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味のある新旧分岐点を過ぎると再び国道は上り始める。
国道はこのまま宮城県最果ての集落たちには挨拶さえかわさず、唐桑半島に背を向ける。
目指すは岩手県なのである。
その間隙を突くように旧国道も生活道路として生き長らえている。
近い将来唐桑道路が開通すれば、その傾向はより助長されるだろう。
只越2号橋で旧道を跨ぐとすぐに短い只越トンネル(昭和46年竣工)を潜る。
右上の地図の通り、この後旧道とはもう2度矢継ぎ早に交差して合一する。
トンネルを出た先の只越1号橋は、集落の瓦屋根越しに海を眺望できる絶佳の地だ。
もっとも、歩道もない国道からの車窓は普段、座高の高い大型ドライバーやバス客だけのものとなっている。
わざわざ反対車線のガードレールによじ登ってまで見る景色かと問われれば、答えるまでもないだろう。
素人でも、(自分が)うっとりするような写真が撮れる場所だと思う。
緩やかなカーブに身を委ねて進んでいくと、前より数字を6kmだけ減じた青看が現れた。
そこから始まる高い築堤は谷を跨いで続くが、その下を旧道が立体交差している。そして築堤の終わりで、登ってきた旧道と今度は平面交差している。
築堤の上から山側を見下ろすと、地形に沿って素直に登ってくる旧道が見える。
この道と間もなく交差するのである。
再び新旧道の交差点である。
信号もないが、唐桑半島の主要部へ続く重要な生活道路としての役割を旧道は有しており、半島内の観光地である津波体験館などの案内看板が建っている。
また、ここから只越漁港までの旧道は宮城県道239号馬場只越線にも指定されている。
それにしても、先ほどの分岐といいここといい、国道側に青看の一つもないのは寂しい。
去年まで存続していた唐桑町の役場へもこの県道がアクセスしているのだが、町としては国道に見捨てられたようで、さぞ寂しい思いをしたのではないかと余計な事を勘ぐってしまう。
旧唐桑町の玄関口となっている交差点だが、一連の旧道はそこで終わらず、もうひとカーブ分だけ国道と分かれて走る。
上の写真では交差点の先に国道の深い掘り割りが写っているが、旧道はここを外側に巻き、その先のガソリンスタンドの前で鋭角に合流している。
その線形はいかにも新旧道の合流地点として合点のいくものだ。
私の旧道探索(=折り返し)もここからとした。
折り返し地点から振り返る。
左へ分かれる狭い道が旧道で、掘り割りの向こうで再び平面交差している。
当然のようにこのカーブ一つ分の短い旧道は殆ど顧みられていない。
午前5時49分、旧道へ入る。
待ち合わせ時間まで残り1時間11分だ。
現道によってカーブが一つ切り離されただけのごく短い旧道だが、古い民家の軒を通る雰囲気は抜群だった。
砂利のままなのも良い。
これまでいくつかの国道45号の旧道となった峠を走ってみて知ったことだが、只越峠も含め、一次改良以前は山間部の多くが未舗装だった。
二級国道111号仙台八戸線だった時代も、一次改良の進展前夜に一級国道45号へと昇格してから暫くの間も、随所に砂利道が残っていたのである。
今日的通行量の多さからは俄に信じがたいものがあるが、三陸の山深さはそれだけ常軌を逸していたのだろう(失言失礼)。
そして先ほど通り過ぎた交差点へ接続。
車に注意して歩道を渡って向かいの旧道へ入る。
ここからは県道のようだ。
只越漁港までは下り。
「大型車すれちがい注意」の古ぼけた標識が掲げられた坂は、お城のようなお屋敷を取り囲むようにしてターンし、現道の下を潜る暗渠へ進む。
この民家がもし国道時代からあったなら、迫り来る突入車両の恐怖に戦きながら暮らしたかも知れない。
ここまで幹線国道に取り囲まれた民家を過去に見た例はない。
下り坂のまま暗渠で国道を潜る。
そしてそのまま真っ直ぐ只越集落中心の交差点へ着く。
道は1車線で、その舗装には傷みが目立つ。
なお、唐桑半島への路線バスは今もこの道を通じている。
只越の交差点である。
直進がそのまま県道馬場只越線であり、かつての国道はここを右折して只越峠へ向かっていた。
向かって左手は海だ。
高い防波堤の向こうには太平洋。
湾奥に陸前高田を持つ広田湾の静かな海原だ。
遙か遠くに霞んで見える陸地は湾名の由来となった広田半島である。あそこはもう岩手県。
私は、この限りなく静かな海に面する集落内にて、小さいものは西瓜大程度の陶製の祠や、畑の中にぽつぽつと数基ずつまとまって建てられた墓碑らしき石塔を見た。
それらは、まるで過疎化で減ってしまった人口を補うかのように、村内の色々な場所に見られた。
三陸を旅する者なら必ず何処かに目にするだろう、古き津波の痕跡。
ずたずたに引き裂かれた村並や道は残っていないが、復興の中で当時の人々が遺した多くの碑や祠、墓標、それに防波堤などは消えていない。
それらもまた、紛れ無き津波の傷跡である。
この只越集落内で旧道端に見られた最も大柄の海嘯碑は写真のもの。
表面には上部に右書きで「昭和八年三月三日 大震嘯災記念」とある。
その下にはさらに大きな文字で縦書きに「地震があったら 津波の用心」と、最も根源的な津波への心構えが書かれている。
この類の碑は三陸全般で広く見られるが、その多くがこのように、通常の碑文の体裁から大きく離れて極めて平易な文体で記されている。
あらゆる人々に津波への心構えを衆知したいという思いが、深く伝わってくるように思われるのである。
やや内陸へ旧道を入ってから海岸を振り返り撮影。
中央やや右側に見える角張った建物のようなシルエットは、集落を流れる小川の河口に築かれた巨大な水門である。
見たところ、これが集落内で最も嵩のある建築物のようだ。
海岸付近に立ち並ぶ倉庫らしき建物。
煉瓦巻きの煙突があり、ただの倉庫ではない感じもする。
酒造所のようでもあるが、そのシルシはない。
いずれにしても現在は利用されていないようだ。津波にも耐えたのだろうか。
それでは、県道との分岐点を離れ旧道を峠へ向けて進む。
しかし、ここで予想外の事態が発生。
手持ちの地図での県道は、いま私が辿ってきたルートで描かれているが、現地の県道標識(ヘキサ)はそれとは別の、これから進む方向へ向けて取り付けられていたのである。
別に実際の走破に支障はないが、ご丁寧に二つも標識が建っているところから見ると、かなり自信があるようだ。
地図のミスか?
そのまま小さな川に沿って進むと、国道の高い築堤と橋が頭上に現れた。
只越2号橋であった。
これを潜り、カーブしながら旧道は現道との高低差を詰めていく。
現在の只越集落の人口の中心は、これより先の山際の狭い地域に密集している。
無論、明治・昭和、それ以前も含め、幾度も大津波に襲われた人々の知恵がそうさせたものだ。
一様にクリーム色の外壁と赤瓦屋根で統一された木造の家屋群。
旧道はその隙間を縫うようにして登っていく。いい雰囲気だ。
道ばたに古びたキロポストが残っていた。(写真左に写っている黄色い支柱がそれ)
表示されている距離は「5」であり、どうやら県道となってからの設置らしい。
地図の間違いが決定的となった。
(Mapple ProAtlasともに間違っている)
ひらきかけの蕾をいっぱいに付けた桜の古木の下を通り、先ほどは反対方向から見た新旧道の分岐点へ戻った。
(現在地と経路動線)
これにて只越集落内の旧道の確認を完了。
いよいよ本題となる峠への旧道へ進むことにする。
以下、次回。