割石の高崖たかはなみち (前編)

公開日 2008. 7.25
探索日 2008. 7. 4

 濃飛国道から見えちゃう 絶壁道

 遭 遇


2008/7/4 7:01 《現在地》

このレポートを書いている時点ではまだ最終回を迎えていない長編、廃線レポート「神岡軌道」の探索は、7月3日に始めたが一日で目的を達することが出来ず、本日4日へとずれ込んだ。
3日は神岡の市街地(飛騨市神岡町)にある「道の駅かみおか」で夜を明かし、この日は朝から、前日の終了地点である東漆山へとチャリを漕いで向かった。
もちろん、前日から引き続き相棒nagajis氏がいる。


その途中、割石という地名のところで、トンデモナイ風景に遭遇してしまった。




国道41号を神岡市街から富山方向へ向かうと、はじめのうち高原川の左岸を、対岸に神岡鉱山の巨大施設や禿げ山を見ながら進むことになる。
そして、2kmの少し先で「吉ヶ原橋」という大きな橋で右岸に移ったかと思うと、また1km以内に「割石(われいし)橋」で左岸へ戻る。
この辺りが割石地区であるが、国道沿いに集落は無い。
集落や割石温泉の入口となる丁字路を素通りして進むと、三度高原川を渡る。上の写真の地点、「二つ屋橋」である。

そして、右の写真はこの二つ屋橋の上から、下流方向を撮影したものだ。

山脚が高原川の激流に現れ、尾根まで届くほどの顕著な絶壁を見せている。


  そして、この絶壁に…。






 道形が見える!



1km少々の道のりで高原川を三度も跨ぐ国道の姿は、周囲の地形の如何に険しいかを示している。

我々が鉄の橋を自由に扱い、さながら曲芸師のように自在に谷を渡り歩く道づくりを覚えたのは、ここ半世紀以内のことである。

そして、そんな「超自然力」を得る前の道が、この高原川沿いには少なくとも3本ある。
個々の場面はどれほど奇抜であろうとも、大筋の地形に対してはあくまで従順で実直な道たち。


 この道もそのひとつ。


土地の古老は、親たちや、自らも若いみぎりに仲間や牛たちと一緒に通ったこの絶壁の道を、こう呼んでいる。






割石の高崖たかはな と。






いま、逢いに行きます。


「ヨッキが歩いているところを写真撮りたいな。」


そんな寂しいことを言わないでくれよ、nagajisさん。

一緒に逝こう。



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 接 近


二つ屋橋のたもとから、橋を渡らず川縁に下る道を発見。
割石温泉の大きな看板が立っているが、ここはその入口ではない。

目指す岩場の道は現在地よりもかなり高いところに見えるのだが、早速下っていることに違和感をおぼえる。
とはいえ、他に近づけそうな道も思い当たらず、これを行くことに。



案の定、この道は不正解だったようだ。
ひとしきり下ったところで目の前に発電用の水鉄管が現れ、その管理施設らしき建物にて道は行き止まりとなってしまった。

だが、建物の脇に隙間(写真→)を見つけ、そこを進んでみた。




建物付近から見た目的地の岩場。

200mほどの至近距離である。

しかし、余りに突飛な光景のためか、まだ現実感が乏しい。

鮮明に道形が見えているので、辿り着けさえすれば「崩れていて歩けない」と言うことはないと思うが、危険極まりない道であることは間違いない。




発電所の裏手に道はなく、緑濃い森が広がっていた。

道はないが、進んでみる。

次に視界が晴れるのは、高崖の道に立ったときだと思う。
というか、そうありたい。




やはり、目指す道よりも低いところに居るようだ。

今はまだ斜面が緩やかなので騙し騙し進んでいけるが、最終的に歩けるラインは一本に絞られるはずなのだ。
上下の移動が困難になる前に、道の手掛かりが欲しいところだ。




しかもなぜかチャリ同伴だし。

道無き斜面に平然とチャリを持ち込もうとするnagajisには参った。

たしかにあの岩場をチャリで颯爽と走る姿は絵になりそうだけど…。
ダメダメ。あそこまで行く前にチャリごと谷へ落ちるよ。

私の忠告で早々にチャリを棄て、我々は身軽になった。



それから、斜面の20mほど上方に道形を発見。


チャリを立木に預け、大きな荷物も置き棄てて、急斜面を四つ足でよじ登った。

  ぐゎし ぐゎし!


そして、辿り着く。


  道!





 「転落注意」


7:10

登ったら、こんな道があった。

高度的に、この道をあと100mほど背後の方向へ進めば、そこに「高崖」が待ち受けていると思われる。

ちょっとそこまでの場面転換がイメージしにくい。
そんな穏やかな、林間の道。
自動車道由来では無さそうだが、想像していたような廃道でもない。

そう。
意外なことに、道は廃道ではないようだった。




何事もなく、杉の植林地を50mほど進んだ。
まだ行く手の林が途絶えることも、天を突く岩盤が我々を威嚇することもなかった。

ただ、もしかしたらここが、「心の準備」をはじめるべき場所だったのかも知れない。

写真に写る、コンクリート製の石祠の残骸。
安置されていたであろう石仏の姿はないし、大きな木に守られ落石が直撃するような場所にも見えないのに、どうしてこんなに破壊されているのは分からない。
ただ、ここに石祠の跡があったという事実。

それは、何らかの覚悟を我々に要求していたのかも知れない。




そして間もなく、さらに直接的なメッセージがもたらされることとなる。

と同時に、この道の今日的利用者の姿も明らかとなった。




この先
  転落注意

“あの様子”だと、転落したら絶対に死ぬ。
わざわざ転落注意なんて教えてくれなくても、大丈夫。分かってる。

そして、この小綺麗な警告板を見て理解した。
この道が、高原川左岸に連なる高圧鉄塔線の管理歩道(北電歩道)であることを。
もちろん、もともとは別の用途で切り開かれた古道なのだが、左岸の地形はそう何本もの道を許さない。


救われた。

オレタチ、どうやらスクワレタ。

 (今ガッカリした読者は、ここから先私の前に出て歩きなさいねー。)






7:12

あ、

 始まった。

うーーおーーーー!


穏やかな杉林はもう過去のもの。

行く手に、白っぽい崖が迫る。

道のある高さを完全に呑み込んで、上にも下にも、白い崖が見えている。

視界を遮る緑が途切れるまで、あと10歩くらい。





あと5歩





着いた。
ここが、高崖。


いまから1世紀以上も前には、富山方面から高山(岐阜県)や松本(長野県)へ運ばれる「飛騨ブリ」や、塩、米、ほか様々な産物が、この場所を人や牛の背によって運ばれていた。
その険しさゆえ、馬はこの道を越せなかったという。

明治の中頃になっていくらか拡幅されたが、大正期には対岸に神岡軌道が開通し、馬力による輸送が始まる。
後の開通することになる自動車道(現在の国道41号)も、この道ではなく対岸を選んだ。

高崖の道も一度は廃道になったと思われるが、山峡を渡る鉄塔の開通が、この古道に第二の役割を与えているようだ。

別に立入禁止にはなっていないようだが、日常的に歩くには怖すぎる道。
幅1mの外は、すべて死に神の領分。





nagajisさんが壊れた。

なぜそんなところに居るんだ。

どう見ても、そこは路肩の外だ。

足元がどうなっているのかも見えない場所で、ヒョロヒョロの灌木に腕を絡ませては、中空に身を乗り出すようにしてデジカメを覗いていやがる。


久々に見た。 廃道で俺より死にに行くやつを。

負けたよ。
つうか、見ている俺の脚が震えてきた。
自分がそこに行っても震えるか分からない足が、震える。
早くあがってきてくれ。見たくない。
人死には、見たくない。

あなたこそ、廃道馬鹿オブローダー筆頭だ。間違いない!





その手に握っている木がポキッといったら…。

ゾクゾクして見てらんねー!


それになんなんだ。
この、生まれたてのヌコなみに無邪気な表情は。



道が盛んに利用されていた当時、割石や対岸の二つ屋の住人は、ときおり“聞いた”そうだ。

高崖から落ちる牛が最後に発する、悲しげな声を。




そしてこれが、nagajis氏が命懸けで撮った写真。


彼が写したかったものは、岩の隙間に築かれた石垣だった。
道はこの石垣を足掛かりに、くさび形の欠谷を越えている。
ちょうど道が最も奥まった場所である。


さっきは思わず弱気なことを書いたが、nagajis氏が撮ろうとしなければ、私が同じことをしていたと思う。

この石垣に、我々はそれだけ大きな価値を感じていた。

形としては素朴な空積みの石垣に過ぎないが、先人たちがこの石垣を築くのにどれだけの犠牲を払ったのか。
それを考えると、少しくらい無理をしてでも、その姿をちゃんと記録したいと思ったのだ。

二人は、この石垣を指さして、爆笑した。
先人の愚直なばかりの道づくりを、心で幾度も幾度も頭を垂れながら、派手に笑い飛ばした。


今度は我々がこの石垣を踏む番だ。




参考資料: 神岡町史(通史編U)