2018/3/25 6:00 《現在地》
さあ、始めよう。
現在地は、細川集落の外れに架かる「新橋」の前の新旧道分岐地点、海抜約190mだ。ほんの20分前に出発し、今は目的地となった巣山集落からは、170mくらい低い。とはいえ、まあこれは驚くような高低差ではなく、むしろ肩慣し的な、のんきな探索を予感してよい規模だろう。
だが、私は自分の持てる地の利ならぬ、“足の利”を活かす作戦を使っていく。
この私の“足の利”とは、徒歩と自転車と車を自由に配置出来る機動力だ。
大袈裟な表現をしたが、なんのことはない、自転車はここに置き去りにして、最も気兼ねのしない徒歩でこの先の旧道に挑もうというわけだ。
探索のゴールとなる「車」は、既に巣山集落(スタート地点)に停めてあるので、あとはこの旧道を踏破すればいいだけという、なんとも気楽である。
入口には何の警告文も柵もなかった。また、旧道を感じさせる道標も石仏もなかった。どこにでもありそうな林道の入口然としていた。
自転車で入らなかったことを早速後悔するような“いい道”だったが、取りに戻りたくなる気持ちをグッと抑えて歩いた。
この旧道はほぼ全線が上り坂と思われるので、自転車は時間短縮の役に立たなさそうだし、やがては今の地形図に描かれていない道となるだろうから、そこで足手まといになる予想もあった。そうなるまで持ち込むのは、後で回収する面倒を考えれば、いい手ではない。置き去るなら、きっぱり入口が一番だ。
多少悶々としながら歩いたが、早くも路傍に旧道に似つかわしい苔生した石垣がずらずらと現われたのは、嬉しかった。なかなかいい出だし。
6:03 《現在地》
入口から150mほど進むと、地形図にはない分岐があった。
緩やかに登りながら川沿いを行く左の道と、かなりきつめの勾配で川から離れるように上っていく右の道。
いわゆる“近代車道”(自動車普及以前の車両、荷車や馬車のための車道を指す)探索のセオリーとしては、左の道の方が、それっぽい。
しかも、左の道は轍が薄く、すぐにでも廃道になってしまいそうな気配があった。対する右の道は、いかにも現代の林道然とした雰囲気だった。
地図にない分岐なので、どちらを選ぶか考えねばならなかったが、右の道を選ぶことにした。
左を有力視したい要素もあったのだが、右の道には、これまでに引き続いて苔生した石垣があることを重視した。
近代車道としてはやや急勾配とも思えるが、この空積みの石垣は現代の林道工事由来ではあり得ないとも思った。
まだ朝日の届かない、蒼々たる杉の植林地をゆく、急な上り坂。
真立川は次第に離れ、その対岸にある現県道も遠くなって、もう見えなくなっている。
砂利敷きの路面はいくらか洗掘されていて、頻繁な手入れは受けていないようだった。
とはいえ、最新の地形図では破線の徒歩道としてだけ描かれている道であることを思えば、全然上等な整備状況である。
また、入口からここまで、道路沿いに点々と電柱が立っていた。
それが木製電柱だったりしたら嬉しかったが、金属製の現代的な電柱だ。おそらく現役だと思う。
6:08 《現在地》
旧道探索開始から10分後、道は小さな渓流を渡っていた。
また、よく見ると渡った直後が分岐になっていて、使われなくなった造林作業道を思わせる感じの脇道が右へ、小渓流に沿って入っていた。しかし、ここまでの路面に刻まれていた鮮明な轍は全て、左の道へ行っていた。
この分岐も最新地形図にはなかったものだが、位置を確認すべくGPSを見ると、地形図に描かれている唯一の道は、ちょうどこの辺りから小さな谷沿いに右へ入っているのだった。
つまり、この造林作業道路然とした右の道が、目指す旧県道であることを示唆していた。
おおおっ?!
その規模からして、ごく簡単な函渠による沢越えなのだろうと高をくくっていた小渓流だが、流れを覗き込んだ私は思わず歓声を上げた。
先ほど路傍で見たような苔生した空積みの石垣が、小渓流の両側にも築かれていたのである。
それは護岸であり、また道のすぐ下は橋台となっていて、すなわちここにあるのは函渠ではなく、れっきとした橋だということが分かった。
さらに言えば、石垣は流れの底にまで丁寧に及んでいて、いわゆる床固めが行われていた。
この手間が掛かった石垣は、コンクリート一辺倒と化した現代の道路ではないことを、如実に物語っていた。
見よ!
小さくとも、迫力ある橋の姿だ!
平時はほとんど水の流れのない小渓流だが、道の周りしっかりとした石垣による護岸が施されていた。
現地調達とみられる粒の大きな石材が、巧みに組み合わされていた。
もしかしたら、私が思っていた以上にこの道の過去には深い歴史が、多くの通行人の姿が、隠されていたのかも知れない。
そのことを、初めて意識させられる光景だった。
繰り返すが、橋自体の規模はごく小さい。
しかし、この橋には十分すぎる頑丈さがあった。
もし、昭和39年頃に旧道化したという読み(「新橋」竣工年から)が大きく外れていないとしたら、あの当時、こんな小さな渓流を渡るのにコンクリートの永久橋を用いるのは、限られた道だったのではないか。
木橋でも不思議ではないと思える小さな谷なのだ。しかも、最近になって(たとえば林業用トラックのために)補強された様子のない、古い橋だ。
ともすれば、何気なく通り過ぎてしまっても不思議ではないような地味な上っ面だったが、よく見れば、この道の持つ底力を予感させるような、いぶし銀の橋だった。
そして、橋の発見にインパクトを奪われた感はあったが、おそらくこれから進むべき旧道は、この分岐を右なのだ。
つまりこれは、開始から10分少々、おおよそ200mにして――
廃道探索が始まったということだと思う。