道路レポート 愛知県道505号渋川鳳来線 八昇峠旧道(巣山坂) 第1回

所在地 愛知県新城市
探索日 2018.3.25
公開日 2019.6.07


愛知県新城(しんしろ)市の巣山(すやま)地区は、三遠(三河と遠江)の国境をなす弓張山地のただ中にある山村だ。(→位置図)

角川日本地名辞典によれば、地名の由来は緑丸という鷹が巣を営み住んでいたからとかで、これがいかにも“山あい”らしいし、現代にあっては、名作アニメ映画「もののけ姫」の森林シーンの環境音が録音された地だというエピソードが、やはりその森閑な立ち位置を物語っている。
あるいは、真言宗の開祖・空海(弘法大師)が、霊山の候補地として立ち寄り、寺院を建て、しかし例によって、最後には「谷の数が一足りない」から諦めたという、典型的な弘法伝説の地であったりもする。

この地を訪れるには、近年開通した三遠南信自動車道(地区の真下を長い三遠トンネルで貫いている)の渋川寺野ICが地図上での最寄りに見えるが、適当な道がないため利用しづらく、通常は、国道151号の新城市大野から愛知県道505号渋川鳳来線(約8km)を利用する。あるいは少し遠回りになるが、同じく大野と巣山を結ぶ愛知県道442号鳳来佐久間(約9km)も利用できる。しかしいずれにしても、巣山の入口付近は、登りのきつい山岳道路になっている。



県道505号が、巣山に入る前に登る坂道には、「八昇峠」という名が付けられている。
地形図や道路地図にこの名を注記したものを見たことがないが、愛知県公式サイトにも紹介されているくらいだから、正式な名前だろう。

海抜約350mの八昇峠は典型的な片峠で、巣山を目指す場合はほとんど登りしかない。名前はそんな地形に由来しているのかも知れない。直前の集落である細川から、おおよそ180mの高度差がある。

なんでも、国土を二分する有名な断層帯である中央構造線がここを通っているらしく、峠から流れ出して大野で豊川と合流する真立川は、典型的な断層谷であるという。
断層に沿って深く刻まれた縦谷は、しばしば天然の峠道として古代から利用されることが多かったから、ここにもそうした歴史が刻まれていそうに思える。
しかし、私がここで旧道の探索を企てたきっかけは、こうした地政学的知見とは関係なく、もっと単純だ。古い地形図を眺めていたら見つけたのである。

右図(チェンジ後)は、昭和26(1951)年の地形図だが、最新の地理院地図と比較すると、八昇峠のルートが、峠自体の位置も含めて大きく違っていることに気付くだろう。
旧地形図に県道の太い線で描かれているこの道はおそらく旧道で、地理院地図でも、近い位置に破線の徒歩道が描かれているが、微妙に形が違うようにも見えた。


2018(平成30)年3月25日(日曜日)、この地形図の情報を頼りに、現地探索を行った。



高原の小集落、巣山の朝


2018/3/25 5:40 《現在地》

東の空が暁紅に濃い陰影を刻むなか、私はいつもの自転車に跨がって、高原の地、巣山を初めて訪れた。
空は快晴で、放射冷却が効いているのか、この時期にしてはかなり寒さを感じる朝だった。防寒具に身を包んだ私は、数分前、すぐ近くに停めた車から出発したばかりである。今日という探索日のスタートでもあった。

ここは巣山地区の中心にある、県道が交差する十字路だ。もし今も巣山村が単独で村政を敷いていたとしたら、道路元標の設置位置はここを置いて他には考えられまいという場所で、村役場の代わりに巣山公民館が角地に建っている。

前説で述べたとおり、国道151号が通る麓の大野地区から、この巣山地区へと通じる県道は、県道442号と505号の2本がある。
その2本がここで合流して、重複区間となって東へ向かう(その後また分岐し、それぞれの目的地へ通じている)。



(←)県道442号鳳来佐久間線の入口と、

県道505号渋川鳳来線の入口、(→)

どちらにも全く同じデザインの道路情報板がペカペカしており、さらに全く同じ「時間雨量40mm、連続雨量150mm」の通行規制があることを示す案内板が設置されている。

とちらも行き先は同じなので、道路管理者が好む「リダンダンシー」が確保された状態だといえるが、大雨になるとどちらも同時に封鎖されるところに弱点がある。
おそらく、両方の道が封鎖されるような状況では、当地周辺は容易く陸の孤島化してしまうだろう。

なお、どちらの道も背後に高い山を背負っているように見えるので、これから峠を登っていきそうな雰囲気だが、実際はすぐに高原の縁から零れ落ちて下り一辺倒になる。



まだ目が覚めきらないので、もう少しだけ周囲の観察を続ける。

これは十字路の傍らにあるバス停。その名も、巣山バス停だ。

時刻表によると、新城市のコミュニティバス「新城Sバス秋葉七滝線」1日8往復が、旧鳳来町時代(平成17(2005)年に新城市の一部となった)に役場があったる長篠駅前まで運行されているようだったが、よくよく見ると、月〜金のみとか、土曜のみといったダイヤがあり、実際は平日7往復、土曜日5往復、そして日曜祝日は運休ということが分かった。(現在はさらにダイヤが縮小され、始発の1往復がなくなっているようだ)
また、バスも2本の県道を利用した環運行をしていて、細川経由と阿寺経由があるようだった。

便数だけでいえば、もっと不便な僻地もたくさんあるだろうが、自家用車がなければ日曜日には買い出しにも行けないというのは、不便だと思った。



これは同じ交差点に立って、冒頭の写真と逆方向、すなわち西側の眺めだ。

左に見えるのが角地に建つ公民館で、右の角地に前述のバス停がある。
そして正面奥、小高い山を背負うように建っている頑丈な寺院風の建物は、明治の廃仏毀釈で廃寺になるまで当地に存在した二つのお寺(それぞれ弘法大師と行基が建てたという伝説があるらしい)に残されていた仏像など、文化財を保存する収蔵庫だそうだ。そのお寺の一つがあったのが、背後の山だとも聞いた。

この写真に収まっている街並みが、巣山集落の中心部だと言っていい。
そして同集落は、この交差点から奥へ抜ける“道”に沿って300mほど、街村的に続いている。
この“道”が、今回探索対象となった“旧道”だ。

収蔵庫のところまで進んで撮ったのが、次の写真。



これが、旧道の入口。

十字路に繋がる道のうち3本までは2車線道路の県道だが、残る1本がこの旧県道とみられる道で、見るからに狭い。
だが集落の中心を貫く生活道路であり、というか、この道に沿って集落が成立したのだろうと思われる配置になっている。

入口に1本の看板が立っていて(チェンジ後の画像)、そこには――

「 この先 自動車の通り抜けできません 新城市 」

――という、いかにも私の好みそうな警句が。もちろん好き。

私に収蔵庫のことを話してくれた古老が、奥へ歩いて行く姿も写っている。
彼の行く手にはごく低い山の稜線が横たわっているが、その向こうに広大な空の拡がりを予感させる風景だった。
前説で述べたとおり、この旧道をこちら側から進めば、大半が下り坂となるはずだ。

しかし、まだ進まない。
私は、この旧道を逆から探索する計画だった。
だから今は看板に背を向けて、立ち去るのである。



5:44 《現在地》

立ち去ってどの道を行くかといえば、八昇峠がある県道505号だ。

おそらく今回探索しようとしている旧道に対する新道が、この県道なのである。
ここから麓側の旧道入口となる細川地区までは、約4kmの道のりだ。序盤の約1km地点が峠の頂上で、その先は全部下り坂になると思われる。
つまり今は峠へ向かっているわけだが、上り坂にはなっていない。平坦な畑地が道の周りに広がっている。

チェンジ後の画像は、県道から眺めた巣山集落だ。
左側に細長く家並みが並んでいるが、その中を先ほどの旧道が通じている。
その先にある低い山並みが、私には印象的だった。
子供のころに繰り返し図鑑で見た地球平面説(wiki)の地図に必ず描かれていた、壮絶な“世界の果て”を連想したからだ。
大袈裟だと思うだろうが、早朝の緊張感は私の想像力を普段以上に逞しくさせた。



十字路を出発して4分後、私は坂道を漕ぎ登っていた。

掘り割り気味になった、杉の人工林に囲われた上り坂だった。

これが八昇峠の巣山側の登攀であったが、案の定、すぐに終わりは見えて来た。


十字路出発から10分後、おそらく高低差にして20mほど登っただけで、これぞ峠と絵に描いたような切り通しが現われた。

ここが八昇峠に違いない。
しかし、やはり現地には、この印象的な名を記した標識などはない。
また、ここは市町村境どころか大字の境ですらない(大字巣山と大字細川の境は、登り始める直前、今から100mほど前に、知らずのうち過ぎていた)。




谷果てる地、八昇峠の眺望


5:50 《現在地》

お〜! これこれっ!!

期待していたのはこれであると、思わずテンションを上げてしまったのも無理はない。
峠を越すと同時に、これまでなかった空間の拡がりを予感させる眺めが視界に飛び込んできたのである。
こういう双方の風景の非対称とギャップが、片峠の醍醐味であり、その体感を期待していたが……

次に見える、下りに転じて最初のカーブに差し掛かったところで、

早くも完全に解放されたのだった。




下界の大眺望が!

(矢印の辺りがこれから向かう細川集落。あそこま下ってから同じ高低差を旧道で帰ってくるのが、この探索だ)

(下りきってはいサヨウナラではないところに、この高低差に対する普段以上の緊張があった)



(←)この眺望地点には車を数台停められるスペースがあり、すばらしい眺めをドライバーにお裾分けすることを忘れていない。そして、その50mほど先の落石防止ネット(矢印の位置)に、新城市教育委員会による解説板があった(→)。

内容の転記はしないが、ここが八昇峠という名前であることや、一望される一直線のV字谷が中央構造線によるものであることなどが解説されている。三河湾まで見通せるとも。(残念ながらこの日は見えなかった。40kmは離れているので、空気が澄んでいる日しか見えないのだろう)




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

ここは全天球画像映えすると思ったので、写真を公開しよう。

いまからわずか10分前には、長閑な集落のただ中にいたことが信じられないくらいに劇的な場面転換である。

まさに、高原の地の縁から、下界へ滑り落ちようとしているときの眺めが、ここにあった。

1分ほど景色を堪能してから、ブレーキを緩解し前進を再開すると、すぐに驚異的な高速進行となった。



現在の県道は、峠を越えてすぐに巨大なV字谷(真立川源頭の谷)を眼下に見渡すと、その右岸斜面へ躊躇いなく突入していく。

全体に急勾配の下り坂が続き、概ね2車線、ところによって1.5車線の道幅である。ヘアピンカーブなどはゆったりとした造りで、そう悪い線形ではない。
日中には路線バスもここを上り下りしているわけだが、私は走行中におそらく一台の車ともすれ違わなかったと思う。早朝だということを差し引いても、普段から交通量の多い道ではないのだろう。

一方、間もなく私が探索しようとしている“旧道”は、現道とは反対側のV字谷左岸を曲折しながら登降するように、旧地形図は描いていた。
その辺りの山肌が谷の向うによく見えたが、下の方はスギの植林地で、上部は雑木林のようである。
道そのものはここから見えないが、旧地形図が“車道である県道”として表現していた道がどのようなものなのか、楽しみだ。



5:58 《現在地》

峠を出発して8分後、下り方が緩やかになるのと同時に、水田や民家が見えてきた。早くも下界へ降りてきたのだ。ここから先は細川集落だ。
峠から約2.8kmの道を、感覚的には本当にあっという間に駆け下ってきた感じだった。

そして集落の入口、あるいは山道の出口で、県道は初めて真立川を渡った。
小さなコンクリート橋があったが、この橋は私にとって、予期した目印としての重要な意味があった。
地形図によれば、探索しようとしている旧道の細川側入口は、この橋を渡ったところにあるはずだったから。
そして現に私はこの段階で首尾良く、それらしい分岐を見て取ることが出来た。




本題の旧道へ足を向ける前に、橋の四隅に立つ古ぼけた親柱に収められた4枚の銘板を読んだ。
新旧道分岐地点の新道側入口にある橋だけに、換線時期に関する重要なヒントを受け取れることを期待したわけだが……

成果は期待以上!

まず、橋の名前からして印象的で、「新橋」といった。
珍しい橋名ではないが、目の前に見える旧道に対する名付けだと考えるのが自然な気がする。
そしてもう一つ重要な情報が、竣工年。
昭和39(1964)年3月となっていた。
旧地形図の情報と矛盾しない内容であり、遅くとも昭和39年までは旧道が使われていた可能性を、強く示唆していた。




さて、行くぞ。 旧道へ!

いかにも地味な感じの入口だった。

実際、そこまで多くの成果を期待はしていなかった。

ただ、旧地形図に車道として太くはっきり描かれていた県道が、今の地図から抹消されているという、
廃道探索の教科書的な出会い方と、マイナー県道からくる事前情報の乏しさが、魅力だった。
したがって、ここには奇をてらわない、プレーンな廃道探索の味を期待していた。


さて、何が出てくるか。





旧道は、静かに暗く始まった。


2018/3/25 6:00 《現在地》

さあ、始めよう。

現在地は、細川集落の外れに架かる「新橋」の前の新旧道分岐地点、海抜約190mだ。ほんの20分前に出発し、今は目的地となった巣山集落からは、170mくらい低い。とはいえ、まあこれは驚くような高低差ではなく、むしろ肩慣し的な、のんきな探索を予感してよい規模だろう。

だが、私は自分の持てる地の利ならぬ、“足の利”を活かす作戦を使っていく。
この私の“足の利”とは、徒歩と自転車と車を自由に配置出来る機動力だ。
大袈裟な表現をしたが、なんのことはない、自転車はここに置き去りにして、最も気兼ねのしない徒歩でこの先の旧道に挑もうというわけだ。
探索のゴールとなる「車」は、既に巣山集落(スタート地点)に停めてあるので、あとはこの旧道を踏破すればいいだけという、なんとも気楽である。

入口には何の警告文も柵もなかった。また、旧道を感じさせる道標も石仏もなかった。どこにでもありそうな林道の入口然としていた。



自転車で入らなかったことを早速後悔するような“いい道”だったが、取りに戻りたくなる気持ちをグッと抑えて歩いた。
この旧道はほぼ全線が上り坂と思われるので、自転車は時間短縮の役に立たなさそうだし、やがては今の地形図に描かれていない道となるだろうから、そこで足手まといになる予想もあった。そうなるまで持ち込むのは、後で回収する面倒を考えれば、いい手ではない。置き去るなら、きっぱり入口が一番だ。

多少悶々としながら歩いたが、早くも路傍に旧道に似つかわしい苔生した石垣がずらずらと現われたのは、嬉しかった。なかなかいい出だし。



6:03 《現在地》

入口から150mほど進むと、地形図にはない分岐があった。

緩やかに登りながら川沿いを行く左の道と、かなりきつめの勾配で川から離れるように上っていく右の道。
いわゆる“近代車道”(自動車普及以前の車両、荷車や馬車のための車道を指す)探索のセオリーとしては、左の道の方が、それっぽい。
しかも、左の道は轍が薄く、すぐにでも廃道になってしまいそうな気配があった。対する右の道は、いかにも現代の林道然とした雰囲気だった。

地図にない分岐なので、どちらを選ぶか考えねばならなかったが、右の道を選ぶことにした。
左を有力視したい要素もあったのだが、右の道には、これまでに引き続いて苔生した石垣があることを重視した。
近代車道としてはやや急勾配とも思えるが、この空積みの石垣は現代の林道工事由来ではあり得ないとも思った。



まだ朝日の届かない、蒼々たる杉の植林地をゆく、急な上り坂。
真立川は次第に離れ、その対岸にある現県道も遠くなって、もう見えなくなっている。
砂利敷きの路面はいくらか洗掘されていて、頻繁な手入れは受けていないようだった。
とはいえ、最新の地形図では破線の徒歩道としてだけ描かれている道であることを思えば、全然上等な整備状況である。

また、入口からここまで、道路沿いに点々と電柱が立っていた。
それが木製電柱だったりしたら嬉しかったが、金属製の現代的な電柱だ。おそらく現役だと思う。




6:08 《現在地》

旧道探索開始から10分後、道は小さな渓流を渡っていた。

また、よく見ると渡った直後が分岐になっていて、使われなくなった造林作業道を思わせる感じの脇道が右へ、小渓流に沿って入っていた。しかし、ここまでの路面に刻まれていた鮮明な轍は全て、左の道へ行っていた。

この分岐も最新地形図にはなかったものだが、位置を確認すべくGPSを見ると、地形図に描かれている唯一の道は、ちょうどこの辺りから小さな谷沿いに右へ入っているのだった。
つまり、この造林作業道路然とした右の道が、目指す旧県道であることを示唆していた。



おおおっ?!

その規模からして、ごく簡単な函渠による沢越えなのだろうと高をくくっていた小渓流だが、流れを覗き込んだ私は思わず歓声を上げた。

先ほど路傍で見たような苔生した空積みの石垣が、小渓流の両側にも築かれていたのである。
それは護岸であり、また道のすぐ下は橋台となっていて、すなわちここにあるのは函渠ではなく、れっきとした橋だということが分かった。
さらに言えば、石垣は流れの底にまで丁寧に及んでいて、いわゆる床固めが行われていた。

この手間が掛かった石垣は、コンクリート一辺倒と化した現代の道路ではないことを、如実に物語っていた。



見よ!
小さくとも、迫力ある橋の姿だ!

平時はほとんど水の流れのない小渓流だが、道の周りしっかりとした石垣による護岸が施されていた。
現地調達とみられる粒の大きな石材が、巧みに組み合わされていた。

もしかしたら、私が思っていた以上にこの道の過去には深い歴史が、多くの通行人の姿が、隠されていたのかも知れない。
そのことを、初めて意識させられる光景だった。

繰り返すが、橋自体の規模はごく小さい。
しかし、この橋には十分すぎる頑丈さがあった。
もし、昭和39年頃に旧道化したという読み(「新橋」竣工年から)が大きく外れていないとしたら、あの当時、こんな小さな渓流を渡るのにコンクリートの永久橋を用いるのは、限られた道だったのではないか。 木橋でも不思議ではないと思える小さな谷なのだ。しかも、最近になって(たとえば林業用トラックのために)補強された様子のない、古い橋だ。

ともすれば、何気なく通り過ぎてしまっても不思議ではないような地味な上っ面だったが、よく見れば、この道の持つ底力を予感させるような、いぶし銀の橋だった。
そして、橋の発見にインパクトを奪われた感はあったが、おそらくこれから進むべき旧道は、この分岐を右なのだ。

つまりこれは、開始から10分少々、おおよそ200mにして――




廃道探索が始まったということだと思う。