ミニレポート第287回 古座川町一雨の材木流しトンネル 中編

所在地 和歌山県古座川町
探索日 2024.12.13
公開日 2024.12.28

 脅威の急勾配トンネルへ突入!


2024/12/13 15:40 【現在地】

観光パンフレットにも掲載されていたという「材木流しトンネル」を無事発見した。
ただし、現地には特に案内板や目印など、観光地らしいアピールは全くない。
一方で、逆に立ち入りを制限するような障害物も置かれてはいなかった。

ただそこに、探せば見つかる“穴”があるだけ。

誰もが驚くべき異形の様態を持った穴が。

画像の赤矢印の位置から、道を外れて穴へ近づくことが出来る。



道から身を乗りだすとそこにあるのは、僅かに水が流れる岩盤直掘りの水路だ。
水路の底となる岩の表面は全体的に人工的な感じがほとんどないくらい滑らかに磨かれた曲線を見せている。水や流材で削られた浸蝕の結果だろう。
かつ一見して30°〜40°はあろうという強い傾斜がついており、さらに水でしとどに濡れている部分もあるため、この時点で足を踏み入れることには躊躇を感じざるを得なかった。
当然ながら、滑落することを恐れているのである。

そもそもここは、人が通ることも想定した構造の穴なのだろうか。

そういう疑問もあった。



なお、この流材用水路の下方は道の下を潜って、そのまま古座川に注いでいる。
こちらも滝に近い急傾斜となっている。
失敗すれば滑り落ちそうに見えたので、下りていくことは自重した。

下は正直どうでもいい。

上へ……穴の中へ……行けるかどうかだ。トリさんはちゃんとお利口さんな選択をしていたが…。




穴の中も、この傾斜だからな……。

道路を飛び出し、水路の際の際から撮影してみても、洞内傾斜の凄まじいと感じること、変わりなし……。
これはもう、“前”というか“上”に開いた穴って感じなんだもんな。
いまだかつて、こんな急勾配の穴へ潜入したのは、千葉の釣師海岸の穴のときくらいか…? あそこは大戦末期に回天基地があった海岸線に兵員を高速にシュートするための穴という説があって、今回のこれとは全く利用目的は違っていたようだが。


……ただ、よく見ると……、 有 る な 。



岩底に刻まれた、歩行のためのステップが…!

建設当時に掘削人が出入りしたのは当然としても、完成後、流材トンネルとして使用を始めた後も、人間が出入りするための準備が最低限はなされていたことが窺える。
普通のトンネルのように日常的に人が通行したわけではないと思うが、例えばトンネル内に丸太が引っ掛かってしまうといった故障への対処として、人が入る必要はあったのだろう。 ……たぶん。

見るからにか細い頼りではあったが、岩にステップが刻まれているのを見つけた私は、これに勇気を貰って、トンネル内へ進むことを決心した。



坑口に立って振り返る道と暗渠。
この段階で既に路面より高い位置にいる。

なお、「日本風景街道 熊野」にあったこのトンネルの解説文には、昭和初期に造られたものであると書いてあった。
一方、廃止時期については記述がなかったが、昭和初期には既に古座街道と呼ばれた道路がここに整備されていたはずだ。
しかし現在の暗渠の高さでは、とてもその下に丸太を支えさせず通すことは難しいう。
当時はおそらくもっと小さく狭い木橋が架かっていて、橋の下に流材を妨げないだけの空間があったのだろう。


そしてこれが――



坑口より見上げた、洞内の様子。

現地では、とにかく印象の9割以上を尋常でない勾配に持って行かれて、他のことはついでくらいにしか目に入らないのだが、この写真だと勾配が分かる水平面が一緒に写っていないせいで、インパクトは伝わりづらいかと思う。
勾配の凄まじさについては“次の写真”に譲るとして、一旦冷静にトンネルとしての構造に言及してみたい。

素掘りである断面のサイズは、進行方向に対して縦横1m×1m程度である。
こうして数字にすると非常に狭いと感じるだろうが、実際は物凄い勾配のため、十分立ち上がれる天井の高さがある。
また、断面の形は正円形に近く、これも通常の人道用のトンネルでは見られない特徴である。
そして、奥で右にカーブしているのが見えている。そのせいで出口は見通せないが、風は抜けていた。

今は洞床中央の最も凹んだ部分にだけ僅かに水が流れているが、点々と浅いステップが刻まれているのも、その濡れた部分である。
それがいかにも滑りやすそうに見えて、こうして入口に立ちはしたが、逃げ場のない洞内へ進むことを改めて躊躇わせた……。




同じ位置で撮影した、全天球画像である。

グリグリしてみて欲しい。

そうすると、この穴がどれだけ上向きに掘られているかが、分かると思う。

実際この場所に立って、濡れたステップに全体重を掛けている今の状況が既に怖さを孕んでいる。
だが一番恐いのは、洞内を途中まで登ったところでスリップし、そのまま勢いがついてしまって下まで墜落する事故だ。
そんなことが起らないよう細心の注意を払って登っていく必要があるし、危険を感じたら、そこで前進は中止する。

以上を取り決め、いざ洞内!




うっひょぉおおおお!!!

思わず奇声を上げたくなる異様さだ。

洞内に入って、ますます勾配が強くなっているのは間違いない。おそらく45°前後はあろうと思う。

ステップよりも梯子があって欲しいのだが、流材という目的を考えたら当然梯子では役に立たない。
しかし、いつ彫られたものかもしれないステップは恐ろしく浅く、十分な灯りがなければ見落とす畏れが大きかった。
当時の作業者には当然LEDヘッドライトなんてものはなく、手持ちの松明とかランタンの灯りで潜ったろうことを思えば、全く恐ろしい限りである。

また、これは明らかに流材とは無関係の後年に設備されたものであろうが、多数のポリエチレン製パイプが内壁に固定されていた。
特に流動音などは聞こえないが、現役なのだろうか。
しっかり壁に固定されているお陰で、不安なときには手摺りのように使うことが出来た。



さらに良いニュースがあって、それは濡れた部分を含めたこの洞床の全体が、見た目以上にガッチリと靴底をグリップしたことである。
スパイク付きの長靴という装備も良かったのだろうが、根本的にこの岩盤の正体である流紋岩質凝灰岩というのが、のっぺりとした外観に似合わず多孔質であるため、表面はとてもザラザラとしており、摩擦が非常に強いのである。
かつ岩質自体も堅牢であるから、滑りにくい。(だからこそ、川べりにこれほど厳しくそそり立っている)

お陰で、慎重に進めば滑落の危険は大きくないように感じられた。
(釣師海岸の穴が泥岩でとても滑りやすかったのとは対照的だ)



少しだけ動画も撮影した。

自然と地面に這いつくばるような姿勢となるほどの凄まじい勾配が感じられると思う。
また、動画の中で言及しているように、壁面上部に取り付けられたポリ管に木片などの漂流物がこびり付いていることから、洞内が高い水位で満たされるような状況が、そう珍しくなく発生していることが窺えた。
そんな増水は想像するだけで恐ろしいが、安全な外の道路から吐き出される水を見る分には、楽しいかもしれない。



さて、入口から10mほど前進して、見えていた右カーブの始まりへやって来た。
微かに出口側の光が壁に反射して見えるので、曲がれば出口が近いと思う。
地形図を見る限り、このトンネルの水平距離は20mもないはずだ。対して実際のトンネルの長さはその√2倍くらいありそうだが、それでも30mないはず。

チェンジ後の画像は、同じ地点で振り返って撮影。
進むほど傾斜がキツくなっているのが分かると思う。
マジでウォータースライダーみたいだが、水と一緒に丸太を流すのって、まんま原理がウォータースライダーだもんな。理に適った勾配の付け方なんだろう。

そしてこの勾配が計算された意図的なものだとすると、精密な計算機械も測量器具もない時代になされた工事の設計や施工の技術力に感心する。
当時この手の傾斜した流材トンネルも方々に掘られていて、十分に経験を積んだ技術者が大勢いたということなのか。
私は今のところ傾斜した流材トンネルをここしか知らないが……、皆さまはご存知の場所があるだろうか。



これは同じ地点で撮影した全天球画像。
真っ暗な部分が多いので情報量は少ないが、ヘッドライトに照らされた前方と、背後に遠くなりつつある入口を、グリグリやズームアップ・ダウンして確認して欲しい。
そしてしつこいようだが、それらを結ぶ洞内の勾配の尋常ではない勾配も。
這い登るという表現がこれほどぴったり来るトンネルは、なかなかないだろう。




おおっ! 出口!!!

曲がった先に出口あり!

しかしこの出口の見上げる感じは、トンネル経験3000本を超える私としても初体験だな(笑)。
いったいどんな風に地上に繋がってるんだこれ。
出た先の様子も、大いに気になるぞ……!



 謎の“洞口分岐”の正体は?


2024/12/13 15:45 【現在地】

危険なモーレツ傾斜の穴にも、ちゃんと出口があった。
あと数メートルで辿り着くことができる。
ウォータースライダーよろしく、落口に近づくほど傾斜が緩やかになっている。この最後だけを見れば、天井の低いただの素掘り人道トンネルと区別が付かないだろう。

外は直ちに立合川という小さな川と接しているものとみられる。ささやかだが水の流れる音も聞こえている。
そういう立地でなければ、流材トンネルという仕事を果たせないだろう。
だが、本日は一滴の水も流れ込んではいなかった。
ここまでの洞内を流れ落ちていた少量の水は、この出口付近にあるポリ管の接合部から漏れ出したものだった。



これは出口まで2mくらいの地点で振り返って撮影した。

左に曲がりながら、同時に下りの勾配が激しくなる。
当然、こちらからも入口までは見通せない。
探索の順序として、先に登ってきたのは正解で、もし逆順であったら、この下りに初めて突入する勇気は持てなかったと思う。先に登って滑りにくいことを確かめた今なら、吝かではないが。



出口まで残り1mという最後の最後で、気になるものがあった。

出口に対して斜め後ろの方向に、別の坑道が分岐していたのである。



洞内分岐ならぬ、“洞口分岐”とでもいうべき不思議な穴だ!

右の穴が、いま潜り抜けてきた穴で、こちらから見ると物凄い下り坂であるのが分かる。

そして左の穴が、分岐した謎の坑道。

こちらには、右の穴のような下りの存在を感じない。水平に近いものと思われる。

もちろん突入!




こちらの穴は、非常に狭い。

そう感じる最大の原因は、洞床に大量の砂利が堆積しているためだろう。
それで天井が近くなってより窮屈なのだが、左右の幅も右の穴より明らかに狭かった。
幅60cm、高さ70cmくらいである。当然、最初からしゃがみ歩きを余儀なくされる。
あまり奥行きは無さそうで、もちろん通風もしていない。ただ、閉塞壁はまだ見えないので、さらに前進する。



洞床の堆積物の嵩がさらに増し、その分天井が近くなった。
これ以上は、四つん這いでなければ進めない。
泥濘んでいないので、まだ我慢して進むが、限度があるぞ……。

しかし、右の穴とは明らかに勾配が異なっている。
入口から4mは進んでおり、隣にある右の穴はとっくに猛烈な下りにかかっている。
また、右の穴は途中で左へカーブしていたが、この左の穴はずっと直線である。
そのため、地中を立体マッピングすれば、左の坑道と右の坑道は、立体交差している可能性が高い。

……おそらくこの事実は、2つの穴の由来と関係があると思う。



分岐から7mくらい進むと、ついに四つん這いでも天井に頭が接触するほど狭くなった。
原因はやはり、洞床の堆積物の嵩が増えつづけていることだ。
また、堆積物の質が変わり、やや濡れた砂地になった。
砂の上を水が流れた様子はなく、さながら洞奥の砂浜という雰囲気だ。超狭いが。

姿勢を細くし、カメラを構えた腕を前へ伸ばすことで、限界まで洞奥を捉えようとした。

そして――



閉塞を目視で確認!

人間が踏み込めないほどの狭洞となってからも、5mくらいは空洞が続いているが、最後は倒木や木片などの大量の漂着物にまみれた壁で閉塞していた。
その壁は、人為的に作られたものには見えず、高い確率で、未掘削の岩盤だと思う。
であるならば、この坑道は未貫通の未完成という公算が大!

実は閉塞壁ではなく、そこから下に向かって穴が掘られているが、埋れてしまった。
…そんな可能性も0とはいえないが、多分ないと思う…。



身をよじって引き返す。
短いとはいえ、苦しい穴だった。
結局のところ、この右の穴は目測12m前後の位置で行き止まりと判断した。

それにしても、このような行き止まりの穴が作られている理由は、なんだろう。
流材に必要な存在とは思えないので、やはり何らかの理由で建設中に計画が変更され、工事の途中で放棄された未成トンネルだろうか。
しかし、興味深いのは、実際に貫通して利用された隣のトンネルと、まるで勾配の付け方が異なることだ。
同じ目的のトンネルで、こんなに形態が異なることがあるだろうか。



これは一往復探索しただけの私が、目測で得た数字から即興で描いたものであるから正確性は低いが、流材トンネルの横断図だ。

高所にある立合川から、低所の古座川へ、丸太の流材を行うために掘られたバイパストンネルであったことが事前情報から判明しているが、実際に貫通している坑道は、その内部だけで10〜15mの落差がある急勾配のスロープになっている。(地表に出てからの落差がさらに10mくらいある)

一方、おそらく貫通していない行き止まりの坑道は、洞内には目立った勾配がなく水平に近い。
もし、そのまま岩山を貫通させたとすると、そのトンネルを通過した丸太は、古座川の水面まで落差20m前後の滝を落ちたはずだ。
そんなのは非現実的と思うかもしれないが、実際に上北山村の池郷川では上記を再現したような流材トンネルが実在しており、そこでは30mもの滝を落下させる流材が実行されていた。
だから、あり得ない方法ではない。

ただその場合、流れ落ちる滝の直下に存在する道路が、障害になったのではないか?



上の地図は、昭和8(1933)年版の地形図だ。
この時点で既に古座川沿いには太く描かれた県道(古座街道)が通じており、これは現在の旧国道の位置にある。
そんな道路の真上から、滝と一緒に丸太を落とすことが、許されただろうか。

しかも正確な年次は不明ながら、明治以前は山側に迂回していた古座街道が川沿いの車道として開通したのは“昭和初期”であったことが『古座川町史』によって判明しており、これは事前情報にあった流材トンネルの完成時期(「昭和初期に造られたもの」)と重なるのである。
これは偶然の一致なのか。

もしかしたら、立合川でも最初は池郷川と同じ方法で流材を行おうとしてトンネル工事を始めたが、途中で県道の新設が明らかとなったことで計画を変更し、地表に露出した滝ではなく、地下に滝のように急なトンネルを掘る方法へ改めたのかもしれない。
そしてこの計画変更のために、現在のトンネルは内部がカーブしているのではないか。

……残念ながら、こうした想像の裏付けとなる証言や文献情報は発見されていないが……。



15:48

謎の行き止まり坑道への寄り道を終え、今度こそ、出口へ。




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