国道45号旧道 只越峠 前編

公開日 2007.4.24
探索日 2007.4.21

 2007年4月21日土曜日。
この日は岩手県宮古市に住むちい氏との合同調査が予定されていた。
前夜のうちに集合場所である気仙沼市某所に到着した私は、午前7時の集合を前に独り、眠い目を擦りながら、ある企てを実行に移した。

ただいまの時刻は午前5時。
車泊の窓は既に薄明るい。
鈍色の空だが、やや強い西風は乾いており、予報の雨はまだ遠そうだ。

この隙に、いままで数度の三陸訪問でも未訪のままとなっていた国道45号旧道にある峠の一つ、只越峠(ただごしとうげ)を攻略してしまおう。

タイムリミットは2時間。
短いが、急げば何とかなるだろう。
ここから新道と旧道を行って帰ってきて、合計15kmほどである。


 実走レポートに入る前に、只越峠について簡単に説明したい。
この峠は宮城県北東端に位置する気仙沼市内の鹿折(ししおり)地区と只越地区の間にある国道45号の峠である。2006年3月の市町合併以前には旧気仙沼市と本吉郡唐桑町との境であった。地形的に見ると、リアス海岸地形である唐桑半島の基部を越えている。
古くは余り知られた峠ではなかったが、明治45年に「新道」として開鑿されてより利用が盛んになる。その後、大正9年に県道気仙沼高田線へ、同27年には二級国道仙台八戸線、同37年一級国道45号へとそれぞれ昇格。同峠は三陸地方の根幹上にある、路線バスも通う要衝となった。
しかし、同44年に峠の直下を貫く唐桑トンネルが開通すると、沿道に目立った集落も無かった峠区間の旧道は急速に衰退。現在では市道「大峠山線」などとなっている。

 近現代の峠における栄枯盛衰を、最も典型的な形で展開して見せた峠である。
それだけに、初めて訪れる峠でありながら古巣に帰ってきたような、そんな居心地の良さを感じたのも事実だ。
久々の更新となる今回は、途中となっているレポートを一休みして、こちらで勘を取り戻したい。


現道から旧道への周回探索

半島を貫く唐桑トンネル


5:21

 やべっ。
5時に起きはしたが荷物の整理とかいろいろしていたら、出発するのに20分以上もかかってしまった。
待ち合わせまでのタイムリミットは100分を切ってしまった。遠路はるばる迎えに来てくれるちい氏の為にも、確実に7時までに戻らねば。

 この探索計画は単純明快であり、まずは現国道を通って只越地区へ向かう。
そこから旧国道(地図中青線)を出来るだけ辿りながら周回して戻ってくるルートだ。現在地点は峠の西の入り口にあたる鹿折で、殆ど海抜はゼロに近い。現道の峠は海抜140m、旧道の峠は192mである。

 それでは出発!



 目の前の国道45号を走り始めると間もなく東陵高校が国道を見下ろすように建っており、そこを過ぎると両側の緑が沿道まで迫ってきて山間部らしくなる。
同時に上り坂が本格化し、この道ではお馴染みの光景である登坂車線が現れる。
三陸地方の鋸状に発達した海岸線を縦貫する国道45号はとにかく中小の峠が多く、その大半では昭和40年代に竣工した一次改良ルートを利用している。
併走する三陸自動車がまだ部分部分で開通しているに過ぎない現状では、決して良好とは言い難い片側1車線の道に大型車を多く含んだ車列が乱れることとなり、特に峠の勾配では慢性的に準渋滞的な状況が起きていた。これを少しでも緩和するため、地形の許す限り多くの峠で登坂車線の新設が行われて来た。
この只越峠でも昭和44年の開通後、峠の両側それぞれに長大な登坂車線が開設されている。



 上りの最中に現れた青看には、隣県岩手の都市名が二つ並んでいる。
一つは陸前高田で16km先。そしてもう一つが宮古で126kmの遠方である。
三陸地方には平地と呼べる場所が少なく、数少ない平野部は大きな河川の河口部に立地している。
それぞれに陸前高田、大船渡、釜石、宮古、そして久慈などの市政に「手が届く都市を育んできた。
その中でも陸前高田は岩手県内の沿岸最南端部、宮古は県都盛岡の真東という特徴的な立地にあるせいか、規模にはさしたる違いのない各市の中でも、真っ先に青看に現れてくる市名だ。
個人的に釜石贔屓の私としては、その名がなかなか出てこないことが残念だ。



 出発からちょうど2kmでオレンジ色を漏らす坑口が見えてきた。
これといって印象のない外観を持つ唐桑トンネルである。
長かった登坂車線もこの直前で終了し、余り広くないトンネルへ収斂する。
路傍のキロポストはここに「仙台より138km」を置き、附属する地名表示には「大峠山」と書かれている。
どうも只越峠には大峠という別称もあるようだ。気仙沼側では特にそう呼ばれたのかも知れない。



 トンネル直前には例によって広場があり、敷地内にトンネルの管理施設(電源)がある。
その脇にそれぞれ北と北西方向へ向かう封鎖された砂利道があり、このどちらかは旧道の峠付近に繋がっていると思われる。
新旧道の峠が近いケースでは、このように旧峠付近とトンネルを連絡する工事由来のルートが存在することは珍しくない。
そして、その多くが廃道となっている。
しかし時間もないので、この道の探索は見送った。



 唐桑トンネル… 『道路トンネル大鑑』巻末リスト(通称“隧道リスト”)の時点ではまだ開通しておらず記載がない。
工事銘板によればゥ元は次の通り。

唐桑トンネル
1969年3月
東北地方建設局
延長830m 巾7m
高 5.6m
施工 鹿島建設KK



 歩道はなく、代わりに蓋の掛かった側溝が両脇にある。
しかし、かなり狭くそこを自転車で走るのは気疲れする。
まだ早朝で通行量が少ないので、私は車路を通って反対側へ向かった。
特に何の変哲もないトンネルであり、あくまでも峠の“通路”として黙々とその任をこなし続けている感じだ。
敢えてトンネルの名を頭上の峠から採らず当時の町名としたことは、只の地方道路ではなく三陸の縦貫幹線という大きな視点からのことと想像できる。



 隧道内はほぼ一直線で、唐桑側(東側)が一方的に高い片勾配となっている。
若い杉林の中の掘り割りに口を開ける無機質的な坑口には、この隧道の唯一の特徴とも思える、取って付けたかのような扁額がある。
…いや、これは扁額の用を成してはいるが扁額とは呼べないだろう。

 ここまでは特に何の感情の抑揚も惹起しなかった峠であるが、この後に感動はちゃんと待っていてくれた。




巨大ヘアピンと猫の穴


 5:38

 出発から15分を経過。
ここまではまず順調である。そして、これより旧唐桑町に属した只越の集落までは下り坂となる。
あくまでも探索の目的は旧道にありとばかり、面白みのやや薄い現道を下り始めると…
 ピキ―ン!
 うっわ! アッチィ!!

 R=35mの「アール」とは曲率半径を意味しており、それが全てのドライバーに衆知されているとも思えないのだが、ともかく特筆するような急カーブであることを予感させる。何よりも、大型車がタイヤを慣らしながら傾斜するイラストと背景の蛍光色が強烈である!
附属する電光板は「速度注意」と「急カーブ」を交互に明滅させている。
おそらく速度違反のドライバーの目には地味すぎて見えていないだろう「安全速度」の標識もひっそりと取り付けられている。
この「安全速度」の標識は見慣れない人が多いだろう。
これはれっきとした現行の道路標識であるが、速度規制のような「規制標識」(お馴染みの青地に赤)ではなく「補助標識」(時間帯とか「ここから」とかのアレ)に分類されている。
具体的には、「安全速度」は補助標識の標識番号510の「注意事項」に含まれていて、説明は「警戒標識(お馴染みの黄色字に黒)を補助する」とある。
つまり、上の大きな黄色いイラスト標識が何らかの警戒標識であることになる。 …なんか凄くない?!

 果たして、このブラインドコーナーの先にはどんな道路風景が待っているのか!!
ワクワク わくわくー!



 安全速度をオーバーしつつカメラを片手に構えたまま下っていく。
路面に刻まれた赤色の帯がポコポコとした小刻みな振動を伝えてくる。
対向車線にはもう既に登坂車線が現れている。

そしてその先、なにやら黄色い横断幕が法面に掛かっているのが見えてきた。
こいつは、すっげーカーブが来たかも知れない!!



 キター!

俺、こういうのめっちゃ好きだから!!
うは! たまんねェええ!!

マジ大型車が荷台を傾かせながら下っていったぞ!

ちなみに奥に見えるのが旧道だけど…  …ショボッ!



 遠くから見ても小さくないとは思ったが、近くで見る横断幕はかなりデカイ!
現在の唐桑トンネルによる只越峠の道で、唯一目を“ムク”景色がここである。
あの“ドーパミンだだ漏れ街道”仙人峠(←惜しくも昨年旧道化…)を彷彿とさせるではないか!

 肝心の旧道がここから外側に分岐して峠へ向かっているが、それさえどうでも良くなるほどのインパクトがある。
まあ、人によってはこっちこそどうでも良い景色かもしれないが… アッツイよこれは!



 プッ

 猫の穴?!

な! 何ナノこれハー!
それってなんの穴? 尻の穴?

意味も分からず私は爆笑のまま、巨大ヘアピンはどんどん後方へ遠ざかっていった。



 あのヘアピンは“ただ一度の過ち”だとばかりに、あとは快適な緩曲線で構成された下りが続く。その途中にご覧の標柱が建っている。
これは三陸縦貫自動車道の一部となるべく建設が予定されている「唐桑道路」との交差地点を示している。
全長3kmの短区間で事業化されている唐桑道路の起点は、先ほどの大ヘアピンのややトンネル側の地点で、終点は只越地区を山側に迂回して岩手県境付近となる予定だ。
つまり、これが開通してもなお現行の唐桑トンネルは置換されない。
遠い将来には唐桑トンネル部分も含めて三陸縦貫自動車道が新設されることもあるだろうが、当分の通行には問題なしと判断されたのであろう。それよりも、まずは例のヘアピンを解消したいといったところか。



 左右の林に軽く旧道の気配を感じながら、今はまず峠を下りきるまで進む。
そして、トンネルから1.8kmほどで新旧道が再び分岐する地点に至る。
左の細道が旧道であり、只越集落およびその中央部にある只越漁港を経て、やがてまた現道に合流する。
現道はその間を立体交差及びトンネルでショートカットし、殆ど集落へタッチせず先へ進んでいる。

 いま、ちょうど太平洋に朝日が浮かび上がってきたばかり。
我が古巣の日本海岸では、この時間この煌きは見られない。
あまりの美しさに、信号が一巡するのあいだ見とれていた。




折り返し地点 漁港の朝




 5:44

 味のある新旧分岐点を過ぎると再び国道は上り始める。
国道はこのまま宮城県最果ての集落たちには挨拶さえかわさず、唐桑半島に背を向ける。
目指すは岩手県なのである。
その間隙を突くように旧国道も生活道路として生き長らえている。
近い将来唐桑道路が開通すれば、その傾向はより助長されるだろう。

 只越2号橋で旧道を跨ぐとすぐに短い只越トンネル(昭和46年竣工)を潜る。
右上の地図の通り、この後旧道とはもう2度矢継ぎ早に交差して合一する。



 トンネルを出た先の只越1号橋は、集落の瓦屋根越しに海を眺望できる絶佳の地だ。
もっとも、歩道もない国道からの車窓は普段、座高の高い大型ドライバーやバス客だけのものとなっている。
わざわざ反対車線のガードレールによじ登ってまで見る景色かと問われれば、答えるまでもないだろう。

素人でも、(自分が)うっとりするような写真が撮れる場所だと思う。



 緩やかなカーブに身を委ねて進んでいくと、前より数字を6kmだけ減じた青看が現れた。
そこから始まる高い築堤は谷を跨いで続くが、その下を旧道が立体交差している。そして築堤の終わりで、登ってきた旧道と今度は平面交差している。





 築堤の上から山側を見下ろすと、地形に沿って素直に登ってくる旧道が見える。
この道と間もなく交差するのである。



 再び新旧道の交差点である。
信号もないが、唐桑半島の主要部へ続く重要な生活道路としての役割を旧道は有しており、半島内の観光地である津波体験館などの案内看板が建っている。
また、ここから只越漁港までの旧道は宮城県道239号馬場只越線にも指定されている。

 それにしても、先ほどの分岐といいここといい、国道側に青看の一つもないのは寂しい。
去年まで存続していた唐桑町の役場へもこの県道がアクセスしているのだが、町としては国道に見捨てられたようで、さぞ寂しい思いをしたのではないかと余計な事を勘ぐってしまう。



 旧唐桑町の玄関口となっている交差点だが、一連の旧道はそこで終わらず、もうひとカーブ分だけ国道と分かれて走る。
上の写真では交差点の先に国道の深い掘り割りが写っているが、旧道はここを外側に巻き、その先のガソリンスタンドの前で鋭角に合流している。
その線形はいかにも新旧道の合流地点として合点のいくものだ。
私の旧道探索(=折り返し)もここからとした。



 折り返し地点から振り返る
左へ分かれる狭い道が旧道で、掘り割りの向こうで再び平面交差している。
当然のようにこのカーブ一つ分の短い旧道は殆ど顧みられていない。

 午前5時49分、旧道へ入る。
待ち合わせ時間まで残り1時間11分だ。



 現道によってカーブが一つ切り離されただけのごく短い旧道だが、古い民家の軒を通る雰囲気は抜群だった。
砂利のままなのも良い。
これまでいくつかの国道45号の旧道となった峠を走ってみて知ったことだが、只越峠も含め、一次改良以前は山間部の多くが未舗装だった。
二級国道111号仙台八戸線だった時代も、一次改良の進展前夜に一級国道45号へと昇格してから暫くの間も、随所に砂利道が残っていたのである。
今日的通行量の多さからは俄に信じがたいものがあるが、三陸の山深さはそれだけ常軌を逸していたのだろう(失言失礼)。



 そして先ほど通り過ぎた交差点へ接続。
車に注意して歩道を渡って向かいの旧道へ入る。
ここからは県道のようだ。



 只越漁港までは下り。
「大型車すれちがい注意」の古ぼけた標識が掲げられた坂は、お城のようなお屋敷を取り囲むようにしてターンし、現道の下を潜る暗渠へ進む。
この民家がもし国道時代からあったなら、迫り来る突入車両の恐怖に戦きながら暮らしたかも知れない。
ここまで幹線国道に取り囲まれた民家を過去に見た例はない。


 下り坂のまま暗渠で国道を潜る。
そしてそのまま真っ直ぐ只越集落中心の交差点へ着く。
道は1車線で、その舗装には傷みが目立つ。
なお、唐桑半島への路線バスは今もこの道を通じている。




 只越の交差点である。
直進がそのまま県道馬場只越線であり、かつての国道はここを右折して只越峠へ向かっていた。
向かって左手は海だ。



 高い防波堤の向こうには太平洋。
湾奥に陸前高田を持つ広田湾の静かな海原だ。
遙か遠くに霞んで見える陸地は湾名の由来となった広田半島である。あそこはもう岩手県。

 私は、この限りなく静かな海に面する集落内にて、小さいものは西瓜大程度の陶製の祠や、畑の中にぽつぽつと数基ずつまとまって建てられた墓碑らしき石塔を見た。
それらは、まるで過疎化で減ってしまった人口を補うかのように、村内の色々な場所に見られた。



 三陸を旅する者なら必ず何処かに目にするだろう、古き津波の痕跡。
ずたずたに引き裂かれた村並や道は残っていないが、復興の中で当時の人々が遺した多くの碑や祠、墓標、それに防波堤などは消えていない。
それらもまた、紛れ無き津波の傷跡である。

 この只越集落内で旧道端に見られた最も大柄の海嘯碑は写真のもの。
表面には上部に右書きで「昭和八年三月三日 大震嘯災記念」とある。
その下にはさらに大きな文字で縦書きに「地震があったら 津波の用心」と、最も根源的な津波への心構えが書かれている。
この類の碑は三陸全般で広く見られるが、その多くがこのように、通常の碑文の体裁から大きく離れて極めて平易な文体で記されている。
あらゆる人々に津波への心構えを衆知したいという思いが、深く伝わってくるように思われるのである。



 やや内陸へ旧道を入ってから海岸を振り返り撮影。
中央やや右側に見える角張った建物のようなシルエットは、集落を流れる小川の河口に築かれた巨大な水門である。
見たところ、これが集落内で最も嵩のある建築物のようだ。



 海岸付近に立ち並ぶ倉庫らしき建物。
煉瓦巻きの煙突があり、ただの倉庫ではない感じもする。
酒造所のようでもあるが、そのシルシはない。
いずれにしても現在は利用されていないようだ。津波にも耐えたのだろうか。



 それでは、県道との分岐点を離れ旧道を峠へ向けて進む。
しかし、ここで予想外の事態が発生。
手持ちの地図での県道は、いま私が辿ってきたルートで描かれているが、現地の県道標識(ヘキサ)はそれとは別の、これから進む方向へ向けて取り付けられていたのである。
別に実際の走破に支障はないが、ご丁寧に二つも標識が建っているところから見ると、かなり自信があるようだ。
地図のミスか?



 そのまま小さな川に沿って進むと、国道の高い築堤と橋が頭上に現れた。
只越2号橋であった。
これを潜り、カーブしながら旧道は現道との高低差を詰めていく。
現在の只越集落の人口の中心は、これより先の山際の狭い地域に密集している。
無論、明治・昭和、それ以前も含め、幾度も大津波に襲われた人々の知恵がそうさせたものだ。



 一様にクリーム色の外壁と赤瓦屋根で統一された木造の家屋群。
旧道はその隙間を縫うようにして登っていく。いい雰囲気だ。
道ばたに古びたキロポストが残っていた。(写真左に写っている黄色い支柱がそれ)
表示されている距離は「5」であり、どうやら県道となってからの設置らしい。
地図の間違いが決定的となった。
(Mapple ProAtlasともに間違っている)



 ひらきかけの蕾をいっぱいに付けた桜の古木の下を通り、先ほどは反対方向から見た新旧道の分岐点へ戻った。
現在地と経路動線

 これにて只越集落内の旧道の確認を完了。
いよいよ本題となる峠への旧道へ進むことにする。
以下、次回。