ミニレポ第159回 国道252号旧道 持寄地区 後編

所在地 福島県河沼郡柳津町持寄
探索日 2009. 6.28
公開日 2010.11.19

深緑の只見川に臨む旧国道の跡



9:33 《現在地》

今回の探索は自分の中でも「小ネタ扱い」で、ただ藪を掻き払って終わりになることも覚悟していたが、苦労した末に予想外の坑門が出現したのには軽く震えた。

なお、夏場においてはこれ以上引きの構図で坑口の全体像を撮影することは難しい。少なくとも私のカメラでは。
藪が深すぎるせいだ。
分かりにくいので補助線を入れたが、ポータルの形状は変則的な五角形をしており珍しい。
矢印を付した位置は、ここに下ってくる直前に見えていた、当初“岩場”と思ったでっぱりの部分だ。


昭和33年頃の旧地形図には、この構造物は書かれていない。
また、お馴染みの隧道リストにも記載が無かった。
予想困難だったことがお分かりいただけるだろう。





呑み込まれそう…。

巨大な坑門にどきどき。


もっともこの“巨大”という評価は、突如目の前に現れたという“驚き”によって、幾分加算されている。
通常の遭遇のように、遠方から出現し徐々に接近したのであれば、ここまで感じ入らなかっただろう。
私は坑門から10mも離れていない位置に、斜面をくだって唐突に現れたため、普段以上の鮮烈な出会いを満喫することが出来た。

なお、期待された扁額のようなものは、この西側の坑口には存在しなかった。
それと、旧道では冒頭から出現していた一本の被覆線(電線)は、あたりに電柱も見えないのにどこからともなく現れて、それが当然のように空から坑内へと入り込んでいた。

…俺も入り込むぜ!




回廊。

整然と明かり窓が並ぶ洞内の様子に、そんな言葉が即座に思い浮かんだ。

これまた予想外だったが、それは隧道ではなく、アーチ形の洞門だった。

こんな1車線幅しかないアーチ形の洞門が何に見えるかといえば、鉄道用のそれに見える。

これは印象の刷り込みなのだろうが、鉄道用では非常に頻繁に見られる構造物だけに、一瞬「これは只見線の旧線を利用した道路なのでは」と疑ったほどである。

ドクダミを踏みしめ、洞内へ。




洞内から、いま来た方向を振り返る。
もしこちらから来たら、外に出るなり面食らっただろう。そこには道がない。
例の客土されたらしい斜面によって道路は埋もれており、さらにジャングル化している。
頑張って自転車を連れてきていたりしたら、涙を流したかも知れないレベルだ。

それはさておき、【旧地形図】にこの“隧道改め洞門”が描かれていなかった件について、私見を述べたい。
描かれていなかったからといって、即座に「昭和33年当時はまだ建造されていなかった」とは断言できないという話である。

現在使われている地形図の図式(凡例のこと)は、昭和40年図式をベースとしており、それ以前は大正6年図式(大六式)が一般的だったが、大六式には、トンネルや地下道以外の屋根付き道路(洞門や各種シェッド、シェルター)を表現する記号が存在しなかったのである。
これは、普通鉄道用に「雪除部」といういわゆるスノーシェッドを示す記号が有ったのとは対照的である。
そして昭和40年図式では道路と鉄道の区別無く、これら屋根付きの部分は「建物類似物」の記号を路上に描くことで表現することに改められたという経緯がある。

ということで、昭和40年図式以前の地形図では、道路の洞門などはトンネルとして描くか全く描かないかのどちらかを選択することとなり、描かれないものが多かったのである。
昭和40年頃まで、道路上にほとんどこういう保安設備が無かったのだろう。
しかしそのお陰で我々オブローダーは、こうして予想外の洞門に興奮する機会を、多く得ることが出来るのだとも言える。




外壁には肉厚なバットレスを随え、如何にも堅牢そうなアーチ形洞門。
明かり窓の外は即座に数メートルの落差となって、只見川の水面に接している。

柳津ダムはほとんど水位が変動することはないのでこれでも大丈夫なのだが、ダムが出来るまでは深い渓谷に臨む崖道だったに違いない。
その方が洞門の所在としてはしっくり来るかも知れないが、普段あまり見ることのない“窓越しの湖面”というモチーフは旅の心を充足させた。
僅かなスペースにも緑が茂っていて、あまり視界は効かないのだが。

それにしても、建設されたのはいつ頃なのだろう。
隧道ではないだけに、手掛かりに乏しい。
名前さえ分からないし。
雰囲気としては国道252号が国道の指定を受けた昭和38年頃ではないかという感じを受けるが、もしそうならば現道開通の昭和52年まで活躍期間は短かったことになる。




スポンサーリンク
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。


ふと見上げた天井も、白いコンクリートのはずが、緑がかって見える。

外光が湖面の反射光を含めて全て緑色のため、その映りこみがひとつの原因であるが、もうひとつは湖面からの反射光が天井にまで外光を届けるために、地下水の湧出部分に地衣類を育てていることもある。

天井の上がどのようになっているのかは知る由もない(空があるのか、片洞門なのか、実際に土が被っているのか)が、全体的に多数の亀裂が生じており、おそらくは末期に管理者によるヘルスチェックを受けていた痕跡と思える多数のペイントが残されている。




洞門は中央部分で左にカーブしており、全体を見通すことは出来ないようになっていた。
また、路面にはアスファルトの舗装が施されており、滴る地下水に洗われているライン上に露出していた。
もっとも昭和52年まで現役だったのだから、舗装は驚くにあたらないかも。
洞門前後の廃道が経年以上に自然に還っているため、洞門だけ“時の流れが遅い”ような印象を受けるのだが、こういうことは廃道では一般的な事でもある。

最後まで鉄道用の施設みたいだという印象を持ったまま、全長100m弱くらいの洞門を終える。




東口に最も近い柱に、工事銘板を取り付けていた痕らしき四角い凹みを見つけた。

う〜〜ん…。

この不在は、洞門の素性を知る上での決定的な損失だな…。

経験上、工事銘板のようなものが作られるようになった時期は戦後であり、大雑把に建造時期を推察する薄い根拠にはなるが。




9:40 《現在地》

洞内探索は濃密な時間だったが、3分たらずで東口へ到着。

この東口は一見静かな森の底に沈んだような印象だが、振り返り坑門上部に目をやれば、そこには苔しか生えない切り立った岩場が存在し、なるほど優先的に洞門を建造したくなったのも頷ける地形だと思った。


緑の帳(とばり)に塞がれてしまいそうな東口だが、この静かな川べりに国道が通じていた確かな証しとして姿を留めている。

今も昔も、国道252号のルートこそが只見川上流域に広がる広大な奥会津地方の生命線であり、最大の幹線道路だった。
ゆえに明治14年には当地方ではもっとも格上の三等県道「沼田街道」となり、いち早く整備が進められてきた。
沼田街道(会津坂下〜檜枝岐)の車道改修は明治24年頃に完成したが、持寄地区の着手は早く、明治15年までに改築された記録がある。
今回辿ったルートは、この明治時代のルートを踏襲しているはずだ。




洞門を出ても舗装が生きているお陰で、西側に比べれば遙かに歩きやすい状態。
洞門内よりは道幅も広く、土を退かせばすぐに車も通れそうな状態だ。

だが、遠からずまだ激藪が始まるはず。
なにせ、最初に【これ】を見ているのだから、間違いない(苦笑)。




はい、来た。
輝く火焔の気配。
先はススキ燃(萌)え盛る窯に違いない。
ほんと明るくて綺麗。うんざりする。

でも、ここまで来て戻る気にはなれないし、戻ってもキイチゴのトゲトゲにやられるのが目に見えているので頑張る。





ぬおおおお!




ぅおお!!

(あっ、あそこに見えるのは…)




むんむんする草いきれと、鋭いススキの刃に耐えつつ、
豪快に藪を漕ぎ進むと、辿り着いた“開かずの扉”

何たる徒花。
空しい。

(一応収穫あり→【トンネル銘板を発見】


しかも、


脱出へのラスト100mが…

遠いッ!




藪きら〜い。

ゲンナリしながら、ラスト100メートルの藪漕ぎ。

ラストは面白み皆無の展開。
路面なんて、どこにも存在せん!



9:50 《現在地》

洞門を出てきっかり10分。

へとへと&草汁まみれになりながら、脱出成功。

距離の割に辛い旧道だったが、洞門にとても救われた。

今度はもう少し藪の浅い時期に行ってみたいものだ。





唐突ですが、 「ミニレポ君のワンポイント・オブローディング・レッスン!(略してOOL)」

今回のレポで紹介した旧版地形図に関して、ひとつ注目すべき地図記号を紹介しよう。
知っている人は、フフンと聞き流すように。(←妙に偉そう、いっきなってら)

それは、県道と国道の記号上にのみ描かれる、道を通せんぼするような単線や二重線の記号(→)についてだ。

この記号は“大六式”やそれ以前の図式で使われていた幅員を示す記号で、単線に挟まれた区間は幅1間以上(2間未満)、二重線に挟まれた区間は幅2間以上、ここには見えないが、「点(・)」に挟まれた区間は1間未満という取り決めがあったのだ。
なお、大正14年図式ではメートル法に準拠するために、それぞれ「2m以上」「4m以上」「2m未満」に変更された。

昭和40年図式になるまで、道の記号は道幅ではなく道の種別(国道県道など)によって書き分けられていた。
そのため、車は通れないような未整備の国道や県道でも、外見上は太く描かれたのだな。
実際に車が通れるかどうかは、この道幅の記号やオブローダーにはお馴染みのた片破線「荷車ノ通ゼザル道」記号、橋の種別を示す記号などを駆使して判断していたのだよ。
燃えるぜ!

というわけで、この記号を知っているとかつての大まかな道幅まで分かってしまうという、お得情報でした〜。



当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口
今回のレポートはいかがでしたか? 10点満点で採点してください。
←つまらなかった。   普通かな。   おもしろかった!→
1  2  3  4  5  6  7  8   9  10
コ メ ン ト 
(空欄でも結構です。皆様からいただいたコメントの一部を公開しています。詳しくは【こちら】をお読み下さい。
 公開OK  公開しないで!         

これまでの平均点 9.04点 /これまでの投票回数 548人

このレポートの公開されているコメントを読む

【トップへ戻る】