2008/2/4 9:16
かつての主要地方道沼津土肥線の流れを汲む4本の旧隧道を巡る旅。
既にそのうちの2本(御場隧道・多比第二隧道)を終えたが、残念ながらどちらも現代風の姿に変わってしまっていた。
残りは2本。
ここまで引っ張ったからには、ちゃんとオチがありますよ。
多比第二隧道を抜けると、沼津市口野から多比に大字が変わる。
地元では「沼津アルプス」と呼ばれるそこそこに険しい小山脈が、海から一気に迫り上がっている。
海岸線もキザギザを描いており、古くから人が住んでいたのはその湾奥の狭い浜辺であったろう。
現在は至る所で埋め立てが行われ、住宅地も沖へと広がっているが、旧県道はその古い町並を、小刻みにカーブしながら進んでいく。
その過程に、残る2本の隧道はある。
やがて、正面に海が感じられるようになると、その前で現道(国道414号)に突き当たる。
かなり鋭角に突き当たるから、一旦は国道を横切って向こうへ行くのかと思いきや、
そうはならず、ほんの一瞬(長さにして5mほど)現道に被っただけで、また右に分かれていく。
こういう旧道を辿るのには、身軽なチャリや徒歩は都合が良い。
旧道に入ってすぐ目に留まったのが、この階段。
大袈裟で、街中にあって嫌に目立つ存在だ。
コンクリートでガチガチに埋められた山肌に沿って、その上の林へ登っている。
見たところ、上に建物があるようでもない。
これはなんだ?
近づいてみて解決した。
津波避難用の通路だという。
パッと見たときに、まるでビルの非常階段のようだと思ったが、まさに非常階段だったのだ。
しかし、“非常時に降りるもの”というイメージが強い非常階段だが、この場合は津波が来たら大急ぎで登ることになるわけだ。
…とても大変そうである。
そういう事態が起こらないことを願うばかりだ。
旧道は、いくらも行かない内にまた現道に接する。
それぞれが生活道路として利用されている。
おっ。
現道の多比第一トンネルが見える。
旧道は、その手前でまた右に分かれている。
その先には、旧隧道が期待される。
よしよし。
今度は歩道にはなっていないようだ。
ちゃんと旧道の方にも車道が通じている。
そして、もう既に隧道の片鱗は見えている。
だが、先に現道トンネルを紹介しよう。
ある意味、自動車以外の通行者は全て旧道へまわった方が良い。
そんな現道の多比第一トンネルなのだ。
激狭!!
いまだかつて、ここまで狭いトンネル内歩道は見たことがない。
歩道のないトンネル以上に質が悪い。
ハンドルの横幅にも拠るが、普通のMTBの場合、壁との隙間は10cmも得られない。
あまりの狭さに動揺してぐらつけば、そのままハンドルが壁に当たって転倒する危険もある。
前回の口野トンネルも狭かったが、それを越える、もはや人の通る通路としては限界に近い狭さだと思う。
「道路トンネル大鑑」によれば、この多比第一トンネルの全長は90m、竣工昭和35年。
幅と高さは前の第二トンネルと一緒で6m、4.5mである。
……。
さっきの第二トンネルでさえ、歩道無しでも狭いトンネルだと思ったのに…。
いくら何でも、幅6mの中に国道規格の2車線車道+歩道というのは、無理があったのでは?!
それだけではない!
なぜか素堀の一角が…。
なぜにここだけ…?
自立する良い岩盤だったのは間違いないだろうが、僅か20mほどだけが完全な素堀となっている姿は異様である。
通常、「素堀」とは言っても、国道クラスの道であればコンクリートの吹き付け程度の補強は、あるものだ。
そんな中、平成20年にもなって堂々と完全な岩盤を見せつけるこの多比第一隧道。
…地味ながら、 なかなかやりおるわい。
9:21
来た来た来た。
ようやく旧道らしい隧道じゃないか。
少しでも隧道を短くしようと、かなり掘り割りの深くなるところまで切れ込んであるのもいい。
惜しむらくは、扁額など隧道の素性を知らせるものが無いことだが、立地的に旧隧道であることは間違いあるまい。
この沼津土肥線の旧隧道には、今回のレポートでは紹介していないが、大正3年生まれの重寺隧道というのがある。
それを考えれば、この多比第二・第一の旧隧道もまた、大正から昭和初期にかけての建造である可能性が高い。
しかしまあ、現役の隧道であることに変わりはないので荒れていると言うことは全くなく、歩行者の心理的圧迫を考えてか白系の蛍光灯が照明に採用されている。
全体的に薄暗いが、気持ち悪いほどでもないだろう。
もちろん、監視カメラも付いていない。
内壁は素堀に吹き付けとなっている。
おおっ!
出口まであと20mほどの所から、突然内壁がぐるりと石積に変わった!
私はまだ国重要文化財指定の天城隧道を体験していないが、あっちも石造隧道と言うことで、おそらくこんな感じなのだろう。
ある同業者から、伊豆は昔から良質の石材の産地だと聞いた。
そういえば、前回も石切場に関するエピソードがあった。
外へ出て振り返るのがとても楽しみだったのだが、期待は裏切られなかった。
素晴らしい。
素晴らしい、石造の坑門であった。
先ほど少し話の出た、大正3年竣工の重寺隧道とも非常に似ている。
やはり、これは大正頃の石造隧道なのだろう。
上手い具合に、この沼津側坑口のみ現在まで破壊されずに残ったのだ。
ようやく、期待した風景に巡り会えた。
生活道路として風景に溶け込んでいる多比第一隧道。
残念ながら、扁額などが見あたらないので正式な名を知ることは出来なかったが、すぐ側の法面に設置されていた落石防止ネットには、「多比トンネル防災工事」と書かれたプレートが取り付けられていた。
或いはそれが正式名称なのか。
…しかし。
今回の探索で、私が “本命” と踏んでいたのは、この予想以上に美しい隧道ではなかった。
それがもし現存するならば、もうすぐに現れるだろう。
「道路トンネル大鑑」には「江ノ浦隧道」と名前があるにもかかわらず、手持ちの地形図、電子地図等に描かれていない。
ただし、明確な擬定地は存在する。
それは、…廃隧道になっている可能性の高いもの… という認識であった。
9:23
江ノ浦隧道出現まで
あと50m
あっ!
こっ
これはっ?!
手前を横切っているのが、国道414号。
その向こうに見えているのは、如何にも古風な石造の坑門。
間違いなく、目指す古隧道だと思われるのだが…
それにしても、辺りの様子が……。
しかし次の瞬間、
スタッフをさらなる衝撃が襲った!!
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ちょ!
なんぞこれー!
まるでポピュラス。
隧道の尊厳は……。
いまのは、何だったんだ?!
まさか?
俺の求めてきた隧道?!
う、 うそだ。
うそだー!
嘘だと言ってくれ…。
なぜ、何も言ってはくれないの……
やっぱりあれが…
俺の目指してきた江ノ浦隧道なのか…。
いまのリアクションは決して大袈裟でなく、本当に近くの波止場へ駆け出すほどの衝撃であった。
何という隧道の姿か。
…いや、隧道自体はこれ以上求めるべくもないほど綺麗に残っているのだが…。
しゅ、周囲が…。
「もう切り崩してくれよ… こんな惨めな姿で残されるくらいなら…。」
そんな声を、私が勝手に聞いてしまいそうだ。
ともかく凄い奇抜な状況で、隧道は存在していた。
だが、この異様な姿にも、「意味」があることを知った。
隧道自体には別に意味はないようだが(涙)、この高台には切り崩せない重要な意味が。
津波避難所という…。
わざわざ車でも上れるような立派なスロープさえ備えている。
上はどうなっているのか、かなり気になる。
隧道がここになければ、もとより人工的な地盤だと思ったに違いない。
なにせ、周囲に地肌が露出している箇所は、寸毫もないのだから。
まるで、中身の詰まったビルである。
坑口前の赤錆びた柱に辛うじて読める「とびだすな」の文字は、隧道がもともと車通りの盛んな道であったことを、暗示している。
外見はこんな隧道だが、中身はちゃんとしている。
通り抜けもばっちりだ。
路面は未舗装なのもイマドキ珍しい。
しかし、隧道の内側も山の外側全てと同じ様な、コンクリートの吹き付けになっている。
なんだか、“巨大な虫食いケーキ”という、訳の分からないものを連想してしまった。
なぜだか説明は付かないが。
隧道は全長30mほどか。
かなり短いが、狭いのでそれなりにバランスは取れている。
隧道を抜けると、その先には数軒の民家が密集していた。
なるほど、いまでもこれらの家の生活道路として利用されていたのかと納得したが、実は、くぐらなくても全く問題なく脇から現道には出られるのだった。
隧道が貫く台地の外周は全て平坦な土地になっており、車でぐるぐる回ることも出来る。
そんな中で、この隧道の道としての意義は極めて見出しがたい。
一応いまも扱いは公道であるらしく、屋根付き駐車場というわけにもいかない。
せいぜい、地域のマスコット的存在ということぐらいにはなるのか…。
私は大好きだが。
隧道自体は呆気なくくぐり終えてしまったので、今度は上に行ってみよう。
やっぱりこの隧道は、外から見ていた方が面白い。
登り口は、親切にも一箇所だけではなかった。
さすが避難所である。
登りながら振り返る、江ノ浦隧道西口。
こちら側の坑口は、坑門のない簡素なものだ。
奥に横切っている舗装路が国道414号である。
その脇を、隧道には目もくれずに車が駆け抜けていく。
( ゚д゚)ポカーン
これって、
その辺のビルの屋上では?
どう見ても、山のてっぺんの景色ではない。
だが、確かにここならば津波が来ても安心そうだ。
それに、伊豆半島北西海岸の変化に富んだ海岸線から駿河湾、そして富士山の白い頂まで、ぐるりと周囲を見わたすことが出来る、最高の展望地でもある。
この写真は、まるでビルの屋上のような山頂から、土肥方面を振り返って撮影したもの。
さっき走ってきた旧道を黄色いラインで示した。
最後、私の足元へ消えているのは、この真下に江ノ浦隧道が口を開けているからだ。
この台形の山は、周囲の山腹と隧道内側のみならず、上面まで完璧にコンクリートに覆われていた。
全山木一本どころか、ペンペン草だって生えていない。土がない。
こんな異様な山は初めて見る。
もっとも、もともと独立した山などではなくて、沼津アルプスから下りてきて小さな岬で海に没する稜線が、国道の切り通しによって分断されたものである。
そうでなければ、わざわざ巨費と労力を投じて、こんな山の横っ腹に隧道を掘ったりはしない(笑)。
さあ、下山しよう。満喫した。
数秒で下山完了。
沼津側坑口の全景だ。
なんだか、虚しい眺めだ。
…が、 かわいい。
一応隧道の先も少し行ってみたが、数軒の民家の庭先を掠めた後、また現道に戻っていった。
この30mほどの区間は、おそらくもう公道ではあるまい。
民家の塀の内側を通る砂利道だ。
さて、今回の私の目的はこれで達せられたので、引き返す。
現道の切り通しから見た、江ノ浦隧道の側面風景。
何度見ても異様な光景である。
隧道だけ見ると重厚な石組み坑門。
しかし、周りの山も併せて見ると、それはもうどう考えても冗談な風景なのである。
他例のない貴重な風景だ。
末永く、大切にしていただきたい。
最後に、おそらくこの現存する隧道は、「道路トンネル大鑑」に記載されている江ノ浦隧道ではないと思う。
そこには「昭和24年竣工、全長38m、幅5.5m、高さ4m」という諸元も記録されているが、現状の石組み坑門工といい、幅5.5mもあるように思われない姿といい、現存するものは、ここまでの多比第一・第二隧道がそうであったように、先代なのではないかと思う。
そして、この記載されている江ノ浦隧道というのがすっかり開削されて、現道の掘り割り(写真の掘り割り)に変身しているのではないかと思うのである。
この特異な景観を産み出す上で最大のポイントとなった現道の掘り割りも、隧道跡なのではないか。
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