2018/4/26 16:27 《現在地》
平成30(2018)年4月の第一次北海道遠征第4日目の最後の探索が、ここだった。(翌朝の1発目がここ)
茂津多国道の白糸、兜岩、狩場という若い“三姉妹トンネル”の探索は、今回の国道229号の旧道と廃道を巡る旅の重要なターゲットして事前にリストアップされていた。
しかし案の定というべきか、この4日目にして計画の遅れが膨らんでおり、ようやく茂津多国道へと辿り着いたときには16時を回っていた。
この時刻から“三姉妹旧道”を全て制覇するのは不可能だと判断し、この中では最も与しやすいと予想された“次女”兜岩トンネルの旧道のみを先行探索することにしたのだった。
写真は、兜岩トンネルと白糸トンネルの間にある長さ200mの明かり区間である。
地名は、「オコツナイ」(アイヌ語で「海岸の凹部に川尻のあるところ」という意味だそう)と呼ばれている。
そして背後に見える、いかにも新しそうな岩の断面を曝け出している絶壁こそ、一連の旧道に引導を渡す重大なきっかけとなった第二白糸トンネルの崩壊現場である。
中央に見える坑口が、現在使われている白糸トンネルだ。
上の写真の位置から左にスライドして路肩から下を覗くと、廃道と化した旧国道が横たわっているのを見つけた。
前後に伸びているが、これから探索するのは手前の方向である。
無理に斜面を下って近づく必要はなく、このすぐ先にアクセスルートが用意されている。
それにしても、奥の崩壊した崖の禍々しいことよ。
ここで巻き込まれた人や車がなかったのは不幸中の幸いであったが、築25年目というまだ新しい国道トンネルが、突如ここまで破壊されてしまうという出来事は、大半の道路利用者に戦慄を与えるのに十分であった。
ところで、2枚上の写真にも写っているこの祠は、昭和8(1933)年にこの地の沖で発生した千代丸事件の慰霊碑である。
昭和8年2月24日、常習的密漁船であった岩内漁業株式会社所有の千代丸(32トン9名乗船)が、瀬棚漁業組合所属の監視船第二幸進丸(14トン5名乗船)に追跡を受けた際、これを沈没させる目的で故意に衝突し、さらに監視船に乗り込んで1名を惨殺、1名を溺死させ、辛うじて陸へ泳ぎ逃げた3名も凍死したという惨事であった。
碑は旧道の建設時に道路沿いに移転し、現道の建設時に再び移転されている。
そして現在も漁業関係者が慰霊に訪れているようで、新しい花が供えられていた。
白糸トンネル南口脇に車止めに塞がれた広い退避スペースがあり、その奥にはゲートで入口を塞がれた旧道への下降路が存在する。
自転車や歩行者であればここから簡単に旧道へ到達出来るが、開発局が設置した「立入禁止」の看板が設置されている。
16:33 《現在地》
公園の道路のように綺麗な下降路の先に、旧国道が待ち受けていた。
この丁字路の傍らにある小さな建物は、白糸トンネルの電気室である。
丁字路を右折すると、白糸トンネル旧道へ。左折すれば、兜岩トンネル旧道となる。
私は迷わず左折した。(白糸トンネル旧道へは、この翌日に挑戦した)
ところで、白糸トンネルと兜岩トンネル、そして狩場トンネルという“三姉妹トンネル”の開通時期は、それぞれ1999年、2001年、2002年と少しずつずれている。
したがって、99年から01年までの2年間は、白糸トンネル(現道)を出た国道は兜岩旧道へ繋げられており、01年から02年までの1年間は、兜岩トンネル(現道)から狩場旧道へ繋げられてるという、新旧道の混在時期がわずかながら存在した。
しかし、その際に使われた新旧道の“連絡路”は、いわゆる仮設路的なものであったようで、目に見える形では現存していない。
いま通った下降路は、その目的で使うには余りにも狭かった。
意気揚々左折すると直ちに、背丈より高いトゲ付きゲートが道幅いっぱい、
路肩の防波堤上にまで張り出して厳重に塞いでいた。
北海道開発局が封鎖した海岸の旧国道の多くが、この塞がれ方をしている。
つまり、私にとってはこの4日間、見飽きるほど見てきたということになる。
兜岩旧道へ、進入!
なお左上に見えるトンネルが今回の影の主役、兜岩トンネルだ。
全長は1371mで、“三姉妹”の中では一番短い。
そして、これから探索する旧道の長さも、トンネルの長さとほぼ同じだ。
二度と開ける気のなさそうな入口ゲートを過ぎると、すぐに1本の橋が架かっている。
わざわざ両側のガードレールを全て撤去してあるが、これも道内の海岸廃道でよく見る処置だ。なぜそうしているのかは分からない。
ガードレールごと銘板が失われ、現地には橋名を知る手掛かりがないが、資料に拠ればオコツナイ橋(全長30m)といい、下を流れる川は、この河口以外で人間世界との関わりを持たない原始河川のオコツナイ川だ。
この橋や、その奥に見える風景には、まだ険しさがなく、「なぜ巻き添えで俺まで廃止されなければならないんだ」という不満を、道が抱いていても不思議はなさそうな風景だった。
しかし、この平穏が入口だけの偽りであることを、地形図は如実に物語っている。
オコツナイ橋の上に立って見上げると、現道のオコツナイ橋と兜岩トンネル北口がすぐ近くにある。
旧道の橋の向こうは、早くも現道の喧噪が届かぬ世界となる。
この明るさ、空虚である。
開発局は、橋のガードレールのみならず、この道が開通当初からずっとに纏っていた、なけなしの覆道までも撤去していた。
開通当時の記録を見ると、ここにあったのは長さ310mの兜岩シェッド(覆道)である。
兜岩覆道は、後年に設置された防災施設ではなく、開通当初からあった。
そこには昭和50年代生まれというプライドがあった。
しかし、それでも防災力が足りないと判断されるようになったのが、20人の気の毒な犠牲と引き換えに現れた、平成9(1997)年以後の世界であった。
現役時代は、決してこのような明るい道ではなかった。
廃道となって初めて、この美しい海の眺めが生まれた。
次のカーブの先には、さらなる爽快の眺めが!
16:43 《現在地》
ズドーンと天衝く
おそらくこれが兜岩。
現道の兜岩トンネルの由来となった物体が、どこかにあると思ったが、おそらくこれ。
なんとも言えない造形である。強いて言うなら、海馬(とど)のスタイル。
しかしながら、義経北行伝説に彩られし西海岸線にある兜岩となれば、
これはもう、雷電岬の弁慶の刀掛岩の同類とみるべきであって、
おそらくは武蔵坊弁慶が兜をここに架けていったという伝説があると見た。
(マジで勝手な想像)
そして
完全封鎖
予想通り、オコツナイトンネルの封鎖が確定!
同トンネルの長さは386mとの記録があり、これを迂回して先へ進む行為の困難性が、当初より不安視されていた。
その不安を的中させてしまう、兜岩との危険な位置関係…!!
現実逃避は許されないが、先ほどから見え始めたこの岬が、
古くから西蝦夷三険岬の一として恐れられた、茂津多岬である。
岬の上には、日本で最も海面より高い位置(海抜290m)で点灯する
茂津多岬灯台があり、この数字はほぼ崖の高さである。
世界の涯(はて)なるものが、もし目に見えるところにあるなら、きっとこんな姿をしているだろう。
オコツナイトンネルは、栄浜から穴床前までの旧道にあった7本のトンネルの中では、第一白糸、第二白糸、第二タコジリトンネルと並んで、豊浜トンネル崩壊直後に行われた緊急点検においてもっと緊急度の高い「対策を必要とする」という対応方針が示されたトンネルであった。
つまり、兜岩トンネルが建設された主目的は、このオコツナイトンネルの回避にあった。
結果的に一緒に廃止されることになったツブダラケトンネルは、オコツナイトンネルに対して、「お前のせいだ!」と言いたかっただろう。
で、具体的にオコツナイトンネルの何が拙かったのか、詳しい情報は得ていないが、見るからにこれが原因と思われる巨大な岩の出っ張りが、坑門直上の崖の上で虎視眈々と下を伺っていた。
落石防止ネットで囲われてはいるが、これが万能ではないことが発覚してしまった。
16:46 《現在地》
オコツナイの【旧道丁字路】から約700m。
距離のうえではこの兜岩トンネル旧道のほぼ中間地点まで到達したのだが、見ての通り、先へ進むためには口を開けていて欲しかったオコツナイトンネルは、完全に封鎖されていた。
これまでの経験上、この坑口が封鎖されているのは予想通りではあったのだが……。予想していたからといって、この先へ進む攻略のウラワザはまだ見つけられておらず、正直、困ったなぁという感じなのである。
既述の通り、この兜岩トンネルの旧道区間には、オコツナイとツブダラケという2本のトンネルがあり、これらのトンネルが共に封鎖済だと予想されるため、どちらかのトンネルの迂回に成功出来ないと、それらに挟まれた中間の明かり区間に到達出来ないということになってしまう。
どちらかのトンネルだけでも、迂回ルートを探す必要がある!
無表情、無機能、完全空虚の壁と化してしまった、オコツナイトンネル北坑門。
扁額も銘板も取り外されていて、本当に壁でしかないのだが、こんな壁にもわずかばかりの考察の楽しみが残っていた。
トンネル名の文字タイルを貼っていた跡に注目すると、明らかに文字数は6である。
「オコツナイトンネル」とするには文字数が足りないが、これはどういうことなのか。
おそらく答えは、「兜岩トンネル」の6文字だった。
当時の記録を見ると、オコツナイトンネルとツブダラケトンネルは開通当初から覆道で接続されていて、全体を兜岩トンネルと呼称していたらしいのである。
したがって利用者の目線からは、オコツナイやツブダラケという名前のトンネルは存在せず、現道と同名の兜岩トンネルだけがあったはずだ。
そしてトンネルに接続する覆道といえば、この北坑門も同様で、窓を一切持たない完全封印の覆道によって30m以上も延長されている。
この覆道によって落石を防ぐ算段だったが、今では力不足という判定をされてしまった。
……にしても、この先の岩の壁――兜岩の付け根――を乗り越えていくことは、明らかに無理があるな……。
あとは、海側からの迂回だが…………。
絶対無理だった。
……足掻くまでもなく理解した。
残念だが、可能性が絞られてしまった。
反対側にあるツブダラケトンネルを迂回できないと、旧道中間部分への到達は無理ということになった。
これで敗退という名のナイフを喉元に当てられた。
しかし、ここで無理をすれば、もっと鋭い刀で首ごと落とされかねない。
ここはグッと辛抱して一旦撤退、仕切り直しだ!