ミニレポ第192回 国道16号 田浦隧道

所在地 神奈川県横須賀市
探索日 2014.4.25
公開日 2014.5.01

遂に発見された、建設当時の貴重な写真


突然だが、本項は当サイトの中にあっても少々マニアックな内容を取り扱う。
普通の廃道探索の模様をご覧になりたい方や、当サイトのビギナーさんは、これ以外のレポートから先にお読みになる事をオススメする。
あと、当サイトのお約束を復習。赤枠画像を見たらカーソルオンで画像チェンジです。スマホだとタップ操作です(だそうです)。


【周辺図(マピオン)】

東京・横浜と横須賀を結ぶ国道16号には、横浜〜横須賀間に多くの隧道がある。
その多くは、大正時代から戦前戦中までに建築された土木遺産級の逸品だが、現在もなお連日連夜にわたって莫大な交通量を捌き続ける、第一級の現役道路構造物である。

その中でも特に印象深いのは、横須賀市田浦から逸見(へみ)までの2.3kmほどの区間にひしめく5連続の隧道群であり、この区間は国道16号の上下線(同国道は環状線なので厳密には内回り外回りと呼称)が別線となっているため、合計10本もの隧道が狭い範囲に存在している。

右の図は、これら10本の隧道の位置と名前を示した模式図である。
そしてここでご注目頂きたいのは、「新」と名前が付く隧道群と、もともとあった旧の隧道群とが、途中でクロスしていることである。
そのため、田浦から逸見に向かって自動車で走行する場合、最初の3本は旧隧道を通るが、後半2本は新隧道を通るようになっている。

さて、当サイトの古い読者さまならば、この理由の謎解きを過去に行ったのを覚えているかも知れない。
平成19年11月に公開した「隧道レポート 吉倉隧道」の冒頭で、6枚の模式図を使って詳しく解説している。
既に、解決済みの事案なのである。

それではなぜ、改めて本項を設けたのか。
理由は、今回新たに面白い写真が入手出来たので、それを使って、従来は文章と地図だけで説明していた内容が正しかった証明をしたいということである。
全くもって自己満足に過ぎないが、個人的にはこれら(特に1枚目)の写真を見つけた時の興奮は、そんじょそこらの廃道探索よりも遙かに熱かった。


面白い写真というのは、田浦隧道の建設当時の記録写真である。

出典は、『加藤組百年史』(株式会社加藤組/平成9年発行)という、横浜に本拠を置く土建業者株式会社加藤組の社史だ(以下「社史」とする)。

社史によると、明治30年という横浜築港事業のたけなわの時期に、房州石の運搬販売業者として横浜にて創業した加藤組は、まもなく土木請負業を本業とするようになった。
そして、その高い技術力と地の利が買われ、大正14年に内務省土木局が興した国道31号改良工事では、少なくとも3本の隧道工事を請け負っている。
なお、この国道31号とは、いわゆる「大正国道」の路線番号であり、横浜〜横須賀間については現在の国道16号に相当している。

この国道31号改良工事によって、横浜〜横須賀間の多くの隧道が建設された。
北から順に名前を挙げれば、富岡、浦郷、船越、田浦、吾妻、長浦、吉浦、逸見の8本で、これらはいずれも国道16号として現役である。
社史では、このうちの田浦、長浦、吉浦の3本を加藤組が手がけたとしており、記録写真として他に富岡と吾妻の写真も掲載されているので、これらの工事にも深く関わったものと思われる。


それでは、これから社史に掲載されている田浦隧道の建設当時の写真を、3枚ばかりご覧頂こうと思うが、まずは比較のため、現在の風景を先にどうぞ。


新旧田浦隧道の北口(横浜側坑口)、平成26(2014)年撮影。

市内に数多く双頭隧道のなかでも、上下線が絶妙な角度を付けて分かれていく姿が美しく、
かつ、両坑門共に化粧煉瓦タイルなどによる後補の装飾を受けていない良好な保存状態を誇ることから、
私が横須賀のトンネルをガイドするときには必ずオススメしているスポットのひとつである。

向かって左が、大正15年に「国道31号」として加藤組によって建築された、田浦隧道。
右は、戦時中の突貫工事で昭和17年に複線として開通した、新田浦隧道である。



上の写真と同一地点において、大正15(1926)〜昭和2(1927)年撮影。

こちらが社史に掲載されていた、今より約90年前の写真である。

この写真を最初に見た瞬間、血液が沸騰するくらいの衝撃を受けたのを覚えている。

私がそれほどまで何に驚き、興奮したかと言えば、とにかく、この右に見えている隧道である。
現在は新田浦隧道が存在する場所に、それとは似ても似つかない、一層古びた小さな隧道が写っていたのである。
しかもキャプションに、その正体がはっきり書かれていた。「右方ハ海軍水道路線」であると。



この隧道の姿を目にするのは、はじめてであった。
そして、未だこの1枚を除いて他で見たことのない、大変貴重な写真である。

もっとも、以前の調査で、その存在自体は明らかになっていた。
本編の冒頭に紹介した過去のレポートで、私は次のように書いている。

大正11年:水道道路の開通
海軍は明治45年から大正10年までかかって、神奈川県愛甲郡の半原水源地から横須賀市逸見の浄水場まで、鉄製の水道管を設置した。市内にもこの水道管を通すための小さなトンネルが多数建造されたが、このうち田浦〜横須賀間は大正7年に、田浦〜逗子は大正11年に、それぞれ一般人の通行が許可された。

つまり、この隧道は当初海軍水道の水道管路として、明治45〜大正10年の間に開通したもので、大正11〜15年の短い期間は、一般の交通に解放されていたのである。
だが、正式な道路としての国道31号が大正15〜昭和3年に開通したことで、再び水道専用に戻ったのである。

ここに写っている姿には、路傍の散乱物などに頽廃の雰囲気があって、隣の新装なった田浦隧道と較べると、まるで廃隧道のようだ。
残念ながら写真の解像度の問題で良く構造は分からないが、帯石やアーチの巻き立てが見えるので、オーソドックスな煉瓦隧道のようである。

このように一旦は静けさを取り戻した水道隧道であったが、これが現存しない理由は、昭和17年に着手された国道31号の複線化工事の際に、拡幅のうえ車道化されたからである。現在の新田浦隧道へと、生まれ変わったのである。(新田浦、新吾妻、新長浦、新吉浦、新逸見隧道は、全て同じ経緯で改築された元水路隧道なのである)

なお、水道道路にあった隧道のうち、現在も往時の姿を留めているものがある。
逗子市と横須賀市の境にある盛福寺管路隧道という、水道専用の煉瓦隧道だ。



横須賀という都会の一角で過ごした90年間。
新旧の写真を比較しても変わらぬものを見つける事が難しく、隧道の坑門だけが石造物の永続性を誇っているかのようである。

現代に仲睦まじい老夫婦が渡ろうとしている場所には、かつても今も横断歩道は無かった。
ふたりは、記憶の中の道を渡ろうとしているかのように見える。

おもちゃ箱のような交番の入口に座り込んだ少年は、何かを待っていた?
短パンの男性は、人力車夫のような堅強の雰囲気が感じられる。
真新しいはずが、あまりそんな風にも見えない隧道には、当然のように照明もなく、自動車も恐る恐る走っている雰囲気だ。
路面が濡れているのは、散水された水だろうか。
キャプションには「路面ハ瀝青鉱滓道トス」とあって、いわゆるアスファルト舗装に近いものであったようだが、埃っぽい雰囲気がある。

嗚呼。
白黒写真の中の風景は、歩車混合交通時代の微睡むような長閑さに、充ち満ちている。
いささか隧道を大きく作りすぎたのではないかなと、当時は仕事の無駄を心配した人も、いたかも知れない。
だが、それゆえに今を生きている。






続いて、社史から2枚目の写真をご覧頂こう。

この写真のキャプションは、「国道第31号線田浦―横須賀間道路改修並びに隧道工事(7〜8工区)田浦隧道工事現場での工事関係者の記念撮影」とある。
既に隧道は貫通しているが、路面の鋪装は未完成であることから、田浦隧道の完成を記念して撮影した集合写真であると思われる。

画像にカーソルを合わせると、現在の同坑門を表示する。
従来から、なんとなくこの隧道は良く原形を留めているものと考えていたが、それは誤りではなかったことが確認された。
煉瓦の巻き立てとコンクリートブロックの配置、両側の柱石、笠石や帯石といった典型的なデザインは当然のことながら、使われている素材も当時のままであることが分かる。
その表面に様々な電気配線や道路標識などが増設されているが、これは90年を国道として生きるための身だしなみであろう。

だが、意外な変化もあった。
田浦隧道にも、元は扁額があったのである。
一連の隧道(田浦、吾妻、長浦、吉浦、逸見)には、いずれも現在は扁額が見あたらない。そのため、私は今まで当初から扁額は無かったものと思っていた。
だが、それは誤りだったようだ。



「田浦隧道」

大書された隧道名の左下に小さな文字があり、揮毫者の署名と思われる。
さすがに写真から読み取る事は出来ないが、その内容はだいぶ絞り込む事が可能だ。

先ほど一連の隧道に扁額が現存しないと書いたが、ほぼ同じ時期に建設された船越隧道(同じ国道31号改修工事で建設された隧道で、大正12年竣功)には石造りの扁額が現存し、そこにこれと同じ形で完成当時の神奈川県知事安河内麻吉(やすこうち・あさきち)による「麻吉書」の記銘があるのだ。

ただし、麻吉は田浦隧道が完成する前の大正13年に退任しているので、おそらくここに刻まれていたのは、大正14年9月〜15年9月の県知事「堀切善次郎」か、大正15年9月〜昭和4年7月の県知事「池田宏」の名前や雅号と思われる。

なお、そうと分かって見れば、確かに現在でも扁額を取り付けていた痕跡が残っている。
しかし、取り外した理由も、その行方も不明だ。 計10枚の扁額は、今もどこかに秘蔵されているのだろうか。行方が知りたい…。

読者さまのコメントで、これらの扁額は戦時供出されたのではないかというものがありました。
確かに金属製であった形跡があることから、その可能性は十分ありそうですね。

…その通りだとしたら、軍都横須賀の玄関口を飾る扁額たちの末路として出来すぎていて、悲しいです…。



これは田浦隧道の南口、横須賀側の坑口である(もちろん現在の写真)。

先ほどはスルーしていたが、社史から引用した1枚目の写真のキャプションに、この隧道の工事に要した材料が、結構細かに記録されている。
これなども当時の隧道工事を知る上では非常に貴重な記録と思われる。
改めて以下に転載する。

主ナル使用材料隧道延長 63間 (114.5米突) 煉瓦 441,916枚 隧道幅員 25尺 (7.6米突) 混凝土ブロック 2,660個 従業員延人員 12,726人

当時の我が国で最大級の断面を有した巨大隧道の築造のために、なんと44万個を越える煉瓦を要していた。
煉瓦は坑道アーチの巻き立てにのみ使われている(側壁は石造)が、五重巻き立てで、坑道1m辺りに約3800個の煉瓦を要した計算だ。無論、これらは人力でひとつずつ積み上げられた。
対して混凝土ブロックは両側の坑門だけに使われているが、坑門はふたつあるので、ひとつあたりにして1300個くらいは使われている事が分かる。
ちなみに、私だったら3個くらい運んだらもういいかなーと思う。






社史から最後の3枚目の写真をご覧頂こう。

キャプションによれば、「田浦隧道の工事現場付近の風景(大正15年〜昭和2年)」とのことで、奥に見えるのが田浦隧道の横須賀側坑口であろう。
現在の風景との対照は、残念ながら手持ちの写真が無かったので、googleストリートビューに頼らせて頂いた。

はっきり言って、変わりすぎていて同じ場所とは思えない!
山の形と大きさ、そして道路の緩やかな右カーブの先に見える隧道という構図は変わっていないが、風景の印象は全く別物だ。
あまりに風景が違うので、田浦隧道以外の隧道の風景とも比較して見たが、カーブや山の位置、高さなどから、やはり田浦隧道横須賀口以外は無いと判断した。

路面は、まだ砂利敷きであったように見える。
また、道の右側に工事用トロッコのレールがのたうっている(それは最終的に蛇行しながら右に見切れている。その先には横須賀線の田浦駅がある。駅から工事資材を引き込んでいたものだろう)ことからも、工事完了前の風景と思われるが、既に路上には多くの旅客が思い思いの方法で新道を味わっている。

彼らの胸に灯った興奮は、きっと現代の我々が「新東名高速道路」をはじめて運転したときのそれに近いものだろうと想像する。
これが新たな時代の道路の姿だったが、1枚目の写真と同じように、まだ広幅員の路上は長閑で、歩車の区別や上下線の分離も見られない。
90年後には、この路面のほぼ全部が自動車にのみ与えられ、それも整流されて一方方向にのみ流れ続けることになるのだ。





国道として存続し続けている期間の長さでは、兄弟たちと共に全国屈指のレベルに達している田浦隧道の新旧比較は、いかがでしたか。
これらの隧道については、まだまだ語りたい事がたくさんあるし、社史にも面白い写真がまだあるので、いずれまた取り上げてみたいと思う。




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