ミニレポ第197回 山梨県道37号南アルプス公園線 山吹隧道旧道

所在地 山梨県早川町
探索日 2013.10.28
公開日 2014.10.09

とても珍しいものが残る、極短廃道


これまでも当サイトでは山梨県道37号南アルプス公園線に属する旧道を数多く紹介してきたが、今回は同県道の旧道としては最も“下界”に近い位置にある、行き止まりの同路線において最もアクセスしやすい、二つの小規模旧道を紹介したいと思う。(一つは今回、残りはミニレポ198回となる)

具体的には、右図で示した山吹隧道と増野隧道にそれぞれ対応した旧道で、今回紹介する山吹隧道は早川町の東端に、次回紹介の増野隧道は身延町の西端にある。



町境を挟んで約700mの位置に近接しているこれら2本の隧道であるが、古い地形図を見てみると、どうやら同時に開通したものではないらしい。

昭和28年地形図を見ると(←画像にカーソルオン、切り替わらない場合はこちら、増野隧道は既に描かれているが、山吹隧道は影も形もない。

そして、さらに明治43年の地形図(←文字列にカーソルオン、切り替わらない場合はこちらまで遡ると、増野隧道も存在しておらず、早川の右岸に沿って細々とした「里道」記号が描かれているだけである。
しかし、この道が当時としては早川沿いの住民にとって生命線的な重要路線であったことは、既報の角瀬トンネル旧道レポで紹介したとおりである。

そしてもう一つ、この道の過去を振り返るときに欠かせないのは、かつて「早川橋」の袂を起点に早川上流へと通じていた馬車軌道の存在である。
この区間(早川橋〜新倉間)に、電源開発を目的とする資材運搬用軌道としてそれが開通したのは大正11年で、軌条が撤去されて自動車道になったのが昭和8年と記録されている。
つまり、この区間の県道の大半は、馬車軌道跡でもある。

以上の事を念頭に置きながら、まずは山吹隧道の旧道を見ていこう。





2013/10/28 12:46 《現在地》

もう何度もクルマでは通ってきた道だが、自転車で走ってみるのは実はこれが初めてだった、角瀬トンネルよりも下流の南アルプス公園線。
早川町の住民の多くが日常的に利用する生命線だけあって、整備状況は悪くなく、2車線の走りやすい道である。

沿道を流れる早川は、南アルプス界隈の川の中下流が皆そうであるように、膨大な砂利の堆積によって河原が著しく広くなっていて、明るい雰囲気だ。
沿道の所々に川砂利を採るための大規模な採石場があるために、道が“ダンプ街道”となっているのも、南アの風物詩といえるのかもしれない。

今日は、今までクルマで走ったときにも脇目に見えて気になっていた山吹隧道と増野隧道の旧道の状況を確かめるために来た。
まずは山吹隧道

ここから見ても、そのトンネルの外側には、無普請の岩肌が露出した平場らしきラインが見えていた。
短いが、良い廃道がありそうだと思った。



この辺りの地名は早川町初鹿島(はじかじま)といい、早川町では最も標高の低い、鶏口に位置する地域である。
初鹿島もやや難読に属する地名だと思うが、その字で「夏秋」というのが更に難読だ。
これで「なつやけ」と読むのだそうだから、難読ぶりにため息がでると同時に、秋の夕日の焼けるような輝きを思うとき、昔人の当て字のセンスに惚れ惚れする。

そんな夏秋集落を上流に有する早川支流(河川名失念)を曲線橋(橋名失念)で渡ると、いよいよ山吹隧道に着いた。
ちなみにこの橋も現代のもので、近代までのルートは多少上流に迂回していたことは疑いないが、残念ながら橋の痕跡は見あたらなかった。



そしてこいつが、山吹隧道。

まあ、どこにでもありそうなやつだ。

でも、嫌いじゃない。

そして、例によって私が気になるのは坑口左側の草むらである。
しっかり廃道のにほひがする。




山吹隧道にはなぜか扁額は取り付けられていないが、工事銘板はあった。
内容は右の通りで、正式には「山吹トンネル」というようだ。
気になる竣工年は1974年(昭和49年)。冒頭紹介した古地形図の内容も合わせて考えれば、この時期に初めて掘られたものと考えて良さそう。
つまり今から入る旧道は、大正時代に馬車軌道が車道として開削し(それ以前から道はあったかも知れない)、昭和8年には自動車道となり、昭和49年まで県道として活躍していたと考えられる。

ちなみに全長は59.5mしかない。これに対応する旧道も、せいぜい100mといったところだろうから、気楽に行こう。



12:48 《現在地》

極短距離廃道なので、自転車ははじめからここに置いていくことにする。
入り口を見ただけで、とても自転車同伴で突入する気持ちにはなれなかった。
つうか、「これ行くんスか…」って感じも無きにしも非ず。

でも、結果的には、ここは行って大正解だった。



入り口を邪魔している謎の小屋があるが、既に道路管理者などというものは存在しない完全な廃道扱いのようで、「通行止め」のようなものはない。
ただ、10月のまだ濃い藪の中に、左右を垂直の崖とした平場が、ほの見えているだけである。

この廃道へ入るということは、まず小屋の裏側に回り込むことと同義であったが、そこにはナンバープレートが付いたままのバイクの廃車が置かれていた。
ちなみにナンバープレートに書かれた自治体名は「中富町」で、平成の大合併で身延町の一部になって消滅している。




さ〜て、ヤブ漕ぎするぞ!



やばい、“レアもの”あるぞこれ。

ガサガサッ ガサガサッ



出たーっ!
旧制道路標識ッ!!

これって凄いよ。凄い。
このデザインの「警笛鳴らせ」は、昭和25年の建設省令「道路標識令」で初めて制定され、昭和35年の建設省令「道路標識区画線及び道路標示に関する命令」でも引き続き採用されるも、昭和38年の改正で、現在も見慣れた丸い形の標識板に置き換わって消滅したデザインだ。ちなみに昭和25年と35年でも微妙にデザインが変わっているのだが、これはおそらく後期バージョン! たった3年間しか(正式には)採用されていなかった標識だ。(とはいえ前期バージョンの方が遙かにレアなのは確かだが←見たことない)



何が特に興奮したかって、

この標識が残っていたこともさることながら、

その場所が、廃道だって事が一番の興奮事だろ。

そこにある道路標識ごと道路が捨てられるのは珍しくないけれど、廃道の「時間が止まっています」という感覚を、これほど強烈に思い起こさせてくれるのは、それが旧制標識であるからこそで、こんな川に落ちそうな位置にあるのに、よくぞ雪崩や落石に耐えて今まで残ってくれていたものだ!

この、「廃道にある旧制標識」という絵面は超絶貴重ッッ! 故に、“廃道記念物”として勝手に認定!!




標識がこれに巻き込まれなくて、本当に良かったナウ。

標識のすぐ先には、道幅の大半を埋める法面の崩壊が待ち受けていた。
既に崩れてから時間が経っているようで、この辺りは特にツタが絡んで歩きづらかった。
しかし所詮は60mのトンネル分だけの廃道なので、もう中間地点だろう。

そしてこの崩落現場を横断中、再び予想外の光景に出会うのだった。




なんですかここは、 天 国 ですか?

突然激藪を抜けたと思ったら、まるで芝生が敷かれたような美しい平場があり、
そこには明るい日射しに白く光る二つの石碑が、絶妙な間隔をもって並んでいたのであった。

飛びつくようにして、最寄りの石碑に駆け寄った。
そして始まる、至福の“大解読大会”が!



小さい方の「碑A」だが、これには次のような文字を読み取る事が出来た。

まず、道路に面する側(東面、おそらく正面)には―

慰 霊 供 養 塔

なるほど、こいつは慰霊碑と言うことらしい。
道路沿いで見る石碑としては、比較的ポピュラーなやつだが、どんな事情があるのだろう。
南面の記述を見てみる。

昭和十九年七月建之
     山梨縣交通協會鰍澤支部
     山 梨 交 通 株 式 會 社
     本 建 村 初 鹿 島 ■

北面と西面(川側)にはこれといった記述が無く(写真を撮っていないというのはそういうことだろう)、なぜ慰霊碑がここにあるのかは、分からない。
ただ、「山梨交通株式会社」が建立者に名を連ねていることから、おそらくは路線バスが関係した事故がここで起きたのだろう。昭和19年頃に。(この道路をバスが走り始めたのは、昭和10年という記録がある)

戦時中に、これだけのしっかりとした慰霊碑を設けているので、よほどの事故だったか。
当時の整備状況も劣悪だったろう道路から、バスごと川に転落でもしたのだろうか。
なお、碑面に名のある「本建村」は、昭和31年に早川町の一部となって消滅して現存しない。

この碑についても、読者さんからの情報によって詳細が判明した。
事実関係としては、昭和19年4月7日に山梨交通統合前の身延自動車(翌年から山梨交通となるが、当時から山梨交通名義で営業中)の路線バスが、この地点から川に転落し、16人が死亡するという大事故となっていたようだ。
刈払いは現在も山梨交通の手により継続されているという
 ソース1ソース2



続いては、2段重ねの台石の上に乗せられた、たいそう立派な「碑B」である。
こちらは、正面の文字を見た瞬間に、「ああ、道路関係ないね」と、ちょっと落胆したのはナイショ。
道路側の面(東面)の文字は―

南無妙法蓮華経
 賜■■■
  ■■■
 六十九代

これはもう、信心がない私に後半部分を読ませるつもりなど、サラサラ無い感じがする。いや、学がないから読めないだけなんだろう。解読出来そうな方、こちらの画像からお願いしますm(_ _)m。

私が現地で解読出来なかった部分だが、読者さまの情報提供により判明した。
これは「賜紫身延 日琢 六十九代」が正解のようで、賜紫とは、天皇から紫の衣を賜る人物(=高僧)で、身延山六十九代の日琢上人の名前が刻まれているのである。名前の下のお盆を伏せたような記号は、花押(wiki)と呼ばれるもので、日琢上人の自筆であることを明かす署名のようなものだという。(確かに日琢上人の花押がこの形であることは、このリンク先にある画像(上段左から2番目)からも分かる)



続いて同じ碑の北面には、太い達筆な文字で、16文字の漢字が刻まれていた。
こちらはなんか好き。

天下静謐風雨順時
五穀成就万民快楽

何かの漢詩かとも思ったが、この文字列でgoogleを検索すると、文中の「静謐」を「泰平」や「泰安」に変えただけのものが多数ヒットした。
それ以上は私の手に負えそうにないので踏み込まなかったが、ようは、仏教で使われる比較的ポピュラーなことばなのかもしれない。


そして、このあと最後に一際明るく日光を浴びていた南面の内容を見たときに、私はこれまでの不徳を懺悔するのだった。

ああ、道路関係ないね」 というのは、まったくの誤解だったんだ。

この碑に込められた想いの正体は……



   文久二癸亥年
綱 橋 供 養 塔
   二月大吉辰

「鋼橋」ではない、「橋」(つなばし)である。
めっちゃれっきとした、交通関係の碑でした。スミマセンデシタ!

綱橋とは、谷の両岸に架け渡された綱に、人が乗った駕籠をぶら下げて移動させる、一種の人力ロープウェー的渡河施設。
日本各地で見られたが、呼び方は地域によっても様々で、「野猿」(紀伊半島)や「籠の渡し」(中部地方)などとも。
この写真は、岐阜県の白川郷に復元されている「籠の渡し」である。

「橋供養塔」は、近世までは比較的ポピュラーな道路関係碑だった。一番多いのは「石橋供養塔」で、神社境内の神橋造立にあわせて建てられたが、一般の橋でも設けられることがあった。供養とは言っても橋の廃止とは関わりなく、むしろ建造時に建てられるのが普通だったようだ。



しかも、この凄く綺麗な保存状態の碑が、実は江戸時代末期の西暦1861年のものだったというのも驚きだ。
碑の位置については移設されている可能性もあるが、もしそうでなければ(また仮に移動があっても大移動でなければ)、この場所から対岸に渡る「綱橋」が江戸時代末期には存在していた事になるだろう。

ここは周囲よりは幾らか川幅が狭いので、地形的には十分可能性のあることだと思うし、先の碑の台石に「榑坪村中」の刻字があるのだが、明治43年の地形図を見ると、ここから2kmほど上流の対岸に榑坪集落があり(現在もある)、同集落へ通じる道は、当時この辺りで早川を渡河していたことが分かる。
もっとも、明治の地形図にある橋は綱橋ではないようだし、位置もここからは少しずれていて、




現在も引き続き橋が架かっている、現在地からは200mほどの下流だったようだ。

現在の橋は鷲尾橋という名前の曲弦トラスで、竣工は昭和35年である。
あの橋の“初代”というべきものが、この山吹隧道脇の旧道上に明治以前まで存在していた可能性は、この立派な「綱橋供養塔」の存在から考えて高い。



それにしても感心だったのは、前半は完全な廃道だったこの旧道が、二つの石碑(慰霊碑+綱橋供養塔)から先は、ちゃんと刈り払いされて、維持されていたことである。
特にこれらの碑にアクセスする以外の用途がある道にも見えないので、完全に信心からの刈払いの継続だと思われる。

石碑の隣には、肝心のミラーがどこかへ紛失してしまったカーブミラーの支柱が、所在無さげに立っていた。
刈払われなかった短い廃道区間には、道路ファンが泣いて喜ぶような(大袈裟?)旧制道路標識が、そのままになっていた。

多くの人にとって時間を越えて守り継いでいきたいと思うものと、そうでないものとの違いは、確かに存在するようだ。



12:55 《現在地》

探索時間、わずか10分。 全長100m未満。

そんな極短旧道ではあったが、見どころは多かった。

ちなみに写真右奥が二つの石碑の在処だ。こちらも特に封鎖はされていない。




次回は、増野隧道の旧道へ



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