ミニレポート第285回 富山県道285号西勝寺福野線 不通区間 後編

所在地 富山県南砺市
探索日 2018.10.26
公開日 2024.09.13

 結・繋がっていないようで繋がってるけど、やっぱり繋がってない県道


2018/10/26 16:13 《現在地》 (海抜160m)

前回“中編”の最後のシーンの続きから。
私は探索のスタート地点を出発して約55分で4.4kmの道のりを走破し、目指していた県道285号の“起点”である、県道42号との接続地点に到達した。
なのに、なぜかまだこの“後編”があるということに、皆さん異変を感じておられるかと思う。

なぜか。

その話しは勿論するが、
マイナー県道を走破して辿り着いたこの場所というのが、道路ファン的にかなり“濃い場所”だったので、そのことを先に訴えたい。



まずは、地理院地図で見る県道285号の起点周辺は、こんな感じである。
小森谷トンネル蔵原隧道という2本のトンネルが丁字路で分岐する、ちょうどその角に下りてきた。
これだけでも、トンネルを愛する道路ファンにとっては、少なからず“濃い場所”だというのは伝わると思う。

しかも、これらのトンネルがいずれも一筋縄では行かない奴らだったから、タマラナイ。



県道285号起点から、来た道を振り返って撮影した。
こちら側の入口も特に封鎖はされていないが(途中にあった【あのバリケード】は一人相撲だったことになる…)、まあ基本的にここを入っていこうとするのは好き者だけだろう。普通の人が、地図に騙されて、県道だと思って入ってしまい酷い目に遭う……なんてことは起きない入口だと思う。

で、地図で見たとおり、この場所は丁字路になっている。
私は丁字路の“脇の下”の所に、脇毛のようにぴょこんと飛び出してきた感じである。

丁字路に連なる三方の道のうち、前(ピンク)と後(緑)は県道42号で、左(赤)は国道304号の旧道である。
正確には、国道304号の旧道は手前から来て左へ入っていく経路だった。その頃はここが県道42号の起点となる交差点だったはずだ。
これから各方向を向いて撮った写真を1枚ずつ見てもらう。



これは赤矢印の方向、昭和62(1987)年に新蔵原トンネルが開通するまでの国道304号である。

地理院地図では健在っぽく描かれているが、分岐の奥はバリケードで封鎖されている。すぐ先に蔵原隧道が現存しており、貫通もしている。
蔵原隧道は『道路トンネル大鑑』にも記載があり、全長120m、昭和18(1943)年竣功とされているが、それは大規模改修を受けた年であり、よくよく調べると、元は明治16(1883)年完成という、富山県ではおそらく最古級の道路トンネルであった。もちろん道自体の歴史も古く、明治期に金沢方面と礪波平野を最短距離で結ぶ馬車道「高窪往来」として大々的に整備されたらしい。
今回の探索中に偶然出会った【謎の切り通し】は、本隧道建設以前の古道に由来する可能性があると思うが、この調査は未完了である。

……なんてことを、直接関係がないこのミニレポをきっかけに芋づる式に調べてしまうから、なかなか執筆が早く進まないのである…。



こちらはピンク矢印の向き、富山県道42号、主要地方道小矢部福光線の小矢部方向だ。

小矢部市との境の尾根を我が道ごと潜る小森谷トンネルの坑口が見えている。
小森谷トンネルは全長222m、昭和55(1980)年の完成で、『道路トンネル大鑑』に記録がある小森谷隧道(延長168m、昭和29年完成)は、廃止された先代である。恥ずかしながら、先代トンネルがあったことをこの探索時点では把握していなかったので、後日改めて探索した(その模様はまた後日…)。

……これも、本県道と直接関係がないのに調べてしまうから、追加の探索までする羽目になったのである…。まあ、いいんだけど……。



最後に緑矢印の方向、県道42号の福光方向である。

このまま広い道を500mほど下ると、国道304号に接続する同県道起点に到達する。
現在の新蔵原トンネルが出来るまでの国道304号はここを上ってきて、直角左折の後に蔵原隧道へ入っていた。
カーブ内側が広く隅切りされていた名残が、今は県道の広い駐車帯のようになっている。
また、50mほど先に右折する道があるが、これは医王スカイラインの通称を持つ市道医王線で、石川県境に聳える医王山まで延びている。



以上見てきたように、県道285号の起点であるこの場所は、国道304号、県道42号、医王スカイラインなどの幹線道路が集まる、いわゆる交通の要衝になっている。
実際、ラッシュアワーということはあっただろうが、目の前の県道を行き交う車の頻度は相当であった。

まあ、これらの道路メンバーの中にあって、圧倒的に県道285号は地味というか、実態に乏しいが……、それでも、この場所に起点が設定された意義自体は読み取れる気がする。
すなわち、福光、金沢、小矢部、医王山などの地点を相互に結ぶ交通の結節点に、さらに福野・庄川方面からの最短コースを結ぼうという遠大なる意図が、現時点では山中に孤立したまま半ば放置されている【かの2車線道路】を先行的に整備せしめたのではなかったか。


……うん、ミニレポながら、なかなか良い締め括りになりそうだなと思ったよ。


でも、


大どんでん返しが待っていたんだ。

帰宅後も帰宅後だ。このレポートを書こうと、先日机上調査を始めたとき、初めて“それ”に気付いてしまった。

きっかけは、所蔵している『富山県道路管内図(平成30年4月1日版)』(↓)を確認したことだ。



これは富山県道の管理者自らが作成した、それも最新版にかなり近い『管内図』である。
図の範囲の中央付近を左右に横切るオレンジ色の県道が、県道285号西勝寺福野線だ。

よく見ると、西端の起点辺りの路上に×印が連なっている部分がある。これは【自動車交通不能区間】未改良道路(供用を開始している)のうち幅員、曲線半径、勾配その他の道路状況により、最大積載量4トンの貨物自動車が通行できない区間をいう。を示している。
具体的な距離の表示はないが、どうやら現状で県道285号には数百メートル程度の自動車交通不能区間が設定されているようだ。(2車線道路が途切れたところから先が指定されているようだ)

まあこれは不思議ではない。現状を見れば、さもありなんだろう。
不思議というか、違和感を覚えたのは、地理院地図が県道として描き、実際に私が辿った県道の起点付近は、この管内図のような単純な経路ではなくて、一旦小森谷トンネルの上を跨いで回り込んでくるような経路だったが、これが全く反映されていないように見えたのである。

……これは縮尺の都合なのだろうか……?

この微かな違和感の解消を目指して、富山県GISサイト上に公開されている道路台帳図面にあたってみることにした。
道路台帳には、道路管理の最も基礎的な資料となる縮尺500分の1の詳細な図面が含まれている。
検索画面に路線名を入力して調べてみると……。(↓)



こんな感じの白地図がたくさん出てくるが、問題の起点付近の図面がこれである。

が、大縮尺過ぎて、パッと見ただけでは分かりづらいかも知れない。1枚ごとに方角も違っているし。

(もっとも、もうこの時点で異常事態は明らかだったが……)


次の地図は、数枚の台帳図面の方角を揃え、地理院地図上に重ねて表示したものである。(↓)



マジか〜〜?!

管内図の表現が実は正しく、(私がなぞった)地理院地図の県道は正しくなかった。

台帳図面が教えてくれた正しい県道のルートを、探索中の写真から振り返ってみよう。



峠の切り通しを越えた直後、16:03に通過したこのシーン。

実はここが正しい県道と、ダミールート?の分岐地点だったようだ。

こんなの分かるかよ!! 道なかったし! 一本道だったし!!!

でも台帳によれば、【この笹藪】を突っ切るように、幅1.0mの県道が指定されているのだ。

そして、そのまま50mほど進むと……。



こうなる。

県道42号の高さ20mくらいある直線的な切土の斜面を、真っ直ぐ下る。

そして下りきり、県道42号の路端に触れるその接線上に県道258号の“本当の起点”がある。

図面によれば、この法面を突っ切る直線区間は長さが128mあり、幅はやはり1.0mである。
現状では草が繁茂していて分かりづらいが、実際は犬走りを数段配した階段状の法面になっているが、そうした勾配の変化を一切無視して、完全な直線として県道は指定されている。



私が辿ったダミールートは、県道42号に西側からアプローチしたが、正しくは東側からアプローチしていたのである。(管内図は正しく描いていた)
起点の位置についても、道路地図の縮尺上では同一地点と言えるだろうが、詳細に見れば違っていた。

なお、そこに実際の道の形はない。
特に、法面を突っ切る区間については確実に道はなかった。
にもかかわらず、道路法の手続き的には、その位置に県道が存在し、かつ供用中である。

そして、こういう事例はさほど珍しくない。
特に不通とされているような道路には頻出している。
最終的な目標とされる理想の道路を形成する前の過渡的状況において、土地取得など、現実のさまざまな事情から、こういう図面上のトリックが行われている。しかし多くは道路利用者に実質的な不利益がないので、気付かれることも稀である。
(この場所についても、おそらく誰も困っていないはずだ)

ちなみに、私が辿ったダミールートの正体だが、これが不明である。
道路台帳にスルーされているのだから県道ではないだろうが、「なんとデジマップ」にも記載がないから、南砺市道というわけでもないらしい。
現時点では素性不明の道路と言わねばならない。




以上が、「お伝えしなければならないこと」の内容だった。
こんなどんでん返し、探索中はさすがに考えなかったなぁ……(笑)。
次回は、こんな不思議な県道のミニ机上調査編です。




 ミニ机上調査編 情報乏しき県道285号西勝寺福野線の生き様


まずは歴代地形図の比較から、道の変遷を調べてみよう。

@
 地理院地図(現在)
A
平成10(1998)年
B
昭和61(1986)年
C
昭和44(1969)年
D
昭和27(1952)年
E
明治42(1909)年

@は最新の地理院地図で、新たに説明することはないだろう。

Aは平成10(1998)年版である。さほど昔の地形図ではないのだが、この時点で既に今とは描かれ方が違っている。
一連の県道は、軽車道であったり、それなりの幅の車道であったり、道が描かれていない区間であったり、徒歩道であったりと、区間によってさまざまな表現をされているのである。
ただ、私が「ダミールート」と呼んだ起点附近の九十九折り区間や、山中に孤立した未成道っぽい2車線区間は、いずれもBからAまでの間に整備されたものであるようだ。Bになると姿を消してしまう。

Bは昭和61(1986)年版だ。今回辿った県道の大部分は描かれていない。
しかしウィキペディアによると、本県道は昭和35(1960)年4月23日認定とのことだから、県道の認定自体は既にあったはず。
実態として、地図に描くほどの道が通じていない区間が多かったものと想像する。

Cは昭和44(1969)年版だ。本県道についてはあまり変化はないが、国道304号の認定以前で、まだ県道だった時代だ。小森谷トンネルについても、ここに描かれているのは先代の小森谷隧道の方である。

Dは昭和27(1952)年版で、本県道が認定される以前の状況を描いているが、最大の注目点は、現代の【道路台帳の県道位置】をなぞるような“小径”があることだ。
この時代の地形図に“小径”として描かれるような、今日より見れば古道と表現して差し支えがない道が、かつて存在したのだろう。その後、一応は車道である「ダミールート」が整備されても、県道の指定替えは行われていないらしい。
また、この版には、【謎の切り通し】の位置を通る別の“小径”も存在している。先は小矢部側へ抜けており、小森谷隧道開通以前の旧道として利用されたことがあったのかもしれない。

Eは明治42(1909)年版で、当地の変遷を遡りうる最古の版だが、蔵原隧道が既に存在している。
本県道についても、既にその原形というべき尾根道が“里道”として描かれており、それは途中で色々な尾根へ分岐して多方面に伸びている(それらを緑色に塗った)。これらはおそらく近世以前に由来する尾根通りの生活道路だったのだろう。

以上の地形図の変遷から、本県道には明治時代以前から原形となるような尾根道が存在していたことが分かった。
しかし、その近代化のペースは遅く、県道の認定から随分と時間が経った昭和の終わりか平成の初頭になって、ようやく整備の重い腰が上げられたようであった。
だが、これについても令和の今日まで完成には至らず、先行して整備された2車線区間も、本来の活躍を見ないままに荒廃しつつある悲しい状況だ。



@
平成25(2013)年
A
昭和62(1987)年
B
昭和58(1983)年
C
昭和52(1977)年

昭和後半以降の変化について、今度は航空写真で見てみよう。

@の平成25(2013)年版と比較して、Aの昭和62(1987)年版だと、2車線区間が極めて鮮明に見える。まだ建設直後、ないしは建設途中の状況と思われる。さらに、「ダミールート」の部分も緑に埋れずはっきり見えており、こちらも同年代に建設されたものとみられる。

ただ、同時期に建設されたとみられる「ダミールート」と「2車線区間」で明らかに規格が異なっているのは不思議な点だ。「ダミールート」が県道に認定されていないことも踏まえると、この部分はいわゆる本線ではなく、工事用道路やパイロット道路的な意味合いのものだったのかもしれない。

Bの昭和58(1983)年版では、Aにある2車線道路の東端附近で工事が始まっているように見える一方、西側やダミールートもまだ全く見えない。一連の工事の大半は、昭和58〜62年の短い期間で進められたことが読み取れた。

Cは昭和52(1977)年版で、航空写真から県道の存在を窺い知れる部分はほとんどない(黄色い破線の部分にあったはずだがほとんど見えない)。
まだ車道といえる規模の道は存在しなかったのではないだろうか。

そして小森谷トンネルはまだなく、代わりに先代の小森谷隧道が利用されていた。
ABCを比較により、現在のダミールートの出口にあたる部分が、右写真に図示した通り、小森谷隧道のアプローチを一部流用していることが判明した。




地形図と航空写真の歴代見較べという間接的な手法で、本県道の整備された経過を大まかに読み取ったが、その背景を知るためにはやはり直接的な文献を見つける必要がある。

例によって国会図書館デジタルコレクションを調査の主戦場と据え、「西勝寺福野線」を検索してみたが、これが驚くほどヒットしない。
同所で内容が確認できる『福光町史 下巻』(昭和46(1971)年/福光町)には本県道への言及が全くなかった。(平成23(2011)年版町史は未確認)
『福野町史』(昭和39(1964)年/福野町)には辛うじて、町内の県道網を一覧的に紹介する文中に、「ほかに県道として、寺家より院林・梅ヶ島・桐木を経て岩木・西勝寺に至る福野―西勝寺線(があり)」という言及があったが、その具体的な整備状況その他については一切触れていなかった。

ほかに富山県議会の会議録も検索してみたが、ネットに公開されている平成6年以降には、ただの一度も本県道名は登場しなかった。これより以前には言及があったかも知れないが……。
また、歴代の道路地図についても手元にあるものを色々と調査したが、特に成果は得られなかった。

そんなわけで、県道西勝寺福野線が現在の整備状況に至った経過について、文献的にはほとんど全く不明といわねばならない。
既に述べた通り、昭和60年前後には一部を2車線道路として大々的に整備していることから、当時の富山県には本県道の完成に向けた全体計画や構想のようなものがあっただろうし、整備を推進しようとした地元関係者も確かに存在したはずだが、それらに関する情報は、いま少し足を使って調べなければ見つけられなさそうである。今後の課題としたい。



『富山日報社編纂 富山県管内図(昭和8年1月15日発行)』/(チェンジ後)『富山県管内図(大正13年11月発行)』

ただ、調査の数少ない成果として、西勝寺福野線の先代にあたる県道は、旧道路法の時代から存在していたことが明らかになった。

ここに掲載したのは、七社美博氏(Facebook)よりご提供いただいた『富山日報社編纂 富山県管内図(昭和8年1月15日発行)』という戦前の管内図である。

赤線の位置に1本の県道が描かれている。注記された路線名は、「小森谷福野線」。西勝寺福野線の先代にあたる県道だ。

比較のため掲載した(チェンジ後の画像)少し古い大正13(1924)年版の管内図だと、この県道はまだ存在しない。
代わりに、福野〜岩本間にのみ破線で描かれた「町村道」が存在している。

今日の西勝寺福野線は、中間の岩本を境に、西の山岳部(ダメダメ)と東の平野部(普通に活躍)で、大きく風景も性格も異にしている路線であるが、それぞれ別々の県道として誕生したわけではなく、県道になったときからずっと一緒で一本の道だったことが分かった。
福野より福光を経由せず金沢方面へバイパスする近道として、県道認定当初から期待されていたのだろうか。


明治42年版の古い地形図上に、昭和8年管内図に描かれていた各県道を対応させたのがこの地図だ。

昭和8年当時の県道小森谷福野線は、県道42号の先祖である県道石黒石動線(いしぐろいするぎせん)と、このように尾根の上で接続していたらしい。

具体的には、峠の切り通しのすぐ近くにあった【この分岐】である。
当時はここが小森谷福野線の起点、ないしは石黒石動線との重複から外れる単独区間の始まりだったのだ。路線名に入っている小森谷というのは、現在の小矢部市側にある大字である。

また、岩木辺りの経路も現在とはだいぶ異なっていたようだが、たまたまスタート地点にした県道48号(当時は県道津沢福光線)との交差位置は変わっていなそうだった。


最後に、「小森谷福野線」をキーワードにして調べてみたところ、『富山県議会史 第4巻』より、昭和4(1929)年11〜12月の通常県会の記録に次の内容を見つけた。

  府県道路線の認定
別紙調書ノ路線ヲ府県道路線ニ認定セントス

  ・府県道路線認定調書
路線名 起 点 終 点 延 長 
……(略)……
小森谷・福野線西礪波郡東蟹谷村小森谷墜道除東礪波郡福野町二里
……(略)……

『富山県議会史 第4巻』より

正確な県道認定日は分からないが、このあと時間をおかず昭和5(1930)年度までには県道認定を受けたようである。
なお、この「府県道路線認定調書」において、起点位置が「西礪波郡東蟹谷村小森谷墜道除」と書いてあるのは注目に値する。
小森谷隧道は、『道路トンネル大鑑』では昭和29年完成とされているが、昭和4(1929)年時点で既に「小森谷墜道」という名前が出ているのである。
ただ、この最後に付された「除」の文字が何を意味しているのかは不明だ。国会図書館デジタルコレクションの全文検索でも、同様と考えられる使用例が全く見つからない。

また、『富山県統計書 昭和13年 第1編 土地・戸口・其他』という資料の県道一覧表にも本県道の記載があり、全長8337m、うち橋梁延長が186mで、隧道と渡船場はゼロであった。また幅員については、幅2.6m未満の区間が8150mと全体の大半を占めていたようである。

やっと掴んだ手掛かりである小森谷福野線についても、これら以外の文献は未発見で、その後の消息もはっきりしない。
おそらくは、旧道路法時代をそのまま経過し、昭和35(1960)年に現道路法下で富山県が認定した一般県道第一陣のメンバーとして、西勝寺福野線が再認定されたものと考えている。
その後も山間部の整備はなかなか進まなかったが、いかなる経緯か、昭和60年前後に一部が2車線道路として忽然と整備された。しかし残りは旧態依然に近い状況のまま今日に至っているようだ。

調べても情報の少ない全体に地味な県道だが、やはり歴史自体は長かった。
そして、その間延びしたような歴史の長さの中で、ほんの一瞬だけ工事の注目を浴びた時期があったっぽいのが、印象的である。
果たして今後、この県道の未整備区間が再び日の目を見るような日は来るだろうか……。




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