隧道レポート 初代・十石隧道(エンドレス) 導入

所在地 茨城県北茨城市
探索日 2016.04.18
公開日 2022.03.23


《周辺地図(マピオン)》

茨城県の東北部、太平洋に面したところにある北茨城市に、十石(じゅっこく)トンネルはある。
現在のトンネルは平成7(1995)年に竣工したもので、全長は約200m。主要地方道でもある茨城・福島県道10号日立いわき線がここを潜る。

このトンネルに先代の旧トンネルが存在することは、通行すると半自動的に目に入ることもあり、よく知られている。
ネット上にも多くのレポートがあるが、この先代の隧道は十石隧道といい、昭和25(1950)年竣工の銘板が取り付けられている。

3世代の十石トンネルのスペック比較
何代目竣工年全長廃止年
初代大正5(1916)年291m昭和30(1955)年頃
2代目昭和25(1950)年280m平成7(1995)年
3代目平成7(1995)年207m現役

そして、これよりさらに古い隧道が存在する。
こちらはやや目立たない位置にあるが、その存在もまた知られていないということはない。
この、現在のトンネルから見たら旧々隧道である初代の十石隧道が、今回の探索のターゲットである。

この初代隧道、存在は知られていても、内部に入ったという話をほとんど聞いたことがないように思う。
少なくとも私が探索を行った2016年当時はそうであり、それこそが探索の動機であった。
実際に現地を見たら、内部の情報が極端に少なかった理由はすぐに分かるが……。

右に掲載した表は、3世代の十石トンネルのスペックのまとめである。
新しくなるにつれ全長が短くなる傾向があるのは珍しい特徴であるが、初代隧道の廃止よりも前に2代目隧道が誕生しているのも特徴的で、もちろん理由がある。
単純な新旧関係とは言い切れない初代と2代目の関係については、これから説明する。
今回は、探索前に机上調査的な内容をサクッと終えてしまうぞ。



@
地理院地図(現在)
A
昭和52(1977)年
B
昭和8(1933)年
C
明治42(1909)年

右に掲載したのは、令和の現在から、昭和後期、初期、そして明治までの4世代の地形図だ。
「赤線」のところに各世代の十石トンネルがあり、「茶丸」のところには鉱山の記号が描かれている。

この地方で鉱山といえば、ピンと来た人も多いかと思うが、これらは全て石炭鉱山、いわゆる炭鉱である。
現在の北茨城市がある辺りは、本州最大の炭鉱である常磐炭田(じょうばんたんでん)の主要な鉱域であり、明治から昭和30年代にかけて大小無数の炭鉱が操業していた。

さて、@とAとBの図に描かれているトンネルの記号は、どれも近いところにあるので、図上では別のものとは判断しづらいが、年表に照らせば間違いなく異なるものである。
3世代の十石トンネルは、とても近接した位置に並んで掘られたが、別々の存在であった。

このうちAから@への変化は、道路の改良に伴う単純なトンネルの更新であるが、BからAについては、両者が併存していた期間がわずかながら存在する。
Bの隧道、つまり初代十石隧道だけは、道路用ではなく、広義の鉄道用の隧道であった。
使用目的としてはいわゆる鉱山軌道に属するが、「エンドレス軌道」と呼ばれる特殊な造りのものであった。

@の地図では、この「エンドレス軌道」が、一般的な鉱山軌道や森林軌道と同じ「特殊鉄道」の記号で表現されている。


エンドレス軌道について、もう少し説明する。
右の写真は関東某所にある現役の鉱山用エンドレスである。
線路の間に滑車やケーブルがあるのが分かるだろうか。

エンドレスは別名「曳索鉄道」とも呼ばれるもので、構造としては地上に設置されたケーブルカーをイメージしていただきたい。
複線の線路上に環状のケーブルを設置し、ケーブルに単車の鉱石運搬トロッコを多数固定する。動力によってケーブルを牽引すると、全てのトロッコが同時に走行する。これと鉱石積込装置(ホッパー)を組み合わせると、半自動運転による大量の鉱石輸送が可能となる仕組みだ。大正時代頃から各地の中規模鉱山で採用されることがあった動力型式である。

初代の十石隧道は、このエンドレス軌道を敷設するために大正5(1916)年に完成し、関連する鉱石輸送が終了する昭和30年頃まで利用されたのである。
前述の通り、エンドレスは半自動運転であり、その軌道内への立ち入ることは極めて危険な行為である。
現役当時、この隧道に立ち入ることは自殺行為であったはずだ。

そんな“入り難かった隧道”は、廃止後だからこそ、内部を知るチャンスなのである。



@
大正時代半ば以前
A
大正時代半ば〜昭和20年
B
昭和20年以降

各図は『常磐地方の鉱山鉄道』より転載

『常磐地方の鉱山鉄道』より転載

初代の十石隧道を生み出したエンドレス軌道について、もう少し説明する。
右図は、常磐炭田の鉱山鉄道のバイブルともいえる『常磐地方の鉱山鉄道』(おやけこういち著)に掲載されている、常磐線の南中郷駅および磯原駅を起点とした鉱山軌道および専用線の変遷をまとめたものだ。

十石隧道を作ったのは茨城無煙炭礦(以後、会社名について砿や礦の字を用いる場合があるが。いずれも一般的には鉱と同義の文字である)という会社だった。
同社は、広大な常磐炭田地帯の南部を占める茨城県域に興った中央資本参加による最初期の炭鉱会社として明治29(1896)年に設立された茨城炭礦会社が、明治34(1901)年に改称したもので、明治30年に石岡地区で操業中の第二坑と、常磐線の磯原駅を結ぶ馬車軌道を設置し、その一部の勾配区間をエンドレス軌道とした。

第二坑は盛況期となり、輸送量は次第に増大したが、磯原駅への馬車軌道は一般道路と併用する箇所が多く、他社鉱山からの乗り入れや、他社の馬車軌道との交差などの輸送上の問題があった。

大正5(1916)年、同社は石岡地区の山を挟んだ南側にある日棚地区に第三坑を開坑すると共に、第二坑と第三坑を結ぶエンドレス軌道を開設し、途中に全長290mの隧道を設けた。
同時に、第三坑と常磐線南中郷駅を結ぶ馬車軌道(大正時代半ばにエンドレス化)も建設し、大正6年からは、第二坑および第三坑の石炭は全て、南中郷駅へ運び出すように変更された。

その後、茨城無煙炭礦の第二坑は大正15年に大倉礦業が引き継ぎ、さらに昭和9年に入山採炭へ譲渡された後に下火となった。だが昭和16年、同じ石岡地区内に中郷無煙炭礦の第六坑が開設され、これが昭和19年に常磐炭礦へ引き継がれた。常磐炭田全体における最大の炭鉱会社であったこの会社が中郷坑第六坑の最終的所有者であり、昭和30年頃に採掘を停止するまで、十石隧道のエンドレス軌道を利用した運炭が継続された。なお、昭和20年に南中郷駅と日棚を結ぶ軌間1067mmの国鉄の専用側線が開通したことで、この区間のエンドレスは先に撤去されている。

まとめると、初代の十石隧道は大正5(1916)年にエンドレス軌道の通路として建設され、その後はいくつかの鉱山会社の手を渡りながら、昭和30年頃に廃止されるまでエンドレス軌道だけが走り続けた隧道ということになろう。
その長さは291mと記録されており、時代を考えるとかなり長いと思う。


 茨城無煙炭礦の記録 〜「茨城炭田史」より抜粋〜

初代・十石隧道の建設に関する一次資料はほとんど見つかっていないが、昭和22(1947)年に炭鉱往来社が発行した『茨城炭田史』という文献に、茨城無煙炭礦の事業の経緯を紹介する節があり、そこにいくらかの情報を見つけることが出来たので抜粋して紹介したい。

明治44年8月に至りて(中略)南中郷村大字石岡に新坑を開発しこれを第二坑と称し、漸次設備の完成をするに従って出炭増大するに至り、炭質また極めて優良なるをもって石岡炭の名声漸く揚がりて販路著しく開けたり。更にまた、同社は大正5年12月南中郷村日棚に新坑を開鑿す。すなわちこれ第三坑と称するなり。それより先、石岡坑の石炭は道程延々山谷を切り拓きて軌道を敷設、(中略)磯原駅に発送せしも、これを南中郷駅に輸送計画成り、もって莫大なる経費を費やして大北川に二十有余間の大橋梁をもってし、またまた千有余尺に及び大隧道等を開鑿して長々実に二里有余の道程に軌條を敷設もって石岡、日棚の送炭をなすに至れり。大北川橋梁及びその大隧道等は当所の名所の一つたり。(以下略)

『茨城炭田史』より

上記のように、茨城無煙炭礦の磯原駅から南中郷駅への輸送転換に関して、同社は莫大な経費を費やして、大北川に架かる20間(約36m)余りの大橋梁と、山を貫く1000尺(約300m)余りの大隧道を開削し、2里(約8km)余りの道程に軌条を敷設したことが出ている。そして、この大橋梁と大隧道は、当所の名物になったとも。後ほど本編に登場するが、大北川の橋梁については絵葉書が存在したようで、実際に観光名所だったと分かる。隧道についても絵葉書があったかも知れないが、未発見。




かつて、華々しい活躍を見せていた、初代・十石隧道。

2016年に行った現地探索の模様をこれからお見せするが、これが人里のすぐ近くにあるとは思えないほど、凶悪な穴だった。

私がもう二度とは入ろうと思わないくらいなので、注意して見て欲しい。 “やらかし”もあったしな…。

それでは

現地へGOだ!




 今日はシチューだよ。


2016/4/18 12:19 《現在地》

この空は東北に通じている。
こんなことをいきなり書かれたら、もしかしたら北茨城市民には心外かもしれないが、東北人としてはやはりそんな感想を持ってしまう、茨城県最北端、北茨城市の長閑な風景である。
傍らにある幅広の県道は日立いわき線といい、東北地方の地名が路線名に入っている。

この県道を、いわき市の方へもう少しだけ進むと、そこに十石トンネルがある。
既にトンネルが潜るべき低い丘阜が前方に横たわっている。

太陽光発電用のパネルが並べられている右側の広い土地をはじめ、この辺りは平地も傾斜地も尾根の上もどこであっても炭鉱跡の可能性がある。
ちょうど常磐炭田で最後まで坑内堀を行っていたのが、この北茨城市中郷町日棚にあった常磐炭礦中郷坑だった。昭和46年夏、さらなる大規模開発の完成を目前にしながら、異常な坑内出水によって閉山を余儀なくされるという非業の終焉をこの地で迎えている。(露天掘りでの採炭は昭和60年まで行われた)



道路の近くにあった多くの旧炭鉱施設は解体され、新たな土地利用をされているが、活用するのに不便なところには巨大なコンクリートの施設跡が見え隠れしていた。

今回は初代隧道に焦点を当てた探索であり、エンドレス軌道の遺構を辿ることもしていないが、隧道以外に大きな遺構は残っていないようだ。
南中郷駅とこの地を結んだ専用側線については、廃橋が残っていたりするのだが。




12:21 《現在地》

言い忘れていたけど、もちろん今回も足は自転車。
ほとんど坂道と思えないくらいの緩い上りで丘の麓へ近づいていくと、親の顔くらい見まくった景色……ガードレールで封鎖された旧道……が見えてきて、しかもその行く先には、旧隧道の茶色っぽい坑口まで見えていた。

ここで少し珍しいと思うのは、現トンネルよりも旧トンネルの坑口が手前にあることだ。
新旧のトンネルにはほとんど高度差はないが、旧トンネルの方が70mくらい長いのである。だから先にトンネルに入る。
だいたいは新トンネルの方が長くなるので、これは珍しい特徴だ。



熟女ものエ●DVDが散らばる旧道のアスファルトを自転車に乗ったまま進んでいくと、あっという間に突き当たりの旧坑口へ到達した。

これが、昭和25(1950)年から平成7(1995)年まで半世紀近く活躍していた、先代の十石隧道だ。見ての通りベニヤ板のようなもので全面的に封鎖されているが、坑門自体は破壊されていない。

坑門は場所打されたコンクリート造りだが、表面に緻密な意匠が施されている。
まるでコンクリートブロック造りのように見せる効果がある目地の模様や、洗い出し仕上げのようなコンクリート表面のザラザラとした質感は、演出である。
さらに、坑門上端部の笠石が階段状に3段階の迫り出しを見せているのは、門としての重厚感の演出に一役を買っている。
雑な封鎖板のせいでアーチ部の意匠が見えないのは残念である。

全体として、華美や贅沢とは無縁であった戦後間もない時期の竣工としては「頑張った」飾り付けであり、常磐炭田の復興から国の復興を支えたいという、そんな意欲さえ感じるデザインだと思う。



重厚な3段迫り出しの笠石と比較して、やや小ぶりな印象を与える金属製の扁額。
この扁額は坑門全体と比較してもややアンバランスな小ささだが、こればかりは金属欠乏の時期に生まれた隧道として、やむを得ないところかもしれない。
質実さを感じさせる文字が少し窮屈に収まっているが、「十石隧道」「昭和二十五年●●竣功」と、現代と同じく左書きになっているのは、戦後を感じさせる部分といえる。

ところで、遠目にも黄色っぽく見えたこの坑門だが、近寄ってみてその原因が分かった。
もともとのコンクリートが黄色いわけではなく、むしろ落ち着いた青みのある色なのだが、全体に土がこびり付いていて、そのせいで黄色く見えたのだ。
土は扁額の文字の隙間のような所にまで入り込んでいて、まるで古墳から出土したばかりの遺跡のような外観になっているが、これには明確な原因があった。

十石隧道というキーワードでネットを検索すると、私よりも早い時期に訪れた方のレポートを何本も見ることができるはずだ。
そしてそこには、坑門が土で埋め戻されている状況と、その土砂が寄せられて坑門が露出している状況のものがあるだろう。
私も、なぜそういうことが行われたかは分からないが(ご存知の方がいたらご一報を)、この旧隧道は2013年頃に重機を使って大々的に掘り返されている。
だが、それから数年も経たないうちに、今度は壁で出入口を塞がれたのが現状の姿である。



ワルっ…とは残念ながらいかない。

ベニヤ板の封鎖壁の中央には、何者かが拳をぶち当てたような20cm四方ほどの孔が空いており、そこから内部を辛うじて窺い知れるものの、ヌコよりも大きな者が内部に入ることはできない。

それでも、目を凝らせば反対側の閉塞壁の裏側(280m先にあるはず)が見通せるので、無理して立ち入るほどの“未知”は、この隧道にはなさそうだ。
内部は綺麗な直線で、平成7年まで主要地方道として使われていただけあって、壁面には落盤はおろか、目立つ亀裂も生じていないようだ。
しかしネックは幅員の狭さであったらしい。目測幅5mくらいだろう。
現役当時、大型車はすれ違えず、交通量の増加に対応できなかったことが、新トンネルへの更新の理由であると、茨城県議会の会議録で知ることができた。

ところで、このトンネルは、オブローダーにはお馴染みとなっている『道路トンネル大鑑』巻末の昭和43年度末現在トンネルリストに掲載されていない。
トンネル自体は既に存在していたはずだが、県道へ認定されたのがもっと遅い時期だったのだろうか。あるいは単純な欠落ミス?
『北茨城市史』などを調べても、この旧十石隧道が建設された経緯や、建設当時の路線名について情報もなく、一見メジャーなこの旧トンネル、意外に謎の多い存在だったりする。
今回は、旧々隧道が主題なので、深くは追求しないが……。
情報をお持ちの方がいたら、ご一報いただきたい。



 盟友が教えてくれた、平成18(2006)年当時の旧十石隧道の姿

かつて森吉林鉄などの探索において、主力メンバーとして活躍してくれた「山行が合同調査隊」のちぃ氏(twitter:@chi_chan61)から、彼が平成18(2006)年4月9日に旧隧道を探索した際の画像をご提供いただいたので、ここで紹介したい。
このコーナーにある5枚の写真は全て、ちぃ氏の撮影である。

1枚目のこの写真は、南口坑口へ通じる旧道の状況である。
現在は撤去されているが、この当時は高さ制限バーが設置されており、そこにある標識から、旧隧道に「最大高3.5m」の規制が行われていたことが分かる。


南口。

工事現場然としたバリケードで封鎖されているものの、当時既にワルニャンの関与があったのか、なぜかその一部が破られたようになっていて、進入可能な状況だったようだ。
後にこのバリケードも撤去されることになるのだが、「市毛努参上!! 喧嘩上等。」との落書きが読める。喧嘩がしたかったのだろう。あと喧の字が微妙に間違っている。

ところで、ちぃ氏の調査によると、この隧道が現在の封鎖状況に至るまでには、次のような経過があったそうな。
平成7(1995)年廃止後、バリケードによって両側を封鎖。
平成20(2008)年頃にバリケードを撤去し、両側を土砂で封鎖。
平成24(2012)年頃に土砂を撤去して、再び両側坑口が露出する。
平成25(2013)年に南口を木板、北口をコンクリートで封鎖し、現状に至る。



そしてこれが、いまでは立ち入ることが出来なくなってしまった洞内の様子だ。

旧隧道は全長が280mあったといわれ、初代隧道より11m短いが、ほとんど変わらない。
内部は全面ともコンクリート巻立てが行われていたが、狭隘で大型車がすれ違えないため、中央付近に待避所のための拡幅部が1箇所あったようだ。
写真はその待避所の部分である。


内部は一直線で風通しも良く、崩壊などもなかったようだが、気になる落書きがあったという報告がされている。
それが左の画像のものだ。

「いらっサイ��ませ。」

「側壁の「いらっサイませ」と書かれたゾウの落書きも要る?ww」とは、ちぃ氏の言である。
なるほど……、 うん…。

ちぃさん、ありがとうございました!





私の両手首より先とカメラだけをワルにしたところで、旧トンネルとの戯れは一旦終わり。

ここから本題。

冒頭から主役の扱いを与えている旧々隧道は、まだ見えるところには出ていない。

でも、実はもう凄く近くにあるらしい。

らしいと書いたのは初見だからだが、例の『常磐地方の鉱山鉄道』に、この向かって左側の茂みの中にそれがあるようなことが書かれていたので、すぐ近くだと判断できるわけだ。
じゃあ、行ってみましょ。

しかし、旧隧道がこんなに開けっぴろげだったので(塞がってたけど)、旧々隧道も見える形で並んでいるかと思いきやそうではないし、オブの同士たちが大勢入り込んだような踏み跡も、とりあえず目立っては見えない。
逆に、旧隧道が目立ち過ぎるゆえ、旧々隧道が探されにくくなっている可能性もあるな。現に、この旧隧道がエンドレス用の隧道だったと誤認した記述のサイトさんもあった。

路傍の茂みに、ワサワサっと入ってみると……




まずは、小さな池を発見。




ん?




池じゃなく

廃線跡だ!!!


……ってことは、


いま私が立っているこの場所こそが…




12:25 《現在地》

旧々(初代)十石隧道!

しかも、これは見事な煉瓦隧道!!!









<<< 沼 >>>



野生のシチュー



まるで、山チャリスト・ヨッキれんの末路を暗示するかのように、

1台の自転車が、とろんとろんになるまで煮詰められていた……。

そして、本来ならば立ち入れないと容易く諦めさせるためにあるフェンスに、

なぜかの穴。

ぬこじゃなく、人体サイズの穴が…………。

いやいや……、過去にここから侵入した者があったとして、生還してるんだろうか…。






うん! 反対側行こうねッ!



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