貫工事で建設された。
しかし、この記念すべき初めて槙木沢を攻略した車道であるが、村人でさえ殆ど誰も通ったことがないという曰わく付きの隘路で、村の悲願の達成は、昭和40年の現国道槇木沢橋の開通を待たねばならなかった。
旧国道へは、北の芦沢地区、南の槇木沢地区のどちらから入っても良いが、我々は芦沢から入ることにした。
芦沢地区の外れにある旧国道の入り口。あまり使われていないようだ。
この日は生憎の雨模様で、午後からは台風が太平洋岸を北上しつつ次第に接近してくる予報になっていた。
8月の猛烈な暑さを凌げるとはいえ、やはり廃道歩きは晴れた日に一番気乗りするもので、ましてや発見した入口が早速雑草に包まれていたとなれば、踏み込んだ途端にびしょ濡れになることは明白で、決してテンションの上がるものではない。
しかし、長足で現地入りしていた我々は雨程度で引き返すわけにも行かず、各自無言で雨合羽を身につけ準備を整えた。
芦沢側の入口は、県道44号(岩泉平井賀普代)線の越の石峠登り口にあって、案内やゲートなど目立つものは特に設置されていない。
入口から700mくらいまでは、小さな車なら入れそう。微かに轍が残っていた。
まだ風は吹き始めていなかったが、空一面を白で覆い尽くした雨雲からは雨が落ち続けていた。
微かに車の轍が刻まれた小径は、間もなく県道から離れ、杉林の中を山肌の細かな凹凸に合わせるように蛇行を繰り返した。
これから険しい谷底へと降りていくとは思えないような、穏やかな道である。
谷底の槇木沢橋までの距離は、入口から約2.7kmである。
この間、他に旧国道と接する目立った道はない。
ひとたび森にはいると、そこは色とりどりのキノコが路上路外を問わず生えだした、まさしく「キノコの森」だった。
間もなく雑木林の中に吸い込まれるように入った道の両側には、入山禁止の立て看板やロープが現れ始める。
それと関係があるのかは分からないが、一帯は至る所に種々のキノコが地面を割って姿を見せていた。
しかし、一行はあまり山菜に興味を感じず、特にキノコについては物珍しさから大きなもの幾つかをほじくってみただけで、深く考察することはしなかった。
B地点 石垣現る!
路肩に築かれた垂直に近い石垣。昭和16年当時のものだろうか。
蛇行していくうちに、徐々に高度を落とし始めている旧国道。
しかし、未だ谷底は遙かに遠く、幾重の山襞と木々の緑に遮られて見ることはできない。
そして、路肩には苔生した石垣が現れた。
現在の轍の幅よりも路肩には2m以上の猶予があり、かつて軍事目的で建設されたという由来を支持する広さと言えるだろう。
実際にこの道を軍用車がどの程度利用したのかは今回調べが追いつかなかったが、おそらくそう多く利用されてはいないだろうと思う。
木橋を利用していたことからも、それがうかがえる。
遂に廃道らしくなった旧国道。しかしまだまだ谷は遠いのだ。
入口から700mを過ぎた辺りで、路上には大小の落石が退かされることもなく蔓延り始め、それらを覆い隠すように草が茂っている。
やはり、廃道となって久しいようだ。
一行は、流れる霧の粒子が見えるような幽谷の情景の中、進むほどに深まる廃の度合いを心地よく感じていた。
茫々としか見えない対岸の尾根。まるで南米のジャングルのようだが、あの上にも集落があるし、その両側ともに同じ村の一部である。だからこそ、村を分断するこの谷に橋を架けることは、村全体の悲願だったのだ
これから渡るべき槇木沢渓谷の対岸の尾根が、目線よりも少し高い位置に見えた。
橋を渡っても、今度は向こうの山を登らねば現国道へは戻れない。
たかが橋一本分の旧道とはいえ、そのスケールの大きさはこれまでに無い物がある。
三陸といえば特徴的な海岸線の印象が強すぎるが、その裏には、人を拒む原始のままに近い自然が広がっているのだ。
三陸地方の大半を含む岩手県が、日本で最も人口密度の少ない県であることは、よく知られている事実だ。
路肩の石垣は、自然石を組み合わせただけの簡素なもので、モルタルの様なものは使われていない。
再び谷側に石垣の築かれているのを発見した。
しかし、その造りは先ほどのものよりも簡易的であり、道路側から大きな荷重がかかれば外へ崩壊するのではないかと思えるほどスカスカである。
ガードレールなどが設置されていない事を考えても、やはりこの道を一般車両が通過するには、不安が大きかったに違いない。
今回のレポートを書くにあたり参考にさせていただいた「三陸国道事務所刊 “今、この道ゆけば(U)”」 には、昭和39年に筆者がジープに乗り込んでここを通った話が詳しく書かれてあるが、道は相当に劣悪な状況であったようで、
道路の体を全くなしていない山道、車よりも歩いた方が早いくらい、乗っている方は腸ねん転でもおこしそうな状態だった。
と酷い書きようだ。
昭和39年といえば、現国道が開通する前年であり、この道が現役の国道に間違いはなかった筈だが、想像を絶する。
見たことのない空き缶を発見。調べてみると特産品だった!
おっと!
これは土地柄の濃いポイ捨て事例である。
今まで見たことのないデザインの空き缶を拾い上げてみると、それには「田野畑くろもじ茶」と書かれていた。
調べてみると、くろもじの木の枝から作るというくろもじ茶は、田野畑村オリジナルの特産品とのこと。
現在販売されている商品と同じデザインの缶が落ちていたということは、比較的最近にも足を運んでいる人(村民の方?)がいるようだ。
道を潜る小さな暗渠から続く流水路の痕跡。やはりスカスカな石垣である。
山襞の小さな凹凸を何度も乗り越えながら道は続いているが、橋が設けられている箇所は谷底の一箇所だけで、他は全て暗渠だった。
暗渠や、それに付属する流水路なども、みな路肩の石垣と同じように隙間だらけの石垣で作られていたようである。
殆ど森の地面と一体化してしまっていたが、よく観察すると、人工的な痕跡がそこかしこに見られた。
完成した当時は、道の谷側には白い石が敷き詰められたような状態だったのが、長い年月を経て森の一部となってしまったのだろう。
C地点 道中最大の切り通し
切り立った崖の下に、瓦礫に半ば埋もれた切り通しがあった。
入口から1.8kmほどで、一際切り立った岩肌が現れたかと思うと、間もなく深い切り通しで貫通する場面となった。
ここまでは、ジープのような車ならいまでも小さな岩を退かしつつ入ってこられるかも知れないが、この切り通しより先は大変な荒れようで、完全な廃道となっている。
私は、普段滅多に見ることのない、三陸の森の姿を胸に刻んでいた。
私が住む秋田市とは緯度の上では大差のない田野畑村ではあるが、太平洋岸と日本海岸では気候帯も異なり、植生もまるっきり異なっているのだと実感した。
最も緑が濃い夏場の、しかも雨の日にここへ来たことは、その印象を深くするという意味では大正解だったと思える。
見慣れた涼しげブナ林とはあまりにかけ離れた、そのジャングル的な森の景色は、ここへ来た目的である旧国道の存在感さえ脅かすほどに、鮮烈に映った。
この切り通しを抜けると、いよいよ崖下に槇木沢渓谷を臨むようになる。
生あるものの饗宴。
降り注ぐ雨粒を全身で受け、森の木々、地の緑はみな、いまにもその身を揺らし始めるのではないかと思えるほどに、活き活きとしていた。
躍動するような森は、衰えた国道を飲み込み、その腹の中に納めていたのだ。
深い森の中では、ときに「緑が怖い」という感覚を得る時がある。
三陸の真夏の緑は、まさにそんな深みと迫力を持っていた。
覆い被さる緑は多層であり、空など見えない。
落ちてくる雨でさえ、一度は葉に集められているから、雷雨の時のように大きな粒である。
牛大の大岩がゴロゴロしている切り通しを恐る恐るぐるり抜けた。
切り通しを境にして、おそらくもう何十年も人が踏み込んでいないだろう、猛烈な荒廃の様相を呈する。
この道を旧国道と表現してきたが、最初から国道として建設された道ではなく、始めは軍事的な目的からそれ専用に建設された道であったことは既に述べた。
記録では、昭和16年にこの道は拓かれたことになっている。
当時まだ、三陸地方に国道はなかった。
戦後、昭和28年にまずは二級国道111号線として指定を受け、10年後の昭和38年に一級国道45号線に昇格している。(111号は現在も欠番である。)
さらに、2年後には一次改築として現在の槇木沢橋が完成し、同年は国道の級分けが廃止された年でもあり、一般国道45号線と改称され、現在に至っている。
つまり、この道が国道45号線として存在したのはわずか2年間、それ以前の2級国道時代を含めても、たった12年間ということになる。
比べて、廃止されてから経過した年月は実に3倍以上である。
D地点 オーバーハングの片洞門
足の踏み場もないほどの瓦礫の道。しかも全てが古ぼけている。
「片洞門」といえば、崖に刻まれた道の、特にその法面がオーバーハングとなって被っている状態を指す。
各地にこのように呼ばれる道が存在するが、観光名勝として名の知れているのは、例えば山形県小国町の小国川の片洞門(旧国道113号線)などがある。
しかし、この国道45号線の旧道にも、片洞門と呼んでも良いだろう大変な被り岩が存在している。
その衝撃の遭遇は刻一刻と迫っていたが、視界不良のため、本当に直前まで気が付かなかった。
崖と崖の隙間に一応車一台分くらいのスペースがあったようだが、もはや判然とはしない。
既に足元の崖の直下に槇木沢渓谷が迫ってはいたが、樹海は深く直接見ることはできない。
全体が苔に覆われ、緑色のスクリーンのようになった石垣がしばらく路肩に続いていた事を目視していたが、足場が非常に悪く、カメラを引いて撮影することが出来ない。
ともかく、かつて現役当時でさえ「歩いた方が早い」とまでこき下ろされたのも頷けるような、とんでもない場所に道は拓かれている。
ガードレールがあるでなし、崖を固めるで無し、作りっぱなしの放置である。
この道を知ってしまえば、現在の谷を一跨ぎにする槇木沢橋の開通が如何に待ち望まれていたのかは十分に納得できる。
隣の集落に行くのに、国道を使っているつもりがこんな道では、やってられない。
しかし、このようなギリギリの道でも、木々はしたたかに根を張っていた。
俄には信じ難き旧国道の造形。圧倒的迫力!
カブってます。
これぞ片洞門。
頭上には、道幅の半分以上にも張り出した、真っ黒な岩盤。
そこから帯のように水が落ち、路盤をしたたかに打ち据えていた。
至る所にプールが出来、行き場のない水が次々に落ちてくる仲間に押し出され、四方に迸る。
我々は、しばし口をあんぐりと開け、その画と音の空間を見つめた。
そこは、まさに前人未踏という言葉を連想させる、圧倒的な迫力があった。
だが、ここは国道である。
いまや三陸唯一の動脈線となった国道45号線の、その旧身である。
このような景色が、赦されていたのか!
恐るべし! 三陸!
道幅はとても自動車向きとは思えない。
海岸線から直立する200mもの断崖絶壁がウリの三陸海岸。しかし、国道の法面がこれとは…。
そそり立つ岩頭、負けじと丈を張る路上の木々。
廃道のなんたるかを、かつてない迫力で訴えてくる光景に、一同は無言で納得!
これは、廃道界の新しき名勝の出現では無かろうか?
もう一度言う。
恐るべし! 三陸!
やっと見えた谷底。しかしまだかなり遠い、というか、高い。
初めて見えた槇木沢渓谷の水面。
だが、まだ遙かに眼下であり、この谷を跨ぐという木橋「槇木沢橋」の有り様に、期待と恐怖が入り交じる。
残念ながら、すでに落橋しているという話ではあるが…、対岸にも旧道は続いており、一行は谷を跨いでの攻略を狙っていた。
E地点 滝の注ぐ旧国道
路傍に落ちる一筋の滝。そのまま暗渠で道を潜っていたようだが、今はその暗渠はない。
もっとも険しい片洞門は50mほど続く。
その前後を含めて200mほどの区間がハイライトと言えるだろう。
しかし、そこを過ぎても決して道の状況は良くならない。
ありとあらゆる自然の作用が道を壊そうとしているのだ。
谷へ注ぐ一筋の滝が道の脇へと滝となって落ちていた。
複雑な岩盤の中を捻れるように落ちる滝は、水量こそ極少だが、存在感がある。
道から見上げる限りでは、その落ち口が高過ぎて見えないというのも、またいい。
小さな沢を跨ぐ暗渠は、その路面部分がすっかりとえぐり取られ、基礎として埋められていただろう数本の丸太が辛うじて陸地同士を繋いでいる。
日本躍進の時代と言える昭和も16年になって新たに作られた道が、木や石といった前時代的な素材のみで築かれなければならなかった理由は、果たして何であろう。
まして、当時の日本がもっとも力を入れていた軍事関連の道路であるというのに、この有様はなんたるや。
八戸や三沢といった軍事上の重要拠点と、鎮守府のあった仙台や、石巻・釜石といった工業の要所を最短で結んだ三陸浜街道が重要ではなかったとは考えにくいのではないか?
私にその答えは分からないが、実際に突貫工事で作られた現実があり、この根本的に悪すぎる地形をして、十分な道を得るための時間は非効率的と考えられたのかもしれない。最短に拘らねば、既に迂回路が存在していたというのもあるだろう。
後編へ
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