旧 鵜泊隧道 

公開日 2006.03.22
探索日 2006.03.18



 あなたは、鵜泊(うどまり)隧道と言う名の極細隧道のことを覚えているだろうか。
昭和42年の全国隧道リスト(『山形の廃道』にて公開中)に記載された信じがたいほどのロースペックぶり(延長=57m、幅員=1.5m、高さ=2.0m、竣功=明治31年、覆工=木造)に胸をうたれ、これまで二度捜索し、その二度目には遂に現道とは異なる隧道を付近で発見!(→隧道レポ「鵜泊隧道」)

 一件落着と思われたが、そこで発見した隧道には、先のリストの数字とはどうしても符合しない点が幾つもあった。
延長はとても57mはなくて30mにも満たない程度であったし、幅員や高さについては記録より遙かに小さい歩くのがやっとというサイズであって、拡幅や崩落などで断面が大きくなるケースはままあるが、断面の縮小はなかなか考えにくい。素堀であれば尚更だ。

 なんとなく納得できない気持ちはあったが、まさかあれだけ探したのに他に未発見の隧道があるとは考えにくく、仮に私が発見したものがリストにあった隧道ではないとしても、本来のものは埋め戻されてしまったものと結論づけていた。

 しかし……、ある方からタレコミを頂いたのだ……。
「あるみたいだよ。中はどうなっているか分からないけれど……」 と。
ヒントは……、現道のすぐそば。





ありました……

06.3.18
12:15

 初めてここに来たのはもう3年も前のこと
前夜半からチャリをこぎ始めて、殆どぶっ通しで200km近くも駆け抜けた、今の私からはちょっと考えられない旅だった。
駆け足でこの鵜泊隧道も通過しているが、旧隧道の存在はリストで知っていたものの、一目見て「なし」と結論付けてしまっている。
 次に来たのは昨年2月、まだ随所に雪が残る中であったが、存分に輪行を利用しての走行距離的には短い旅だった。
この時には落ち着いて付近を捜索し、旧隧道とおぼしき隧道を発見したのは前述の通りである。

 そして、今年、遂に私は車という利器を手に入れていた。その倒された後部座席には、過去2回の現地入りを支えた英雄が、些か窮屈そうに押し込められていた。
私はとても楽をして、代わりに出るガソリン代が痛くはあったが……、この地へ3度目の訪問を果たした。
雑多だが活気に溢れた美しい漁港の景色にも、ただアクセルを踏んだだけで来てしまったとなれば、チャリでへとへとになって辿り着いたときのような感慨は、残念ながら無い。
それだけに、密度の濃い発見を期待していた。



 鉾立岩という名の付いたその名の通り天を突くような岩塔が目印の鵜泊漁港を背に、国道345号線を村上方面へ進むとすぐに鵜泊隧道がある。
鵜泊の北に接する勝木(がつぎ)から村上へと南下する国道345号線は、景勝地「笹川流れ」を間近に見る観光ルートでもあるが、多くのトンネルが連なり、道路ファンにとっても楽しい道だ。そのひとつ目のトンネルがこの、鵜泊隧道である。

 トンネルへ向けて屈曲しながら上る国道より一足早く、並走する羽越本線に穴が訪れる。
私が付近に車を停めて鵜泊隧道へと歩き出すとすぐに、短い警笛を伴って真っ赤なディーゼル機関車が狭い鉄道トンネルから颯爽と飛び出してきた。
咄嗟にカメラを向けながら見ていると、まぁ続くこと続くこと。狭いトンネルの中にこんなに列車が詰まっていたのかと(←そんな風に考える方がオカシイ)、そう思うほどコンテナ車が出てくる出てくる。



 次いで見慣れた鵜泊隧道が見えてきた。
このトンネルもかなり古ぼけており、トンネル前後の線形も急なカーブとなっていて悪く、これを明治の旧隧道を拡幅したものであると一度は結論づけたのも無理はないと、今更に思ってしまう。
このトンネルが竣功したのは、昭和40年代の後半頃だと思うが、現地にはその答えとなるようなものは見当たらない。

 それはさておき、過去2回も私の目を退けてきた先代の隧道は、本当にこのそばにあるのだろうか?!



 まずは現トンネルの内部を覗いてみる。
が、過去2回もそうであったように、旧隧道に繋がるような糸口は見当たらない。
こちら側の坑口ではないのか?
だが、反対側については前回徹底的に捜索し、民家へ続く小さな横穴なども発見したが、逆にそれ以外の隧道がある可能性は無いと結論づけられている。

 何かがあるとすれば、前回も余り探さなかったこちら側か……。



 キターー。

 墓だ。
墓へと降りてみないとなかなか見つけられない場所にあったのだ。
現トンネルの坑門の外側、いくつかの墓石が立ち並ぶその奥に、明らかに隧道らしき暗がりが見えた!



   こっ、 こいつが……。

 こいつが、真の鵜泊隧道なのだろうか。

だとすれば…
鵜泊隧道
延長=57.0m幅員=1,5m
高さ=2.0m竣工=明治31年
覆工=木造舗装=未
というおぞましいスペックが、この中には今も残されているのだろうか?!

 そう、気が付いた方は驚いていい。
この隧道の竣功は、国道345号線の全身である主要地方道村上温海線の勝木〜村上間にあった23の隧道の中でもダントツに古い、明治31年。
そして、23本中唯一の明治竣功隧道なのである。



明治木造隧道の真実


 すでに坑口断面の形に人工的な面影は殆ど無く、天井が崩れる形でかなり上の方に空洞が伸びている。
一方で、崩れ落ちた土砂が坑口に溜まり、もともとの坑口の高さと同程度の山を作っている。
内部を伺うためには、この土砂の山を乗り越えねばならない。

 これまでも幾つもこのような隧道は目の当たりにしてきたが、坑口に積もった土砂に半ば埋もれた支保工を見つけた時、リストに書かれていた「木造」という言葉が強く頭を過ぎった。



 久々に、立ち入ることに躊躇いを感じさせる坑口の様子だった。
「溜め」を作るといえば分かり易いか、ともかく、私はこのような「大物」と出会ったときにはすぐに立ち入らず、十分に気持を落ち着かせてから入る。
この隧道には、冷静になるための時間が必要であった。
なにせ、今目の前にある隧道こそが、おそらく明治期の姿から殆ど変わらずに残されたであろう、極めて貴重な隧道なのである。
3度目に遂に発見したのだから、喜びはひとしおであった。



 振り返ると、そこは鵜泊漁港を一望できる墓所。
近代的に区画分けされた墓ではなく、小さな墓石も大きな墓石も、風化するほどに古いものも新しいものも、狭い敷地に一緒に立ち並んでいた。
現トンネルが掘られる前から、やはり道の脇に墓がこうしてあったのだろう。
隣の村との間を物理的に分ける隧道は、峠には古くから道祖神(地蔵)や庚申塔などを立てて悪霊の村へ侵入するのを防ごうとする考えがあったのと同様に、霊的に特別な場所であると考えられていたのかも知れない。
立地的にはかなり曰くありげで、気の弱い人は近付くのさえ嫌かも知れない。



 この日は一人での探索なので、私もちょっと目の前の闇に抵抗を覚えたが、踏み込まねば真実は掴めないと奮い立たせ、SF501を手に崩れ落ちた瓦礫が作った山を乗り越え、地の底へ続くような隧道へと下り立った。

 そこには、触れればブヨブヨで、もともとが堅い木であったとは信じられないような朽ちた支保工が一面に存在していた。
淀んだ空気を吸い込むと、かび臭さと土臭さで緊張感がさらに高まる。
僅か57mと記録されている隧道であるが、行く手に明かりは見えず、その結末が予感された。



 朽ち木の間をくぐって、いよいよ内部へと足を踏み入れる。
天井から崩れ落ちた砂のような土砂によって支保工は崩され、半分程度は崩れている。
そう数は多くないが、誰かが持ち込んだ木の桶が散乱しており、倉庫のようにして使っていた時期もあるのだろうか。

 現トンネルとは薄い岩盤を介して接している筈だが、不思議とその音は外から僅かに届くのみである。
落ち着いて辺りを観察することにもストレスを感じるような、大変な居心地の悪さだ。



 振り返るとすぐそこにある光にホッとする。
雑多な物が足元には散乱しており、その上それらはどれも触るだけで崩れるほどに朽ち果てている。
頭上に残る支保工もやはり同じように脆くなっているのだろうと思うと、嫌だった。



 入口から10mほど進むと、深い水溜まりに行く手を遮られた。
辺りには地下水が湧きだしている気配もなく、単に雨水が溜まったものだろう。
寒い時期だったからまだ良かったが、夏場などにはちょっと足を踏み入れたくない色の、淀んだ沼地だ。

 正直いって、水没用の靴を履いてこなかったこともあってここで引き返したかったが、反対側の坑口を確認できていないことから、この機会を逃せば内部の詳細を知ることはできないと思い、我慢してスニーカーと靴下のまま、入水する。
水深は思ったよりも深く、膝まで沈んだ。
しかも、もの凄くヘドロ臭い空気が洞内に充満してしまい、さらに逃げ出してしまいたい状態になってきた。



 その先、僅かではあるがとても良く原形を留めている区間があった。
これぞ幅1.5m、高さ2.0m、そして木造という隧道の正体である。
木製の支保工の頭上にはさらに2mくらいの高さの空洞が存在しており、支保工自体が壁に接してはいないことからも、支保工は地圧に対抗するための物ではなく、単純に壁の崩落などから通行人を守る為のものだったようだ。
その意味ではこれは支保工と呼ぶべきではなくて、単純に洞内の落石覆いだということになるのだろう。
明治の人たちも、この中をくぐって隣村へ行き来したのだろうか。
さすがに車が通ったことは無さそうだが、どうだったのだろう。



 深い沼には、漁師道具のガラス玉がたくさん沈んでいた。
私はそのうちのいくつかを泥沼に手を突っ込んで拾い上げてみた。
綺麗な物を持ち帰ろうかとも思ったのだが、出口の墓のことを思い出して、物を持ち出すのは止めようと気持が変わった。

 坑口から30mほどで行く手に異変が現れた。
天井の材木がそっくり奥へと滑り落ちている。
一体何が起きているのか。



 朽ちた材木には、一面に真っ白な毛が生えており、それはカビの塊なわけだが、極力手を触れないように気を遣った。
それでもやむなく体を擦らせて奥へと進むわけだが、その度に、新鮮なシイタケの香りを嗅いだ。
ここが産直品売り場で、本場のシイタケを品定めしながら嗅ぐのであれば、おそらく美味しい香りだと思うに違いないのだが、キノコの形でさえないカビの塊の匂いがシイタケと同じ香りなのを感じて、シイタケが少しだけ嫌いになってしまった。



 そして、案の定、隧道は完全に閉塞していた。
おおよそ坑口から40mで塞がっていた。
残りはもう20m弱あったはずだが、或いは反対側の坑口からずうっと埋まっているのかも知れない。

 私は内心ホッとすると、沼の中を引き返した。
崩れ落ちた支保工の材木が、水の上に多数浮かんでいる。
これに足を載せると大変で転んでしまいかねない。



 既に命運尽きた、明治の木造隧道の姿。
生活と密着して生きてきただろう隧道は、最後まで純粋に道としての使命を全うしたのだろう。
役目を終えた隧道は、それが貴重なものであるという認識を持たれることないまま、静かに、そして確実に消え去ろうとしている。



 なお、反対側の坑口もやはり埋まっていた。
これは、前回の探索で紹介した横穴の先の一軒家の背後の斜面を撮影したもので、そこにはお椀をひっくり返したような凹みが見えた。
しかし、口は完全に埋もれていることが一見して見て取れたので、住民の感情も踏まえ、フェンスへよじ登るのは遠慮した。





 最後になるが、周辺の地図を掲載しよう。
現トンネルと今回紹介した旧鵜泊隧道の位置関係は、このようになっている。
明治の隧道といえば、鉄道隧道がそうであるように、煉瓦や石材を多用した重厚で威厳に満ちた物をイメージしがちだが、生活のために必要とされた素朴な隧道もまた、数こそ少ないが存在したのである。
決して幹線道路ではないこの道にある鵜泊隧道は、そんな明治の生活隧道のひとつであろう。

 なお、リストに記載されていた隧道についてはこれでスッキリと解決したが、一方で新しい謎となってしまったのは、前回に紹介したさらに狭く短い隧道の正体である。
あちらも明らかに人工的に掘られた隧道であり、明治31年竣功の旧隧道のさらに先代の隧道だとしたら、これは日本有数の古隧道という可能性さえある。
その存在自体が極めて地味で、いまだにこの山行が以外では語られたことがないと思われる鵜泊の隧道群であるが、今後も皆様からの情報をお待ちしている。