今回ご覧頂いた県道280号の風景は、異様なものがあった。
そして、道路のなかでも、“公道”に関して言えば、こうした他とは違う異様な風景には、ほぼ間違いなく“納得の理由”がある。
このことは、異様な形をした民家に対して「なぜこの形か?」と問いかけてみても、多くが「住人の好み」という計り知れないものに帰着してしまうのに対して、公共物の代表格である道路の特徴的な性質だと思う。
道路が一際に異彩を放つとき、そこには標準的な姿ではいられない、或いは標準的な姿よりも総合的に優れている、そんな相応の理由がある(あった)はずなのだ。
本編の締めくくりとして、現在の奇異な風景が誕生した理由を考えてみたい。
右図は、平成11年(1999年)版の「スーパーマップル関東道路地図」から切り出した画像である。
この当時から、国道16号と県道280号は現在と同じように絡み合ったり並走したりしており、描かれ方はほとんど現在と変わっていない。
違いと言えば、一つは地名が白井市ではなく印旛郡白井町であった(市制施行前)ということと、もう一つ、県道を路線バスが通っていたということだ。
これは注目すべき情報で、路線バスのルートは国道ではなく県道の上に描かれている。
現在この路線は廃止されてしまったようだが、当時県道280号はバス路線であった。
このことについては、読者さまからの次のような証言も得ているので、間違いないと思う。
ここ、平成3年の北総線都心延長まで、松戸行きのバスが走っていたんですよ。
このことの意味はあとでまた考えるとして、国道と県道の歴史をさらに遡ってみたい。
登場するのは、お馴染みの歴代地形図である。
← 新しい (歴代地形図) → 古い | ||||
昭和54年(1979) | 昭和44年(1969) | 昭和26年(1951) | 大正10年(1921) | |
右図は昭和54年から大正10年まで、新旧4世代の地形図の比較である。
こうして比較することで、国道と県道が絡み合う以前の風景を知る事が出来る。
まずは昭和54年版からだが、国道と県道は現在と同じように描かれている。
だが、ここから10年遡って昭和44年版となると、いきなり大きな変化がある。
これは予想していた方も多いだろうが、国道16号より先に県道280号があった。
県道280号と同じルートは、昭和26年版にも既に県道としてしっかり描かれており、古くから重要な道路であったことが伺える。
実は昭和44年当時、国道16号は白井町内(現白井市内)が未開通で、本編の最後で紹介した折立交差点から木下街道に至る区間では、県道280号を代替路として利用されていたのである。
現在ではすっかり長閑な県道だが、そんなに昔でもない一時、国道16号の一部のように使われていた時代があったのだ。
このことについても、地元の読者さまはちゃんと見ていた。次のようなコメントが既に寄せられている。
ここで生まれ育ちました。この区間の16号は開通が遅く、現県道が迂回路でした。
側道みたくなった部分も元は2車線で、16号開通に伴い狭くなった記憶があります。
コメント内の「側道みたくなった部分」とは、例の一方通行区間の事である。
現地で観察したセンターラインの跡から、「かつては普通の2車線道路だったのだろう」と推定したが、その通りだったのである。
県道280号の一部が、国道16号完成までの短期間、その代替路として利用されていた状況が判明したが、実際に“国道16号”として指定されていた可能性もある。
これは現在調査中のため、確認が取れ次第追記したいが、昭和41年頃に発行された道路地図帳の中には、このように(画像:「実用道路地図北日本編」より)、国道16号を県道280号同じルートで示しているものがある。
当時の道路地図帳というのは小縮尺な事もあって相当いい加減なので、即断は避けたい。
右図は、昭和50年(上の地形図の1枚目と2枚目の間)に撮影された空中写真から、今回の一方通行区間を表示している。
これを見ると、国道16号は既に開通しているが、2車線の供用で、いまの外回り線の部分は使われていない。
さすがに解像度の問題で、県道の路面状況は分かり難いが、当時から一方通行だったようである。
今と同じ道幅の中ほどまでしかない横断歩道が、それを物語っている。
ともかく、この辺りの国道16号は、開通の当初から4車線分の幅を確保していた。
しかもそのルートは、従来からある集落や県道の位置など歯牙にもかけないような、我が道を行く直線のルートであった。
国道16号は、県道280号などとは比べものにならないほど広い地域に利害を及ぼす、極めて広域的で重要な道路として計画されたからである。
そしてこの偉大な直線道路は、先達である県道280号の一部を容赦なくかすめ取った。
だがこのとき、県道の1車線だけを一方通行にして残すなどという変則的な事はせず、完全に国道で県道を分断してしまうという選択肢もあったはずだ。
旧い世代の道と新しい世代の道が重なり合うとき、旧い道を廃止して、新しい道に統合してしまうというのは一般的なことだ。
なぜ、そうはしなかったのか。
これが最後の謎だと思う。
そして、残念ながら、その答えはまだ憶測の域を出ない。
一つの仮説、というか理由の一つと思われるのは、前述した路線バスの問題である。
平成11年当時は県道を路線バスが通っていたのだが、おそらくこれは国道が開通する以前からあった路線だと思う。
その前提で思考実験をしてみる。
もしも県道が、ここで完全に国道に分断されていたとする。
そのとき、県道の上り線を走る路線バスは、一旦国道16号に合流してから、わずか300m先で右折してまだ県道へ戻るというルートを取らねばならない。
国道の交通量を考えれば当然、県道へ戻る交差点に右折レーンが必要で、道全体も多少の拡幅を要するであろう。
それをクリアしても、国道の交通量が極めて多いために、右折にはかなりの時間を要するものと思われる。
国道が出来る前の県道が一本道だった状況と比較して、2箇所の信号待ちで3〜5分はロスするのではないか。
このとき、上り線だけでも県道を生かしておけば、信号待ちは1回だけで済む。
(下り線については左折ばかりなので、国道に迂回しても下り線ほどのタイムロスはない)
沿道集落の住民感情を想像するとき、集落の利害を超越した巨大な国道を喜ばなかった人は当然いただろうし、彼らの要求として、従来から愛用していた県道の利便性を出来るだけ維持して欲しいというのがあったはず。
何度も言うが、この県道280号と国道16号の関係というのは、同じ道の単純な旧道と新道の関係ではない。
ある意味、国道16号は余所から来た侵略者のようなもので、従来の県道とは別の次元に存在していたのである(時間と共に融和もあるだろうが…)。
だからこそ、県道は交通量が相当に少ないにも拘わらず、未だに国道と統合されることもなく、つながりを維持されているのではないだろうか。
「変わった道には理由があるのだ」、などと断定的に大言を吐いた割に、〆の結論は断定的でないのが恥ずかしいが…。
いずれ情報が揃ったら、より完備したレポートに改善したい。