今回は、廃隧道の洞内世界の有り様について、また新たな1ページを加える探索となった。
それは、光のない世界を支配しつつある植物軍団という、私の想像を絶した新世界である。
その前では、騒然たる大量のコウモリ達でさえ脇役であり、怪奇な横坑でさえも小舞台に徹していた。
だが、私が真に忘れがたいと思ったのは、そんな洞内に刻まれていた深い轍の印象である。
人が跡絶えて異形の支配下に置かれてもなお、コンクリートや岩盤に刻まれた人跡は確かに存在していたのである。
毎度お馴染みと言えばお馴染み、そんな当然の帰結であった。
今回の探索の事前と最中、特に意識していたキーワードは、「恐怖」であった。
それは、今回の情報提供者のmaggie氏が寄せてくれた古老の証言に含まれていた、「怖いところ」のイメージであり、また彼自身が私に仇を託した難所のイメージでもあった。
そして現場には確かに、私が恐怖を感じる場面があった。
それもどちらかと言えば肉体的な危機(滑落や崩落)よりは、得体の知れない生物に対する生理的、そして閉塞した深い闇に対する精神的な恐怖であったように思う。
だいぶ慣れたし、探索の使命感をもって乗り越えられない恐怖ではないが、確かに恐怖はあった。
だが、土地の古老が語った「怖いところ」の本源は、私が今回感じた如何なる恐怖とも異なるものであった可能性を、最後に指摘したい。
ここでもう一度、情報提供者のメールから、古老の証言に関する部分を引用する。
60代の地元の女性に 聞いた話では 子供の頃の 格好の探検場所になっていたそうですが、 「かなり怖い所」 と 言っていました
60代の古老が子供であったといえば、おそらく5〜60年前である。
つまり、昭和20年代の出来事である可能性が高い。
その頃の切明隧道の状況を想像してみると、現在の廃隧道状態と同様であったとは考えられない。
既に何度も述べている通り、この隧道は大正10年前後に中津川第一発電所建設工事に関連する資材運搬電気軌道の通路として開削されたのであり、同13年に電気軌道が撤去された後に一旦“廃線”化している。
だが、その後になって今度は道路として隧道を活用する事が決定し、拡幅のうえ供用開始されたのは昭和前半のこと(はっきりした年代は不明)。
そしてこれが再び廃止されたのは、昭和33年から47年にかけて林道秋山線が建設された(栄村公式サイト年表で確認)時である。
まとめると、この隧道が廃線跡の状態で存在していたのは大正13年頃〜昭和初期までで、現在に通じる廃道状態となったのは昭和33〜47年のいずれかから、現在までである。
そしてこの時系列に古老の証言を当てはめると、古老が見たのは廃線時代の廃隧道の最末期である可能性が高いという事になる。
芦ヶ崎地内を走る作業用電気機関車(『津南町史 通史編 下巻』より転載)
右の写真のような小さな電気機関車が行き来していたナローゲージの廃線跡は、当然のように狭隘だったろうから、隧道前後の急な山腹にあって現在の廃道とは比較にならないほどに危険だったはずだ。
そして、隧道自体も大人二人で容易に塞げるほど狭かったと考えられ、天井は多少高かったであろうが、おそらく全面的に素掘で、これまた現在の廃隧道よりも一層不気味であったろう。(もっとも、植物が当時から侵入していたかは不明だが…)
そこは、幼子の探検心を十二分に寒からしめたに違いない。
…というような話ではない可能性がある。
この隧道には、幼子を恐れさせる全く別の「怖さ」が、当時の村々に語りつがれていた可能性を、私は考えている。
大正11年7月前後に発生し、同年7月29日以降は国内の各新聞も報道する所となった、信濃川朝鮮人虐殺事件というものがあった。
これは当時行なわれていた中津川第一発電所や近隣の発電所工事において、朝鮮人労務者を中心とするタコ部屋労務者が多数虐殺され、その遺体が連日のように信濃川の下流へ流れ着いて大騒ぎになったというものである。もちろんこれは、後々まで大きな問題となった。
この事件の被害者の総数や、その中に朝鮮人労務者がどの程度含まれていたかなど、今日なお判然としない点があるといわれ、当時の新聞報道が一切誇張のない真実であったかを確かめる事も容易ではない。
そして、私がそれをするつもりもない。
だが、いくつかのサイトを巡って情報を集めてみると、残虐なタコ部屋労働がこの地で行なわれた事は事実と思われるし、後年になって人柱が発見されたとする記述も見つけた。さらに、この事件が地域におけるタブーとなって、今日も多少の澱を残している事も感じた。
この事件の具体的な虐殺や人柱の舞台として、切明隧道(仮称)に言及している記事は全くないものの、古老が幼子であった当時の秋山郷は、この忌まわしい事件の記憶が現在よりも相当濃厚であった事が想像出来る。
そして、子供達の遊び場とするには相応しくない危険な場所を、大人達は(それが事実であるかどうかは別として)件の事件に関わった“怨念渦巻く地”として、過分に宣伝していた可能性があるのではないだろうかという事に、思い至ったのだ。
私は「この隧道は生きている。生命に満ちている」と感じたが、当時の子供達は正反対の感想を持って臨んだ可能性がある。
恐怖は、真実にまして深く記憶され、そして著しく伝播する。
私もこの隧道を忘れることは、無いだろう。
だが、どのような姿に変貌を遂げようとも、この隧道がかつて、鉄道と道路という二通りの方法で役立った功労者である事実も、忘れたくはない。