← 古い (歴代地形図) → 新しい | ||||
@ 明治44(1911)年 | A 昭和28(1953)年 | B 昭和33(1958)年 | C 地理院地図(現在) | |
以下は、このレポートを執筆するにあたって行った、簡単な机上調査の成果である。
まず、いつものように歴代地形図のチェックをしてみたところ、古いものから順に次のような変化が読み取れた。
- ■明治44(1911)年
- 高田川に沿う「荷車の通せざる里道」が既に描かれているが、まだ高田隧道はなく、代わりに峠越えの道が描かれている。【激狭の石垣道】は、この時期のものであろう。
また、当時は熊野川沿いの十津川街道が左岸(三重県側)を通っており、右岸へ渡る多くの渡し場があった。その一つ「高田渡」は、口高田川上流の峠を越えた先にあり、途中の「口高田」という地名から見ても、高田地区のメインとなる往来は当初、高田川沿いではなく、高田渡から口高田を経由するものであったのだろう。
- ■昭和28(1953)年
- 高田隧道が描かれている。これを含む高田川沿いの道は、「町村道」の記号で車道として表現されている。この段階では、【石垣の拡幅更新】も済んでいたであろう。また、熊野川沿いの十津川街道が現在の国道168号(指定は昭和29年)と同じ右岸に開通している。
- ■昭和33(1958)年
- 昭和28(1953)年版とほとんど変わっていないが、高田隧道を含む道は、太い「都道府県道」として描かれるようになった。これと接続する十津川街道は、さらに太い二重線の「国道」の記号である。
また、昭和の大合併の時期を経たことで、旧高田村が新宮市に併合されている。
- ■地理院地図(現在)
- 高田隧道の前後区間が旧道となり、新たに下河・高田トンネルからなる新道が整備されている。
また、口高田を経由して国道へ通じる道も、車が通れる道として整備された(現在の市道)。
全体をまとめると、『道路トンネル大鑑』に高田隧道が大正10(1921)年の竣工として記録されていたことと矛盾はない。当初は里道や高田村道として高田川沿いの道を車道とする整備が行われ、やがてそれが実を結んで県道に昇格して、高田のメインルートになったようだ。
高田隧道はその名の通り、完成以来常に高田の玄関口として重要な位置を占めてきたことが分かる。
続いて、『角川日本地名辞典 和歌山県』をチェックしたところ、「高田」について、次のようなことが分かった。以下抜粋。
- 近世の高田村は、和歌山藩新宮領城付。明治12年東牟婁郡に属し、同22年高田村の大字となる。
- 近代の高田村は、高田・相賀・南檜杖の3か村が合併して明治22年に成立。旧村名を継承した3大字を編成。役場を高田に設置。産業は大部分が農林業を生業とする。
- 昭和17(1942)年に高田那智線が開通するまでは、製板・木炭をはじめとする各種の産物をかついで新宮の市場へ運び、同様にして日用品・雑貨を地内に運び込んだ。また、主産物の木材は、台風期の出水を利用して筏に組んで流下する方法と、冬期に川の要所要所をせきとめる鉄砲堰を利用して流下する2つの方法で運んだが、村道の開通によってこれらが解決されたため、開通記念碑が役場前にたてられた。昭和31年新宮市の一部となり、村制時の3大字は同市の大字に継承。
上記の最後の記事の内容が特に興味深いのだが、ここに登場する「高田那智線」と「村道」は、ともに今回探索した旧県道のことであると解釈している。
現在の県道高田相賀線は、高田の山奥で行き止まりの路線だが、右図の通り、山道はさらに南へ続いており、大杭峠を越えると那智勝浦町(旧那智町)市野々へ通じている。おそらくこの一連の区間がかつて、村道高田那智線と呼ばれていたのだろう。そして、このうち高田川沿いの区間(後に県道になった区間)が昭和17年に開通したので、木材を主力とする各種産物や生活品の輸送にも自動車が使われるようになったのだろう。高田隧道は大正時代に完成していても、自動車が通れる程度まで改良されたのが、この時なのかも知れない。
そして、旧高田村役場前にこの村道の開通記念碑が建てられていたとのことだが、それを知ったのが見事に探索後だった。
だから見てない!
仕方ないので、グーグルストリートビューで旧地形図に役場が描かれていた辺りを見てみると、なんかあるっぽいんですよ。味のある建物の前に、大きな石碑が…!
う〜〜ん! 口惜しい!! 遠い!
だから、お近くにお住まいの誰か見てきて〜!
そして、それが本当に開通記念碑だったら、碑と碑文の写真を送ってください!!(懇願)
碑について何か分かったら、またレポートを追記します。
正やん 氏撮影。
私を大いにドギマギさせた旧高田村役場らしき建物の前に立つ大きな石碑であるが、なんとありがたいことに、早速何人かの読者さまが見てきてくださった。
そして、そんな彼らに私は言いたい。
「スマナカッタ!」 と。
――結論、この思わせぶりな石碑は、道路と関係のある碑ではなかったのである。
おこぜ 氏撮影。
碑は高さ2mほどもある立派なもので、表面にはこう書かれていた。
玉置藤太郎翁頌徳碑
また、裏面に文字はないが、右側面下部に次の文字がある。
昭和二十六年三月一日建之
中森亮順 書
「角川日本地名辞典 和歌山県」には、「開通記念碑が役場前にたてられた
」とあったが、この碑は開通記念碑ではなく、玉置藤太郎なる人物の功績を称えた碑であった。
ただし、具体的にどのような功績を称えるものであるかは、碑文がないため、これだけでは知りようがない。
だが、現地の確認をしてくれた我が友人のおこぜ氏が、高田集落で偶然出会った新宮市役所の職員である人物に、聞き取り調査を敢行して下さった結果、碑の正体も次のように判明した。
石碑は玉置藤太郎という当地の名士に纏わる碑である。
玉置翁は、かつてのこの一帯の大地主で、彼が村の公共機関に土地を寄付した。そのことを顕彰するために碑を建てた。
この地域(高田)には、道路に関する碑のようなものはないと思う。 (新宮市役所支所職員の証言)
そしてこれは読者さまが見つけて下さったのだが、玉置藤太郎氏の名前は、大正3(1914)年に発行された「牟婁商工家案内 東郡ノ分」という文献に、“高田村の木材商”として記載があるという。
林業で財をなした人物であるとすれば、木材の搬出の問題が村道の開通によって解決されたために、開通記念碑が役場前に建てられたという、「地名辞典」の記述とも無関係ではないが、さすがにこれを「開通記念碑」であるとするのは無理があるだろう。
そもそも、この碑が建っている建物を、私は旧高田村役場であると考えていたが、それも間違っている可能性が高い。
「haiko-riderのブログ」の記事「紀伊半島縦断・廃校休校巡り(2015/07/25)」は、この建物は平成4(1992)年まで使われていた高田小学校の旧校舎であるとしている。
旧地形図(左)を見てみると、役場の記号の隣に学校の記号も描かれている。
地形図の見方として、記号の位置ではなく記号が付された建物の位置が重要なのだが、小縮尺のため、それぞれの記号がどの建物を示しているのかの判断が難しい。
だが、昭和51年の航空写真を確認したところ、この碑のある建物が小学校として使われていたのは、間違いなさそうだ。(玉置翁は小学校用地を提供したということか)
ここが高田村役場でなかったとすると、別の位置に本物の役場跡があり、そこに開通記念碑が存在することを疑いたくなる。(もっとも、先ほどの証言では高田集落内には現存しない可能性が高いのだが)。
また、別の読者さまからの情報によると、高田の隣にある相賀集落近くの相賀八幡神社の境内に、どこかの峠道の開通記念碑があるとのことだ。
これについては、「ORRの道路調査報告書」内のこちらの記事に記述がある。
現時点では、高田に村道の開通に関わる記念碑が実在している、過去には実在した、そもそも存在していなかった、この3パターン全ての可能性があって、特定に至っていない。
旧役場の建物は、おそらく解体され既に存在しないようだが、碑も失われたのか、どこかに残っているのか。
前記した相賀八幡神社内の石碑も含め、調査は続行中である。
(あらためて、お手伝いして下さった皆様及び証言者様に感謝します!)
和歌山県の広報資料(PDF)より転載。
平成17(2005)年に全線開通した新県道については、和歌山県の道路交付金事業の広報資料(PDF)に、事業効果をまとめた右の記事を見つけた。
ここに事業目的や整備効果が視覚的に分かりやすくまとめられている。
まず、高田隧道の現役当時の写真を発見して興奮した。グッドだ!
その説明のところには、「大型観光バスは、手前の広場で小型車に乗り換えることが必要でした
」とあるが、その乗り換えの場所はどこだったのだろう。【高田隧道の相賀側坑口前の謎の広場】のことではないと思うが…。
その先の、所要時間が3分短縮されたくだりは、ちょっと大袈裟な気もするが、これは観光客よりもむしろ、毎日通う住民にとってのメリットが大きいだろう。
そして締めくくりには、高田地区区長(officeで見たような人物)による、「夢のような喜び」「高田地区の夜明け」といった大絶賛のコメントあり。
これには私も思わずほっこりである。
この1枚きりの記事を見ただけでは、ありがちで定型的な行政による事業の自画自賛と違わないかも知れないが、私は旧道で道路改良への累代の足跡――旧隧道や埋め殺された石垣、ホタルの親柱モニュメントなど――を、つぶさに目の当たりにしている。
ましてや、旧道では全く耐えられなかった大洪水の惨害も見たとなれば、整備不要論に加担する理由はない。
もっとも、高田住民の道路整備への夢はこれで全て満たされたわけではなく、今は袋小路の打開という、車両交通が始まって以来の大問題に立ち向かっているようである。
先ほどの「大杭峠」を記載した地図をもう一度見ていただきたいが、高田から海沿いの佐野へ抜ける「塩見峠」という別の峠がある。
これも高田住民が通った古くからの歩きの道であったのだが、ここに県道を延長して整備する構想があるというのだ。
和歌山県議会の会議録や地元紙のバックナンバーを拾ってみると、古くは平成5年頃から、この県道の延長に関する陳情が地元から出ていたようだ。
その後も継続して何度も出てくるが、平成23年の紀伊半島大水害以降は、より活発になっている。
というのも、この洪水によって高田と外界を連絡する唯一の道路である国道168号が熊野川の水位上昇によって冠水・崩壊したため、同地区は完全に孤立状態となったことがあった。
いくら高田川沿いの県道を整備したとしても、熊野川の機嫌次第で孤立してしまうことが分かったのである。
この状況の打開には、直接海沿いへ抜ける塩見峠越えの道を整備するしかないというわけだ。
とまれ、洪水はあくまでも理由付けの補強だろう。
そもそも袋小路に立地する集落は、ほぼ例外なく、その打開を夢見ているものだ。
袋小路性の打開とは、当事者にしか分からない、だが本能レベルに強烈な欲求なのだと私は思う。
私はこの欲求を根源に、難工事を克服して誕生した道を数多く知っている。(しかし維持されず廃道になったものも数多い)
私はいろいろな道を通行し、その最中だけは当事者になれるが、最後はいつも部外者として見守るだけの立場になる。
だから今回も、高田の歩みがどこへ向かうのかを、静かに見守っていこう。この県道はまだ先へ進むことを諦めていない。
また、機会があれば塩見峠にもチャレンジしてみたいものである。