隧道西口、開口なし!
12:51 《現在地》
クゥーー! 惜しい!!
残念ながら開口はしていなかったが、ここが探していた隧道の跡地だということは、間違いないと思う。
そう考えられる根拠は、目の前にある“土の壁”の状況だ。
ここはもう峠の頂上といえる位置であり、道がここから取り得る選択肢は、行き止まりを除外すれば、峠の向こうへ抜ける切り通しか、土被りの浅い隧道という、二つに一つしかない。
そしてここには、「切り通し」を否定する状況がある。
仮にここが「切り通し」であったと仮定した場合、それを埋め尽くし塞いでいる崩土の量が多すぎるのだ。これほど深く「切り通し」が埋没することは、現地の地形と比較して、どこかから客土したのでない限り考えられない。
現状は、隧道が落盤によって埋没した状況だと考えた方が遙かに自然である。
ここに、これまで私が把握していなかった未知の隧道が、確かに存在していたのだ。
残念ながら崩壊していたが、極めて大きな発見といえる。
間近に寄ってみても、地中へと通じる開口部が残っている気配(冷気や風)は、まるで感じられなかった。
また、坑口を取り囲む垂直の壁面部分(おそらく素掘り隧道であったろうから、岩壁だろう)も全く見えず、風景としては崩土で埋没した「切り通し」のようだが、前述したとおり、その可能性はない。
状況から見て、隧道は圧壊したものと思われる。
崩壊の規模は致命的なもので、隧道直上の尾根を陥没させるに至った可能性が高い。その場合、地中には僅かな空洞も残っていないと思う。
いずれにしても、驚くほど土被りの小さな隧道だったに違いない。
そしてそのことは、隧道の崩壊と無関係ではないだろう。
基本的に、隧道は土被りが浅いほど力学的に不安定な存在になる。だから浅い場所では切り通しとされることが多い。
まだ見ぬ東口の開口に、最後の期待を託すことになった。
だが、正直にいって、その期待度は本当に僅かである。
感覚的に、この状況はかなり難しいと分かっている。
そもそも、今回の探索計画では最終的に東側の小戸川集落へ下りる予定なので、ここで「峠」を乗り越える必要がある。私は率先して西口跡地である笹藪の急斜面をよじ登り、間近の尾根を目指した。
斜面は全体的に土山であり、濡れていて滑りやすい。
素人目にも、素掘り隧道には不向きな地質のように思われるが、どのくらい長持ちしたものだろうか。
西口跡地から振り返る、西口前の景色。
比較的に傾斜が緩やかな掘り割りを出ると、正面に下り道。
この道は約600mで糠塚の旧河道耕地に抜けているが、これまで見てきたとおり完全な廃道状態であり、全く使われていない。
また、全体的に急勾配かつ狭幅員のため、荒廃を除外しても、明らかに自動車が通行できるような道ではなかった。
この下り道の左に見える10m四方ほどの平場は、峠の茶屋に誂え向きの立地だが、何か建物があった形跡はなく、隧道とセットでしばしば見られる“ズリ”(掘削残土)の山とみられる。
この存在も、ここに隧道があったことの状況証拠の一つと考えている。
稜線へ辿り着いた私が見たのは、驚くべき痩せ尾根だった。
連なる山の峰を脊梁というが、この言葉の本来の意味は、隆々と盛り上がった背骨である。
この稜線は標高こそ極めて小さい(海抜約100m)ものの、脊梁という言葉を彷彿とさせる鋭さを持っていた。
そして脊梁の部分だけは、土ではなく地山の岩質が露出していた。
やや青みがかった岩は粘土質っぽいが、それなりに堅さがあり、ゆえに尾根として最後まで削り残されているのに違いなかった。ちなみに、ここへ至る序盤の沢歩きの中で一枚岩の河床や両岸の切り立った部分で見たのと同じ岩質である。
ここに一枚岩っぽい地山が露出していたことは、これが切り通しを埋没させた崩土の山ではないことを示している。つまり、隧道説を裏付ける発見だ。
だが改めて、隧道は圧壊によって完全に失われていると見る。
隧道直上の稜線は、岩を露出させた痩せ尾根もろとも、陥没したように凹んでいたのである。
このシーンだけを見れば、隧道建設以前に使われていた旧道の浅い切り通しのようにも見えると思うが、その前後に繋がる道が全くないことなどから、これは人為的な切り通しではなく、陥没地形の可能性が高いとみている。
さて、お待ちかね!
開口への最後の希望が託されている東口、小戸川集落側の坑口擬定地点を見下ろしている。
どうだ、ありそうか?
明瞭に隧道の跡地を感じさせる、凹んだ地形が足元に口を開けていた。
濡れた笹藪が一面に広がっていて、その地面のどこにも連続性が途切れた箇所や、目の届かない影の部分はなさそうに見える。
やはり、開口は厳しいようだ。
しかし、一応は最後の最後まで期待を持たる儀礼として、踏み込んでからの決着宣言としよう。
それにしても、この東側は西側よりだいぶ山が険しそうだ。
うっすらと霧が立ちこめていて谷底が窺い知れないし、そもそも道の気配が感じられない。
また、先ほどまでは全く感じられなかった冷たい風が頬を撫でてきて、気味が悪い。
薄暗い雨の中であり、少なからず怖さを感じる。
軽口をたたき合える仲間が二人もいることが、とても心強い。
13:02
隧道東口も、開口していない!
これにより、隧道の内部探索をする望みは絶たれた。
この東口も、西口同様、陥没地形としてのみ痕跡を留めており、
隧道に直接繋がるような遺構は何も残っていなかったのである。
東西両坑口の跡地が確定したことで、隧道の全長が推定できるようになった。
今回の探索のきっかけとなった昭和9年の地形図では、この隧道は最低でも全長50m以上ありそうに見えたが、現地の地形に照らしてみると、実際の隧道はそれよりも遙かに短かいものであったようだ。
推定全長は、10m前後でしかない。
私の経験のなかでも、非常に短い隧道だ。
特に峠の頂上にあるものとしては、異例の短さと言っていい。
冷静に観察すると、この隧道の存在によって、峠の高度はおおよそ10m下げることが出来ている。
高さ100mの峠に対する10mだと考えれば、それなりの効果があるともいえるが、ここへ至る道が車道ではなく歩道だということを考えれば、徒歩での登攀10mを避けるために隧道を掘削した意義には、いささかの疑問を感じる。
もっとも、これは隧道だからそう感じるのであって、これが切り通しだったら、むしろ徒歩道らしからぬ深い切り通しだと感心しただろう。
ようするに、隧道としては小さすぎるが、徒歩道の切り通しとしては十分に大きいという、微妙なサイズ感なのだった。
隧道跡地を後に、東側の山道を下りはじめる一行。
写真では、立ち去る二人の表情がともに悔しさを噛みしめるように見えるのが面白いが、実際は、この結果に対してほとんど落胆を感じなかった。
それは、「おそらく崩れているだろう」というような、敗北主義的予想を立てていたからというわけではない。
今回は状況的にも廃隧道が現存している可能性は十分に高いと思っていたので、それが残っていなかったことは残念に思う。だがそれでも、大きな充足を感じていたのである。
未発見の隧道跡地を自らの足と目で特定し、その状況を確認できたという時点で、探索は成功なのだと私たちは思っている。
そこに隧道が残っているかどうかは、探索とは因果関係がないことと割り切っている。
ときには、もっと早く探索していればと悔やむこともあるが、今回はそのような短い時間差を惜しむような現状ではなかったしな。
さあ、脱出開始だ。
上の写真に写っているとおり、峠を越えた直後には、坑口跡地から伸びる明瞭な道形があり、これを辿れば小戸川集落の車道へすぐに抜けられると考えたのであるが、実際には50mも歩かぬうちに、左の写真のような急斜面にぶちあたり、道がないと困惑した。
新旧の地形図ともに、道はほぼ直線的に隧道直下の谷筋を東進しており、勾配を緩和するための蛇行をほとんど見せていない。
ようするに、ここでも道は車道的な迂回の線形を用いず、ほぼ直登・直降のルートで往来していたのだろう。
このような徒歩道ならではの野趣に溢れたルートは、隧道の続きとしては異例だが、谷の周囲に崖などはないので、十分に可能であった。
右の写真は、谷の源頭部にある斜面を立ち木伝いに下る仲間たちの姿。
完全に道を見失っているが、そもそもの徒歩道が原形を失っているので、出来るだけ藪の浅い谷筋を最短ルートで下った。
13:13 《現在地》
ケモノにでもなった気分で10分ほどがむしゃらに下り続けると、谷の勾配が急に失われて、ほとんど平坦化した。
GPSで「現在地」を確かめると、隧道があった峠から既に60mも高度を下げており、前後とも相変わらず道は全く見えないものの、地図上の徒歩道には確かに重なっていた。
13:21 《現在地》
もはや目に見える道はないと割り切って、かつて水田だったろう丈余の枯れススキ地帯を掻き分け続けることさらに数分。ようやく生きた田んぼに脱出した。
峠からここまでの約400mは完全な廃道でもはや原野化しており、もし夏場にこちら側から峠を目指していたら、相当に困難だったろうと思う。藪が落ち着いた時期を選んだのは大正解であった。
この田んぼの脇にある、軽トラすら通れない狭い畦道が、峠道の続きなのだろう。
ほぼ人里の近くまできてもこうなのだから、いかに素朴な道だったかが分かる。
私が探索する廃道は元車道が大半であるから、今回のような徒歩道の廃道は新鮮な感じだ。
近くとも遠く思える、水墨画のような黒い稜線。
この谷の最奥には隧道が眠っているというのは、夢がある。
目で見て分かるものではないだけに、不足の部分を、大好きなロマンで充填できる。
13:28 《現在地》
峠から600m、出発地点から約2km、小戸川の農道に脱出した。
特に目印になるようなものもないここに、事前に運んでおいた私の自転車が待っていた。
小山を越えて集落と集落を結ぶ、素朴さを絵に描いたような峠道だったが、隧道の形跡は確かにあった。
名も知れず、形も定かではなく、歴史も明らかではない、隧道。
その昔日を知る手掛かりは、どこにあるか。
ロマンを愛する私だが、調べれば分かることなら知りたいと思う。
地に埋もれたものについて、あともう少し手を伸ばしてみたい。
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