人口25万、北海道第三の大都市である函館は、本州の青森との間を結ぶ青函航路の一端を擁する、道内有数の港町でもある。
地図上に見るその中心市街地は、両側を海に囲まれた小さな半島状の地形にあり、半島の先端部にその名も函館山という標高334mの独立峰を持つ。地学的に観察すると、ほんの数千年前まで函館山は函館湾に浮かぶ孤島だったそうだが、発達した砂州によって北海道の本体と結ばれたのだという。
夜になれば25万が灯りを点す大都会が、低平で狭小な砂州に立地している。これを極めて間近に聳える函館山から眺めたら、どうだろう?
それはもう、いうまでもない。
函館山から見る函館の夜景。 撮影・提供:たかぞー(@takaxo)さま
←超絶素晴らしい夜景が見られるに決まっている!
函館と言えば夜景という刷り込みが発生するくらい、押しも押されもしない日本三大夜景を飾る展望台であることが、函館山のアイデンティティだと思う。
少なくとも、生まれて初めての北海道旅行が修学旅行で、夜にわざわざ集団行動をして夜景を眺めた体験を持つオジサンの私には、そんな刷り込みがある。
以来、大人になってから函館に寄り付いたことといえば、青函航路を利用した際に通りがかった数回だけで、明るいときに街の様子を眺めたことは、今年45歳になるまでなかった。
だが今回初めて、函館に探索するべき廃道ありとの情報を得て、函館のシンボル、函館山を舞台とした探索をした。
『深夜航路』より転載
夜景しか知らなかった函館に、オブローダーとしての私の熱視線が注がれたきっかけは、2018年と2020年にそれぞれ別の方から寄せられた情報提供メールだった。
平成30(2018)年12月に寄せられた“てー、てー”氏の情報提供メールには、次のような興味深い内容があった。
既知の物件かもしれませんが『深夜航路』というフェリー乗船記の津軽海峡フェリーの章では、函館山寒川集落への廃道が紹介されています。
断崖に刻まれた細道のため、筆者はチャーター船で海上から観察された様で、その写真が数枚掲載されています。
その中には洞窟を避けるために架けられた吊り橋の主塔の写真も有ります。
実際に踏破するのは難しいでしょうが情報まで。
これが、私が函館山に存在した寒川という廃村と、そこへ通じる廃道の存在を認知した最初だった。
海沿いの断崖に刻まれた道、海面を渡る吊橋、実際に踏破するのは難しい……。挑戦的なワードがいくつも並ぶ。
当然、情報源として提示された『深夜航路 -午前0時からはじまる船旅-』(2018年、清水浩史著)を入手して、その内容も確認した。
そこには右に転載した、主塔だけが残る吊橋という衝撃的な写真を含む、オブローダーを堪らなくさせる過酷な廃道の景色写真数点と共に、隧道らしきものの写真まであった。
さらに本文として、著者がチャーター船に乗って海上よりこの廃道や、寒川集落があった函館山の海岸線を眺める描写、そして関係者からの聞き取りや資料から得られた寒川集落の来歴なども、書かれていた。
私の廃道探索のきっかけとしては、やや出来が良すぎるくらいの情報源だった。
しかし、集落跡へ通じる唯一の陸路だと本文で明記されている吊橋が、ものの見事に架かっていない! ……しかもその足元が波濤渦巻く海であることは、この道の踏破を目指す上でのあまりにも大きな障害だった。
が……この情報提供を得た2018年というのは、私が新たな探索手段を手にした記念すべき年であったので、この障害の突破方法は、はっきりしていた。
しかし、それを直ちに行動に移すには、当時の私はあまりにも“新たな探索手段”に拙く、もう少しの経験値、いわば修行が必要だと考えた。
そうしているうちに、数年が経過していったのである。
そして、令和2(2020)年3月、今度はsdtm氏という方から、同じ寒川集落に関する情報提供メールを頂く。
sdtm氏の情報提供メールに掲載されていた写真
函館山に登り、寒川コースという廃登山道(通行禁止になっている)を利用して海岸に降りると、かつて山麓にあった寒川集落の跡地にいくことができます。
東へむかうと、未成の廃隧道があります(写真)。潮位が低かったため、少し中をのぞくことができました。
かつてこの集落には、函館山西岸の道からのアプローチができたようですが、現在は橋が落ちていて、寒川コースからしか到達できません。なお、海岸沿いの道には貫通している隧道もあるようです。
ここについに、陸路から集落跡がある海岸線に到達した探索者が現われた。
函館山から300m近い高低差を克服して海岸へ通じる「寒川コース」という封鎖された廃登山道が存在するらしく、この道を踏破することで、陸路による到達が可能だというのである。
しかも集落近傍の海岸線には、“未成の廃隧道”と解釈されるモノまであるというのである! (右画像がその坑口で、海面に近すぎて海蝕洞のようにも見えるが、同封された内部写真は確かに人道規模の隧道に見えた。しかし、未成であるというのは、行先のない隧道という意味なのだろうか…?)
さあ、これで行き方は二通りが示されたぞ。
探索をこれ以上引き延ばしている理由はなくなったな!
ここで、この廃道の目的地であり、現役当時ほぼ唯一の利用者であった寒川集落の位置を、地図から紹介しよう。
右の画像は、昭和26(1951)年版の地形図と、最新の地理院地図の比較である。
見るからに大都会である右半分の函館市街地と、複雑な等高線の模様から突兀とした山岳風景が窺い知れる函館山の対比の凄まじさは、現在も昔もほとんど変わりはない。
だが、旧地形図をよく見ると、函館山の西側の海岸線に沿って1本の道が描かれていて(緑線の部分)、その行き止まりに近い位置に、「 寒 川 」の2文字を見つけることが出来る(赤丸の部分)だろう。
そう、ターゲットは函館の市街地から函館山を隔てた、“裏山”と言うべき位置の海岸に存在する!
左図は、集落跡や道があった部分を拡大したものだ。
昭和26年の地形図には、函館の観光スポットとして知られる外人墓地のある船見町(旧名:台町)や入舟町(旧名:山背泊町)のある函館山北西岸から、海岸沿いに寒川へ通じる道が描かれており、集落に全部で6戸の家屋が狭い海岸線に並んでいることも確認できるが、道はいわゆる徒歩道を意味する「小径」の記号で、その途中には「穴澗(ま)」という注記がある崖に囲まれた小さな岬が描かれている。
この「穴澗」こそが道中最大の難所で、先ほど見ていただいた『深夜航路』の落ちた吊橋の写真も、この穴澗で撮影されたそうだ。
一方、比較した現在の地理院地図では、集落も道も穴澗の注記も全て消え、ただ地形だけは変わらず険しい姿でそこにある。(情報提供にあった「寒川ルート」なる廃登山道も、描かれていない。)
これを見る限り、函館山の西岸は原始のままの海岸線だと信じそうだ。
そしてこの海岸に面した沖合を行き交うのが、函館港に出入りするあらゆる船舶である。
そこには青函航路を往く津軽海峡フェリーや青函フェリーの旅客船ももちろん含まれる。
人目に付きづらい函館山の裏側と思いきや、実はこの地を目にするだけなら容易くて、デッキからでも船室からでも、天気が良くて明るい時間に青函航路を旅すれば良いのである。
まあ、私を含めたほとんどの人は、敢えて意識をこの海岸線に向けてこなかったと思うわけだが……。
だが、函館山の100万ドルと持て囃された夜景を魅せる“表側”と、あまりにも人の気配に乏しい“裏側”の海岸線。
この強烈な対比が、『深夜航路』著者の感性を激しく刺激し、本来冒険好きの著者が(彼の『秘島図鑑』は愛読書の一つだ)フェリー深夜便を紹介する内容をそっちのけで多くの誌面を、廃村と廃道への言及にあてさせたようだ。
(チャーターした)漁船で目指すは、函館山の海側。このあたりは、断崖絶壁のため陸路では近づけない。函館山は、明治時代後半から第二次世界大戦までは一般の立ち入りが禁止されていた要塞だった。そのことからもわかるように、周囲の大半は海から切り立った崖になっている。ゆえに、青函航路の船上から函館山を眺めると、人工物が見当らず、こんもりと深い緑に覆われた山に見える。
2016年12月に青森行の青函フェリーに乗った際は、函館発が午前2時だったため、函館市街の灯が船上からもよく見えた。そして、煌々とした街の灯とは対照的に、黒々とした影絵のような函館山が異様な存在感で鎮座していた。街の明るさと函館山の暗さのコントラストが、何より印象的だった。
ここに登場する、函館山が明治から太平洋戦争まで要塞地帯だったという記述は重要である。ここは津軽海峡を防備する、津軽要塞に属した。
全国の要塞地帯はどこもそうだったが、部外者が地帯内に立ち入ることはもちろん、近隣地帯での撮影や模写などの記録も禁止されており、このことは寒川集落をより秘密めいた存在としていた理由の一つだった。
集落は要塞地帯の中にポツンと所在を認められていた(その理由があった)が、それでも砲台が存在した函館山を越えて函館市街と通じることは許されなかった。そのため、海岸沿いに穴澗の難所を越えるか細い陸路か、あるいは小舟を使った海路で函館市街と行き来をするしかなかったのである。
陸の孤島を絵に描いたような寒川の地に、敢えて人が住んだ理由にも素朴な疑問を感じるところだが、これについては――
寒川集落のはじまりは、明治17(1884)年。
総勢8戸20名の漁師が、富山県宮崎村から入植した。浜辺の手狭な場所ではあったものの、ここには湧き水が流れていた。当時、寒川の沖合では、ブリやマグロ、イカなどが豊富にとれた。
……といった、一般的な北海道開拓のイメージである農民的集団移住とは異なる、漁場開拓的な理由であったようだ。
最盛期には富山県人を中心に60名以上が暮らしたそうだが、もともと生活の基盤が脆弱であり、戦後は一気に離散が進んだ。そして昭和29(1954)年に我が国史上最悪の海難事故を函館湾に引き起こした洞爺丸台風によって集落も決定的なダメージを受けると、ほとんどの住人がこの地を離れた。昭和32(1957)年に最後の住人も離村し、おおよそ70年続いた寒川は無人に帰したそうだ。
といったところで、受け売りの前置きは終わろう。
ここからは、私の探索の話をする。
まず、選ばねばならない。
私の伝家の宝刀であるところのカヤックを持ち出しての海岸ルートからのアプローチか、函館山から下る廃登山道を用いたアプローチのどちらを使うか。
これについて、今回は前者をチョイス。
というのも、集落が存在した時代の生活の道としては穴澗を越える海岸ルートが王道であったようなので、できる限りこのルートに沿って探索を進め、集落跡へ辿り着きたいと思ったのである。
あと、せっかくの修行の成果を試したいというのも、もちろんある(^_^)。初投入からもう4年も経つし、もう少しは活躍しているところを見せたい。(廃登山道についても、今後別に探索する可能性はある)
これで計画はだいたい決まった。
あとは、いつやるかだ。
絶対に重要なのは、海況がとても穏やかであること。
『深夜航路』でも、チャーター船の船長が、この海域は荒れやすいということを述べているくらいだ。無防備に手漕ぎのゴムボートを浮かべられる海じゃない。
2022年10月、念入りに日和を探り……
決めた!
予報を見ると、10月27日の明け方から午前中にかけては前日に続いての晴天で、かつ風も極めて弱く海上の条件も良いと考えられたので、前日に青森港を出る最終便23:30発の青函フェリーに荷物を満載した愛車と一緒に乗船した。函館着は当日3:20で、計らずも私も“深夜航路”でのアプローチになった。もっとも船内では爆睡していて、例の黒々とした影絵の如し存在感を見せたであろう函館山を見ることは適わなかった。
函館着後夜明までの2時間半は、市内での移動や、セイコーマートでの「ザンギ焼きそば」購入、そしてカヤックの準備に使い……