これまでの3度の探索の成果をまとめると、この本尊岩隧道東口で計画されていた拡幅計画は、右図に示したようなものであったと推測が出来る。
特に今回の新たな成果としては、従来は側設導坑へアクセスするための工事用道路橋と考えられていた橋が、将来的に現道側へ幅員を継ぎ足されて新道用の橋の一部となることが出来るような準備構造(継ぎ手)の存在が発見されたことだ。
当初は工事用道路として利用した橋が、あらかじめ拡幅によって完成道路の一部となるように準備されていたというケースは、これまで各地の道路改良を見てきた私も聞いたことがなく、大変興味深い。
そもそも、こういうふうに工事が途中で中断されたまま終わらなければ、気付かず終わった話だったかも知れないのだ。
左図は、本尊岩隧道の西口の状況だ。
これは西口じゃなくて洞内じゃないかと思われるかも知れないが、実は奥の赤色に着色した部分(全長40.0m)だけが本尊岩隧道(昭和39年開通)で、その手前は全て後補の大型ロックシェッドだ。本尊岩からの落石に備えるべく、廃止時点ではこのように大掛りな構造物になっていた。
これは以前の探索でも紹介済みの内容だが、後補のロックシェッド部分と元来の本尊岩隧道の断面サイズが大きく違うために、これを摺り合わせるべく、蛇腹のような複雑な形状の側壁があった。
本来は、このロックシェッドと同じ断面まで本尊岩隧道を拡幅する計画があったのだろう。
「工事用道路橋」に、橋梁銘板が存在していた! 2022/9/21追記
OEFC氏提供写真
読者の OEFC (@yegorovacom)さま より、本編公開後に情報の提供を頂いた。
恥ずかしながら、私はこれまで3度も訪れながらすっかり見逃していたのであるが、今回の追記の主役となった“謎の橋”こと工事用道路橋には、橋梁銘板が存在している。
これはしたりだ!
気付かなかったのは完全に私のミスだが(最近はいつも藪が濃くて、覗き込みずらかったんだよね←言い訳)、ご提供頂いた写真を見ると、鋼桁の上流側の側面に、右写真のような銘板が、塗装表示と隣り合うように取り付けられていた。
ちなみに撮影時期は、国道の芦田橋が現役だった当時である。
まず、銘板があったこと自体に驚いた!!
銘板があるというのは、やはり単なる工事用道路橋ではなかった証しと言っても言い過ぎではないと思う!
工事が終わったら取り壊すだけの橋に、工事銘板を取り付けているケースは、ほとんど見た覚えがないのである。
私は今回の再訪探索で、この工事用道路橋は将来的に横に桁を継ぎ足されて新たな国道橋の一部となる用意があるのではないかと推理したが、そのための【継ぎ手】があるのとは反対側の側面に、銘板は取り付けられているのである。
このことも、私の推理を後押しする発見だといえると思う。
OEFC氏提供写真
銘板の内容にも、大きな驚きがあった!
銘板がある以上、橋名も当然書かれていたのであるが、曰くこの橋名は――
足駄(あしだ)橋。
何度も名前が登場している、隣の国道のトラス橋の名前は、芦田(あしだ)橋。
隣り合う同音異義語の橋名とは、意表を突いている!
芦田はいかにも地名っぽいが、足駄というのは雨の日などに履く高下駄のような履き物を指す名詞だ。それぞれ、どうしてこの橋名を選んだかは不明だが、おそらく本尊岩がワルさをしなければ、いずれは足駄橋が芦田橋に成り代わるという、そんな現象が発生することになったのだろう。
もし、同音である2橋が同時に活躍することになったらいろいろと不便そうだが、そうはならないことを命名者が知っていたかのような命名だ。 てか、知っていたんだろう。
そしてこれも貴重かつ重要な“新情報”だが、当初はトンネル拡幅工事のための作業路として作られたこの橋の竣工年がわかった。
竣工は、平成2(1990)年12月。
ここは追記なので、多くの読者は既に下へスクロールした先の本編を一度は最後まで読み終えているかと思う。
そんな先を知る人たちなら、分かるはず。
この橋が平成2(1990)年竣工というのは、この後で述べる、本橋によって最終的に実現しようとした国道の拡幅が中止された経緯と照らし合わせて、最も矛盾がない。
本橋銘板の発見は、本橋の特異な立ち位置を物語るアイテムとして、小さくとも重要な意味を持つ発見だといえる。ありがとうございました!
以上のように現地での成果をまとめたうえで、この机上調査編では次の二つの謎について、調べたことを解説したい。
- なぜ本尊岩隧道の拡幅は中止されたのか? (国道49号揚川改良事業の経過)
- なぜ旧道となった区間の国道指定が未だに継続しているのか?
この二つはあまり関わりのなさそうな内容だが、共に現地で私が感じた謎なので、それぞれについて調べてみた。
調査1: なぜ本尊岩隧道の拡幅は中止されたのか? (国道49号揚川改良事業の経過)
『揚川改良だより 創刊号(平成22年4月)』より |
上の2枚の図は、国土交通省北陸地方整備局新潟国道事務所が発行していた、『揚川改良だより』という機関誌からの引用だ。
同誌は事業名「一般国道49号揚川改良事業」の進捗状況を広報する目的で、平成22(2010)年4月の創刊号から開通翌月の平成25(2013)年4月の最終号まで、合計11号が発行された。
このうち事業概要をまとめた左の図によって、揚川改良は昭和53(1978)年度に事業化されていたものの、事業中は「揚川道路」と仮称された全長7.5kmの新道(=現国道)の工事着手は平成12(2000)年度であり、事業開始からそこまで22年の長い年月を経ていたことが分かった。
どうやら、この22年の間に秘密がありそうだ。
揚川改良事業の原点を探るべく、昭和63(1988)年に国交省北陸地方整備局の前身である建設省北陸地方建設局が発行した、『北陸地方建設局三十年史』を紐解いた。
『北陸地方建設局三十年史』より
右図が同書掲載の事業名「一般国道49号揚川局改」の概要図だ。
局改とは局部改良の略で、比較的に小規模の改良事業を指し、道路構造令へ完全準拠した抜本的な改良ではないものを含む。
どうやら昭和53年に事業着手された当初は、揚川改良ではなく揚川局改という事業名だったようである。
その対象の区間も、右図の通り、最終的なものとは大きく異なっていた。
なんと、平成25年の新道開通で旧道となった区間内に、全ての事業区間が含まれていた。全長は6900mで、そこには封鎖された本尊岩隧道も含まれていた。
……やはりそうだったか。 そうだと思ったよ。
当初から対岸に新道を整備するつもりはなかったからこそ、本尊岩隧道の拡幅というプランが、途中まで実行されたのに違いないのだ。
なお同書は、事業の概要を次のように解説していた。
現国道は、東北電力(株)揚川ダム建設に伴う付替道路として整備されたものである。その後、昭和45年頃より、川側擁壁に沿って舗装面の沈下が現われてきたが、昭和52年7月に栃森橋取付部川側の倒壊事故が発生し、数日間にわたって通行不能になった、これを契機に昭和53年度から局部改良が事業化となり、川側の補強のほか、山側に対しても落石、雪崩等への対策を施している。
地形的には揚川ダム調整池とJR磐越西線に挟まれて、施工上制約の多い区間であり(中略)昭和62年度末現在までには、小花地区と谷花地区を合わせて、延長870mが完成している。
このように、当初は(現在の)旧道を対象とした、川側と山側の補強・防災対策がメインの局部改良事業だったことが分かる。
本尊岩の大規模な崩壊の危険性はまだ予見されていなかったようで、川側の補強が警戒の中心があったようだ。貯水池の湖畔は地盤が不安定になりやすく、その対策が急務だったのだろう。
当時既に川の対岸に長大トンネルを想定した磐越自動車道(東北横断自動車道)の計画があり、抜本的改良は高速道路の整備に委ねていたとも考えられそうだ。
こうして、“空白の22年間”と、本尊岩隧道の拡幅計画が結びつく環境は整った。
あとは、その資料的裏付けを見つけたいが……、
平成3(1991)年7月に北陸地方建設局がまとめた技術研究会論文集に、「一般国道49号「本尊岩地区」のフラットスラブの設計と施工について」という論文が掲載されているのを見つけた。
揚川局改区間は(中略)昭和53年度から防災対策のための事業化に着手し拡幅及び線形の改良を行っているものである。
なかでも、平成元年度より工事に着手した「本尊岩地区」は特に地形条件、現場条件が厳しい地区である。
本報告ではこの地区のうち、「フラットスラブ部」の設計・施工方法について報告するものである。
このような書き出しがあり、(現在の)旧道を対象とした局改事業が、平成元年から、いよいよ本尊岩地区で着工したことが分かる。
本論文の主題はフラットスラブというもので、あまり聞き馴染みがないかと思うが、路上においては右写真のように見える構造物の一部だ。
この写真、本尊岩隧道のすぐ西側の旧道路上(封鎖区間内)であるが、川側に橋の高欄が取り付けられている。ずっと先までそうなっているが、これらは桟橋で、最大で道幅の半分程度が、揚川ダム湖上に迫り出す構造になっている。
こうすることでダム湖と鉄道に挟まれて拡幅余地のなかった国道を無理矢理拡幅していたのである。
この連続桟橋を建造する際に一部で用いられた工法が、フラットスラブだった。
路上からは区別が難しい、まさに縁の下の力持ちであった。
「本尊岩地区」は「阿賀野川県立自然公園」のなかで特に景勝地と言われているが、阿賀野川も最狭窄部であり、国道49号のなかでも線形条件が悪い箇所である。
当該区間は昭和59年度より地質調査を行い、その後落石調査等の結果に基づき実施設計を行った。
このようにも書かれていて、本尊岩に対しても地質調査を行ったうえで、旧道を大々的に拡幅・線形の改良を行うことが決定されていた。
まだ、本尊岩の崩壊の危険性が露見していなかったか、見逃されていたか、単純にこの後で不安定となったのか。
本論文自体はフラットスラブに関することが記述の大半を占めているが、「おわりに」として、次のように、将来のトンネルや橋梁の拡幅に言及している部分があった。
『北陸地方建設局管内技術研究会論文集. H3』より
「本尊岩地区」の「フラットスラブ部」の施工は、平成3年3月に完成した。引続き、「ロックシェード」、「トンネル」、「橋梁」の施工を平成3年度以降に計画し、「本尊岩地区」の幅員狭小区間の解消、線形改良を図るものである。
残念ながら、「トンネル」や「橋梁」の拡幅がどのような工法によって計画されていたかに言及した文献は未発見だが、間違いなく、当時の揚川局改の事業には、本尊岩隧道と芦田橋の拡幅が含まれていたことが分かる。
右図も同論文からの引用で、図中の「トンネル」とあるのが本尊岩隧道で、その右側の「橋梁」というのが芦田橋だ。
下に小さく施工年度が書かれていて、「ロックシェッド」と「トンネル」は平成3〜5年度に工事を行い、「橋梁」は平成元〜2年度に第1期工事を実施済で(これが“謎の橋”の建設か?)、さらに平成5年度に第2期工事を行う計画だったことが分かる。
これはかなり重大な情報である。
←これも今回の探索のなかで撮影した画像で、本尊岩隧道の西口前だ。
ちょうど「フラットスラブ」が施工された辺りであるが、山側の擁壁に、かつて道路利用者へ向けて飾られていた1枚の大きな写真パネルがそのまま残されていた。
この色褪せたパノラマ写真の主眼は、道路上の崖地を対象に廃止直前まで長らく行われていた防災工事だろう。一度目の探索当時も盛んにやっていた覚えがある。
「良き道たどれば良き郷あり」
――まさに至言といった感じがあるが、いったい誰の言葉だろう。検索しても分からなかった。ご存知の方は教えて欲しい。
ただ、ここには少しだけ、闇が垣間見える。
だって、この“良き道”というのは、現実にはここが(地元警察官さえ誹るほどの)“悪き道”だったことがバレてしまった結果、このような写真パネルを設置して利用者に知らしめるべき大規模の防災工事が生じたわけで、しかも最後には新道の開通と引き換えに一欠片の憐憫もなく封鎖されて放置されたのである。それって“良き道”か……?
そんなチャチャはさておき、この写真パネル(廃止される数年前の撮影だろう)に写っている道路構造物と、先ほど見ていただいた平成3年度撮影の施工年度予定の画像を照らし合わせると、どこまで実際の工事が進められ、どこで中止されたかが、だいぶ絞り込める。
例えば、「施工予定」の写真では、「ロックシェッド」の部分はまだ完成していなかった。だが、写真パネルには、これが完成して存在する。
つまり、この部分の工事は予定通り進められた。
「トンネル」と「橋梁」についても、本来は平成5年度までに拡幅を終える計画だったようだが、実際に拡幅は行われず、現地で見た“謎の橋”と“謎の穴”という、拡幅工事の準備工事の跡だけが残されている。
この事実と符合するのが、前回のレポートでも記した、アンパンマン氏の独自調査による以下の提供情報だ。
(芦田橋の隣に)もう1本橋がかかっており気にかけておりました。本日、関係事務所にお尋ねしたところ、「R49の拡幅のために架橋したところ平成2年頃、落石事故があり危険と判断された為、その後の工事が中断されたままになっている」と調査していただき、2時間後程でご丁寧な電話返答いただきました。
『土木学会論文集No.722/III-61,315-330,2002.12
一般国道49号本尊岩地区岩盤斜面の安全性評価と防災対策』より
まず問題となるのが、「平成2(1990)年頃に工事が中断された」という部分の正確性だ。
もしこれが平成2年度であるなら、論文が掲載された時点で、既に工事の中断が検討されていた可能性があり、少々不自然だ。
しかし、あくまでも「平成2年頃」であるから、実は3年か4年だったかもしれない。
だとすると、落石事故が原因で、本来は平成5年度に完成予定だったトンネルと橋梁の拡幅が中断されたというのは矛盾がない。
具体的に、当地の既往災害歴を、平成14(2002)年の土木学会論文『一般国道49号本尊岩地区岩盤斜面の安全性評価と防災対策』から見てみると、平成4年3月と翌5年4月に、本尊岩の西側に連なる花谷岩体で、それぞれ約200㎥と約800㎥の岩石崩落が発生していた。いずれもJR線路の擁壁で大半を阻止できたが、一部がその下の国道路面に飛散した被害があったそうだ。(右図の赤枠部分)
このときは甚大な被害はなかったが、国道の遙か上方にある巨大な岩崖が相次いで崩壊し、落石が国道のすぐ上にあるJR線の擁壁まで届いたことで、この位置の国道を将来も使い続けることへの疑念が関係者に生まれ、善後策を広く検討すべく、ひとまずこの段階では未成だった本尊岩隧道と芦田橋の拡幅を中断したのであろうか。
これは可能性の高い説だと思う。
そして、本尊岩隧道と芦田橋の拡幅を残した従来の揚川局改事業が事実上中止となり、完全な別線による新道整備を骨子とした揚川改良事業へと変化する直接のきっかけは、右図の青枠で囲った平成7年4月に起こった災害だった。
このことは複数の資料によって裏付けが取れている(後述)。
約5000㎥の岩石崩壊により、斜面上のJR防護施設が全壊した。径3mの岩塊がJR脇の擁壁を大破して停止。最大径7.5m×4.0m×3.0mの岩塊がJR防止柵手前で停止、国道へは小岩片が飛散した。
平成4年と5年に続いて7年にも同じ季節に同じ谷花岩体が崩壊し、しかも今回の崩壊量は遙かに多かった。
JR線路の防護施設を破壊し、国道そのものへの被害は今回も軽微だったものの、安全確認が出来るまで通行止になった。
仏の顔も〜の諺ではないが、この出来事によって、昭和53年度から多くの費用をかけて整備してきた従来の国道は敢えなくレッドカードを切られることになった。
この大きな計画変更の意思決定については、新潟国道事務所の関係者らがまとめた『揚川改良の整備効果について』という文章に次のように明言されている。
昭和53(1978)年度に揚川改良として事業化し、落石防止のための法面対策や、狭隘な幅員への対応として阿賀野川へせり出す道路拡幅工事などを進めてきた経緯がある。
しかしながら、本尊岩・谷花地区において発生した平成4(1992)年および平成7(1995)年の新潟県北部地震の余震による大規模な岩石崩落や、平成8(1996)年2月に北海道で発生した国道229号の豊浜トンネル岩盤崩落事故を契機として、「国道49号本尊岩地区防災対策検討委員会」を設置し同地区の防災対策工の検討や、日常の点検、監視体制などの検討を行った。
委員会での検討の結果、「本尊岩・谷花地区は岩盤斜面やその亀裂状況、岩盤の劣化等を考慮すると抜本的対策は困難であり、現道の危険性を考慮すると恒久対策としては別線ルートで回避する以外にない」との結論に達したことから、落石監視システムによる24時間体制の監視を行いながら平成12(2000)年度より(中略)別線ルートの整備に着手し……
ここでも“豊浜”の事故が出てくるのだな。
もう山行が最多回数登場の隧道名かもしれないなあそこは。(その場所のレポートは書いていないが…)
もちろんそれだけでなく、平成4年と7年の岩石崩落も重大な要因だったことが述べられている。
そして、よくよく調査した結果、もうだめぽとなって、一から新道を整備することになった。
これが本当に一からなのが凄いところ。従来の事業区間の全てを捨てての再出発だからね…。
以上まとめたような経緯によって、本尊岩隧道と芦田橋は拡幅工事を打ち切られたまま、なおも10年以上、24時間の厳重な落石監視体制のなか、私の2度の訪問を含む多数の人々を行き交わさせたのだった。
なんでもあの旧道は、49号という路線名と災害への脆弱さをかけて、地元住民によって「始終苦労(しじゅうくろう)」なんて呼ばれていたそうじゃないか…。
でも、もう改良の未来はないと死刑宣告を受けたような状況で、最後まで従順に働き続けた国道に、まずは最敬礼である。
同時に、最後まで大きな事故を起こさなかった道路管理者の勤勉と、それを許した本尊岩に宿る天の神の慈愛に、感謝したい。
調査2: なぜ旧道となった区間の国道指定が未だに継続しているのか?
平成25(2013)年3月30日に、揚川改良として整備が進められてきた新道区間7.5kmが一挙に開通し、同時に従来の国道約8.5kmが旧道となった。
旧道のうち沿道に集落が存在しない中間部分(本尊岩隧道を含む部分)約4kmは、この日の15:00に通行止となり、以来今日まで継続している。
最近の道路地図や地理院地図を見ると、通行止区間は道自体の表記が消えており、このまま廃道になることが約束されているように感じるが、不思議なことに、そこへ繋がる前後の旧道区間約4.5kmは未だに国道として表記されている。
旧道となった後の(封鎖されていない)国道の処遇はケースバイケースで、統一の処置があるわけではないが、交通量が少ない山間部の旧道の場合は、ほとんどが県道以下に降格しており、市町村道まで降格するケースが大半だ。
当地に残された旧道のうち、西側部分は県道にそのまま接続しているのでまだ交通量があるが、東側部分は津川温泉を過ぎると行き止まりへの一本道となり、途中に京ノ瀬と大牧という2つの集落があるだけだ。本編でも見てもらったとおり、末端部分の交通量は非常に少なく国道時代の広い道幅を持て余しているが、旧道となって9年が経過した現在も、この区間の国道指定は解除されていないようである。
なぜそうなっているのかを調べてみた。
この旧道の全区間を擁する阿賀町の町議会が、同町が誕生した平成17年度以降の会議録を公開しており、これが本問題の内情へ部外者がアクセスできる現状唯一のネット上にあるソースかもしれない。
国道49号は同町の東西を結ぶ唯一の一般道であり、最重要のインフラであるため、その一翼を担う旧道の存廃問題については、何度も議論されていた形跡がある。
しかし、そもそもこの問題については、旧津川町と旧三川村が合併して阿賀町が誕生する以前に、元の当事者間(国、新潟県、旧町村の4者)で、措置が決定していたようだ。平成12(2000)年に新道整備の方針が決定して翌年には着工しているそうなので、時系列的にもそうでなければおかしい。
次に掲載するのは、阿賀町が誕生した年(平成17年)の9月定例会でのやり取りの抜粋だ。
◎建設課長
(平成)16年9月30日付で調印しているわけでございますが、津川町大牧地先から三川村谷花地先まで、及び揚川トンネル区間を廃道とするということ。それから、その廃道区間に際しましては、さく等を設置して車両及び歩行者を通行どめにするということ。それから、津川町の津川地先から津川町の大牧地先まで、及び三川村谷花地先から三川村白川地先までは町または県の管理とすると、こういう文書になってございます。
新道開通後の旧道の扱いについては、中間部分を廃道として、残りの部分は町、または県の管理とすることが、平成16(2004)年9月30日に関係者間で調印されていたそうである。
これは、一般的な扱いと全く同じだと思う。
想像だが、西側区間は接続している新潟県道17号新潟村松三川線の一部になったと思うし、東側区間はちょうど対岸に存在する新潟県道512号西津川線の例に倣って、新たな県道として採番されて大牧津川線にでもなっただろうか。これに県が難色を示せば、全区間か一部の区間は町道に降格した可能性もあろう。
いずれにせよ、平成17年当時は、旧道になった後も国道として維持管理していくという話ではなかったことがはっきりした。
そしてこの内容の確認は、平成20(2008)年3月定例会でもほぼ一字一句変わらずに行われているのを見た。
ところで、町議会だからいろいろな意見の人が当然議論に参加される。
なかには、既に当事者間協議で決定していた本尊岩部分の廃道化を覆して、旧道の全区間を県道として管理していくことが出来ないだろうかという意見を町長に述べる議員もいた。
その時の神田敏郎町長の発言というか、率直に言えば反論が、私は好きだ。
これは、平成23年12月定例会での一幕である。
◎町長
いや、私は覆す気はありませんよ。こんなもの、管理なんかこっちでやれなんて言ったってできる話じゃありませんから。それが、スクラップ・アンド・ビルドでもあるわけでしょう。新しくあれだけの多額の金をかけて、そうでなくても高速道路があるじゃないかと。高速道路があるのに、今、バイパスをつくるんだから、県の負担もあるんですよ。(中略)国道ですら、あの本尊岩の危険を回避することができないということで、あの部分はこうだというふうになったわけでありますから、これを覆してまたこの、どこで管理するんですか。新潟県で管理なんかしませんよ。もちろん、町はこんな管理が耐えられるわけありません。
そういうことから、やはりせめて大牧の振興をこれからも考えていかなければならないということで、行きどまりになるわけでありますから、(中略)どういうような振興策があるか、こちらでたたき台をつくって、いずれ区の皆さんとも相談することも必要だろうというような話までしているくらいですから、ぜひその辺はご理解いただきたいと思います。
国道ですら本尊岩の危険を回避することは出来なかった。いわんや県道、町道においてをや。
まさしくそんな文脈で、廃道区間の存続を強く否定している。
しかし、残された行き止まりの区間の末端となる大牧地区の振興をどうするかという問題が、クローズアップされている。
常に私が行ったときのように虹でも出ていれば、もてなしとしては最高だが、実際はそうもいかないわけで、通りがかりの車が皆無になる地区の振興問題は、廃止旧道が抱える基本的な問題だろう。
具体的な施策についてもしばしば議論されたようであるが、その中で未だ実現していないアイデアとして、行き止まりになること自体を回避するために、対岸の道路と結ぶ橋を架けることが議題に上ったこともあった。本編でも名前だけ登場した“昭和橋”という今は主塔だけが残る吊橋が、かつて大牧と対岸の赤岩地区の間にあって、今でも町道に指定され続けているそうである。この架橋を復活させるというアイデアだったが、もし実現すれば…………うん。まあ、厳しいよな。
それと、やはり本尊岩の部分の景勝を惜しむ声は、多くの議員が述べていた。
ここは阿賀野川ライン県立自然公園の要所であり、本尊岩は単体の観光地として利用されることはほとんどなかったが、景観としてよく愛され、沿線のシンボルとして捉えられていたようである。
景観の良さは私も完全に同意したい。たぶんここが阿賀野川の下流域では一番綺麗な景色であろう。
だからこそ、歩行者のみとか、自転車道としての存続なども、議論されたようだが、危険を推してまでということには、どうしてもならなかったようだ。(一方、並走する磐越西線の危険性については、議題に挙がった様子はない)
結局、現在では船下りによる観光利用を考えているようである。
……そんなことを話し合っている間に、平成25年に新道は開通し、旧道は…………なぜかそのまま、国道のままになっている。
平成27(2015)年3月定例会で、このことがしれっと話題に上っていて、町がこの状況を当然のこととは考えていないことが伺える。
◎町長
旧国道49号であります国道交差点から大牧間の道路管理につきまして、平成10年の国・県・町の三者協議において国から県または町に管理移管することが既に決まっておりますが、そのための協議を現在継続しているところでございます。
平成16年なのか平成10年なのか、たぶんここは単純な間違いで正しくは16年だと思うが、いずれ旧道は県または町に管理移管することが既に決まっていたけれども、そのための協議がまだ整っていない(からそのまま国道として管理されている)ということらしい。
ようするに、方針は決まっていても、細部は決まっていなくて、その部分が纏まらないと、方針通りには進められないよということだろう。でもそこは開通前に纏めておかないといけなかったヤツだよね? ……何があったんだろうか?
そして、この協議が整わないままの状況が、現在まで継続している模様なのである。
ごく最近の平成30(2018)年の3月定例会、この冬は例年よりも雪が多く、当地方でも除雪車が足らずに大変だったようだが、そのことを振り返って……
◎議員
国道・県道除雪についてであります。特に今回は、国管理であります49号線バイパスができてから、今現在、国が管理しています小野戸から大牧までの区間であります。この間については、国は国道49号線の除雪を最優先するために、なかなか除雪が手配されません。車線の確保ができない、すれ違いができない、はたまた除雪車が来ないために、女性のドライバーは危険極まりない行動が見受けられました。(以下略)
◎町長
麒麟橋から大牧区間までの国道を引き継ぐに当たって、新潟県、または阿賀町のどちらになるかは協議中でありますけれども、町としては県道として引き継いでいただきたく、強く要望しておりますことから、この区間については町の除雪車での対応ではなく、今は考えられているわけでありますけれども、なかなか県も「うん」とは言っておりません。「うん」と言ってもらうように努力しなければならないと思っております(以下略)
このやり取りではっきりしたのは、平成30年の時点でも旧道は国道であり続けていて、しかも管理者は国土交通省であり続けているということだ。
国道の管理者というのは実は複雑で、国道だから国が管理していると考えるのは誤りだ。国道には、国土交通省が指定した区間と、それ以外の区間とがあり、原則的には前者(指定区間)だけを国が管理している。後者は原則的に都道府県が管理している。
同じ国道でも、路傍のデリニエータなどに「国土交通省」とあれば指定区間内で、都道府県名であれば指定区間外と見分けるヒントがある。
また傾向としては、二桁国道(元一級国道)には指定区間が多く、三桁国道(元二級国道)には指定区間ではない区間が多いが、決してその限りではない。
二桁国道でも、酷道として有名な“非名阪”区間の国道25号など、指定区間ではない部分もある。また、北海道に限っては、全ての国道が指定区間である。
で、国道49号であるが、この路線は令和の現在も全区間が指定区間ということになっている。
指定区間の改廃は政令で公告されるので明確に行われる。
ということはつまり、あの行き止まりの末端まで、現在も国土交通省が管理しているということになる。この点で沿線の各県が管理している“非名阪”とは異なっている。
だから、除雪も国交省が行う必要があるが、どう考えても優先順位が低いから、除雪が行届かなくて困るというのが、先の議論の内容だ。
また、どうして未だに協議が纏まっていないのかも、少し垣間見れるやり取りがあった。
「国道を引き継ぐに当たって、新潟県、または阿賀町のどちらになるかは協議中でありますけれども、町としては県道として引き継いでいただきたく、強く要望しております
」というところだ。
県道にするのか町道にするのかを、未だに新潟県と阿賀町は決定できていないようだ。
そのために、国が引続きこの約4.5kmの旧道の管理を続けているということのようである。
管理者を決定できていない理由は明言されていないが、ほぼ間違いなく、管理費を誰が負担するのかという問題だろう。それしかあるまい。
……私の調査は、こんなところだ。
将来ここはどうなるんだろう?
このまま何十年も先まで、行き止まりの盲腸区間を国が管理し続けるのだろうか?
全国的に見ればかなりのイレギュラーだと思う。
国も沿線集落住民の生活がかかっていることなので簡単に管理の匙を投げたりはしないだろうが、現状がイレギュラーであることは明らかなので、いずれ収まるべき形に収まることが望まれる。
ここの地図から不自然な国道の色が消えた後、黄色になるか、無色になるか。私はそれを見届けられるか。