ミニレポ第241回  石川県道256号長浦小牧線 後編

所在地 石川県七尾市
探索日 2018.10.26
公開日 2018.11.03

「ツインブリッジのと」のとても無口な隣人


11:11 《現在地》

石川県道256号小牧長浦線を、終点から起点を目指して走破するこの小さな旅、出発から約2.8kmを走り終えたいま、残りはあと0.7kmと少なくなり、地名的にも既に七尾市中島町長浦……起点と同じ大字に入り込んでいる。

もはや誰からも見捨てられたような約0.3kmの“迂回区間”を抜けると、この斜め十字路がある。右からぶつかってきて左へ貫通する直線道路は、迂回区間の入口で分かれた道に他ならない。県道は、これを突っ切って直進する。




一連の迂回区間を振り返る。
完璧に完成された直線道路を前に、県道の迂回がいかに無意味であったか、悲しいほに明らかだ。
沿道に家屋や田畑の一つでもあればまだしも、山林しかなかったのである。

こんな県道の無駄っぽい部分を律儀に忠実になぞろうとするのは、それこそ道路マニアだけだろう。
もはや道路管理者でさえ、管理のために立ち入っている様子がなかった。封鎖されていないことが、道路管理の大原則(通れること、理由なく封鎖しないこと)に則ってのことではなく、単に管理の怠慢と思えてくるほどの放置ぶりだった。

しかし、県道256号線の命は、まだ死んだわけではなかった。
ここで再び、自身の目的地へ向かう意義を取り戻して、息を吹き返す。



見よ! 見事に体裁を取り戻した県道の姿を!

直前の状況が幻だったかと思うような、2車線の道だ。
道は緩やかに下りながら、今度こそ起点の長浦集落へ無駄のないコースで向かっていく。
そういえば、この県道の起点には、「長浦4km」と書かれた【青看】があったことを思い出す。




さらに進むと、少し前までは樹上に僅かに頂部を見せるだけだった「ツインブリッジ」の主塔が、巨大な上半身を見せ始めると同時に、それに支えられる白い橋桁の部分も徐々に見え始めた。

県道は、“こことは異なる陸地”へと通じるこの巨大な橋を脇目に見ながら、橋脚を兼ねる主塔の根元へと向かって、緩やかに降下していく。
その果てにあるのが、“この陸地”の最も奥にある集落だ。



11:12 《現在地》

県道の「起点」まで残り500m地点まで来ると、数軒の民家と畑地が路傍に現われ、長浦の集落に入ったことが察せられた。
あるいは、高毛(たかも)というのが、大字長浦において特にこの小集落の名前かも知れない。少し古い地形図では、ここには高毛という小地名の注記がある。

そしてこの小集落の中ほどで、道は二手に分かれるのだが、2車線道路が分岐によって1車線ずつにばらされたみたいに、どちらの道も狭かった。
これまでの分岐と同様、県道の案内はどこにもないが、直進するのが県道だ。

もちろん、直進する。




待っていた景色が、来た!

いよいよ目前に現われた巨大橋「ツインブリッジのと」の下を、県道は潜りにかかる。
同じ直線道路との3度目の交錯だが、前回までは平面交差であったものが、今度は立体交差する。

まるで主星と衛星のような軌跡を描く2本の道は、主星が海橋として羽ばたく前で、
衛星は地を這い、それより下のない海面へ墜落しようとしていた。



橋を潜った!

有色の県道の上を、無色の巨大橋が悠々と渉っていく!

道路趣味の世界に連綿と受け継がれている、「有色の道路は偉いもの」という観念をあざ笑うように。

地図で想像したとおりのギャップの大きな風景は、私を存分に愉快にさせた。



11:19 《現在地》

そして橋を潜ると、下る道はもうその先になく、海岸線に建ち並ぶ沢山の家屋に迎えられた。
この県道が目指してきた深浦集落の中心地へ辿り着いたのである。

屋根の向こうに見えるのは、海の先に浮かぶ能登島の起伏だ。
ここを“海峡の町”と呼ぶには、いささか長閑すぎるようにも見えるが、紛れもなくここはかつて海陸交通の結節点であったはずで、それゆえに県道はここを目指してきたのに違いなかった。

しかし、いまはもうその機能を失ったのである。
集落の入口に、「この先行き止り 七尾市」と書かれた、いかにも県道にありそうな看板が設置されていた。
これはこの県道が初めて見せた、“袋小路路線”であることの告白だった。



迫力!

型式は、ハープのような吊り材で特徴付けられる、斜張橋だ!
しかも主塔が2本あるから、2連続(3径間連続)の斜張橋! かっこいい!!

そしてなんというか…、巨大橋が民家に近いッ!

こういう種類の景色を見た経験がほとんどなかったので、私は興奮してしまった。
おそらくだが、まだ見ぬ瀬戸内の海に赴けば、この種の景色を多く見られるのだろうが。
まったく日本的な集落風景の中に、SF的な別世界の構造物が無理矢理割り込んできたような、強烈な違和感だ。
何年も見続けていたら必ず見慣れるのだろうけれど、いまの私にはとても新鮮で、極めて強烈な印象を与えてきた。



この橋は、大きい。

そんな当たり前のことを伝えるために、ここから約4km北の穴水町内から同日に撮影した本橋の遠望写真を挿入した。

本橋の全長は620mあり、斜張橋に属する部分は450m、2本ある主塔間の距離(=支間)は230mで、
この支間長は平成11(1999)年の完成当時において国内第5位の規模だったという。
また、主塔の高さは海面から海面から約67mあり、路面の高さから頂上まではちょうど50mあるそうだ。

そして、私が「いま」いる場所は、写真の右側に見える主塔の根元付近である。



こうした集落の間近、民家の隣に見えるようなところに巨大な主塔が屹立していることは、ちょっと想像していなかった。
(実際には海上に建っているのだが、とても近くに見える)

正直、この県道の“変さ”を楽しむ行為は人を大いに選ぶだろうが、
この景色を見ることについては、もっと万人に勧められる価値があると思った。
この県道をわざわざ終わりまで辿る行為の動機付けとして、十分な魅力がある景色だろう。




集落に入ってすぐのところに、「島田酒店」の看板を掲げるお店がある。

酒、タバコ、郵便、こども110番の家、宅配、その他様々な看板やシールが出されていて、いかにも集落に根ざして生きてきた息の長さが感じられた。
そして、それら様々な看板の中で特に私の目を惹いたのは、文字の消えかけた1枚の大きな青い看板だった(↓)。




長浦←→能登島渡し舟乗船場

かつてこの県道は、能登島へ渡る道のりであったのだろう。
本県道が現行道路法下で初めて認定されたのは昭和35(1960)年というから、渡船の時代真っ只中だ。

地図を見れば明らかだが、七尾湾に浮かぶ能登島と本土が接近しているのが、この長浦である。三ヶ口瀬戸と呼ばれる海峡の幅は僅か500m足らずしかなく、昭和57年にいち早く能登島大橋によって本土との接続が完成した屏風瀬戸(幅約1km)よりも遙かに近い。長浦は能登島と本土との往来における古くからの重要な渡津であり、だからこそ第2の架橋地点に選ばれた。

長浦を起点とする県道の存在を見たときから、渡津の存在をほぼ確信していたが、架橋の実現から20年近くも経過している現在まで、明確な痕跡が残っているとは思わなかった。
これでこの県道の存在した意義がはっきりと確信できた。ツインブリッジへと受け継がれた、偉大なる意義が。



架橋により、渡船が役目を終える。

それは数え切れないくらいにありふれた出来事だが、失われた渡船の痕跡をはっきりと見られることは案外に少ない。
旧道・廃道として直に歩いて探索することは出来なくても、これも立派な旧道であり廃道なのだろう。

島田酒店さんでは、対岸への渡船はもうやっていないようだが、釣り客相手の釣船、貸しボート、釣り場への送迎渡船などを行っているようで、沢山のボートが出番を待っていた。
釣りをしない私でも、のんびりと内湾の海上旅行をしてみたいという気分にさせられる、そんな佇まいがあった。




さて、県道の続きに戻ろう。

長浦集落に辿り着いて、渡船場の跡も見て、県道探索も終わりかと思いきや、各種地図が描く終点…ではなく起点は、島田酒店からさらに150mほど集落内を北上した、道のどん詰まりの地点になっている。
そこまで行ってみよう。




ここへ来る途中に通ってきた深浦集落内の県道にそっくりだ。
道幅が狭く、両側の家屋の高い軒が、路上に張り出しそうになっている。
背後に山が迫る狭隘な海岸の平地に張り付いている、昔ながらの漁村景色。
こういう道を広げて幹線道路にしようとすると、多数の家屋の立ち退きが必要となることから、大抵はそれを避けるために海岸線を埋立てて防波堤を兼ねた新道が作られることになる。深浦もそうだった。
しかし、この長浦は袋小路。最奥の集落だから、拡幅もされず、白線さえも敷かれず、県道らしからぬ長閑さのままに取り残されている。



漁港の看板もないけれど、沿道に小さな船溜まりがあった。

海の向こう、肉眼で家の数を数えられそうなのは、能登島の通(とおり)集落。泳ぎの達者な人なら舟の力を借りなくても辿り着けそう。
向こうの海岸沿いを通るのは、こちらとは番号一つ違いの石川県道257号田尻祖母浦半浦線で、さっきのツインブリッジを渡ればすぐ合流する。
もしツインブリッジがこの県道の一部になっていたら、道路地図はもっとシンプルで分かりやすいものになっただろうが、結論として、県道はこの陸の果てで終わり、対岸には辿り着かない。

なお、平成16(2004)年9月末日までは、この長浦集落(及びこの県道の全線)は鹿島郡中島町、対岸は同郡能登島町に属していた。いまは合併によってともに七尾市になっている。
架橋が果たされていなければ、このような海を隔てた合併はなかったかも知れない。



11:23 《現在地》

県道長浦小牧線の起点に到達。

そこは、長浦集落の最後の一軒の庭先だった。
このまま進めば民家の敷地へ入ることになるが、そこにはチェーンが架かっており、立ち入りは出来ない。
脇道の類は一切なく、明瞭に道は終っていた。車をUターンさせるスペースも用意されていないので、うっかり車で立ち入ると面倒だ。

県道ではあっても、「この先行き止り」の標識地点から先は、完全に地元人専用といった趣だった。




「起点」に、県道の証しを探したが、見つけることはできなかった。

この写真の標柱は、県道側の面に「石川県」の文字が刻まれており、それを見た瞬間は県道関係ではないかと色めきだったが、別の面には「漁場境界」云々と書かれていたので、関係なさそうである。

それにしても、恐ろしく透き通った、綺麗な凪いだ海だった。


起点より、県道256号の進路を見る。

渡船が存在しないいま、この道を起点から終点へ向けて辿り始められるのは、自家用船を使わなければ、この長浦集落で生を享けるくらいしか方法がなさそうだ。
だからどうしたと問われれば、答えに窮するが。

なにはともあれ、懐かしさを感じさせる漁村の風景と、近未来的な巨大斜張橋が、恐ろしいほど近くに同居しているこの県道の風景は、一見の価値がある。



起点の空気をひとしきり呼吸してから、すぐに来た道を引き返してみると、先ほどまで現われていなかった三色ぬこが、路上にごろーんと転がってひなたぼっこ中だった。
こんなところからも、この県道の長閑すぎるさまが感じられると思う。
一応は車道化していても、朝夕に住民の車が数台走るほかは、郵便バイクくらいしか自動車は入ってこないと思われる。私のような部外者が訪れることもまた稀なのだろう。
ちなみにぬこは、これだけではなく、周囲に潜んでいるものが他にもいた。





《現在地》

このあと、ずっと見上げていた橋の上へも行ってみた。
最後まで渡りきらずに引き返したので、能登島への初上陸は翌日まで果たされなかったが。




そしてこのときに私は知った。
「ツインブリッジのと」という橋の名前は、公募により付けられた愛称であって、親柱に刻まれている本来の名前は別にあることを。
その名は、「中能登農道橋」という。

この橋が地図上で無色であり続けている事情が分かった。
この橋や前後の(私が「直線道路」と呼んでいた)立派な快走路は、いわゆる広域農道だったのだ。
農道も林道と同じく、道路法の枠組みの外にある道路だ。道路法の道路になれないわけではないが、簡単ではない。

深浦地区で、県道が立派な臨港道路(港湾法が定める)に進路を譲る姿を見たばかりだが、同じ県道がこの長浦地区では農道(土地改良法が定める)に頭上を跨がせ、未来を託していたのである。
道を欲する人びとは、知恵を絞り、様々な制度の道を選択しながら、その遠大な希望を実現させてきた。
そんな現代の複雑な道路の仕組みが、この県道の珍妙ないまを作り上げていると思った。



広い道から外れて、たまにはこんなゆるキャラみたいな県道を訪うのも一興だろう。

まあ、私はそればかりやっている気がしないでもないが。




ミニ机上調査編 〜県道長浦小牧線の前史〜

石川県の資料によると、昭和35(1960)年10月15日に、一般県道163号長浦小牧線が認定されている。
現在と路線番号は違うが、路線名は変わっていない。
そしてこの日は、現行の道路法下で石川県内の一般県道が最初に認定された記念日である。このとき認定された一般県道は全部で183路線あり、これらは県内の道路網における(国道と主要地方道に次ぐ)重要路線であると見なされていたのである。

また、このようにスターティングメンバーであった県道は、旧道路法時代から受け継がれた伝統的な路線であった可能性も高い。
そのような考えから、旧道路法時代に編纂された史料に目を向けたところ、確かにこの県道が旧法時代から存在していた証拠を掴んだ。
それも、現在より遙かに大きな版図を持った路線だった。
昭和3(1928)年に鹿島郡自治会が出版した『石川県鹿島郡誌』、そこに掲載されていた「郡制廃止後の鹿島郡内府縣道(大正十四年十二月現在)」に、次の路線名を発見したのである。

路線名: 百七十三號 小牧七尾線   
起終点: 西岸村字小牧 ヨリ 西島村字須曾 マデ  
全  長: 二里三十五町二.四間 (約11.7km)

旧道路法時代は国道に次ぐ重要路線とされた府縣(県)道に属する、小牧七尾線なる路線。
全長11.7kmと、現在の県道長浦小牧線の3倍ほどもあるこの路線が結んでいたのは…

右図は、昭和28(1953)年の地形図だ。現行道路法が施行された翌年の版ではあるが、実際に描かれているのは(ほぼ)旧道路法時代の道である。

これを見ると、図の左端にある「西岸村」の「小牧」から、同村の「長浦(高毛)」に達する道が、県道を表わす二重線で描かれている。いうまでもなく、これは現在の県道長浦小牧線のルートそのものであり、完全に一致する。

だが、旧道路法時代の府縣道小牧七尾線の終点は、能登島の西部にあった「西島村」の「須曾(曽)(すそ)」という集落であった。
地図を見ると、確かに能登島の「西島村」内にも「半浦」から「須曽」を結ぶ府縣道の記号(赤く着色)がある。
この地図では、「通」から「半浦」までは徒歩道の記号しか描かれていないが、実際はここにも府縣道小牧七尾線が指定されていたとみられる。
つまり、名実ともに本土と能登島を結ぶ1本の県道として認定されていたのである。

そして、今回の探索の終着地だった「長浦(高毛)」と、対岸の「通」の間には、「人馬渡(両岸出舩)」(人と馬が渡れる渡船で、これよりグレードの低い「人渡」という記号もあった。「両岸出舩(せん)」とは、船が両岸に待っていることで、「片岸出舩」という記号もあった。「片岸出舩」だと、もし対岸に船がある場合は何らかの方法(多くは旗信号)で船を呼ばないと乗ることが出来ない不便があった)の記号で描かれた渡船がある。
また、終点の「須曾」には、「汽舩渡」の記号が描かれており、この南の海を隔てて存在した七尾町(現在の七尾市中心部)と結んでいた。
この汽船の便も含めて、府縣道の路線名としては「小牧七尾線」になっていたのだろう。

これを現代風にいえば、海上区間が2箇所ある県道ということで、さらには、現在の能登島と本土を結ぶ2本の橋(能登島大橋と中能登農道橋)は、いずれもこの旧府縣道小牧七尾線の経路上に架けられているということがいえる。

あなどれなかった!

…さすがは、現行道路法における県道のスターティングメンバーに収まっていただけはあった…。
いまは正直、出涸らしみたいになってしまってるけど、立派な過去を持っていた!



完結。


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