栃木県道62号今市氏家線のいまいちピリッとしない現状を見ていただいた。
本件について、個人的に最も謎と感じたのは、小林橋という申し分のない橋が、昭和58(1983)年に完成していているにも拘わらず、橋よりは遙かに建設が容易そうな陸上区間が、未だ完成していないことだった。現状のほとんど使い物になっていない“河川敷県道”を放逐する新たな県道は、途中まで大々的に建設された形跡があるものの、開通に至っていない。
どのような過去の積層のうえに、現状の光景があるのか。
そして、将来の見通しはどうなっているのか。
こうしたことを解き明かしたく思い、簡単に調べてみた。
まずは、私が探索後に矢板土木事務所へ直接問い合わせて判明した事実には、以下のようなものがある。
- 昭和59(1984)年に、現在の(地理院地図が描いている通りの)河川敷を通るルートで、県道の区域の決定と供用の告示が行われた。
- 河川敷の区間は、自動車交通不能区間に指定されている。(指定時期は不明)
- 新道の工事は、土地改良事業の進捗と一緒に進めているために、完成には時間を要している。
- 担当者が当サイトを知っていた(汗)。
さっそく、地形的に難しくなさそうな新道が長期間完成していない理由が、語られた。
土地改良事業と一緒に進めているためになかなか完成しないというのは、端的に言えば、道路予定地上にある農地の地権者からの同意が得られていないということだろう。
私はついつい道の開鑿で難しいのは、橋を架けることやトンネルを掘ること、或いは崖を埋めたり削ったりであるという、“自然 vs 土木技術”という視点で見てしまいがちだが、これはいささか前時代的な考え方で、古くから人の住んでいる土地に道を通そうとすれば、もっと複雑な問題が大きな障害になる。土地の問題である。
これを部外者である私が追求して解明しようとしても、おそらくは個々の人間の想いという部分に行き着かざるをえないだろうから、本稿ではこれ以上の思索はしない。
この県道の改良工事については、栃木県議会の議事録にも次のような内容があった。
- 平成28年5月県土整備委員会―05月17日―01号における県土整備部次長の発言より
- “今市氏家線の風見地区でございますが、この間につきましては、通行不能区間となってございます区間の道路の新設工事でございます。昭和54年度から事業着手をしましたが、残念ながら一部区間が地権者の同意が得られずに事業を一時休止してございましたが、平成25年度から事業再開をしてございまして、現在工事を推進中でございます。”
以上の発言により、今市氏家線の風見地区の改築事業は、昭和54(1979)年度に始まったことが分かった。
おそらく、小林橋はこの事業の初期の成果として、昭和58年に完成したのであろう。
その後、土地問題で(相当長い間)事業の休止を余儀なくされていたようだが、平成25(2013)年に問題は解決し、事業再開したとのこと。つまり、現在事業中である。
ゆえに、“将来”については十分明るいと言えそうだ。
全線開通したら、“河川敷県道”のあったことなど、黒歴史にさえならず、あっという間に忘れ去られそうだ。
続いて、この道の歴史を紐解いていきたい。
まず、追加の基礎情報として、wikipedia:栃木県道62号今市氏家線には、次のような情報が掲載されていた。
- 昭和36(1961)年4月1日に、主要地方道氏家今市線(現在と起点と終点の順序が逆)が認定された。
- 昭和58(1983)年1月17日に、路線名が現在のもの(主要地方道今市氏家線)へと改称された。
← 新しい (歴代空中写真) → 古い | ||||||
F平成18 (2006)年 | E平成12 (2000)年 | D平成7 (1995)年 | C平成2 (1990)年 | B昭和61 (1986)年 | A昭和57 (1982)年 | @昭和23 (1948)年 |
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まずは目で見える変化を追ってみよう。歴代空中写真の比較である。
この地域はマメに空中写真が撮影されているようで、昭和50年代以降はおおむね5年毎の変化を追い掛けることが出来て、面白かった。
右図をずらずらと見較べてみてもらいたい。大体、次のようなことが分かる。
- 河川敷を通る現県道の道は、A昭和57年から現在まで同じ位置に見えている。
- 西側の未成道は、B昭和61年からD平成7年の期間に、現在の終点まで建設された。
- 東側の未成道は、D平成7年からF平成18年の期間に、現在の終点まで建設された。
- @昭和23年の鬼怒川の流れは現在よりも川幅いっぱいに分流していた。“河川敷県道”がある辺りも河原や河道になっており、今は土管暗渠が跨いでいる小川や低地帯が、旧河道の跡だった。
河川敷の道が県道として供用開始された時期は、昭和59(1984)年であることが分かっている。
それ以前は、どこか別の道が県道として供用されていたのか、或いは未供用であったのかは分からない。
しかし、現在の今にも消えてしまいそうな“河川敷県道”の道が、昭和57年や61年の空中写真では、だいぶ鮮明に見えている(近年ほど薄れている)。
県道として認定された当時は、もう少し通行しやすく、利用者もいたの……かも、知れない。
← 新しい (歴代地形図) → 古い | ||||
D地理院地図 (現在) | C平成4 (1992)年 | B昭和52 (1977)年 | A昭和4 (1929)年 | @明治42 (1909)年 |
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さらに古い時代の状況を探るべく、明治から現代までの5枚の地形図を比較してみた。
過去へ遡っていくと、C平成4年の図に描かれている小林橋は、B昭和52年には存在せず、当時は今市市小林と塩谷町上沢の間にいかなる道も存在しなかったようだ。
だが、さらに半世紀も昔のB昭和4年まで遡ると、なんと!太い二重線で描き出された“県道”が、川を渡っていた。
残念ながら調査の手が及ばず、旧道路法時代の県道であるこの路線の素性は明らかに出来なかった。
当時の地図を見ると、この古い県道は今日の県道今市氏家線とほぼ同じ経路で、今市と氏家を結んでいた。
おそらく当時の路線名も「今市氏家線」か「氏家今市線」であったと思う。
現代は“しがない”不通県道であっても、その経歴を探っていくと、近代や近世には主要道路であったというのは、本当に良く見る展開だ。
ちなみに、この昭和4年当時の県道は、鬼怒川を現代の小林橋のように一挙に渡っていたわけではなく、大きな中洲を上手く利用しながら慎ましく越えていたようだ。
分流する鬼怒川を2回に分け渡っていた片割れは、“人渡”という記号で表された渡船場である。“人馬渡”とは違い、人しか渡れない小規模な渡船場を示している。
もう一箇所には橋が架かっていたようだが、これも“徒橋”という、人が渡れるだけの簡易な橋の記号だ。
総じて、県道の太い記号で描かれていても、車両が通るような満足な道ではなかったように想像する。
また地味に興味深いのは、中洲を通っていた旧県道の位置が、部分的に現代の“河川敷県道”とも重なっていそうなことだ。
洪水の度に洗われるような河川敷内に何かの旧跡を求めることは不毛そうだが、“河川敷県道”の何気ないルーティングの中にこそ、洗い残された“昔”がしぶとく残っているのかも知れない。こうした想像にはロマンがある気がする。
なお、明治期の地形図まで遡ると、県道ではないが、里道の中では一番上等な“達路”の記号で描かれた道が、やはり同じ辺りで渡河していた。
このように小林と風見の間で鬼怒川を横断していた古い道について、「角川日本地名大辞典 栃木県」の「風見村(近世)」の解説文に、次の記述を見つけた。
風見村(近世)
(略)助郷は奥州街道氏家宿の加助郷を勤め、日光御成の節は助郷は免除されたが、鬼怒川に架橋する義務が課せられていた。
当村には奥州街道喜連川宿から今市に至る横道が通り、那須方面の幕府領から多量の今市宿御蔵詰御用米が駄送され、これを継立てた。

上記解説文によれば、近世の風見村には、奥州道中(街道)の喜連川(きつれがわ)宿と日光街道の今市宿を結ぶ“横道”が通じ、この道を運ばれる荷物の継ぎ立てを村人が行っていたという。
「鬼怒川に架橋する義務を課せられていた」というのも、この“横道”に架かっていた橋のことだろう。
明治42年の地形図には里道として描かれている喜連川と今市を結ぶ道を、現在の道路網に当てはめると、さくら市側では県道180号や220号が一致する。残りの大部分は現在の県道62号と重なっている。

この写真は、本編では通らなかった、風見集落内の旧県道の風景である。
集落の家並みが道に沿って連なる典型的な街村で、道には水路が付属している。
まさしく絵に描いたような宿場風景だとは思ったが、街道好きなら知らない人のない五街道のうちの二つの街道(奥州道中と日光街道)を繋ぐ重要な道がここを通っていたとは、アピールが地味すぎて気付かなかった。
近代以降、どういうワケかこの道の整備は後手に回り、それと共に歴史を語ろうとする口数まで減ってしまったようだが、底力はあると思うので、今後の挽回に期待したい。