隧道レポート 沼津市口野の “隧道の辻”

所在地 静岡県沼津市口野
探索日 2008. 2. 4
公開日 2008. 2.15

【mapion 現在地】

 「道路トンネル大鑑」の巻末リスト(※ORJにてこれを加筆修正し『隧道データベース』として公開している)によれば、主要地方道沼津土肥線には6本の隧道がある。
この資料は昭和40年頃のものであるが、現在この6本の隧道は全て旧道化している(一本は開削済)上に、3本の隧道に対応する現道は国道への昇格を果たしている。
右の図中の赤いラインが、一連の旧道である。

 今回のレポートでは、このうち4本の隧道の現状をお伝えすると共に、その途中にある“道路特異点”を紹介しよう。
それは、私が勝手に“隧道の辻”と名付けたが、一般に辻というのは交差点のことである。

 このレポートには、
おそらく日本で最も多くの隧道が面する交差点が、登場する。


 レポートの開始地点は、沼津市口野の金桜神社参道下だ。





日本一の“隧道の辻”?!

 主要地方道沼津土肥線の旧道を辿る


2008/2/4 9:04

 金桜神社のある高台から見下ろす江浦湾。
江浦湾は沼津湾の小湾で、沼津湾は巨大な駿河湾の一部である。
古い地図と現在を較べると全体的に海岸線は前進しており、随所で埋め立てが行われた結果である。
そして、静岡県内有数の都市で、政令指定都市へ向けての取り組みも見られる沼津都市圏に飲み込まれつつあるように見える。

 これから紹介する一連の隧道達は、この江浦湾の海岸線が切り立った崖や磯ばかりであった時代に作られたものである。
町並みとのアンバランスが見所だ。




 金桜神社の(正規の)参道下から400mほど主要地方道沼津土肥線を北上すると、やや鋭角に旧道が右へ別れる。
写真のフレーム外だが、現道の左側は防波堤の海岸線に接している。

早速、旧道へ入る。
見ての通り集落内の道であるから、「生活道路」として現役である。
しかし、入口には思わぬ看板が立っていた。



 “進入禁止 この道路は産業道路に付き 進入はご遠慮下さい 口野自治会

進入禁止というのはまあ分かる気もする。
生活道路であるから、抜け道として利用するような部外者の通行を自粛してもらおうという道は良くある。
だが、「産業道路」というのは珍しい表現である。
今日、このコトバは余り馴染みのないものとなったが、戦後、高度経済成長の時代には各地に産業道路と通称される道が生まれている。
明確な定義はないのだが、主に工業地帯における貨物輸送を最大の目的とした道路のことをいう。
そして、その対義語として「生活道路」という概念があるのだ。



…どう見てもこの道は、生活道路だと思うのだが…。

だって、この狭さである。
貨物自動車どころの話ではない。
これが、3〜40年前までの伊豆半島周回道路の一部、主要地方道沼津土肥線であったのだ。
普通車がギリギリ通れる幅しかない。
あまりの狭さ故に、…見て欲しい!

 中サイズのニャンコでさえ、出会い頭の私の接近にどうすることも出来ず、スゴスゴと壁際をすれ違うほどなのだ!!

…これは凄い。
通常ならば、絶対に踵を返して逃げ出すはずなのに、それが出来ないほどの狭さだということだ。




 200mほどで一旦現道に戻るが、合流はせず、ギリギリの所でまた右に入るのが旧道だ。
ここにも先ほどと同じ「進入禁止」の看板が立っている。
引き続き旧道を進む。



 ピークは越えたが、相変わらず狭い道が続く。
どう見ても生活道路である。
ちなみに、現道は海岸線を真っ直ぐ進み、旧道は山際の崖下を進む。
敢えて落石や土砂崩れの危険の多い崖下に道があることは不自然に思えるが、もしかしたらこの辺りもみな古い埋め立て地なのかも知れない。 本来の海岸線は、この旧道の位置にあったのではないだろうか。



 さらに進むと路幅が広くなり、両側に民家の広がるようになる。
だが、行く手には小高い丘が接近しつつあり、ここも古くは入り江だったのではないかと思わせるのである。




 真っ直ぐ丘の下まで進むと、左に迂回しながら登っていく。
この上り坂の路肩には古びたコンクリート製の欄干が残っており、ガードレールではないところに時代を感じる。
下は多くの民家が立ち並ぶ住宅地だが、この頑丈な欄干は、そこがかつて海であったのではないかという気にさせる。




9:09 

 そして、短い坂を登りきったところに、今回一つめの隧道が現れた。御場隧道である。
トンネルと言った方がしっくり来るような変哲のない姿であるが、昭和35年の竣工と結構古い。

 坑口手前に三叉路があるが、一方の道は現在の「口野トンネル」が昭和42年に開通する以前、伊豆長岡への県道であった(路線名不明)。
口野トンネル開通により旧道化した短い峠道が残っている。
なお、口野トンネルの県道が一般国道414号へと昇格したのは、昭和56年のことである。




 御場隧道はご覧のとおり非常に短いもので、土被りも浅い。
資料によれば、全長33mに過ぎない。
今日であればまず開削が選ばれそうな規模だが、取り付けられた御影石の扁額は立派なものだ。
現在では一介の市道トンネルに過ぎないが、かつては国道に次ぐ重要路線である主要地方道が通っていた。
そして、ここから伊豆半島西海岸の旅路はスタートしていた。

 この小さな隧道を広大な伊豆半島の玄関口に喩えることも、あながち大袈裟ではない。
なぜならば、江浦湾奥と熱海海岸を結ぶ直線は、半島基部の最も狭い部分だからだ。
この御場隧道を潜ると、そこが江浦湾の最も奥まったところになる。




 そして、今回のレポートタイトルとした“隧道の辻”とは、御場隧道を抜けたその地点にある。

 この交差点、公式には「口野放水路」という名が与えられており、国道414号から主要地方道沼津土肥線が分かれる起点になっている。
この十字路こそ、私が勝手に“隧道の辻”と名付けたものである。

 まずは、この写真内に2本の隧道(トンネル)が写っている。
しかし、この交差点に集まる隧道の数は、もちろんこんなものではない。




 日本一の“隧道の辻”?!


9:11 口野放水路交差点

 それでは、この交差点に面する隧道のカウントを始めよう。
まずは、いまくぐった御場隧道……@
右折した先には、歩道橋の向こうに一つ、いや二つの坑口が見える。
車の激しく出入りしているのが国道414号の口野トンネル……A
その隣に見えるのは……B




 うむ。

どうやらBは廃隧道らしいぞ。
これは思わぬ収穫だ。
予想しななかった物件である。

取りあえず、このカウントが終わったら確かめにいくことにしよう。

 それでは、今度は御場隧道正面方向のカウントだ。




 こちらも国道414号。
昭和56年までは主要地方道沼津土肥線の一部であった。
橋を渡って真っ正面に、かなり大断面のトンネルが口を開けている。
これで、カウントはCになる。


 しかし、それにしても極端な大断面である。

その割に歩道も片側にしかないし、不自然な気も…。




 なんと!

2本ある!

少し先で隧道が2本に分かれているじゃないか!
よく見ると、大きい方が車道で、小さい方はまるっきり歩道を受け持っている。
なんという奇抜な?!




 というわけで、当初1本に見えたトンネルが、2本とカウントされることに。

車道になっているのは、多比第二トンネル(昭和39年竣工)……C
そして古い地図を見る限り、どうもこの歩道専用トンネルが、多比第二トンネルの先代であるらしい。
正式名称が分からないので、とりあえず「多比第二隧道」としておく……D
今のところ手元に開通年度についての資料がないが、いずれにしても昭和39年よりもかなり前なのだろう(現在調査中)。

 ともかく、ここまでで一つの交差点に面する5本のトンネルが明らかとなった。
おそらくこれでも日本有数というところまで行っていると思うが、私が「日本一」だと太鼓判を押すからには、こんなものではない。
だめ押し、行きます!




 最後の隧道は…


すこーし戻りまして…

多比第二トンネル前の橋…口野橋といいますが…



 …この橋の上から見えまする。






 ほーら、3本。


 え? ずるい?
無効??!

いやいやいや。いや。
…アリだよ。
アリだよね?
ちゃんと交差点に面してるし。
個別のトンネルだし。

この3本は、いずれも狩野川放水路の口野トンネルで、昭和24年竣工……EFG




 ということで、これでトンネル8本。

@御場隧道 昭和35年 市道(旧県道)
A口野トンネル 昭和42年 国道414号
B??? 廃? ??
C多比第二トンネル 昭和39年 国道414号
D多比第二隧道 ?? 歩道(旧県道)
E狩野川放水路 昭和24年 水路
F狩野川放水路 昭和24年 水路
G狩野川放水路 昭和24年 水路

日本一? の“隧道の辻”でした。

ちなみに東京都内に、“九道の辻”とよばれる江戸時代からの有名な九差路があるが、現状では残念ながら9本も道はないようだ。




 次回は、

さっき見つけてしまった「口野トンネルの隣の封鎖された穴」と、
珍しい歩車道分離の「多比第二新旧トンネル」、そして第二があれば第一もあって…、

さらに最後には、“前代未聞のカワユスな隧道” をお見せします。


 おたのしみに!