ミニレポ第223回 糠塚盛の一本松

所在地 秋田県秋田市
探索日 2016.9.03
公開日 2016.9.04

黄金海の離れ小島の根元には…


今回のレポートは、私が東京に住まいを移すまで長く暮らした、現在も両親が住んでいる秋田県秋田市からお伝えする。
私のオブローダー活動はこの地での“山チャリ”から始まったのであり、当サイトでも最初期には頻繁に登場していた秋田市からの久々の新作レポートである。
まあ、本当にささやかなミニレポなんだけれども。


今回探索した場所は、秋田県道231号上新城土崎港線(飯田街道)と秋田市道がクロスする、写真の交差点のすぐ近くである。
この交差点からそれは“見える”が、今まで敢えて近付いて確かめたことは無かった。
それこそ、最初にこれを“見て”から二十数年目にして初めて近付いてみたのが、今回の探索だ。

この場所は地名でいえば秋田県秋田市上新城岩城だが、詳しくは右の地図を見てもらった方がいいだろう。

この辺りは私が子供の頃からさんざん自転車で遊び回った場所で、田んぼの畦道を除けば地図にあるような道はほぼ全て走ったことがあると思う。
懐かしの五百刈沢(ごひゃっかりざわ)隧道(2001年/2003年)が、このすぐ近くである。

それでは、今回探索した対象のズーム写真を、ご覧頂こう。↓↓



交差点から見える、まさに絵に描いたような“一本松”。

こんなものにまで手を出すとは、ヨッキもいよいよ爺になってきたな言われそうだが、確かにそうなのかもしれない。
若くて常に目的地へ向かって走り続けていた時分には、この松の木は脇目に見ても、敢えて立ち寄ろうとしてこなかった。
だが今になって再発見してしまうと、急に気になりだしたのである。このどう見ても廃道とかとは無縁そうな、一介の松が。


最初の交差点から一本松を挟んで反対側にある畦道から眺めると、この松は一層際立って見える。

米処の秋田らしい見わたす限りの水田に、ぽつんと佇む小さな離れ小島的小山。松はそこに単独で立っている。
9月に入り稔った稲穂が色づきはじめているが、おそらく1ヶ月後には、目眩く黄金の海に浮かぶ姿が見られることだろう。
その頃(2016/10/15)私は久々に大阪でトリさんとトークイベントをやる予定なので、ぜひ見に来て下さい。(→昼のイベント→夜のイベント

これまではこの距離より先に近付いてみたことがなかったが、今回、田んぼの畦を歩いてさらに接近する。


2016/9/3 14:14 

ああ! これはもう“秋の写真コンクール”的なのがあったら入賞間違い無しですな(笑)。
(ああ、でももう無理か。大抵ああいうのって「未発表作品に限る」とかだもんね)

本当に小さな“島”に松の木だけが植わってる。ひねた枝振りがいかにも盆栽的で様になっているが、
周辺に風を遮るものが全くない状況で堪え忍ばねばならない、あの冬の猛烈な地吹雪を思うと、
同じものを体験してきた地元民として、この松には最大限の“頑張ったで賞”をあげたくなった。


松の根元に、そうは古びていない1本の標柱があった。標柱がいつからあるか記憶にない。
近付かないと読み取れないには、次のように書かれていた。

“名称 糠塚盛の一本松” と。

聞き慣れない名前だが、標柱があることから考えても、それなりに有名なのだろうか。
また、標柱の別の面にも文字が入っていた。曰わく――
「樹種クロマツ(クロマツ科)」 「昭和五十一年二月十八日 秋田市 指定第百十七号」
木そのものの素性はこれで解明されたのかもしれないが、メインの関心は別にある。

たとえば、「糠塚盛」という名は何に由来してるんだろうか、とか、この松だけポツンと立っているのはなぜなのか、とかな。

なお、2万5千分1地形図をベースに作られた最新の地理院地図を見ても、この一本松は描かれていない。(→)

そもそも、水田の中に5m四方程度の水田ではない場所があり、そこに1本の松が生えているという状況を、描きようがないのかも知れない。
5mを2万5千分1で表現すると0.2mmとなり、地図上では小さな点にしかならないのだから。



ここまでは、完全に“地元の小さな魅力を再発見”的な内容である。
いくら何でもあり(過去には夜の廃公園とかもあったよね…)のミニレポとはいえ、諸兄のテンションは上がらないことだろう。
確かにここまでならばフェイスブックか“秋の写真展”辺りに投稿して終わりだったろう。
だが、腐ってもミニレポである。この探索にはまだ続きがあって、当サイトの内容と幾らか関係した展開を見せることになった。

それは、こうして近付いてみなければ絶対に気付くことがなかったのだが、松の根元に小さな“石碑らしいもの”を見つけたことである。

とはいえ、これだけではまだ平凡だ。私も一瞬はテンションが上がったが、何分信心深い昔の人々であるから、こうした象徴的な松の根元に小さな石仏を建ててみるようなことがあっても不思議はない。味わいはあるが、まあそこまでだろう。

…と思いつつも、草葉に隠されて碑の表面が見えないのが気掛かりだ。
これは……、やはり“上陸”して確かめたくなった。



収穫前の大切な稲穂を傷付けないよう十分注意しつつ、畦からの最短距離を選んで“上陸”した。ワルニャー

目の前には、半ば草に埋もれながらも、確かに件の碑が佇んでいる。

なんだか、石仏っぽくない形をしてる。四角柱で、むしろ何かの標柱っぽい。

どきどき、ドキドキ。(石碑の内容だけでなく、「コラーッ」が飛んでくることに対するのも)


↓ 肝心の石碑の内容は ↓


うほっ! いい石碑!

碑面がいっぺんに網膜に飛び込んできたが、最初に知覚したのは、「三角點」の文字だった。

「点」の旧字体である「點」の文字から滲み出てくる猛烈なイイ香り。
石仏とは正反対のオーラを醸し出す角張った姿も、偉ぶった旧字体も、私が愛する“古い公共物”が醸し出すものだ!
しかもこいつは私の活動とも無関係ではない、「三角点」という、とっても地理的なアイテムだ。嬉しい発見!

でも、ちょっとおかしい所がある。
山のてっぺんとか日本中の少し目立つ場所にある三角点は、それなりに沢山見てきたつもりだけど、こんな姿の三角点を見るのは初めてである。
それに、三角点だったら現代の地形図にも描かれていて良いのに、スマホでリアルタイムにチェックした地理院地図には描かれていない。いわゆる廃点跡?

それに、この碑に刻まれた文字は「三角點」だけじゃない。その上にも横書きで二文字の漢字が見える。
左側の文字は記憶を手繰って読み取れた。たしか、金偏に「廣」は、「」という字の旧字体だ。
しかし、右側は欠けているのもあって難しい。「鑛(鉱)」が隣にあるから「山」をあてて「鉱山」としたくなるが、何かの偏があるんだよなぁ。これは人偏かなぁ。だとすると、「」という字になるが、「鑛仙」もしくは「仙鑛」ってなんだろう? 聞いたことも見たこともない二文字だ。
…う〜〜ん、これだけだとちょっと分からないな。裏側も見てみよう。



おおっ! 裏面にも文字が刻まれてた。
斜面側なのと強い逆光のために、だいぶ読み取りづらかったが、カメラで撮影した画像を使って読み取ると、この裏面の文字は「第五六號」と判明した。

号の旧字体の「號」の文字が大好きだ。なぜならこれは、いわゆる“明治国道”や“大正国道”と呼ばれる、旧道路法以前に存在した国道の路線名に使われる文字だ。私の中では圧倒的にそのイメージが強い文字である。そのせいか、なぜか「トラ」までが国道のイメージになってしまうという変な現象が(笑)。もし旧法国道のマスコットキャラを作る必要がでたら、是非トラをモチーフにして欲しいのである。

…話しが脱線したが、やっぱり普通の三角点ではなさそうだ。こんな番号が振られているのも初めて見る。


なお、表裏以外の碑面に文字は刻まれていなかったが、上面には意味深な“×印”が。
いや、これはたぶん深い意味は無く、シンプルに標柱の中心位置を示しているのだろう。



さあ、この見馴れぬ三角点の正体は何?

近くに「コラーッ」してくれる人がいたら、お詫びがてらに何か聴けたかもしれないが、周囲には誰もおらず。
老松の薄い葉陰では防ぎようもない残暑の強い日射しに、汗ばかりが垂れる。
ワレ関せずに走り去る、昨日までの私の車音が遠くに聞こえ、まるで白昼夢のようだ。



…直接話しが聴けたら良かったのになぁ、

お前さんが見てきたことをさ。“糠塚盛の一本松”さんよ…。



なんてキザぶっても、近くには畦道に似つかわしくない車を連れたミリンダ細田さんがいたりするんだけどな。

さて、現地で分かる事は他に無さそうだし、最後に“上陸記念撮影”をしてから帰ろうかね。



Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

上記360度パノラマ画像は、グリグリ出来るよ。もし再生されない場合、こちらのリンクからご覧下さい。



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さて、ここからは帰宅後の調査タ〜イムのお話し。
といっても、大したことはしていない。
まずはいつも通り、古い地形図をチェックしてみよう。
現在の縮尺2万5千分1の地理院地図に描かれていない“小さなもの”が、その半分の縮尺しかない旧版地形図に描かれているワケないって?

…いや、分かりませんぞ〜。


← 描かれてる〜〜!!

太い線で県道として描かれた飯田街道(現県道231号)の近くに、小さくだが、それらしい「木」が描かれてる!!
周囲は水田で、その中にぽつんと佇む姿は、まさしく現在の姿を彷彿とさせる。
しかも良く見ると、「木」だけでなく、その周囲に盛り土を示す記号もあって、とてもリアルに現地を表現している。

もしや、当時は今より巨大な“島”だったりしたのだろうか?
その可能性を問う前に、より可能性の高そうなカラクリがあるので説明したい。



地形図欄外の「大正六年式図式」(大六式)の一部を抜粋。


旧版地形図で使われている図式(地図記号)には現在の図式では採用されていないものが多くあるが、そのなかに「独立樹(鍼葉)」「独立樹(闊葉)」というのがある。
これは遠くからも目印になるような樹木(多くは大木)を「独立樹」として特別に記号化したもので、区域内の植生を現す「鍼葉樹林」や「闊葉樹林」の記号をアレンジしたものだった。
現在も後者の用法での「針葉樹林」と「広葉樹林」はあるが、独立樹という特別の記号は廃止されている。
我が国の地形図が軍事用途をメインに作成されていたことと照らしても、行軍の目印となる独立樹が重視されたと考えられる。

「糠塚盛の一本松」は、昭和13(1938)年の地形図に「独立樹(鍼葉)」として描かれている。
樹齢的にも現在の松が描かれている可能性は高いだろう。




「スーパーマップルデジタルver.15」より転載。

なお、前掲した昭和13年の地形図には、一本松のそばに村境が描かれている。
一本松はぎりぎり上新城村に属していたようだが、すぐ西側は下新城村である。
これらの村は明治22年から昭和29年(秋田市と合併)まで存在していたもので、一本松は村境の目印にもなっていたようだ。

(←)二つの村名は現在の大字名に引き継がれているが、その境界は県道や市道の上に移動し、直線化が著しい。

ついでにいうと、地理院地図や地形図にはなかった「糠塚」という地名が、この「スーパーマップルデジタル」の地図に小地名として記載されているのを見つけた。
標柱に書かれていた一本松の名は「糠塚盛の一本松」だったが、糠塚という地名の土地にあったからこの名前なのだろうか。「盛」の意味が分からないが。それに現在の所在地は糠塚ではないワケだが。村境の位置が変化していることとあわせて興味深い。



旧版地形図の次は昔の航空写真も見てみたが、とりあえず昭和23(1948)年当時から現在と同じように、一本松は一本松として孤独に存在していた事が伺える。

本樹が秋田市の保存樹に指定されたという昭和51(1976)年の樹形は、その影からしても、今よりもだいぶ旺盛に見える。
おそらく現在は失われているように見える北側の主幹も、まだ健在だったのだろう。
松枯病が全県的に大流行したのは十年以上前である。
その関係があるかは分からないが、とりあえず枯死せずに持ちこたえているのは素直に嬉しい。
とはいえ、老樹ともなれば周辺に子樹や孫樹を育てているのが通常なのに、周囲が全て水田であるためにその余地を持たないのは気の毒だ。

といったところまでが、旧地形図と旧航空写真から探った、一本松の過去の姿である。
そして続いては、「糠塚盛」という名について簡単に調査した。



「糠塚」というキーワードでググると(→【検索結果】)、秋田県秋田市には複数の糠塚という字があることが分かった。
他に青森県八戸市、山形県天童市などにも点在しているようだが、東北地方に多く見られる(特に秋田県)地名という印象を受けた。

また、日外アソシエーツが提供する「歴史民俗用語辞典」には、「糠塚」の解説文として、「古墳、とくに、円墳や前方後円墳に対して用いられた伝承名。」という目を引く内容が書かれていた。しかし、もし秋田県に前方後円墳があったら歴史的発見だろう。

他に目を引いたのは、秋田叢書刊行会が昭和3年から8年に順次刊行した「秋田叢書」の第三巻にあった、当時の秋田県雄勝郡糠塚村(現雄勝郡羽後町糠塚)の地名を解説した部分である。以下に一部を転載する。

考に蝦夷婦(メノコ)酒を醸すとて簸(ひ)したる(ひるとは、箕を使って穀物の中に混ざった糠やちりを取ること)糠をおのが家の軒近くに堆(うずたかく)おきて、木弊さしつかねて是を神と云いて朝夕礼しぬ、されば蝦夷の居る処にはいずれにも糠堆(ぬかづか)あり、また糠盛といへる処も同じ。

このように、糠塚や糠盛はともに東北地方の先住民とされる蝦夷(えみし)に由来する地名だというのである。

土地の人があえて潰して田にしてしまわず残してきた、一本松の生えた“塚のような小山”は、先住民の何かの遺跡なのか、土地の豪族の古墳なのか、それとも案外なんでもないのか。
この地の歴史に関わるなにがしかが埋もれている…、のかもしれない。
だが、これは私の手に余るし、おそらくどこかで誰かがちゃんと調べて結論付けていることだろう。
私はさっさと私の興味の中心に走ろう。



←君の正体が、私は知りたい!

「三角點」「鉱仙」という、碑に刻まれた文字(二つめの文字はちょっと自信がなかったが)を検索したところ、ずばり、正体が分かった。

上西勝也氏のサイト「史跡と標石で辿る日本の測量史」の中にある「鉱山測量」のページは私にとって最高の解答で、やや長文だが当サイトの冗長とは違い理路整然としているので理解しやすかった。皆さまにも直接訪問してお読みいただきたいが、どうしても時間がないという方のために、不完全な私の知識で不安はあるが以下に概要を解説する。

我が国の鉱山経営の基本法である鉱業法(明治38年公布、昭和25年に全面改正のうえ現行法)に定められた採掘の手続きとしては、まず採掘したい周辺の土地の鉱業権を取得しなければならない。この区域を「鉱区」という。
鉱業権の所管庁は、商工省(戦後は通商産業省→経済産業省)の元に置かれた鉱山監督局(戦後は鉱山保安監督部→産業保安監督部)である。
鉱業権の出願があった場合、所管庁は実地調査を行い、出願の可否を決定するが、この際には鉱区の位置確認などのために測量も行われる。これを鉱区地形測量や鉱区境界測量などという。この測量では既存の三角点を利用するが、不足する場合には、所管庁(鉱山監督局・鉱山保安監督部)が独自の三角点)を設置した。
このような三角点の標柱には、「○○三角点」のように表記がなされ(○○は「東鑛=東京鉱山監督局」「仙鑛=仙台〜」「福岡=福〜」など鉱区を管轄する全国五つの鑛山監督局の略称が入る)、全国の鉱区が存在する(した)地域に現存しているが、現在は国土地理院による四等三角点の設置や、GPSなどを使った測量技術の進展により、これらが利用されることはない。



ということで、碑の正体は、「仙鉱三角点」という、仙台鉱山監督局(ないしは仙台鉱山保安監督部)がかつて設置した三角点だった!

設置時期は残念ながら分からないが、出願状況などを調べればはっきりすることだろう。しかし大雑把にいえば、仙台鉱山監督局が誕生した大正14年以降であるに違いないし、後述の理由から、戦前の設置と思われる。

いやはや、今まで知らなかったけど、こういうものがあったんんだねー。
鉱山の周辺はそれなりにウロチョロしてきたけど、見つけたのは初めてだ。
これは単なる境界標ではない、三角測量のための基準点だから、そんな多い密度では設置されなかったであろうし、それなりにレアだと思う。

それにしても、三角点の大半は山頂のような標高の高い場所に設置されるが、それは測量のために見通しが必要だからだ。
そして、この一本松の三角点は標高は周辺の地面プラス1mくらいしかないくせに、見通しはご覧の通りに抜群!

遠い過去のある日、仙台から派遣された鉱山監督局の測量部隊は、この茫洋と広がる秋田平野を見て、自らの任務の難しさに唖然としたかも知れない。
そんななか、この黄金の小島は彼らに天啓を与えたのではなかったか。
「三角点はここだ! ここしかない!」 

そしてこの地は、秋田平野における鉱山開発の重要な橋頭堡となった。
 ↑さすがにそこまでの事実は無いと思うけどね(笑)。





本件については、これにて私の中では一件落着となった。
だが、土地勘のない読者さまの中には、まだ違和感が残っているかも知れない。

「こんな水田に、鉱区や鉱山があったのか?」 …と


「石油便覧」(大正10年)より転載。

これについては、間違いなくあったと言える。
ただ、鉱山は鉱山でも、いささか鉱“山”的ではない、油田である。
かつて日本一の規模を誇った秋田油田といえば、今も地理の授業中で一度くらいは登場するのではないだろうか。

右図は、大正10(1921)年に石油時報社が発行した「石油便覧」という資料の一部であるが、「秋田油田図」として、秋田県の沿岸部に多数の油田が存在した事が現されている。

たとえば、現在は秋田県庁や秋田市庁舎が立ち並ぶ市内の八橋地区には、昭和30年代まで、ビルよりも遙かに多数の採油櫓が林立していたことは、秋田県人には有名な昔話となっている。 秋田油田の代表格である八橋油田がそこにはあった。

そして今回の一本松に最も近いと思われるのは、旭川油田だ。
近隣には他に道川油田や黒川油田というのもある。
当サイトでも過去に登場したことがあるので、覚えている人……は、まずいないだろうけど。→道川の手押軌道隧道黒川の製油用軌道隧道

・旭川油田
本油田は千蒲善五郎が明治9〜30年に5坑の手堀と、2坑の上総堀を行い、秋田県の石油事業の先駆をなした(中略)
同35年秋田油田調査会が綱堀りを行い、同41年日本石油が本格的に開発に乗り出した。大正2年ロータリー掘削で1337mに達した。昭和4年最盛期に達し、年産1万8600klに及んだ。同13年以降は新掘を行わず、採油のみを実施、現在も細々と操業を続けている。昭和53年産油量1216kl。

「角川日本地名辞典 秋田県」より「旭川油田」の一部引用。

上記「角川日本地名辞典」の旭川油田の解説文によると、昭和4年頃が旭川油田の最盛期で、昭和13年以降は新たな油井の開発は行っていないそうだ。
というわけで、出願を契機として件の三角点に関する測量が行われたのも、この時期よりも前である可能性が高いと思われる。

また私が調べた限り、歴代の航空写真や地形図で、一本松周辺に油井を描いたものはない。
これは、測量の基準点に一本松が利用されたからといって、油井そのものが近隣にあるとは限らないだろうし、単純に測量後に出願が却下されたか、許可後に採掘に至らなかった可能性もある。


なお、昭和時代の角川日本地名大辞典に「現在も細々と操業を続けている」と、末期的状況が書かれていた旭川油田の現在だが、これがちゃっかり今でも採掘が続いている。

採掘の中心地は、一本松から直線距離で3kmほど南にある外旭川地区で、住宅地や水田や県道やパチンコ店などの間に10基以上の採油マシーンが、こっくりこっくりと舟を漕ぎ続けている。

こいつらを年2回の帰省の度に目にするが、あるとき急に動きを止めていて、「ああ遂に涸れたか」と感慨深く思ったのに、半年後に来るとひょっこり動き出していたり、不死身のゾンビ兵を彷彿とさせる状況が地味に可愛いと思う。



それに多分だが、旭川油田は新掘をはじめている疑いがある。

一本松のわずか600mほど南西の県道231号(冒頭に登場した道)沿いで、去年かその前くらいから突如、高いフェンスに囲まれた一角が登場した。(←)

しばらくは、もの凄く高い櫓を建てボーリング作業をしているのがフェンス外から見えていたのだが、“今日”(2016/9/4)プラプラっと見に行ってみると、重機類が全て撤去されて静まりかえっていた。

そこで、フェンスの隙間からこっそり中を覗いてみると……(→)。

……これは、どっちなんだろう。掘り当てたのか、当てなかったのか。




黄金の稲穂の海の下には、黄金の燃える水が渦巻いているのだろうか。

オイルラッシュの再来を夢見る小さな石と、ひねた姿の老松の組合せは、

なかなかに似たもの同士のようで、仲が良さそうに見えた。



完結。


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