隧道レポート 秋山郷の切明隧道(仮称) 最終回

所在地 長野県下水内郡栄村
探索日 2012.06.25
公開日 2013.06.20

切明隧道(仮称) 〜この隧道は“生”きている〜



横坑の天井から垂れている毛のようなものの正体は、植物の根だった。

もしやこれが…

本坑の水中に大繁茂していた“奴ら”の正体でもあろうか?

もっとも、本坑水面下の相当広い範囲に拡散している“奴ら”と、この横坑の天井から垂れ下がっている“見慣れた根”とを、地上の同じ幹や茎に結ばれた根だと考えるのは、さすがに難しい気がする。地球には、根だけの植物などという物が存在するのか。はたまた根は地上部が無くても、独立して生存しうるものなのか。

横坑を通じて本坑へと辿りついた植物の根が、そこで逢着した大量の水に歓喜して大繁殖し、そのまま地上との接続を断って独自の進化を遂げたのが、“奴ら”の正体…。

そんな非現実的な想像に駆られた私は、身の悶えを抑えがたかった。




この隧道はきている!!

かなり、キツい状態だ。

壁一杯のカマドウマやゲジゲジなどの昆虫類よりはマシかもしれないが、四方の壁を埋め尽くした乱れ髪のような濡れ根は、生理的にキツい光景である。

この横坑は、人間の通行を考えて掘られたとするには妙に天井が低く、もちろん幅も狭いのであるが、入った直後でも中腰状態を強いられ、少し奥へ進むと、もはやしゃがみ歩きでないと進めない狭さとなる。

その際はもちろん、天井から垂れ下がっている物が容赦なく頭髪から背筋、両耳にかけて撫でてくる。
濡れていて、触った場所は濡れる事になる。

さらに、洞床はもっと酷い。
フカフカの(濡れた)絨毯のようであった。
完全に地表が覆い隠されていて、触っても土汚れが付くことはないが、それを美点と考えられる人は尊敬する。
ふつうにきもちがわるい。

そして…





辿りついた…。




8:42 【洞内図】

閉塞地点。

現存する横坑の全長は、おおよそ20m程度である。
もっとも、最後の5mばかりは天井が低すぎて進入できず、その奥にある閉塞壁を目視で確認した長さを含む。

また、奥に進むにつれ天井が低くなるという表現は正確ではない。
実態としては洞床の方が盛り上がって行き、最後は天井に接して閉塞していた。
また、左右の壁と天井は素掘の岩盤だが、洞床は硬質の土のようであり、つまり何が想像出来るかといえば、この閉塞は横坑の坑口から外部の土砂が侵入してきた結果ではないかということである。

しかしそれにしても不思議なのは、岩を割るほどの強靱さを持っているとは思えない細い植物の根が、なぜ横坑全体を覆っているのかということだ。




廃隧道におけるこれほどまでの“植物浸食”は、初めて見る光景だ。
そのため、「この隧道は生きている」と(サブタイトルで)表現したわけだが、いかんせん植物に関する知識が浅く、真相を解明出来ないのがもどかしい。
植物学者を連れてきて、現状についての意見を聞きたいくらいだ。

また、これらの膨大な根によって緑を繁茂させているだろう地上部分を確認し、どのような植生があるのかを知りたいと思っても、これまた大変困難であると言わざるを得ない。
というか、ほとんど不可能では無いだろうか。
この横坑の(おそらく土砂崩れによって)塞がれている坑口を確かめる手段は、もはや存在しない可能性が高いのである。

右の写真は、中津川の対岸を走る国道405号から遠望した「現在地」(ただし地中)の周辺である。

思わず深呼吸をしたくなるような眺めだが、ここには今回のレポートのこれまでのシーンからは全く窺い知れなかった、“隧道の外の風景”が映し出されている。




容赦なき断崖絶壁。

この崖の中腹にあるはずの横坑跡地へピンポイントで辿りつくのは…ちょっと無理。
写真には写っていないが、中津川の水面は隧道がある高さから100m下にあるのだ。

どうやっても地上を迂回出来ないような難地形であったからこそ、
工事用軌道用としては長大な300m級の隧道が掘られた。
転落や崩落の「恐怖」が、隧道によって克服されたのである。


なお、この崖の風景を、国道よりも遙かに間近に観察出来る場所がある。
私は訪問したことがないが、例の“もっきりや”の対岸に見えていた和山温泉の「仁成館」である。
例えば、こちらのサイトの中ほどに掲載されている露天風呂の写真の対岸に見えるのが…。







8:43 【洞内図】

まだ、この隧道の探索は終っていない。

腰を痛めそうなしゃがみ歩きでようやく本坑へ戻った時点で、洞内進入から既に15分が経過していたが、これから本坑の奥をさらに突き詰めなければならない。

だがその前に、改めて横坑と本坑の接続部周辺を観察して分かった事がある。
それは、本坑の水溜まりの中を埋め尽くしている“奴ら”は、間違いなく横坑に起源を持っているということである。

なぜなら、“奴ら”の密度は横坑との接合部分付近が最も濃かったからである。
地中で自然発生したのでもない限り、本坑の出入口から侵入したのではないことは明らかだった。




また、横坑接合部付近の本坑洞床をよく観察したところ、横坑を埋め尽くしていたフカフカの根が本坑にまで広がっていて、それが水没部分に到達するや猛烈に広がっているという状況が見て取れたのである。

やはりこれは、本能のまま水を求めて横坑から洞内へと進入してきた何らかの植物の根が、お目当ての水(しかも本来の土の中にはあるはずのない膨大な量の溜まり水)に遭遇したことで、そこで異常に増殖した姿ということなのだろうか…。

…やはり、専門家の意見が聞きたい…。




再び本坑の前進を再開すると、すぐに“奴ら=根”の姿が洞内から消えた。
あれだけ繁茂していたのが嘘のように、洞床の水は再び澄んだ色を取り戻している。

だが、この事実も“奴ら”の人知れぬ能力に対する畏怖を呼んだ。
“奴ら”は横坑を占拠して本坑へ辿りついた際に、何らかの能力でどちらが光(外)へと通じているかを関知し、確実な指向性を持って開口している北口へと繁茂しているように見えたからだ。
対して閉塞している南口方向へは、ほんの僅かしか進入していなかった。
まだ北口到達は遠いが、やがて実現するのかも知れない。

ともかくこれで“奴ら”からは、ひととき、解放される。
ホッとしたことは、言うまでもない。




この隧道は、生命に満ちている!

洞内植物の濃密エリアを突破した先の深奥を支配していたのは、廃隧道の申し子……コウモリ達であった。

その密度は、かなりの濃さだ。
あまり広くない洞内だけに、余計そう感じる。
しかも彼らは季節的に活動期に入っており、私という想定外の大型哺乳類の進入に驚き、まして強い光源を携えていたのだから、洞内はザーザーというノイズとバサバサの羽音が渦巻く軽いパニック状態となった。

←左の写真には飛翔中のコウモリが3匹写っている。3匹だけと思うかも知れないが、1ショットに飛翔中が3匹も入り込む状態は、実際の肉眼で見ると激しい乱舞状態である。
そして実際にはフレーム外にも沢山のコウモリが飛翔していて激しく行き交っているので、騒乱した状態となっている。

それはそうと、ここに来て洞床の水がようやく引き、これまでも水底に刻まれていたであろう2本の轍が鮮明に現れてきた。
轍と壁の位置関係からは、軽自動車同士でもすれ違う事は難しいだろう、危険な狭隘さがよく分かる。
約300mもある洞内はカーブしていて、また洞内に待避所もない事から、車で進入する際には対向の先行車がいない事を、クラクションやライトで確認する必要があっただろう。

未舗装の洞床にこれほど目立つ深い轍が刻まれる理由は、主に二つある。
一つは、車の絶対的な通行量が多かったり、重量のある車が多く行き交ったこと。
もう一つは、洞床の土が軟らかいということだが、この隧道の地質はぬかるむほど軟らかくはないので、おそらく前者なのだろう。
現在では異形の住み処となりつつある隧道も、かつては確かに多くの車が行き交う人界であった事が伺えるのである。




そして三度…

三度、コンクリートの巻き立てが現れた。

また、これと前後してコウモリ達の密度も減少。

やはり彼らは素掘がお好みであるらしい。


そして、私の地中における距離感覚が正確なれば、

おそらくこの巻き立て区間は…。





かつてこの向こうに見えていたはずの光は、ない。

だが、先ほどまでは非常に濃かった水蒸気が、今はだいぶ薄れている。

ここが地表が近いということを、暗に感じる事が出来た。


そして、浅く水没した坑道の向こうには、うっすらと見える…






8:47 【洞内図】

落盤閉塞地点を確認!

入洞から実に18分後の閉塞確認。

地図上から読み取れた300mという長さと、今回洞内歩いた体感の距離を総合すれば、
現在地は、既に地表側から埋没を確認していた南口落盤の裏であると考えて良さそうである。

崩土が地表付近にありそうな土砂であることや、そこに大量の木の根の切れ端が含まれていることからも、
それは裏付けられたといって良いだろう。また、体感気温も明らかに高く感じられた。




8:56

緑の空気、うまうま〜!!


閉塞地点を確認後は、速やかに北口へ帰還。

帰りも大量の“奴ら”を足に絡みつかせたまま歩行し、真の洞内王者(人類)の貫禄を見せつけた。

なお、帰路に要した時間は往路の半分の9分で足りた。



今回は、廃隧道の洞内世界の有り様について、また新たな1ページを加える探索となった。

それは、光のない世界を支配しつつある植物軍団という、私の想像を絶した新世界である。
その前では、騒然たる大量のコウモリ達でさえ脇役であり、怪奇な横坑でさえも小舞台に徹していた。

だが、私が真に忘れがたいと思ったのは、そんな洞内に刻まれていた深い轍の印象である。
人が跡絶えて異形の支配下に置かれてもなお、コンクリートや岩盤に刻まれた人跡は確かに存在していたのである。
毎度お馴染みと言えばお馴染み、そんな当然の帰結であった。




今回の探索の事前と最中、特に意識していたキーワードは、「恐怖」であった。

それは、今回の情報提供者のmaggie氏が寄せてくれた古老の証言に含まれていた、「怖いところ」のイメージであり、また彼自身が私に仇を託した難所のイメージでもあった。

そして現場には確かに、私が恐怖を感じる場面があった。
それもどちらかと言えば肉体的な危機(滑落や崩落)よりは、得体の知れない生物に対する生理的、そして閉塞した深い闇に対する精神的な恐怖であったように思う。
だいぶ慣れたし、探索の使命感をもって乗り越えられない恐怖ではないが、確かに恐怖はあった。




だが、土地の古老が語った「怖いところ」の本源は、私が今回感じた如何なる恐怖とも異なるものであった可能性を、最後に指摘したい。

ここでもう一度、情報提供者のメールから、古老の証言に関する部分を引用する。

60代の地元の女性に 聞いた話では 子供の頃の 格好の探検場所になっていたそうですが、 「かなり怖い所」 と 言っていました

60代の古老が子供であったといえば、おそらく5〜60年前である。
つまり、昭和20年代の出来事である可能性が高い。

その頃の切明隧道の状況を想像してみると、現在の廃隧道状態と同様であったとは考えられない。
既に何度も述べている通り、この隧道は大正10年前後に中津川第一発電所建設工事に関連する資材運搬電気軌道の通路として開削されたのであり、同13年に電気軌道が撤去された後に一旦“廃線”化している。
だが、その後になって今度は道路として隧道を活用する事が決定し、拡幅のうえ供用開始されたのは昭和前半のこと(はっきりした年代は不明)。
そしてこれが再び廃止されたのは、昭和33年から47年にかけて林道秋山線が建設された(栄村公式サイト年表で確認)時である。

まとめると、この隧道が廃線跡の状態で存在していたのは大正13年頃〜昭和初期までで、現在に通じる廃道状態となったのは昭和33〜47年のいずれかから、現在までである。

そしてこの時系列に古老の証言を当てはめると、古老が見たのは廃線時代の廃隧道の最末期である可能性が高いという事になる。



芦ヶ崎地内を走る作業用電気機関車(『津南町史 通史編 下巻』より転載)

右の写真のような小さな電気機関車が行き来していたナローゲージの廃線跡は、当然のように狭隘だったろうから、隧道前後の急な山腹にあって現在の廃道とは比較にならないほどに危険だったはずだ。
そして、隧道自体も大人二人で容易に塞げるほど狭かったと考えられ、天井は多少高かったであろうが、おそらく全面的に素掘で、これまた現在の廃隧道よりも一層不気味であったろう。(もっとも、植物が当時から侵入していたかは不明だが…)

そこは、幼子の探検心を十二分に寒からしめたに違いない。

…というような話ではない可能性がある。

この隧道には、幼子を恐れさせる全く別の「怖さ」が、当時の村々に語りつがれていた可能性を、私は考えている。





大正11年7月前後に発生し、同年7月29日以降は国内の各新聞も報道する所となった、信濃川朝鮮人虐殺事件というものがあった。
これは当時行なわれていた中津川第一発電所や近隣の発電所工事において、朝鮮人労務者を中心とするタコ部屋労務者が多数虐殺され、その遺体が連日のように信濃川の下流へ流れ着いて大騒ぎになったというものである。もちろんこれは、後々まで大きな問題となった。

この事件の被害者の総数や、その中に朝鮮人労務者がどの程度含まれていたかなど、今日なお判然としない点があるといわれ、当時の新聞報道が一切誇張のない真実であったかを確かめる事も容易ではない。
そして、私がそれをするつもりもない。

だが、いくつかのサイトを巡って情報を集めてみると、残虐なタコ部屋労働がこの地で行なわれた事は事実と思われるし、後年になって人柱が発見されたとする記述も見つけた。さらに、この事件が地域におけるタブーとなって、今日も多少の澱を残している事も感じた。

この事件の具体的な虐殺や人柱の舞台として、切明隧道(仮称)に言及している記事は全くないものの、古老が幼子であった当時の秋山郷は、この忌まわしい事件の記憶が現在よりも相当濃厚であった事が想像出来る。

そして、子供達の遊び場とするには相応しくない危険な場所を、大人達は(それが事実であるかどうかは別として)件の事件に関わった“怨念渦巻く地”として、過分に宣伝していた可能性があるのではないだろうかという事に、思い至ったのだ。
私は「この隧道は生きている。生命に満ちている」と感じたが、当時の子供達は正反対の感想を持って臨んだ可能性がある。


恐怖は、真実にまして深く記憶され、そして著しく伝播する。

私もこの隧道を忘れることは、無いだろう。

だが、どのような姿に変貌を遂げようとも、この隧道がかつて、鉄道と道路という二通りの方法で役立った功労者である事実も、忘れたくはない。





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