2008/2/26 7:00 【周辺地図】
コンクリートの塊に遊びで掘ったようなこの隧道。
前回までは「江ノ浦隧道」という呼称をしていたが、もともと正式な名前は分からなかったのであって、今回この江浦地区にもう一本隧道が見つかってしまったことからその仮名を「第二江ノ浦隧道」と改めることにする。
前回さんざん笑いものにしたのだったが、その余りの衝撃にほだされた私は、あろう事かたった350mほど先にある“5本目の隧道”を無視して、探索を終えてしまったのだった。
そのお陰で、再訪する必要が生じたのである。(理由はそれだけではなかったが)
また、再訪と前後して行った机上調査によって、この「第二江ノ浦隧道」の隣に位置する現国道の切り通しにも当初は隧道があったのではないか…、という前回までの推論が否定された。
悉
現道に切り替えられた時期だが、歴代の地形図を全て丹念に追っていったところ(地形図の悉皆調査)、昭和27年版までは隧道が描かれているものの次の33年版からは消えている事から、大体この昭和27〜33年のあいだに切り通しの現道に改められたのだと、そう推測出来るのである。
旧隧道をくぐって民家の庭先のようになった旧道を20mほど進むと、現国道と交差。
交差後今度は山側に移った旧道が生活道路として続き、200mほどで再び現国道に合流。
以後は旧道があったとも想像される位置に釣具店や駐車場があって、現国道を進むより無くなる。
現国道の法面に、謎の横穴の痕跡。
しかし、どこに穴を掘っても商品価値の高い石材が採れたこの一帯では、この程度の横穴は見慣れた光景に過ぎない。
7:03
出発から3分。
目指す“5本目の隧道”へ繋がる旧道の入口に到着。
直進する現国道には、この辺りでも特別に深い切り通しが形成されていた。
地形図の悉皆調査によって、昭和46〜59年の間に開通したと推測される。
私が旧道へ入ろうとした矢先、目の前を女子高生らしい自転車の人影が二人、何の迷いもなく現道から旧道へ突っ込んでいった。
通学途中に旧隧道探索とは…。
さすがは、オブローダー神社のお膝元の沼津だけあって、オブ教育が進んでいるようだ。
うはーーw
またしても小さな山がありますが、隧道はこの山に?!
旧道は道路標識によって、こちらからの一方通行になっている。
また、旧道の左と前方は「沼津マリーナ」で、駐車場のクルマよろしく陸に停められたレジャーボートたちが柵の向こうにたくさんある。
旧道を少し行くと直角カーブの先に隧道が見えてきた。
地形図には記載がないが、これぞ“5本目の隧道”に間違いない。
そして、『道路トンネル大鑑』巻末のリスト:通称『隧道リスト』に掲載された『江ノ浦隧道』とは、実は本件のことであったのだ。
おおよそ30年ほど前までは、この道が沼津・静岡方面から伊豆半島へ向かう最短ルートであった。当時はまだ国道でもなくて、主要地方道「沼津土肥線」とされていた。
江ノ浦隧道である。
『隧道リスト』によれば、昭和24年竣工の全長38m、幅員5.5m、高さ4mとある。
坑門はコンクリート製で、アーチ部分にのみ石材を利用している。
内壁には頑丈そうな鋼製セントルが全面に巻立てられており、当初の幅員より0.5m以上減じている。
それも最近設置されたものでは無さそうで、県道として現役だった末期にもこの幅だったのだろう。
普通自動車同士ならば離合もギリギリ可能だろうが、幹線道路としては明らかに不適である。
なお、本坑口の右側に鉄柵で塞がれた縦横2mほどの正方形の穴が存在する。
内部を覗いてみたところ閉塞しているようであったが、詳細は不明。残念ながら立ち入りは不可能である。
実は、江ノ浦隧道は明治28年版地形図にも記載があり、これを旧隧道の残骸だと考えることも出来る。
(一般的に、旧:山側、新:海側というのは不自然だが)
坑門および扁額の拡大図。
扁額には“左書き”で『江浦隧道』とあって、小さな文字で「昭和二十五年一月竣工」とも刻まれている。
『リスト』の竣工年とは1年の隔たりがあるが、理由は不明である。
注目すべきは、左書きの扁額の造られはじめる最初期にあたるものと思われる点だ。
(日本政府が、諸官庁の作成する文書形式のガイドラインにあたる『公用文作成の要領』において、「左横書き」を基本とする旨を公示したのは、昭和26年である)
また、コンクリートの坑門でありながら、単なる飾りではない石造アーチ(あくまでコンクリートブロックではない)や笠石(これはコンクリート)が意匠されている点も、コンクリート製トンネルとしては珍しい。
これらの点から本隧道は、隧道のデザインが戦前風から戦後風に変化していく、その過渡期の特徴を示していると考えられる。
僅か38mという直線の洞内は、海風が常に吹いていて乾いている。
現道を通る車の音が常時反響していることと、通学の高校生が自転車で頻繁に通るので、旧隧道らしい侘びしさはあまりない。
現道の切り通しにも狭い歩道はあるのだが、確かに私が学生であってもこちらの迂回を選ぶだろう。
ただし、蛍光灯は中央付近のひとつだけであり、かなり薄暗い。
沼津側坑口は、外に出るとすぐに現道に繋がっている。
一方通行なので、自動車が向こうから入ってくることはない。
沼津側坑口前には、小さな祠の中から三体の地蔵がアスファルトの路面を見つめていた。
海風に風化した姿は、明治以来の歴史を感じさせるものがある。
三角錐の突端に坑門。
第二江ノ浦にも驚かされたが、これまた異様な立地状態である。
古い地図だともちろん切り通しもなく、海側にももう少し山脚が続いていた。
現状でも山が隧道ごと切り崩されなかったのは、国道に対する津波防護の役割を期待されているのかも知れない。
なお、こちらの坑門にも石造アーチがあるが、翼壁はほとんど無いので窮屈な印象を受ける。