道路レポート 和歌山県道230号高田相賀線 高田トンネル旧道 後編

所在地 和歌山県新宮市
探索日 2015.7.24
公開日 2017.9.25

洪水が生んだ“最後の難関”に、想定外の発見が!!


2015/7/24 17:10 《現在地》

現在、全長約1.3kmの旧道のラスト200mに差し掛かっている。
だがそこには、手前200m辺りから遠望出来されていた、大規模な路盤流出地点が横たわっていた。
500m手前の、おそらく橋が流出していると思われる地点よりも、さらに長距離にわたって、路盤が失われていた。完全に川に削り取られてしまっている模様。

ここを越えれば、すぐにゴールだ。奥に現道が見えている。
どうせ自転車を置き去りにしているので最後は戻らねばならないが、折角ここまで来たならば、“完抜”で締め括りたい。
そんな気持ちで歩みを進めた。




この場所は、もともと難所と呼べる地形であったと思う。
道は、蛇行する川の流れが山にぶつかり、激しく岩肌を削る“衝”の部分を横断しており、これは最も典型的な“川道の難場”である。
たとえ洪水がなくても、つぶさに保守補強を続けなければ、やがて浸食によって壊される運命にあった道だろう。
件の大水害は、平時なら数十年分にあたる変化を、わずか数日の間にもたらしたようだ。

ちなみに、この分かりやすい難場が、新宮市の大字相賀と大字高田の境になっている。これは明治22(1889)年の町村制施行により高田村となる以前の相賀村と高田村の境であった。

さて、ここからが本題。

段階を踏んで先細っていく路盤を早々に見限った私は、画像に示した“矢印のルート”で、先に河原へ下りてしまうことにした。
岸が垂直に切り立っていて、安全に下りられないことを心配していたのだが、幸いそれほど険しい傾斜ではなく、問題なく河原へ下りることが出来た。
が、そこに衝撃の発見があったのだ。

この河原への下降の最中、ちょうど画像の“☆印”の地点で私が見たものは、全く想定外のものだった!!



――河原に築かれた石垣――

この写真だけでは、私がなにゆえ驚愕したのか、全く伝わらないと思う。

だがこの石垣は、本来ここにあるはずのないものなのだ。



崩れた石垣の中から、
別の石垣が出現した?!



もう少し引きの画で見てみると、特異な状況がより一層際立って見える。

明らかに、県道の路肩の下にあった石垣の内部には、別の石垣が内蔵されていた。

洪水によって県道の石垣が破壊されることがなければ、決して明るみにはならなかっただろう石垣だ。

この隠されていた石垣の正体を考えた私は、オブローダーとしての至福の想像に至り、

鳥肌が立った!



言うぞ〜、言うぞ〜〜、正体言うぞ〜〜!!



すばり、隠されていた石垣の正体は――

より古い道の石垣に違いあるまい!

現在の幅5mほどの県道が出来る以前から、ここには道があったのだ。
しかし、道幅はだいぶ狭かった。そしてその狭い道にも、路肩には石垣が設けられていた。
その古い石垣は、道を拡幅する際に撤去されたのかと思いきや、そのまま新しい石垣に覆い隠される形で、地中に秘蔵されることになったようだ。

このような、構造物の埋め殺しによる道路の改築は、実際は頻繁に行われているのかも知れないが、目撃者の証言や記録写真でもない限り、後に発覚することは稀だと思う。
それが洪水による破壊という、想定しない事態により明るみに出たのだと思うと……、なんとオブローダー泣かせ(もちろん嬉し涙)な発見だろうか!!



左の画像は、上の写真だと手前側に写っている、旧県道が利用していた石垣だ。
埋められていた“古道”の石垣とは、積み方や積まれている石のサイズや形が違っていることが分かる。

旧県道の石垣は、角の立った石材(間知石状のもの)を用いた谷積みであり、石材と石材の隙間がほとんどない緻密なものだ。
対して古道の石垣は、現地採集とみられる丸みを帯びた川石を乱積みにしたもので、隙間も目立つ。
いずれもモルタルによる補強はなく、現代のコンクリート擁壁と較べれば古い作りの石垣だが、両者の比較であれば、明らかに現地採集の川石による乱積み石垣が古いと判断して良いだろう。

このような形で新旧の石垣を比較出来る場面に遭遇したのは、オブローダーとして長く活動してきたが、初めてかも知れない。



【路面が段階的に先細り】になっていた原因も、お察しの通りである。
一段狭い状況で5mばかり続いていた路面は、埋められていた古道の石垣によって支えられているために、辛うじて流失を免れていたのである。

だが、その先では新旧の石垣とも完全に流失し、全く取付く島のないツルツルの地山岩盤が、直に河原にそそり立つ形になっている。
左の画像は、河原に立って、そそり立つ絶壁を見上た。
何の意味もなさなくなった落石防止ネットが、なんとも虚しい。
ネットの下端の位置が、かつての路面高を示す。
また、前回の大決壊地点にも存在した、被覆された何らかのケーブルが、ここにもあった。

路盤は完全に失われたことが分かる。
50年か100年かそれ以上昔のことかは分からないが、ここに最初の石垣の道が築かれる以前の原初の風景に、(落石防止ネットの存在を除けば)逆戻りしてしまった。
人が長い年月の間に積み上げたたものは、まっさらに押し流されてしまったが、人は既に新しい道を築いて備えていたのだから、こちらもまた強(したた)かだ。

一旦は岸辺から完全に抹殺された石垣だったが、埋め殺されていた古道の石垣は、すぐに復活した。
より新しい県道の石垣が、なすすべもなく流失した水勢の衝にあって、ただ川石を積み上げただけに見える素朴な石垣が、完全流失をほとんど免れていたことは、贔屓目には特筆したくなる事実である。
丸い川石を用いた隙間の多い石垣の方が、水の力を上手く受け流すことが出来たのか。

とはいえ、これはだいぶ贔屓目な評価だ。実際に県道の石垣よりも古道の石垣が堅牢かと問われれば、分からない。
単純に、流心により近い位置にあった県道の石垣が激しく破壊されただろうし、それがある程度まで耐えたからこそ、古道の石垣が水勢に晒される時間が短かったかも知れない。

しかしそうだとしても、埋め殺されていた石垣が数十年ぶりに水を得て、しゃかりきに任務にあたったのだと思うと、感情移入に定評のある私などは、胸を打たれるのである。
廃道の地下に埋もれていた石垣の頑張りなど、現実の災害の前では無意味だったろうが、それを発見した私を喜ばせたという小さな意義はあった。



せまッ!

古道の石垣をよじ登った私は、その上面の幅、すなわち道幅の狭さに驚いた!
60〜90cmくらいしかない。
一体いつの時代の道なんだろう。
それは分からないが、間違いなく車両交通には耐えられない、古臭ふんぷんたる道路遺構である。

なんというものが、現代に甦ってしまったのだろうか!
甦ってなどいないという説もあるが、とりあえず私はこれを旧県道に代る道として活用した実績がある。

右の画像は、路面の拡大写真である。
これが路面だったのか、流失によって出現した断面に過ぎないのかは分からないが、従来目にすることがなかった景色として、大いに興味深いものがある。

まず気付くのは、巧みな丸石の配置である。
側面に細長い丸石が俵のように並べられ、内側に小さな丸石が裏込めとして密に満たされている。
しかも側面の石は相当がっちりと固定されていて、手や足で簡単に動かせる感じがしない。もとは人が積んだものであるはずだが、相当長い年月を安定して過ごしてきたものの動きたがらない力を感じた。
そして現に、強烈な水流に耐え得たからこそ、この形でここにあるのだ。



17:16 《現在地》

古道の石垣の高さはほぼ一定で、それは旧県道の石垣上にある路面より1m以上も低い。
大きな太い流木が、両者を橋渡しするように存在していて、私が路面に復帰する役に立ってくれた。

そうして、この全く想定外の貴重な発見が隠されていた、二度目の大決壊現場を突破した。

旧道の残りは、これであと100mほどになった。私の中にも静かなエンディングのテーマ「蛍の光」が流れ始める。



(←)何事もなかったかのように再開した、1.5車線舗装路。
現道に合流するまでに、どのような封鎖がなされているのか興味津々で進んでいくと、前編で反対側の入口で見たものと同じタイプの車止めがあった。
この車止め、おそらくだが、洪水によって旧道が寸断される以前から設置されていたのではないかと思う。現状の凄まじい破壊の状況には見合わない、緩〜い封鎖である。他に通行止めを示すような掲示物も見られなかった。




旧道区間の最後辺りで高田川上流を見通すと、これまでの渓谷風景とは一線を画する大きな平地の存在が、500mばかり前方に知覚された。

旧道探索の完了をゴールに据えていた私は、自転車を途中に残してきてしまったこともあり、最後の距離を億劫がって引き返してしまったのだが、あの平地にこそ、この道と共に生きてきた人々の住む高田集落があった。
辿り着かずに終わったせいか、私の中での高田は、この限られた小窓の風景そのままの、仙郷染みた平和で美しい土地である。




高田側の新旧道合流地点に「蛍の光」


17:17 現道に合流、ハイ終わり!

…となるところだが、最後にもう一ヤマ、可愛らしい廃のヤマがあったので、紹介しておこう。

車止めを逆方向に越えると、何やら路上にプレハブの小さな小屋があり、車があり、人もいた。(何かの工事用らしい) そして橋があった。
橋の下を流れているのは、高田川の支流である口高田川だ。

橋の袂は、かつて分岐地点だったようだ。“赤矢印”の所に色褪せた道標が立っていた。



色褪せた道標を間近で撮影した。
左折方向には「高田グリーンランド」と「雲取温泉」、右折方向には「薬草薬木園」と「高田特産品センター」と行き先が書かれている。
左折が旧県道で、右折は口高田川に沿って延びる市道の旧道だ。
後者は完全に廃道状態で、砂利で路面が埋め戻されていた。その先は現県道に断ち切られている。

上の地図の通り、現在はこの口高田川の合流地点に、新旧の県道と市道用の3本の橋が、間隔をほとんど空けず横並びで架かっているが、最初は旧県道の橋だけがあって、「現在地」が市道との分岐地点だったようである。
直後に各橋の銘板を調べたところ、市道の橋の竣工年は平成14(2002)年3月、現県道の橋は平成15(2003)年2月であった。
とはいえ、現県道の橋に接続する高田トンネルは、前編で紹介した通り、平成17(2005)年12月の竣工である。現県道の開通もそのときだろう。
つまり、平成14年3月に道標は役目を終え、それから3年後には県道も旧道になったと考えられる。



引き続き、ここにある3本の橋の中では唯一黄昏れてしまっている、愛すべき旧県道の橋を観察する。

まず特筆すべきは、この橋の 一風変わった親柱 である。

でっかい虫が付いてる。

……という大雑把な表現だと、あまり良い印象を持たれないおそれがあるので、ここはより正確に表現したい。
のモニュメントだ。体長30cmくらいのビッグホタルである。
もともとかなりリアルな造形なのだが、老朽化のため各部の色合いにムラが出来ていることが、一層の生物的リアリティに寄与してしまっている。昆虫が苦手な人が普通に恐がるくらいにはリアルだと思う。
そんなモニュメントの存在が最大の特徴であるが、親柱の形状自体も独特で、かつて見たことがないものだ。白い塗色も珍しい。

この個性的親柱に取り付けられていた銘板によると、本橋の竣工年は、平成2(1990)年3月であるとのこと。
県道自体はもっと前からあったに違いないが、橋はなんと平成生まれだった。

これは驚くべき短命だ。
この橋が竣工したわずか13年後に、隣に新道の橋が完成しているのである。
架け替えの事情が分からないだけに、決めつけは良くないが、ちょっと橋が気の毒な気が…。
凝った親柱が設けられているあたり、高田の玄関口として大いに期待された完成だったと思われるだけに、余計そう感じる。

そして、旧橋へ向けられた私の「もったいない」という気持ちは、最初は草に覆われていて存在に気付かなかった、この向かい側の親柱を見たときに極まった。 その草むした親柱には――



ホタルのモニュメントを活かした、発光装置が備え付けられていたのである!!

なんという、アイデア賞! ホタルというのは確かに奇抜だが、親柱が街路灯を兼ねた古風な伝統に照らすなら、
むしろここを灯して集落の玄関口に据えるというのは、とても理に適った伝統の修景デザインではなかろうか。

橋があまりに短命であったことから、電気代の無駄とか、もったいないという批判もあるかもしれないが、
このホタルが夜道を照らした風景を、一度で良いから見てみたかったと私は思った。

……どんな色合いで、灯っていたのかなぁ。輝きの時期は限られているホタルだけに、早晩野へ還る定めだったか。



ホタルに気を取られたが、橋の名前も銘板から判明した。
大宮橋」という。
すぐ先にある高倉神社にちなんだ命名か。

それはともかく、さすが平成生まれだけあって、橋の上は見事な2車線道路である。
隣にある現県道と較べてもなんら遜色ない橋だが、センターラインは既に退色して見えなくなってしまっていた。
そして橋の先にあるのは、現県道との合流地点だ。


現代的な完備された橋から振り返る旧道は、とても似つかわしくなく、際だって荒廃している。
しかしこれは旧道のせいというよりは、件の大洪水のせいであろう。(読者さまの証言によっても、旧道化した後しばらくは車も通行できたようだ。)

これは個人的な感想であり印象だが、平成2年にこの橋を架け替えた当時は、(いまの)旧道を拡幅しながら将来にわたって使っていく心積もりだったのではないだろうか。
だがそれからあまり時間の経過しないうちに、川沿いの道では災害対策が十分にはできないという議論があって、抜本的改築となる現在の高田トンネルのルートが計画されたような気がする。そこには、鶴の一声となった大きな出来事があったかも知れないが、あくまでも想像の話となる。



2車線の橋が極めて近接して3本並んで架かっている、奇妙な光景。
欄干のデザインまで共通なので、本当に同じ橋が並んでいるような印象を受ける。
これらの橋は、高田側の袂に集約される三叉の矛である。
どれか一つでも他の橋を兼ねられなかったのかと思うところだ(笑)。

それぞれの橋の名前と竣工年は、手前から順に、大宮橋(平成2年3月)、新大宮橋(平成15年2月)、大橋(平成14年3月)である。
市道の「大橋」というネーミングも、なんだか大雑把な印象になっているのは気のせいか。他の2本の橋より大きいわけでもないし。




大宮橋の高田側袂に、この一連の旧道内では2回目の発見となる、県道230号の“ヘキサ”が残っていた。
すぐ隣にある現県道の同じ位置に移設すればよかったのに、旧道にだけ目立つ“ヘキサ”が取り付けられている状況だ。
日々パトロールをする道路管理者の目にも、このヘキサは目立つ存在だろうに、無視を決め込まれているのか。

(ちなみに、高田という地名の読みは「たかた」だが、旧道の高田隧道の読みは「たかだ」と濁っている。現県道の高田トンネルの読みは不明だ。)

また、こちら側の2本の親柱に、ホタルは付いていなかった。発光装置もだ。
最初から付いていなかったのだとしたら、来客を出迎える側にだけ、「おもてなし」の気持ちで、贅沢な飾りを用いていたとも考えられる。



17:20 《現在地》

大宮橋の袂で今度こそ新旧県道は合流し、この探索をスタートさせてから35分で、1.3kmの旧道探索が終わりを迎えた。
規模としては小さいが、途中で自転車を剥ぎ取られる予想外もあった、規模以上に密度の濃い充実した探索になった。

なお、この分岐地点で興味深いのは、県道から旧道へ右折するための右折レーンがわざわざ用意されていることだ。
当初は旧道を封鎖する予定はなく、渓谷美を楽しめる脇道として存続させるつもりでもあったのだろうか。
だが、現状はこれまで見てきた通りで、ここを右折しても橋を渡った直後に車止めで遮られることになる。



それから私は、全長830mもある高田トンネルをとぼとぼ歩いて通り抜け、
下河トンネルとの間の短い明り区間から、ガードレールを乗り越えて旧道の途中へショートカット。
左の写真はそのときに撮影したもので、下河トンネルと隣にある高田隧道のツーショットである。
両者の違いが際立っていて、良い写真になった。

旧道に入って間もなく自転車と再会し、回収。本探索を完了した。





← 古い       (歴代地形図)       → 新しい
@
明治44(1911)年

A
昭和28(1953)年

B
昭和33(1958)年

C
地理院地図(現在)

以下は、このレポートを執筆するにあたって行った、簡単な机上調査の成果である。
まず、いつものように歴代地形図のチェックをしてみたところ、古いものから順に次のような変化が読み取れた。

■明治44(1911)年
高田川に沿う「荷車の通せざる里道」が既に描かれているが、まだ高田隧道はなく、代わりに峠越えの道が描かれている。【激狭の石垣道】は、この時期のものであろう。
また、当時は熊野川沿いの十津川街道が左岸(三重県側)を通っており、右岸へ渡る多くの渡し場があった。その一つ「高田渡」は、口高田川上流の峠を越えた先にあり、途中の「口高田」という地名から見ても、高田地区のメインとなる往来は当初、高田川沿いではなく、高田渡から口高田を経由するものであったのだろう。

■昭和28(1953)年
高田隧道が描かれている。これを含む高田川沿いの道は、「町村道」の記号で車道として表現されている。この段階では、【石垣の拡幅更新】も済んでいたであろう。また、熊野川沿いの十津川街道が現在の国道168号(指定は昭和29年)と同じ右岸に開通している。

■昭和33(1958)年
昭和28(1953)年版とほとんど変わっていないが、高田隧道を含む道は、太い「都道府県道」として描かれるようになった。これと接続する十津川街道は、さらに太い二重線の「国道」の記号である。
また、昭和の大合併の時期を経たことで、旧高田村が新宮市に併合されている。

■地理院地図(現在)
高田隧道の前後区間が旧道となり、新たに下河・高田トンネルからなる新道が整備されている。
また、口高田を経由して国道へ通じる道も、車が通れる道として整備された(現在の市道)。

全体をまとめると、『道路トンネル大鑑』に高田隧道が大正10(1921)年の竣工として記録されていたことと矛盾はない。当初は里道や高田村道として高田川沿いの道を車道とする整備が行われ、やがてそれが実を結んで県道に昇格して、高田のメインルートになったようだ。
高田隧道はその名の通り、完成以来常に高田の玄関口として重要な位置を占めてきたことが分かる。



続いて、『角川日本地名辞典 和歌山県』をチェックしたところ、「高田」について、次のようなことが分かった。以下抜粋。

  • 近世の高田村は、和歌山藩新宮領城付。明治12年東牟婁郡に属し、同22年高田村の大字となる。
  • 近代の高田村は、高田・相賀・南檜杖の3か村が合併して明治22年に成立。旧村名を継承した3大字を編成。役場を高田に設置。産業は大部分が農林業を生業とする。
  • 昭和17(1942)年に高田那智線が開通するまでは、製板・木炭をはじめとする各種の産物をかついで新宮の市場へ運び、同様にして日用品・雑貨を地内に運び込んだ。また、主産物の木材は、台風期の出水を利用して筏に組んで流下する方法と、冬期に川の要所要所をせきとめる鉄砲堰を利用して流下する2つの方法で運んだが、村道の開通によってこれらが解決されたため、開通記念碑が役場前にたてられた。昭和31年新宮市の一部となり、村制時の3大字は同市の大字に継承。

上記の最後の記事の内容が特に興味深いのだが、ここに登場する「高田那智線」と「村道」は、ともに今回探索した旧県道のことであると解釈している。

現在の県道高田相賀線は、高田の山奥で行き止まりの路線だが、右図の通り、山道はさらに南へ続いており、大杭峠を越えると那智勝浦町(旧那智町)市野々へ通じている。おそらくこの一連の区間がかつて、村道高田那智線と呼ばれていたのだろう。そして、このうち高田川沿いの区間(後に県道になった区間)が昭和17年に開通したので、木材を主力とする各種産物や生活品の輸送にも自動車が使われるようになったのだろう。高田隧道は大正時代に完成していても、自動車が通れる程度まで改良されたのが、この時なのかも知れない。


そして、旧高田村役場前にこの村道の開通記念碑が建てられていたとのことだが、それを知ったのが見事に探索後だった。
だから見てない!

仕方ないので、グーグルストリートビューで旧地形図に役場が描かれていた辺りを見てみると、なんかあるっぽいんですよ。味のある建物の前に、大きな石碑が…!
う〜〜ん! 口惜しい!! 遠い!

だから、お近くにお住まいの誰か見てきて〜! 
そして、それが本当に開通記念碑だったら、碑と碑文の写真を送ってください!!(懇願)
碑について何か分かったら、またレポートを追記します。




正やん 氏撮影。

私を大いにドギマギさせた旧高田村役場らしき建物の前に立つ大きな石碑であるが、なんとありがたいことに、早速何人かの読者さまが見てきてくださった。
そして、そんな彼らに私は言いたい。

「スマナカッタ!」 と。

――結論、この思わせぶりな石碑は、道路と関係のある碑ではなかったのである。



おこぜ 氏撮影。

碑は高さ2mほどもある立派なもので、表面にはこう書かれていた。

玉置藤太郎翁頌徳碑

また、裏面に文字はないが、右側面下部に次の文字がある。

昭和二十六年三月一日建之
中森亮順 書

「角川日本地名辞典 和歌山県」には、「開通記念碑が役場前にたてられた」とあったが、この碑は開通記念碑ではなく、玉置藤太郎なる人物の功績を称えた碑であった。
ただし、具体的にどのような功績を称えるものであるかは、碑文がないため、これだけでは知りようがない。

だが、現地の確認をしてくれた我が友人のおこぜ氏が、高田集落で偶然出会った新宮市役所の職員である人物に、聞き取り調査を敢行して下さった結果、碑の正体も次のように判明した。

石碑は玉置藤太郎という当地の名士に纏わる碑である。
玉置翁は、かつてのこの一帯の大地主で、彼が村の公共機関に土地を寄付した。そのことを顕彰するために碑を建てた。
この地域(高田)には、道路に関する碑のようなものはないと思う。 (新宮市役所支所職員の証言)

そしてこれは読者さまが見つけて下さったのだが、玉置藤太郎氏の名前は、大正3(1914)年に発行された「牟婁商工家案内 東郡ノ分」という文献に、“高田村の木材商”として記載があるという。
林業で財をなした人物であるとすれば、木材の搬出の問題が村道の開通によって解決されたために、開通記念碑が役場前に建てられたという、「地名辞典」の記述とも無関係ではないが、さすがにこれを「開通記念碑」であるとするのは無理があるだろう。


そもそも、この碑が建っている建物を、私は旧高田村役場であると考えていたが、それも間違っている可能性が高い。
「haiko-riderのブログ」の記事「紀伊半島縦断・廃校休校巡り(2015/07/25)」は、この建物は平成4(1992)年まで使われていた高田小学校の旧校舎であるとしている。

旧地形図(左)を見てみると、役場の記号の隣に学校の記号も描かれている。
地形図の見方として、記号の位置ではなく記号が付された建物の位置が重要なのだが、小縮尺のため、それぞれの記号がどの建物を示しているのかの判断が難しい。
だが、昭和51年の航空写真を確認したところ、この碑のある建物が小学校として使われていたのは、間違いなさそうだ。(玉置翁は小学校用地を提供したということか)

ここが高田村役場でなかったとすると、別の位置に本物の役場跡があり、そこに開通記念碑が存在することを疑いたくなる。(もっとも、先ほどの証言では高田集落内には現存しない可能性が高いのだが)。

また、別の読者さまからの情報によると、高田の隣にある相賀集落近くの相賀八幡神社の境内に、どこかの峠道の開通記念碑があるとのことだ。
これについては、「ORRの道路調査報告書」内のこちらの記事に記述がある。

現時点では、高田に村道の開通に関わる記念碑が実在している、過去には実在した、そもそも存在していなかった、この3パターン全ての可能性があって、特定に至っていない。
旧役場の建物は、おそらく解体され既に存在しないようだが、碑も失われたのか、どこかに残っているのか。
前記した相賀八幡神社内の石碑も含め、調査は続行中である。

(あらためて、お手伝いして下さった皆様及び証言者様に感謝します!)


2017.10.2追記



平成17(2005)年に全線開通した新県道については、和歌山県の道路交付金事業の広報資料(PDF)に、事業効果をまとめた右の記事を見つけた。
ここに事業目的や整備効果が視覚的に分かりやすくまとめられている。

まず、高田隧道の現役当時の写真を発見して興奮した。グッドだ!
その説明のところには、「大型観光バスは、手前の広場で小型車に乗り換えることが必要でした」とあるが、その乗り換えの場所はどこだったのだろう。【高田隧道の相賀側坑口前の謎の広場】のことではないと思うが…。
その先の、所要時間が3分短縮されたくだりは、ちょっと大袈裟な気もするが、これは観光客よりもむしろ、毎日通う住民にとってのメリットが大きいだろう。

そして締めくくりには、高田地区区長(officeで見たような人物)による、「夢のような喜び」「高田地区の夜明け」といった大絶賛のコメントあり。
これには私も思わずほっこりである。
この1枚きりの記事を見ただけでは、ありがちで定型的な行政による事業の自画自賛と違わないかも知れないが、私は旧道で道路改良への累代の足跡――旧隧道や埋め殺された石垣、ホタルの親柱モニュメントなど――を、つぶさに目の当たりにしている。
ましてや、旧道では全く耐えられなかった大洪水の惨害も見たとなれば、整備不要論に加担する理由はない。

もっとも、高田住民の道路整備への夢はこれで全て満たされたわけではなく、今は袋小路の打開という、車両交通が始まって以来の大問題に立ち向かっているようである。
先ほどの「大杭峠」を記載した地図をもう一度見ていただきたいが、高田から海沿いの佐野へ抜ける「塩見峠」という別の峠がある。
これも高田住民が通った古くからの歩きの道であったのだが、ここに県道を延長して整備する構想があるというのだ。

和歌山県議会の会議録や地元紙のバックナンバーを拾ってみると、古くは平成5年頃から、この県道の延長に関する陳情が地元から出ていたようだ。
その後も継続して何度も出てくるが、平成23年の紀伊半島大水害以降は、より活発になっている。
というのも、この洪水によって高田と外界を連絡する唯一の道路である国道168号が熊野川の水位上昇によって冠水・崩壊したため、同地区は完全に孤立状態となったことがあった。
いくら高田川沿いの県道を整備したとしても、熊野川の機嫌次第で孤立してしまうことが分かったのである。
この状況の打開には、直接海沿いへ抜ける塩見峠越えの道を整備するしかないというわけだ。

とまれ、洪水はあくまでも理由付けの補強だろう。
そもそも袋小路に立地する集落は、ほぼ例外なく、その打開を夢見ているものだ。
袋小路性の打開とは、当事者にしか分からない、だが本能レベルに強烈な欲求なのだと私は思う。
私はこの欲求を根源に、難工事を克服して誕生した道を数多く知っている。(しかし維持されず廃道になったものも数多い)

私はいろいろな道を通行し、その最中だけは当事者になれるが、最後はいつも部外者として見守るだけの立場になる。
だから今回も、高田の歩みがどこへ向かうのかを、静かに見守っていこう。この県道はまだ先へ進むことを諦めていない。
また、機会があれば塩見峠にもチャレンジしてみたいものである。