国道45号 旧道 羅生峠 前編

公開日 2006.09.03
探索日 2006.04.08

 よく岩手県は峠の国などといわれる。
地形図に峠と記されているものいないものを含め、県内には二千を越える峠があるとも言わるほどに、古来多くの峠が拓かれてきた。
それは、岩手県が全国有数の山がちな県域を持つことと当然無関係ではないが、そればかりではなく、今も民謡などに伝わる馬追衆の営みなど、もとより岩手県の民は遊牧や交易に生計を立てる素質を持っていたのである。
県内には、北上川流域を除けば稲作に適した肥沃な土地が少ない。
特に北上山地一帯や三陸地方においては、毎年吹き付けるやませと呼ばれる冷たい季節風が、著しい稲作不適地域を生じさせてきた。
かつての人々は生きるために流浪を余儀なくされたとも言える。

 三陸地方にも、多くの峠が拓かれてきた。
そのうち、メーンとなるルートは、藩政期までは浜街道と、明治には東浜街道と呼ばれ、時代に応じて整備されてきた。
昭和30年代以降、ようやく自動車交通時代が要請して現在の国道45号の道筋が拓かれるまで、リアス式海岸が形作る幾多の山と谷を織り込み、目まぐるしいばかりに峠を連ねる道であった。

 今回は、現在の大船渡市にある羅生(らせい)峠を紹介しよう。
この地に現国道が開通したのは、昭和40年である。


難読地名から始まる峠

出鼻挫かれる

 もう少し詳しく羅生峠を説明しよう。
この峠は、かつての三陸町(平成13年に大船渡市に合併)越喜来と吉浜との間、太平洋に突きだした越喜来半島の基部を越える峠である。
旧国道の歴史はつまびらかではないが、明治時代以降に東浜街道に指定され、いわば国道的に整備されて来た中で、やがて旧来の直線的な上り下りで構成されていた歩き道の峠から、馬車や荷車が通れる道として改良されてきたものと推測する。
昭和40年に延長520mの羅生トンネルが開通し、その2年前には一級国道45号に昇格していたのであるが、その以前から旧国道には自動車の往来があったようだ。

 越喜来も吉浜も、共に深い湾の奥に位置する漁港であり、津波では歴史上繰り返し尋常でない被害を受けてきた土地である。
アワビの生産が盛んであり、吉浜には海水浴場もある。

 さて、羅生という平安調の峠名も大変に意味深なのだが、その始まりである越喜来は、もっと不可思議な地名である。
読みは、「おっきらい」であり、三陸にはなぜか多い難読地名の中でも、吉里吉里(きりきり)や女遊戸(おなっぺ)と並んで特に難しい。

 今回私は、この越喜来から吉浜(地元では“きっぴん”とも呼ぶ)へと、旧国道をチャリで越える事を画策した。
推定延長は約6kmである。




 2006年4月8日、私は三陸鉄道南リアス線、三陸駅前に降り立った。
だが、空模様はまったく機嫌が悪い。
前夜までは星も見えていたのだが、結局朝日は昇らず、時間が経つにつれ小粒の冷たい雨が海風に混ざり始めた。
越喜来は、三陸峠とこれから向かう羅生峠とに挟まれた湾の奥の小さな浜辺であるが、数年前までは三陸町の役場が置かれていたこともあり、まずまず栄えている。

 羅生峠への登り口は複数あるが、どれが旧国道の道筋なのかが、なかなか判断が付かなかった。
現国道は、集落中心部よりも内陸を通過しており、新旧道の接点がはっきりしなかったためだ。
それで、20分くらいうろうろしてしまった。



 だが、おそらくここであろうという、一本の登り口に目星を付けて、いざ登りはじめる。
越喜来漁港近くの、余り目立たない交差点だが、いちおう信号が取り付けられており、ここかなー?
違うかも…。

 ともかく、午前7時34分、越喜来出発。



 かなりの勾配の上り坂だが、その両側には民家やお寺が建ち並び、この場所までは町中である。
そして、この代わり映えのしない変形十字路を直進すると、いよいよ本格的な峠区間が始まる。
ここまでは、200mほどの距離しかないが、海抜は100mを越えており、すでに越喜来湾を臨む高台になっている。
しかし、この日は生憎の空模様のため、海は淀んだ鈍色で被写体としてアピールしてこなかった。



 本当にこれが旧国道だったのかと、疑いたくなるような没個性的な上り坂が、大きなカーブを描きながら畑の裏手の山へと入っていく。
昭和28年に、他の二級国道と一緒に、二級国道第一次指定路線として、111号の番号が与えられたことから、この道の国道としての使命が始まっている。
10年後には一級国道に昇格すると共に、現在まで111という路線番号は欠番のままになっている。
その2年後には現国道が開通し、この区間は旧道となって以来、現在に至る。




 これは予想外の展開。

 地図上では、普通に通り抜けられそうに描かれているが、お手製の進入禁止標識とともに、珍しいネット製のゲートが現れてしまった。
ただ、ネットを使っているのは、立ち入り禁止の主体が、人間よりも、鹿にあるためだと思われる。
この辺りは、鹿の出没が多いので、農作物への被害が深刻なのだそうだ。
お手製標識はあくまで、我々への意思表示であろうが…。



 封鎖の原因がはっきりしない事もあり、ネットをくぐって通過。
しかし、ネットは人間単体ならばいざ知らず、チャリには非常に嫌な罠である。
露出している駆動部分が多いチャリは、色んなところが絡むのだ。
集落からも目が届く畑の端で、じたばたと藻掻く私の姿を見られるわけにはいかないので、余計に焦った。

 少し進むと、呆気なく砂利道に変わった。
バスも通った峠道であるが、砂利道だったのか。




 出発から約900m。
ゲートの先の最初のヘアピンカーブの手前に、銀色の厳めしいタンクがある。
周囲は厳重なフェンスで取り囲まれており、旧国道を見下ろすように鎮座ましましているが、これは簡易水道の水源地である。
厳重になるのも無理はない。

 問題は、旧国道。
この先の道は、意外な展開を見せる。



 水源地前だけは真新しい鋪装に包まれていた旧国道が、峠への道を指し示す。
そこには、やはり不自然に新しい砂利が敷かれているのだが、そこには殆ど轍のようなものが感じられない。
そして、成長した杉林へと呑み込まれていく。
林の中は窺い知れぬほどに薄暗い。

 この先には、果たして何が待ち受けるのか?
再び落ち始めた雨粒に急かされるようにして、私は進み始める。



旧国道の証しを探して


 ようやく本来の旧国道らしい姿となったというべきなのだろうか。
だが、最初のヘアピンカーブは確かに道幅こそただの林道よりも広々としているが、路面にはススキの枯草が覆い被さり、夏場は廃道になっている可能性がある。
そして、小さな沢を渡りつつ進路を反転させる場面、ここは橋になっているようだが、この橋が怪しすぎる。
カーブの外側にある石垣も相当に年期を経た遺構のようだ。



 木橋なのである。

 まがりなりにも、もと一級国道である。
これが許されるというのか… いや、許されるも何も、ここはあの三陸国道…。
木橋は他にもあったことを思い出す。
(道路レポ「国道45号旧道 槙木沢橋」参照)

 しかし、何気なく架かっているこの橋は、今なお健在。現役である。
親柱や欄干さえ無いのだが、旧国道の現存木橋というのは、かなりレアな存在だと思われる。
ちなみに、橋台はコンクリート製であった。



 カーブ外側の石垣遺構は、道路と直接関係があるものではないようだ。
上部にコンクリートの基礎がある。
そこは、淀んだ水が溜まる深さの分からぬプールのようになっており、おそらく先ほど見た水源地の先代だろう。
この石垣は、旧国道と同程度の歴史があるかも知れない。




 今一度、ヘアピンカーブ+橋の光景を振り返る。
ここは、羅生峠前半のハイライトシーンである。
よもや、町外れの旧国道にこのような景色が残っていようとは、三陸はやはり宝の山だ。

 ちなみに、橋の先には、橋に向かって「6トン」の重量制限の標識が立っている。
この標識も現役当時のものだろうか。



 杉の林に始まった道だが、ヘアピンを一つ登り切ると、今度は松林が現れる。
以後、松と杉の林が混在した状態となる。
所々は最近伐採されたようになっており、現在の旧国道の役割が見えてくる。
殆ど轍が見当たらないが、林業用の作業道路のようになっているのだろう。
余計な道幅が、虚しい。
しかし、ここが旧国道などとは、たとえそう言われても信じがたい状況なのも事実である。
道路構造物に乏しく、路肩・法面、全てが素のままだ。

 

 造林道路にしか見えない道だが勾配はゆったりしており、ぐんぐんと高度を詰めてくる現国道の喧噪が、左の斜面下から近付いてくるのが分かる。
また、木立の間だからチラチラと動く車達が見えた。
全般的に、羅生峠旧道の越喜来側は、未改良ながら勾配だけは緩やかで、チャリで登るには適している。



 出発から1.6km地点。
ゆっくり登って25分ほどで、林道大六線とT字にぶつかる。
旧国道の出口には倒木が処理されずに残っており、天然の車止めのようになっている。



 旧国道入口を振り返って撮影。
明らかに、通り抜けの出来ないダメな道のムード。
我々オブローダー以外の目にはまず留まらない道だろう。



 林道大六線が、旧国道とほんの50mだけ重なっている。

 この鋪装された急坂を少しだけ登ると、再び旧国道は林道と分かれることになる。
元一級国道としてはきっと屈辱的なのだが、明らかに林道として溶け込んでしまっている。

 なお、T字路を左に下りれば、すぐに現国道に突き当たる。



炭あ沢


 何の案内もないし、舗装路は右に続いているのだが、旧国道は左である。
まあ、この辺りは廃道好きであれば、なんとなくピンと来るものがあると思う。

 午前8時05分、いよいよ峠に向けての第2ステージへ入る。
峠の標高は約240mだが、現在地は150m付近だ。



 半ば法面に埋もれているが、錆び付いた警戒標識が残っていた。

 全く派手さはないが、思わず嬉しくなる発見だ。
砂利だけは敷き直されているようだが、道幅や、周辺の様子は、おそらく国道時代とそう変わっていないのではないか。
しとしと落ちる雨は冷たく、立ち止まると震えが来たが、カーブの一つ一つさえ愛おしく思えるような、旧国道と私の幸せな時間が流れていた。
歯や目を剥きたくなるような峠もそれはアツイが、一方、飼い慣らしたペットのような峠は旅の心を慰めてくれる。



 なんとなくまったりしていた私の目に、この道とて死とは無縁でないことを、これ以上なく変形した姿で訴えかけてくる軽トラがあった。
一体、お前に何があったのか。
思わず目を背けたくなる、異様な圧死体だった。



  死んでるのに、なんとなく、ユーモラスな顔に見える。
ドラゴンクエストに出てくるスライムみたいだ。
スライムカーと名付けてみるか…。




 スライムカーを通り過ぎて進むと、山側が少し平で広い場所に出る。
現在は若いアカマツが生えている一角だが、明らかにその平場の周囲を区画するような溝がある。
かつては、建物があったのだろうか。
もしかしたら、茶屋があったのかも知れない。
…そんな出来すぎた話があるわけ無いと思いながら、想像上の軒先の位置に転がる腰掛けるとちょうど良さそうな小さな石舞台が、ますますその感を強くする。



 海抜200m付近に達し、勾配は更に緩やかになる。
今度は、本格的な集落か田畑の跡が、道路に面して大規模に現れた。
石垣で段々に区切られた平場は、枯草に覆われているものの、人の営みを抜きに考えられない光景である。

 地図には、この付近を指して「炭あ沢」という、奇怪な地名を記している。
沢 である。 なんだ、「ア」って。



 そのすぐ先には、コンクリートの暗渠があった。
この沢が、炭あ沢という地名の由来の沢なのだろうか。
暗渠自体は、その由来する時代を知る手掛かりに乏しいが、橋台部分が石垣なので、例によって旧国道と共に生み出された年代物かも知れない。

 静かな興奮が、私を包み込んでいた。



 まだ、建ち残っている家屋を発見。
一見して、何と不便な場所に暮らしていたものかと思う。
旧国道からも50m近く下方で、夏場は一面の草むらに覆われてしまいそう。
だが、素晴らしい眺望の地でもある。
北西方向の北上高地は夏虫山の高原然とした涼しげな山容が一望できる。
濛々と雲がわき起こる姿には、未だ冬の雰囲気が濃く残っていた。
眼下の谷間には、既に現国道は見えない。トンネルに入ったからだ。



 見上げるような松の巨木が、崩れそうな法面をガッチリと死守している。
大いなる木々に見守られ、松葉の絨毯の上、たおやかな峠路は往く。
旧国道というよりも、すでに古道の貫禄を有している。



 懐かしいというか、ちょっと私の歳ではすでに馴染みが薄い、移動アイスキャンディ販売車。
その荷台らしきものが、物置のようにして置かれていた。
何代も移り変わった主も、すでにいないのだろうか。



羅生峠



 いよいよ峠が近付いたことを、右手の稜線が痩せてきた事で知る。
小さな橋が2箇所ほどあったほかには、路肩も法面も、ゆったりと自然のままに使われていた。
それが、この峠路の特徴であり、いまなおしっかりと存在している強さの理由だろう。
無茶な道は、無理な保守をやめた途端、瓦礫の山へ変わってしまうことを我々は知っている。

 秋田で見るのとは違う、もう少し小ぶりな鹿を、私は見た。
鹿は、チャリに跨ったまま駐まっている私を、つぶらな瞳でじっと見つめていた。
私が動き出すと、火鉢を突いたように、プリプリしたお尻を振りながら谷底へと駆け下って消えた。
もう少しで、恵みの春だぞ。がんばれ。



 軽く息を弾ませる程度で、峠は降参した。
いや、この峠にその表現は似つかわしくないな。
峠が、私を迎え入れたと言うべきだろうか。

 勾配が弓なりに薄れ、十分低まった稜線へと、道が向き直る。
何遍見ても、ほっとする瞬間だ。



 午前8時23分、私は羅生峠へ立った。
海抜240mに過ぎないが、麓からすぐに山道が始まったので、満足感は小さくない。
実際の距離は2.8kmほどだったが、盛り沢山の峠道だったと思う。
そして、まだ下り坂という楽しみがある。

 峠は、かなり深く切り開かれた掘り割りになっていた。
まさに、三陸にも遅れてやってきた自動車交通が要請した、峠の景色だった。
この深い掘り割りさえ、法面は自然のままに任せられているようだ。



 掘り割りの上に登ってみた。
さらに古い峠路の痕跡が有るかと思ったが、見つけられなかった。
ここから見下ろした掘り割りは、小気味の良い景色だった。
向かって右が越喜来、左がこれから下る吉浜方面である。



 休憩していると8時半になった。
そのとき、まず越喜来の町から、町内放送の声が響いてきた。
と、一瞬遅れて、今度は切り通しの向こうからも、同じ声が響いてきた。
越喜来と吉浜で放送された町内放送が、いま峠の私の右と左のそれぞれの耳に聞こえてくる。
ほんの少しだけずれて、同じ放送が全く峠の反対から聞こえてくる。
それは、不思議な感覚だった。
 かの柳田国男は、峠には表と裏があるといったが、私の体験はまた、峠の二面性の例外的な部分を教えてくれた。
この場所に立ちさえすれば、誰でも体験できる別にどうって事のない事なのだが、ことさら印象に残った。
峠の両側の生活を同時に体験できると言ったら、言い過ぎだろうが、ともかく、この体験は貴重だと思えた。



 さて、いざ峠から下りに掛かる。
しかし、ここで旧国道はまたも貧乏くじを選ばされる。

 読者の皆様にはもはや言うまでもなさそうだが、正解は左である。
ぶ厚く落ち葉の積もった掘り割りから、下りは始まる。





 もうひとつだけ、この峠には見逃せないシンボルがあった。
みんな大好き、白看(でも白くない)である。

 焼け残ったような表面には、まだ微かに文字が読み取れる。
ローマ字併記で、「越喜来」とだけ書かれている。
反対側の白看もあったかも知れないが、発見できず。

 旧三陸町は、昭和31年に越喜来村や吉浜村などが合併して誕生し、平成13年まで存続した行政体であるが、「越喜来村」ではなく、単に「越喜来」とだけ示されたこの白看は、昭和31年よりも近年に設置されたことを示している。
それだけであるが、こんな推理がまた、楽しい。
推理が正しければ、設置後僅かな期間で国道の座を明け渡したことになる。



 次回、後編。
峠の表と裏…。
吉浜側の下りは、その言葉を再び私の脳裏に去来させるものであった。