茨城県の東北部、太平洋に面したところにある北茨城市に、十石(じゅっこく)トンネルはある。
現在のトンネルは平成7(1995)年に竣工したもので、全長は約200m。主要地方道でもある茨城・福島県道10号日立いわき線がここを潜る。
このトンネルに先代の旧トンネルが存在することは、通行すると半自動的に目に入ることもあり、よく知られている。
ネット上にも多くのレポートがあるが、この先代の隧道は十石隧道といい、昭和25(1950)年竣工の銘板が取り付けられている。
何代目 | 竣工年 | 全長 | 廃止年 |
初代 | 大正5(1916)年 | 291m | 昭和30(1955)年頃 |
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2代目 | 昭和25(1950)年 | 280m | 平成7(1995)年 |
3代目 | 平成7(1995)年 | 207m | 現役 |
そして、これよりさらに古い隧道が存在する。
こちらはやや目立たない位置にあるが、その存在もまた知られていないということはない。
この、現在のトンネルから見たら旧々隧道である初代の十石隧道が、今回の探索のターゲットである。
この初代隧道、存在は知られていても、内部に入ったという話をほとんど聞いたことがないように思う。
少なくとも私が探索を行った2016年当時はそうであり、それこそが探索の動機であった。
実際に現地を見たら、内部の情報が極端に少なかった理由はすぐに分かるが……。
右に掲載した表は、3世代の十石トンネルのスペックのまとめである。
新しくなるにつれ全長が短くなる傾向があるのは珍しい特徴であるが、初代隧道の廃止よりも前に2代目隧道が誕生しているのも特徴的で、もちろん理由がある。
単純な新旧関係とは言い切れない初代と2代目の関係については、これから説明する。
今回は、探索前に机上調査的な内容をサクッと終えてしまうぞ。
@ 地理院地図(現在) | |
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A 昭和52(1977)年 | |
B 昭和8(1933)年 | |
C 明治42(1909)年 |
右に掲載したのは、令和の現在から、昭和後期、初期、そして明治までの4世代の地形図だ。
「赤線」のところに各世代の十石トンネルがあり、「茶丸」のところには鉱山の記号が描かれている。
この地方で鉱山といえば、ピンと来た人も多いかと思うが、これらは全て石炭鉱山、いわゆる炭鉱である。
現在の北茨城市がある辺りは、本州最大の炭鉱である常磐炭田(じょうばんたんでん)の主要な鉱域であり、明治から昭和30年代にかけて大小無数の炭鉱が操業していた。
さて、@とAとBの図に描かれているトンネルの記号は、どれも近いところにあるので、図上では別のものとは判断しづらいが、年表に照らせば間違いなく異なるものである。
3世代の十石トンネルは、とても近接した位置に並んで掘られたが、別々の存在であった。
このうちAから@への変化は、道路の改良に伴う単純なトンネルの更新であるが、BからAについては、両者が併存していた期間がわずかながら存在する。
Bの隧道、つまり初代十石隧道だけは、道路用ではなく、広義の鉄道用の隧道であった。
使用目的としてはいわゆる鉱山軌道に属するが、「エンドレス軌道」と呼ばれる特殊な造りのものであった。
@の地図では、この「エンドレス軌道」が、一般的な鉱山軌道や森林軌道と同じ「特殊鉄道」の記号で表現されている。
エンドレス軌道について、もう少し説明する。
右の写真は関東某所にある現役の鉱山用エンドレスである。
線路の間に滑車やケーブルがあるのが分かるだろうか。
エンドレスは別名「曳索鉄道」とも呼ばれるもので、構造としては地上に設置されたケーブルカーをイメージしていただきたい。
複線の線路上に環状のケーブルを設置し、ケーブルに単車の鉱石運搬トロッコを多数固定する。動力によってケーブルを牽引すると、全てのトロッコが同時に走行する。これと鉱石積込装置(ホッパー)を組み合わせると、半自動運転による大量の鉱石輸送が可能となる仕組みだ。大正時代頃から各地の中規模鉱山で採用されることがあった動力型式である。
初代の十石隧道は、このエンドレス軌道を敷設するために大正5(1916)年に完成し、関連する鉱石輸送が終了する昭和30年頃まで利用されたのである。
前述の通り、エンドレスは半自動運転であり、その軌道内への立ち入ることは極めて危険な行為である。
現役当時、この隧道に立ち入ることは自殺行為であったはずだ。
そんな“入り難かった隧道”は、廃止後だからこそ、内部を知るチャンスなのである。
@ 大正時代半ば以前 | |
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A 大正時代半ば〜昭和20年 | |
B 昭和20年以降 |
各図は『常磐地方の鉱山鉄道』より転載
『常磐地方の鉱山鉄道』より転載
初代の十石隧道を生み出したエンドレス軌道について、もう少し説明する。
右図は、常磐炭田の鉱山鉄道のバイブルともいえる『常磐地方の鉱山鉄道』(おやけこういち著)に掲載されている、常磐線の南中郷駅および磯原駅を起点とした鉱山軌道および専用線の変遷をまとめたものだ。
十石隧道を作ったのは茨城無煙炭礦(以後、会社名について砿や礦の字を用いる場合があるが。いずれも一般的には鉱と同義の文字である)という会社だった。
同社は、広大な常磐炭田地帯の南部を占める茨城県域に興った中央資本参加による最初期の炭鉱会社として明治29(1896)年に設立された茨城炭礦会社が、明治34(1901)年に改称したもので、明治30年に石岡地区で操業中の第二坑と、常磐線の磯原駅を結ぶ馬車軌道を設置し、その一部の勾配区間をエンドレス軌道とした。
第二坑は盛況期となり、輸送量は次第に増大したが、磯原駅への馬車軌道は一般道路と併用する箇所が多く、他社鉱山からの乗り入れや、他社の馬車軌道との交差などの輸送上の問題があった。
大正5(1916)年、同社は石岡地区の山を挟んだ南側にある日棚地区に第三坑を開坑すると共に、第二坑と第三坑を結ぶエンドレス軌道を開設し、途中に全長290mの隧道を設けた。
同時に、第三坑と常磐線南中郷駅を結ぶ馬車軌道(大正時代半ばにエンドレス化)も建設し、大正6年からは、第二坑および第三坑の石炭は全て、南中郷駅へ運び出すように変更された。
その後、茨城無煙炭礦の第二坑は大正15年に大倉礦業が引き継ぎ、さらに昭和9年に入山採炭へ譲渡された後に下火となった。だが昭和16年、同じ石岡地区内に中郷無煙炭礦の第六坑が開設され、これが昭和19年に常磐炭礦へ引き継がれた。常磐炭田全体における最大の炭鉱会社であったこの会社が中郷坑第六坑の最終的所有者であり、昭和30年頃に採掘を停止するまで、十石隧道のエンドレス軌道を利用した運炭が継続された。なお、昭和20年に南中郷駅と日棚を結ぶ軌間1067mmの国鉄の専用側線が開通したことで、この区間のエンドレスは先に撤去されている。
まとめると、初代の十石隧道は大正5(1916)年にエンドレス軌道の通路として建設され、その後はいくつかの鉱山会社の手を渡りながら、昭和30年頃に廃止されるまでエンドレス軌道だけが走り続けた隧道ということになろう。
その長さは291mと記録されており、時代を考えるとかなり長いと思う。
茨城無煙炭礦の記録 〜「茨城炭田史」より抜粋〜
初代・十石隧道の建設に関する一次資料はほとんど見つかっていないが、昭和22(1947)年に炭鉱往来社が発行した『茨城炭田史』という文献に、茨城無煙炭礦の事業の経緯を紹介する節があり、そこにいくらかの情報を見つけることが出来たので抜粋して紹介したい。
明治44年8月に至りて(中略)南中郷村大字石岡に新坑を開発しこれを第二坑と称し、漸次設備の完成をするに従って出炭増大するに至り、炭質また極めて優良なるをもって石岡炭の名声漸く揚がりて販路著しく開けたり。更にまた、同社は大正5年12月南中郷村日棚に新坑を開鑿す。すなわちこれ第三坑と称するなり。それより先、石岡坑の石炭は道程延々山谷を切り拓きて軌道を敷設、(中略)磯原駅に発送せしも、これを南中郷駅に輸送計画成り、もって莫大なる経費を費やして大北川に二十有余間の大橋梁をもってし、またまた千有余尺に及び大隧道等を開鑿して長々実に二里有余の道程に軌條を敷設もって石岡、日棚の送炭をなすに至れり。大北川橋梁及びその大隧道等は当所の名所の一つたり。(以下略)
上記のように、茨城無煙炭礦の磯原駅から南中郷駅への輸送転換に関して、同社は莫大な経費を費やして、大北川に架かる20間(約36m)余りの大橋梁と、山を貫く1000尺(約300m)余りの大隧道を開削し、2里(約8km)余りの道程に軌条を敷設したことが出ている。そして、この大橋梁と大隧道は、当所の名物になったとも。後ほど本編に登場するが、大北川の橋梁については絵葉書が存在したようで、実際に観光名所だったと分かる。隧道についても絵葉書があったかも知れないが、未発見。
かつて、華々しい活躍を見せていた、初代・十石隧道。
2016年に行った現地探索の模様をこれからお見せするが、これが人里のすぐ近くにあるとは思えないほど、凶悪な穴だった。
私がもう二度とは入ろうと思わないくらいなので、注意して見て欲しい。 “やらかし”もあったしな…。
それでは
現地へGOだ!