| ▼番号 | 書き込み日時 | 書き込みURL | 点数 |
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| コメント | |||
| 59,663 | 2026-03-05 14:06:36 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 持っている | |||
| 52,761 | 2023-10-19 14:16:21 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| よかった | |||
| 52,022 | 2023-07-10 12:56:57 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 大原側の笹の田トンネル手前、急なS字カーブを上り切った道沿い右下(杉林)に、頭の無いお地蔵様が奉られてその手前には湧き水が残ってあります。当時の道路建設にあたりギリギリに残してくれた痕跡を感じられます。なぜこんなところに?と思うでしょうが昔の事を書いてある冊子には事情が書いてあります。その名は くりしみず地蔵 案内標識も何もありませんがお賽銭があったりします。 | |||
| 51,916 | 2023-06-21 13:15:27 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 国道343号がまだ国道になる前、道路が砂利道の頃、大東大原松ノ木田の路線バスの待機場の所に馬頭観音様の石碑がありました。40年代後半の思い出です。R5 6 21 | |||
| 51,855 | 2023-06-08 20:03:30 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 宿場町として栄えていた大原の町の街道には江戸時代から大正まで道路の真ん中に関が流れていました。これは物資を運搬する牛馬に水を与える為に設置されていたそうです。江戸時代、大原から気仙に向かう今泉街道は山口川沿いに有りました。今の山口地区の国道343号の所は明治後期まで赤松が生い茂る松林でした。その後に開墾して田んぼにしたのです。また山口一帯には五葉山系に生息する猿が明治時代辺りまでは出没していたそうです。そうした関係で山口には庚申塚(石碑)が数ヶ所にあります。江戸時代の人々は、お猿さんが人間の悪事を神様に告げ口するのを防止するために年に何回か地域の庚申塚の場所に集まり、夜通し飲食をしながらお祈りをしていたのです。此を庚申講と言います。近年も何回か雄のはぐれ猿が出没しております。またいつの時代か詳細は不明ですが山口には昔、天台宗のお寺で宝龍寺と言う寺院がありました。現在、このお寺さんの子孫の方のお宅には樹齢数百年の巨大な榧の木があり国道から見えます。この様に今泉街道のあちこちに歴史の逸話があります。 | |||
| 51,844 | 2023-06-04 19:05:13 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 今日、陸前高田市で天皇皇后両陛下をお招きし全国植樹祭が行われました。陸前高田市には吉野杉、秋田杉に並び称される気仙杉の産地で古くから林業殖産が盛んに行われて来ました。今日でも伐採や植林、そして製材なども盛んで特に矢作町に業者や製材所が集中しています。その様な中で植樹祭が地元、陸前高田市で実施された事は林業に携わる全ての方がの大きな励みになったのではないでしょうか。令和5年6月4日 | |||
| 51,746 | 2023-05-09 06:48:17 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 矢作の小松倉橋が大正時代に完成しコンクリート橋であるのはやっぱり林業と関係性があるのかなと思います。土橋では重い木材を積載したトラックが走るには限界があったはずです。矢作地域は戦前から林業が盛んでした。一方、山林はあるけど林業が余り盛んではなかった笹ノ田峠を越えた大原の市街地の外れにある新山橋は昭和50年代まで土橋で欄干も低く危ない橋でした。当時、中学生が自転車で走行中に休憩するため欄干に足を掛けた時、バランスを崩し下の川に転落するという重大事故まで発生しました。その直後に急遽、背丈の高い仮設の欄干を役場職員が設置したそうです。話しを矢作に戻します。当時の木材の運搬方法の一つに川を利用しました。馬引きが山の斜面から木を引き出して川の水量が豊富になる場所まで持っていき其処から川に転がり下ろして下流まで川の水を利用して運搬しました。昭和60年代頃までやっていました。そして現在でも林業は盛んに行われています。気仙や地元の製材所や企業が組合を作りプレカット工場を設置し製材から加工出荷運搬まで行い県内は元より関東まで製品を出荷しています。その製品を載せたトラックが今泉街道、国道343号の笹ノ田峠を毎日の様に走ってます。 | |||
| 51,611 | 2023-04-06 11:08:11 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 東日本大震災を経験して思った事それは万が一に幹線道路が遮断されても通行出来る代わりとなる道路を常に整備しておくことだ。一関市大東大原と陸前高田市を結ぶ国道343号は震災のときは高田の下矢作迄は通行する事が出来たが数年後に陸前高田市矢作町坂下で発生した法面崩落により何月も通行止になる事態が発生した。本当に震災の時でなくよかった。万が一に備え緊急車両が往き来できる様に今、現存ある林道の整備は重要ではないか。例えば、室根高原から矢作町小黒山へ通じる林道。大原下内野(下内野から当摩へ行く途中に左に入る林道)から陸前高田市矢作町生出へ通じる林道。さらに、大原内野から蛇山牧場を通り住田町世田米の国道397号の津付に通じる林道などだ。せめて緊急車両が何時でも通行出来るように道路に覆い被さってる木や倒木のおそれのある木などは前もって伐採しておいた方が良いのではないかと思う。勿論、路面補修も常に整備が必要だ。以上東日本大震災の時の緊急車両の車列を見て思った事です。一関市と陸前高田市両方に縁がある一関市民より | |||
| 51,579 | 2023-04-01 09:58:23 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 東日本大震災の前年だったと思いますが自衛隊は三陸沿岸に津波が襲来した時に備え大規模な演習を行いました。その時に陸前高田の矢作町上小黒山の路線バスの折り返し場所でバイクに乗った偵察部隊員の方を見かけました。又、同じ日に一関市大東耵大原の上空を飛行する陸自のヘリコプターの編隊が多数飛行しました。演習を終えて駐屯地に戻る途中だと思います。この自衛隊や警察、消防、行政、国、県、各市町村やライフラインを支える見なし法人や民間企業合同の訓練の必要性を早くから唱え各関係機関に働きかけたのが当時の遠野市の市長さんでした。本当に先見性のあった方だと思います。なぜなら翌年の東日本大震災の時に各関係機関が素早く行動する事が出来たのだから。正に備えあれば憂いなしですね。そしてあの日。3・11地震発生その後に津波が襲来し隣の陸前高田が壊滅したとのラジオ報道に衝撃を受ける。その直後に目の前の国道343号を一台の警察のパトカーが尋常でない速度を出しサイレンを鳴らしながら高田方向に走り去るのを見て事の重大さを実感する。これが被災地に向かう最初の緊急車両だった。その後夜通しで緊急車両が高田へ向け走って行った。高田で暮らす私の子供や親族や知人がみんな無事であってくれと祈ったあの日の事は永遠に忘れない。そしてあの日の事を語り継ぐと誓った。永遠に | |||
| 51,527 | 2023-03-13 09:17:48 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 今から12年前の3・11、東日本大震災の翌日午後3時頃に一関市大東大原の街に遠方から、今まで聞いた事もない重低音のサイレンが聴こえて来ました。我が家の目の前の国道343に近付いて来るとサイレンの音量は更に大きくなりました。そしてやって来たのは被災地に向かう関東の都県から編成された緊急救援消防隊でした。この長く延々と続く車列を見送りながら自然と涙が流れ出ました。本当に本当に有り難う。助けに来てくれて有り難うと心の中で何度も叫びました。この日の事は生涯忘れないでしょう。2023年 3月13日 一関市民 | |||
| 51,369 | 2023-02-02 11:13:06 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 昭和45年に岩手国体が行われた時、一関市大東町大原の山口の旧道(砂利道)、現在の国道343号の道路沿いにある倉庫の所で(後に、肥料倉庫やカラオケBOXに成った所、当時は、まだ建設中の時)炬火リレ−を私が保育園児の時に見ました。この炬火リレ−は陸前高田市から旧道を通り途中で交代しながら笹ノ田峠を越え走って来たのでした。松ノ木田のカ−ブの所に白い運動着姿の人と青白い煙が見えると保母先生(大原の書店の方)が近くに来たら皆で日の丸の小籏を振り大きな声でがんばれーって言うんだよって言いました。そして、目の前まで来ると園児も大人も口々にガンバレ−て言って見送りました。今から、55年前の懐かしい思い出です。 | |||
| 51,339 | 2023-01-24 09:45:01 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 今、50代後半から60代前半の大原山口地区の大人が小中学生の頃は、何度も笹ノ田峠まで自転車や徒歩で遊びに行きました。峠まで行ってただ帰って来るだけなのですが本当に楽しかったです。勿論、旧道ですよ!!峠の十字路から下の方に茅葺き屋根の家が数件見えました。今の当摩地区の家ですが当時は、まだ子供でしたので何処の集落なのか判らなかったです。丁度その頃は、笹ノ田トンネルがまだ工事中でした。旧道を歩いていると沢がある谷間の下方に橋を架ける工事が4ヵ所で行われており大原側に近い橋の2ヵ所は既に完成していてトンネルに近い橋はまだ工事中なのが見えました。この工事を行っていたのは昔、岩手三陸地方最大手の丸哲と言う建設会社でした。大原の新山橋の近くに工事事務所がありました。現在は地元建設会社の倉庫が立ってます。話は替わって小黒山の人首(ひとこべ)から旧道を通り現国道343号へ合流する所に止まっていたダブルキャブの道路維持車両は陸前高田の〇〇川建設もしくは、〇立建設の車両です。一関市と陸前高田市の境、標示合から高田側の国道343号の道路維持作業を行っている建設会社です。車両が止まっていた廃道は以前は地元坂下の子供K君のマラソンの練習コースでした。おそらく、一番最後まで旧道を利用した人だと思います。その後は、春に、たまに山菜採りに入る人がいたでしょうけど年月が立つに連れ文字通りの廃道となりました。そんな状況の廃道から突然、レポ−タ−の貴殿が自転車を押して現れたのだから作業員の方もビックリしたでしょう。でも、ドライバーにとって彼ら作業員の方々は守り神みたいな存在です。冬は寒い朝、早く起き除雪車で除雪をしてくれます。また、落石があれば石を片付けてくれます。カ−ブミラ−が汚れていればキレイにしてくれます。大雨が降り沢から土砂が流れ出た時に片付けてくれます。本当に彼らがいなければ車は安全に走行出来ません。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。そんな中で車から空き缶やゴミをポイ捨てしているドライバーは、後でバチが当たりますよ。覚悟してください。 | |||
| 51,329 | 2023-01-21 17:59:26 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 陸前高田市矢作町は森林資源が豊富で江戸時代中期から明治初期までたたら製鉄が盛んに行われて銅屋(製鉄所)が各所に有りました。雑木林から切り出した木を炭焼き釜で焼き木炭を生産して炉の中で砂鉄と一緒に燃焼させ銑鉄を取り出したのです。この一連の作業を行った施設を銅屋と呼びます。製鉄を行うには大量の木炭が必要でした。雑木林を伐採しきり終わると銅屋は次の雑木林がある場所に移動しました。勿論、炭焼き釜も次の場所で新しく造り直しました。では、砂鉄は、何処から調達したと言うと大原の内野からでした。内野地区を流れる川には花崗岩が風化して出た鉄(砂鉄)が川底に大量にあったのです。砂鉄川の名前の由来となりました。内野で採集した砂鉄は牛馬の背に乗せて当摩を通り今泉街道の笹ノ田峠を越え小黒山へ、又は銅山を越え黒森に、さらに、内野から峠を越え大松沢を下り生出まで運ばれ製鉄に用いられたのです。本格的な西洋式熔鉱炉での製鉄が釜石や大東の京津畑で江戸後期に始まっていましたが主力は明治初期迄は、矢作や大原では、たたら製鉄でした。大原の山口集落にも山口川の脇に銅屋が明治初期まで在りました。この山口川の川底には今でも川底に、たたら製鉄で出た銑鉄屑が多く見られます。木炭生産は昭和30年代後半まで盛んに行われていました。戦前又は、戦後直後に皇室(戦前は国有林は皇室の山でした。)から地域の人々に払い下げになった山林は平等に分配され(くじ引き方法が多かったみたいです)、地区共同釜や各個人所有の釜で木炭生産が行われました。矢作の坂下や小黒山では各釜で生産された木炭を今泉街道の路肩脇まで出し積み重ねてトラックに乗せて大船渡線の矢作駅まで運びました。当時の矢作駅は貨物列車に積み込む木炭が大量に矢作の各所から集まり積込人夫も多く賑やかだったそうです。しかし、昭和30年代半ばから徐々に化石燃料への転換が始まると木炭の需要も衰退が始まります。しかし矢作では、木炭生産で荒廃した山林への植林事業が盛んになり苗の植樹から山林の管理そして伐採から切り出し運搬と製材までの一連の仕事が事業として成り立つようになります。今でも矢作地区には伐採切り出し専門の会社や個人事業者もおります。更に製材会社も数件有ります。陸前高田では矢作地区に林業に関係している会社や個人事業者が集中しています。今泉街道時代から旧道そして現在の国道343号は時代が代わっても地域の産業を支え物資輸送や人々の往来の重要な路線となってます。 | |||
| 51,313 | 2023-01-14 13:59:17 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 大原側から松ノ木田のカーブを過ぎて3っ目のカーブがある沢(国有林と県造林の境)にはサンショウオが生息しています。また、この沢を下って行くと戦前から戦後迄、付近から掘り出した石灰岩を焼いた石造りの炉の跡が有ります。当時唯一自給自足出来たのが石灰肥料でした。理由は大原山口の松ノ木田の辺りは花崗岩と地殻変動で海底が隆起した石灰岩の境い目で石灰岩が豊富にあったからです。大原の市街地から東方向を見れば判りますが山の上に山が折り重なる様な形となってます。岩手県内でも珍しい山体形容となってます。松ノ木田から沼ノ沢そして下内野の松井、さらに北に縦断し京津畑辺り迄、石灰山となっており北上高地の矢作や住田町そして、大原の一部は太古の昔は海の底だったのです。 | |||
| 51,310 | 2023-01-13 10:37:42 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 旧道の笹ノ田峠の頂上は法面の上に一本桜の大木が有る所です。付近に近年、ある方が高田方向から来て右側にある山中から江戸時代に大原当摩の方々が出羽三山詣でを記念して建立した石碑を重機で引っ張り出して旧道の路肩に設置した辺りです。ここから高田寄りに十字路があります。真っ直ぐ進んで行くと大原内野地区当摩集落に出ます。道路左側側に大正13年2月1日に出来た臨時教育場跡の建物が有ります。この道路を下って行くと旧下内野集会所の所で大原から内野へ行く道路に出ます。峠の交差点に戻って右側に上り坂が見えます。この先は、神奈川県平塚市に本社がある国内でも有数の農林水産大臣が視察に来たこともある養豚場が有ります。一般車両は防疫の為、進入禁止です。交差点の左側(レポートにある写真の原っぱ)に昔、牧草地だった原野があります。現在ここは、東日本大震災が原因で発生した福島の原発爆発で放射能汚染した一ノ関の草木や落葉を埋設処理する場所となっています。付近には看板等は設置されていません。この辺は春になると山菜が採れる所ですが念のため注意して下さい。 | |||
| 51,291 | 2023-01-09 18:27:22 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 笹ノ田の旧道を車で通行した事がある方なら判ると思いますが、あの道路は昼間に走るより夜の方が走り易いかったのです。そんなバカなと皆さんは思うと思いますが、此には理由が有ります。何故なら対向車のライトの光が見えるからです。昼間だと山の稜線のでぱったカーブの所で対向車を発見出来ればいいのですが其以外の山のへこんだ谷間や沢付近を走行している対向車は見えないからです。又、仮に出っ張りカーブで対向車が来るのを見つけたとしてもその時は、相手側もこちらの車を発見認識している訳で人間考える事は同じで今、対向車がきたのが見えたから少し道幅の広いここで待っていようとするのですが。しかし、お互い同じ判断なので1分、2分待ってても対向車は来ません。お互い痺れを切らして走り出すと、こをな時に限って道路の一番狭い所で鉢合わせした事など何回も有りました。ですから夜の方が走りやすいのです。皆、異口同音同じ事を昔言ってました。 | |||
| 51,286 | 2023-01-08 11:04:17 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 1980年代。私は一関市(大東)を離れ神奈川県川崎市で会社勤めをしておりました。その会社の社員旅行で静岡県の河津町から天城峠(国道414号)までボンネットバス(伊豆の踊り子号)に乗って行くと途中にループ橋が有りました。河津七滝ループ橋と言う二重螺旋の橋です。その時、ふっと自分が幼少児だった頃の思い出が蘇りました。笹ノ田の旧道(砂利道)を母とボンネットバスに乗り矢作の叔父の家に往き来していた頃の思い出です。その当時から二十数年後の今、笹ノ田にループを建設中である事。そして自分は今、伊豆の山の中で一足早くループ橋を渡ろうとしている事。しかも昔懐かしいボンネットバスで車種もメーカーも同じ。そんな事を頭に過りながら天城のループ橋を渡った事があった事を道路レポートの記事を拝見しながら思い出しました。今回、当レポートに何通か報告させて頂きましたが、どんな道にも喜怒哀楽的な思い出が沢山、人其々にあるんだと思います。道路を作った人の話し。仕事や旅行で通行した時の思い出。祝い事。親しかった人との別れ。悲しい。悔しい。日常生活。愛する人との思い出など様々な思い出である事でしよう。矢作の梅木から大原の中島まで間ですが旧道を通行した事がある方なら、まだまだいっぱい思い出話が必ずあるはずです。歴史に埋もれ忘れ去られて行く旧道や廃道など見るとなんか悲しい思いが今まではしていましたが、道路レポートの記述者の貴殿が笹ノ田の旧道を取り上げて下さったお陰で数々の懐かしい思い出が甦りました。本当にありがとう御座いました。 | |||
| 51,281 | 2023-01-07 10:46:11 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 最後の写真の所の手前、右側に昭和38年に県南バス株式会社大東営業所が開設されました。(八幡神社参道入口の左側で現在は建設会社の残土置き場)其までは、大原には戦前から戦後直後まで地元資本による大原乗合自動車と言う会社があり大原と摺沢駅の間に木炭バスを走らせて降りました。摺沢と大原の途中にある大森峠の坂では木炭バスのパワーでは登りきる事ができず乗客がバスから降りて後ろから押した事も在ったようです。ディゼール機関を搭載したバスが走るには昭和38年の県南バスの営業所開設まで待つしか有りませんでした。一方、笹ノ田峠を越えた気仙地方では昭和24年4月に県南バス株式会社が大船渡に営業所を開設。同年5月には陸前高田に出張所を開設しました。この頃に、今泉街道では道路の拡張や修繕などの工事が行われ矢作町の坂下や小黒山でも工事が行われました。この時、工事を請け負ったのが盛岡の建設会社で飯場が坂下に在りました。(現国道343号坂下トンネルを出た所の写真の右側に民家が写っている手前)昔、馬を入れていた納屋みたいな建物を改装して飯場にしました。当時、お昼頃になると賄いの、おばさんが大声で近くで働いていた作業員に向かってご飯だぁようて叫んでいたそうです。又、その頃になると、坂下や小黒山でも電灯線を引く事になり、館木に行く沢沿いに有った坂下や小黒山の共有林から地区民総出で木を切り出したそうです。切り出した木は乾燥させタールを塗って電柱に使用したそうです。 | |||
| 51,271 | 2023-01-06 11:17:42 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| レポート1 の二又から世田米迄の県道246について、この道路は二又の白糸の滝手前と生出地区の約500M位が対面通行出来る道幅ですが後は車一台が通れる位の道幅しか有りません。生出の平坦地を過ぎると急カーブ急勾配の上り坂で4キロ位走ると峠の頂上で陸前高田と住田町の境となり車が止まれる駐車出来るスペースが有ります。ここから条件が良ければ北西方向に早池峰山をの望むことが出来ます。ここの峠の名前を折壁峠と言います。折壁とは、アイヌ語で切り立った崖が有る所と言う意味です。そして、ここから下り坂に成ります。勿論、急勾配急カーブの連続で車が一台通れる位の道幅しか有りません。しかし、この道路には楽しみも沢山有ります。まずは、野生動物に会える確率が高いです。鹿、カモシカ、タヌキ、キツネなど出没します。また、運が良ければ山親父、熊さんに会えます。さらに春になれば山菜が採れます。また秋に成れば紅葉も綺麗です。峠から下ると民家が数件ある所に出て国道と合流します。この国道は種山ヶ原を通り水沢に行く道路です。尚、冬季は生出と大股の間は通行止に成ります。話しは代わって、生出地区に閉校した小学校が有ります。ここは、東日本大震災の後、臨時の陸前高田市博物館となりました。高田市内にあった博物館は津波に呑まれて貴重な文化遺産が流出しました。泥だらけに成った貴重な資料や展示物そして保管物の修復を生出の閉校した小学校で行ったのです。秋篠宮殿下が陸前高田に慰問に来られた時に生出の博物館にも来られ修復作業を御見学しました。ここ生出地区の方も津波の犠牲に成った方が何人もいます。合掌。 | |||
| 51,269 | 2023-01-05 13:52:25 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 2 中平〜坂下の大正時代に竣工した橋の名前は小松倉橋です。私の母が結婚する前、未だうら若き乙女?の時に近隣のお姉さんと自転車に2人乗りをして玉砂利にハンドルを取られコケて膝をがたくった(怪我をした)所です。尚、2023年1月時点、小松倉橋は通行止と成ってます。 | |||
| 51,263 | 2023-01-03 16:43:56 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 坂下トンネルの写真の所を左側に入ると旧道です。直ぐにトンネル出た所に出ます。このトンネルの上の稜線を地元では熊の背(くまのせ)と呼んでます。理由は熊が屈んだ時の背中が丸なったときの形が似ているからです。 | |||
| 51,259 | 2023-01-02 15:52:55 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 仙婆巖には気仙風土記に書かれている様に仙婆巖の崖の上から幼子が落とされ亡くなったと言う余りにも悲しい言い伝えが有ります。レポートの写真、一番目の所の梅木トンネルをくぐり出て左側を見ると大きな洞窟の入口があります。昔、ここから犬を入れたら何日か後に、気仙沼の神明崎の所に傷だらけになって出たと言う言い伝えが有ります。又、洞窟内を流れる川で赤い魚を見ると亡くなると言う話しも有ります。以上、これら今日まで伝わる昔話です。話しは代わって、太平洋戦争の時の出来事です。昭和20年3月、沖縄に米軍が上陸し6月に沖縄が陥落して、いよいよ本土上陸となったある日、矢作町青年団が仙婆巖の洞窟内に軍事関係の作業所を設置するため資材の搬入をしていた時、三陸沖に展開していたアメリカ海軍機動部隊の空母から発艦した艦載機に人の出入りが見つかり洞窟の入口付近に小型爆弾を投下されましたが幸いにも死傷者は有りませんでした。陸前高田では昭和20年7月15日と8月9日、10日に空襲を受けており気仙川に架かる姉歯橋が銃撃され橋のトラスト鉄骨に穴が開きました。又、10機位の編隊機による銃撃が行われ市内では死傷者が出ました。又、笹ノ田峠を越えた大原山口でも太平洋戦争の時の話しが有ります。今の山口会館の所に昔は山口農業組合の作業所と呼ばれ中におしゃれな洋風の手摺が付いたニ階建ての建物が有りました。昭和20年の夏、7月か8月のある日、大人と12〜13歳位の子供は田畑で作業をし幼い子供たちは作業所の庭で遊んでいたその時です遠方に挑む室根山の方からキーンと言う音が聞こえ室根山の右側を折壁方向から超低空飛行で払川、藤ケ崎、そして山口の作業所の真上を飛んで行ったそうです。田畑で農作業をしていた大人や子供は直ぐに逃げ隠れたそうです。又作業所で遊んでいた幼子も全員無事でした。この8月は10日に一関の駅前が空襲され32発の爆弾の投下と艦載機による機銃射撃によって34名の方が亡くなるなど長閑な田園が広がるこの地域も戦争とは無縁では有りませんでした。話しは代わって、旧道が一ヶ所増えましたので報告します。国道343号大原バイパスの開通及び、大原山口地区の田畑の基盤整備により大原山口下一ノ通の現国道343号と県道大原折壁線の交差点の右側(山口会館方向から現、大原小学校方向に向かって)の道路法面下に遮断された国道=旧道長さ30M位が発生しましたので報告します。 | |||
| 51,253 | 2023-01-01 08:00:47 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| レポートの 2 中平〜坂下の写真4枚目。ここの手前250M位に左側に入る道路が有ります。中平川に沿った舗装道路ですがこれが旧道に成ります。写真の所で合流します。ここの写真の道路を挟んで右側に中平や坂下地区の公民館が山側に有ります。ここに林道の入口があり上に登って行くと大理石を採掘した鉱山跡が有ります。この鉱山は扶桑興業株式会社が昭和18年4月に生石灰の製造を始めました。昭和19年に軍需管理工場に指定され炭酸カルシウムの製造に切り替えました。終戦後、昭和26年に横浜全国博覧会に大理石を18種類を出展しました。この鉱山の特徴は大理石の種類の多さです。切り出した石の色、そして断面の模様で分類されそれぞれ名前も有りました。桜 牡丹 霞み 山吹などです。単一の山から此程に多彩な大理石が出る山も余り他にはなかったと思われます。昭和26年に別会社の東北石材株式会社が本格的に大理石の採掘を開始しました。この山には遠くは岐阜県や秋田県などいろんな所から作業者が来ていました。また、終戦後に日本に止まった朝鮮半島出身の方々も居りました。日本人も朝鮮人も分け隔てなく仲良く作業していたそうです。この鉱山には社宅があり家族一緒に暮らして居たそうです。また、子供たちが40人位おり二又の小中学校に小黒山や坂下、中平の子供たちと一緒に通学したそうです。ここの山で切り出した石はトロッコで途中まで下げ、あとはワイヤーロープで下迄降ろしたそうです。この作業を行っていた方々は胆沢の若柳から仕事に来ていた鳶職人の人達でした。麓に降ろされた大理石はトラックに載せて北上の村崎野にある別会社の工場まで運ばれ、そこで研磨加工され県内や全国に出荷されたそうです。 | |||
| 51,250 | 2022-12-31 14:54:08 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 大原山口の松ノ木田のカーブの所の写真の手前にカーブに沿って左側に旧道の一部が残ってます。話しは代わって、このカーブの所に人が一人通れる位の山道が有ります。カーブの所からこの山道を下って行くと山口地区の一番奥に行く舗装道路に出ます。昔、地元の方が上のカーブを目指してして山道を登っていると何ヵ月前に亡くなったはずの方が山道を下って来たそうです。合掌。 | |||
| 51,243 | 2022-12-30 10:56:00 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 高山トンネルの付近は地元でも有名な熊の通り道が有る所です。トンネルが有る稜線を上に登って行くと国内でも有数の養豚場が有ります。熊は、ここのエサのおこぼれを頂戴する為に往き来しているそうです。話しは代わって、宝鏡山の話です。矢作の上小黒山から県道大原折壁線に抜ける林道が有ります。この林道と沢がある稜線の阿弥陀峯に1389年に水沢の正法寺第ニ世が宝鏡寺を建立しました。しかし、その後の1524年の2月に火災で寺は全焼してしまいます。その後の1524年の6月に矢作村の玉眼沢に移転に成ります。しかし、今度は大雨により沢が増水して本堂が流失してしまいます。この時に観音様も濁流に呑み込まれ流されました。しかし、このレポートの出発地点である梅木の橋が有る所で近くの家のご先祖様が、川岸に観音様がひっかかているのを発見し自宅の裏山に小さなお堂を建立しました。今、猫神社と言われる付近に有ります。さて、この宝鏡寺には有名な虎猫の伝説が伝わっています。ある日、宝鏡寺の和尚さんが用事を済ませ寺に戻る途中で痩せた虎猫を見つけました。不憫に思た和尚さんは寺に連れて行き元気になる迄、寺で一緒に暮らす事に。その後、虎猫は元気になり寺で暮らして居たそうです。所が、ある日から行方が判らなくなり和尚さんは大変心配したそうです。そんなある夜、和尚さんは虎猫の夢を見ました。虎猫は、和尚さんに、長部の商家で亡くなった人が居て明日、葬式が有るから行って見ろ。と言う何とも不思議な夢でした。次の日の朝に目覚めた和尚さんは夢が気になり長部迄、行く事に決めて寺を出発して道中、昨夜の虎猫の夢を思い返しながら歩き長部の商家に着くと虎猫の言うとうり、葬式の最中でしたが、なんだか様子がおかしいので家の中に入って見ると、なんと棺が宙に浮いており長部の近隣のお寺の和尚がお経を唱えていましたが、何度もお経を唱えても棺は下がる事は有りませんでした。宝鏡寺の和尚さんが、其では私がお経を唱えましょうと言うと近隣の和尚は口々に貧乏寺の和尚がお経を唱えたって棺が降りる訳がないだろうと罵りました。しかし、商家の主は宝鏡寺の和尚さんに何とか棺を降ろして下さいと懇願しました。其ではと、にゃん虎、にゃん虎と宝鏡寺の和尚さんが唱えると、見事に棺が降りたのです。そして、葬式に参加していた人々は宝鏡寺の和尚さんこそ名僧中の名僧成りと誉め讃えました。さらに商家の主は、宝鏡寺の和尚さんに沢山のお布施と贈り物をしたと言うことです。葬式が終わり和尚さんが小黒山から沢をお寺に向かい歩いていると、沢の脇で亡くなってる虎猫を見つけ寺に戻り、手厚く葬ったそうです。その後、宝鏡寺は1528年に現在の場所、宮城県気仙沼市新月の新城に移転しました。(国道45号のガソリンスタンドが有る裏側の道路沿い) | |||
| 51,241 | 2022-12-29 16:20:55 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| いつの時代か判りませんが昔、今泉街道の小黒山辺りで追い剥ぎをする男がおり、旅人や通行人から金品を奪い、さらには殺害して幾人もの人を埋めたと言う言い伝えが有ります。その場所はレポートの中に有る尼堤トンネルの入口手前右側の砂利道を登って行った所です。30年位前に地元有志の方々が言い伝えを検証するため埋設したと伝えられている所を掘り返したそうです。しかし、いくら掘っても何も出て来なかったので途中で止めたそうです。 | |||
| 51,234 | 2022-12-28 15:41:40 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| シドケ洞橋を高田方向から渡り直ぐに右側に入る道路が有ります。進んで行くと旧道に出ます。そこに、沢に架かる橋が有ります。長さ5〜6M位の橋です。確か、この橋には昭和16年竣工のタイルプレートがあったはずです。 | |||
| 51,225 | 2022-12-24 08:49:07 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| レポート3の2枚目の写真を右側に入ると旧道です。ここのカーブの手前120M位の所を人首と云います。今は小黒山まで往き来している路線バスはフリー区間に成ってますが合場バス停があった所です。ここの右側の山の斜面に綺麗に整備されたお墓が見えます。いつの時代かは、判りませんが昔、この山の斜面を生首が転がり今泉街道に落ちて来たそうです。その首を直ぐ近くにある民家のご先祖様がお墓を建てて、代々ご供養して来たそうです。更に、現当主の方が風化した墓石の替わりに新しく建て直しました。高田方向から車で走って来ると見えます。話しは変わって写真のカーブの所に戻ります。この写真には写っていませんが写真のカーブの手前に左側に入る道路が有ります。この道路は現国道が出きる前に上小黒山へ行く砂利道でした。今はこの道路は現国道と重なっている所もあります。又、現国道から左側に入ると直ぐに左側に中平川に架かる橋が有ります。この道路を真っ直ぐ行くと気仙沼の上早�鵑暴个詈涸�された林道が有ります。その途中に左側に沢に架かる橋が有ります。この橋を渡ると砂利道の林道になり更に進ん行くと開けた所に出ます。この辺の地名を立木と言います。ここに、ポツンと一軒家で紹介されたお宅が有ります。更に進んで行くと、このレポートの出発地点である梅木の橋から左に入り飯森峠を越え気仙沼の上鹿折に行く道路の途中に有る、飯森地区の集会所の所に繋がる林道が有ります。この道路は大原側から笹ノ田トンネルを出て遠方の山々を見ると一部道路の脇の崖をモルタル吹き付けになって有るのが見えます。 | |||
| 51,222 | 2022-12-23 17:47:41 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 坂下トンネルの写真の所を右側に入ると旧道に入ります、又直ぐに現国道に戻りますが途中に黒森地区へ行く舗装道路が有ります。入口付近に桜の木が有ります。そこで、春になると坂下地域の人々がお花見をします。黒森地区に向かい舗装された道路を進んで行きますと黒森の集落に出ます。この辺は土地が開けていて田畑が有ります。更に行くと左側に民家が一軒有り、車はこれ以上通行する事はて来ません。その先は林道みたいになってますが一般車両は通れません。しかし、実はこの先は人が通れる位の幅の山道となってます。山道を銅山を目指して登って行くと峠の頂上に出ます。そして峠を下って行くと大原の内野にでます。昭和40年代位迄、内野人々が矢作や気仙町、更に長部や高田町に用事や行商に往き来したそうです。この時、内野の人々が銅山から下って来た時、又は峠を目指して登って行く前に休憩したのが黒森の一番奥の家でした。この家では代々、いつ人が来ても良いようにお茶と漬物は切らすなと言われてきたと言います。 | |||
| 51,221 | 2022-12-22 11:01:02 | /road/r343_sasanoda/main6.html | 10 |
| 陸前高田側から坂下トンネルを出て左側を見ると中平川に沿って杉の木が見えます。そこには一里塚が有ります。30年位前までは目印の松の木が有りました。又、直ぐ近くには清水の湧く所が有ります。今でも近くの民家ではパイプで清水を引いて利用しています。ここの一里塚は江戸時代に伊達藩の殿様ご一行が休憩した所です。夏の暑い時には殿様は清水に体を沈め汗を流したそうです。ここで休憩をした殿様ご一行の行列は伊達藩とは深い繋がりがある大原に向かったのです。道中は笹ノ田の峰々から流れ集まって流れる沢に沿って上小黒山を通り(ループ橋の下)笹ノ田峠を目指して登って行ったのです。坂下の一里塚から上小黒山までの間には一の渡りニの渡りと呼ばれた所が有りました。江戸時代は河川に橋を架けることは幕府の許可無しには出来ませんでした。ですから仙台の殿様も家来も馬も平等に?裸足になり川や沢を渡ったのです。旧道の笹ノ田峠には現在、峠の所に大原内野当麻の人々が江戸時代に講を作り山形の湯殿山、羽黒山詣でを記念して建てた石碑があります。この石碑は本来は旧道の右側の森の中にあありましたが、ある方がブルドーザーで引いて来て旧道の路肩に建てた物です。この石碑から100M位行った所に左側に下る道があります。これが今泉街道です。下ると現在の国道343号に出て横断して下って行きます。(笹ノ田トンネルの大原側の入口付近に室根高原に行ける道路の入口に砂利が敷かれた駐車場が有る所です。)下って行くと大原山口の一番奥の集落(行山流獅子踊り発祥の地で、踊りを岩手県南から宮城県北の各所に教え伝えた方が生まれた所です。)に出ます。さらに山口川沿いに今泉街道を下って行くと大原の宿場町に着きます。伊達藩と大原の関係について、江戸時代に大原には代官所が置かれ伊達藩の直領地でした。北方十七カ村の蔵米は全て大原に集められました。ですから人々の往来も盛んで様々な物資も集まる宿場町として栄えました。又、大原は伊達藩の殿様、吉村公の生誕の地でも有ります。吉村公が領内巡視の際、亡き父と幼少時代の大原の思い出を偲び大原八幡神社に短刀一振を奉納しました。八幡神社の左側の住宅地に江戸時代から明治初期まであった八幡寺(神仏併合信仰)で吉村公は学問を教えられてました。又、八幡様の境内は学友と遊んだ所でも有ります。吉村公は幼少時代の大原の事を決して忘れる事はなかったんですね。吉村公のお人柄がよくわかる逸話として現在の今日まで言い伝えられています。 | |||
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