廃線レポート 上信鉱業専用軽便線(未成線) 最終回

公開日 2015.5.07
探索日 2015.4.08
所在地 群馬県長野原町〜嬬恋村

第2号隧道東口捜索戦線


2015/4/8 10:19 《現在地》

外観からしてやばそうだったこの隧道は、内部も埋め戻されたのか崩れたのか判別出来ない状況で目一杯の土に埋もれており、先へ進む役には立たなかった。
仕方がない。
洞内探索の望みは未発見の東口に託したいと思う。

ここから東口へ向かうには、どうすればいいだろうか。
隧道上の尾根を乗り越えて進む事を最初に考えたが、隧道の長さが分からないというのは不安だ。
それよりは、改めて川沿いの村道側から地形を精査して、東口に通じる路盤を見つける方が効率的だろうと判断した。

一旦、脱出する。



30分前に一度は自転車に乗って通りすぎた村道沿いの工場前に出て来た。ちなみに自転車は最初の隧道前に残してきた。

この大きな工場の背後に、もうほとんど埋もれかけた隧道の坑口が、周辺に明確な路盤跡もない状態でポツンと残されていたのである。
そこに私が辿り着けたのは本当に幸運であったと思うし、最初にあの“美しい”隧道を見つけていなければ、こちらの隧道ももろともに見過ごしていたに違いないのである。
やはり、廃道や廃線といった線的なものの探索は、発見から発見へ連鎖したときにこそ強いカタルシスがあると思う。

それはそうと、工場裏手にある西口の位置から考えて、隧道が最短であった場合の東口の位置は村道沿いに出っ張った尾根のすぐ後、ここから100mも離れていない辺りだろうと、そう“あたり”を付けた。



10:27 《現在地》

“あたり”を付けた場所の下にやってきた。

少し前にこの村道を通過した際に、“あたり”を付けた斜面も目視しているが、特に何も無いと判断して通り過ぎた場所だった。
そしていま改めて目を皿にして眺めてみても、やはり路盤だと思えるような平場は見あたらない。

でも、
間違いなく私は隧道の坑口らしい穴を、この場所の尾根を挟んだ向かい側で見ている!
そう簡単に諦めきれるものではない。
立地からして村道の工事で埋め立てられた可能性も有るとは思ったが、ここはもう少し深く追求せねば納得出来ない。



凹んで見えるって?

そんなのは、こじつけだ。

こんなのにまでいちいち付き合っていては、きりがない。

まやかしだ。見たいと思うものを見ているに過ぎないよ。


…自分の中の冷静な部分がそう言って、私を獣さえ歩かなそうな急な法面から遠ざけようとした。
確かにその通りだと思う。
この場所の反対側に、埋もれてしまった坑口を見てさえいなければな。



薄雪が積もった崩れやすく滑りやすい枯れ草の斜面を、爪先のグリップで強引に土を掘りながら、一歩一歩攀(よ)じるように昇った。

そして恐怖を感じるほどの高さに達した。
この苦闘の最中、村道を軽トラが通りがかったが、私に気付いた様子は無かった。
今の私は獣よりも斜面に馴染んでいる気がした。
昇る過程でも、路盤らしきラインを見つけたりはしなかった。
ただただ私が目指していたのは、下からは「見えた」とも「見えない」とも言えなかった、そんな微妙な“凹み”の部分だった。


“凹み”が目睫の間に迫った。 →

私は全身に熱いものを感じていた。

もしかしたら、これは当てたかもしれない。

こんな嫌らしい立地に隧道を見つけたとしたら、今日は自分を思いっきり褒めてもいいだろう。




← やったっぽい。

これはマジで当てたっぽい。

……嬉しい。 でも、これがもし正解(=坑口)だとしたら、この隧道はどれほど腐れてるんだ! と言いたくなる。
西口があの状況で、東口もこの状況?! 内部探索は?!




下から目指してきた、“凹み”の地点に、いま到達した。

これはその現場から見下ろした村道であり、吾妻川である。
もしここが隧道の坑口だったとしたら、前方の斜面には路盤があって然るべきだが、
未施工だったのか、壊されたのか、崩れたのか……いずれにしても見あたらなかった。

――路盤、結局発見ならず。



しかれども、吾(われ)、




隧道を確認!

お目当てのもの… 第2号隧道の東口を発見した!!!!





第2号隧道内部の尋常でない姿


10:31 《現在地》

これは酷い状態だ。

素掘であったろう隧道はほとんど全壊し、本来の天井よりも高い位置に開口部があった。
いままでも数多くこのような末期的状況となった隧道に潜ってきたが、一度だって愉快だと思ったことはない。
今日は独りだし、アリジゴクを思わせるように下向きに開いた穴へ入るのには、覚悟と勇気が要った。

もちろん、結局は入るのだ。
入らざるを得ない。というか入って確かめたい。
閉塞が確定している悲しい隧道の内部を、最後の目撃者になるのかも知れない状況であれば、尚のこと確かめたい。



入口は下向きだが、少し入ると底を打ち、今度は反発して上向きに空洞が続いているようだ。まるで自然洞窟。
ライトが照らし出しているところがその底だが、これも本来の洞床ではない。
本来の洞床は完全に埋没し、もう二度と触れる事が出来ない地中にあるはずだ。

坑口付近は荒れていても、洞内は案外に平穏無事だという可能性に期待したが、既に見た西口がそうではなかったように、洞内もひどい有り様であるようだ。

あの西口は人工的に埋め戻したのかとも思っていたが、そうではなかったことも確定した。
あれは洞内外の自然崩落だった。もちろんこの東口もそうだ。

そして底に降りた私は、驚きの光景を見る。




出たよ……。
地中の登山大会だ…。

経験上、崩壊が末期で進んだ隧道でしばしば見られる光景だ。
本来は水平であったはずの坑道が、天井の際限ない崩壊のため次第に上部へ遷移していく地獄絵図。

そしてこのようになった隧道の末路は、土被りが浅ければ浅いほど早く訪れると思う。
地上近く空洞が達してしまうと天井の壁面を支えていたアーチの力が失われ、地上の陥没と同時に落盤閉塞が起きるだろう。

本来ならば、こうして立ち入っていること自体が危険な末期的隧道だが、その危険さにさえ目を瞑れば、空洞自体は大きくなっており、歩行は可能である。




現在の天井の真下にある“山頂”までの“標高差”は、8mくらいだろうか。天井はそれよりももっと高い。
外から見た地形の感じだと、もうほとんど地上までの土被りの猶予はないと思われる。
ドーム状に広がった天井は、私の照らす強力なライトによって歪な黒い模様を見せており、それがプラネタリウムのような幻想の雰囲気を醸していたが、生き物の存在を感じさせない点でも宇宙を彷彿とさせたし、薄暗い瓦礫の世界は地球外惑星のようじゃないか。

それにしても、わずか400mと離れていない2本の隧道なのに、あまりにも様相が異なっているのである。
白亜の殿堂を思わせる秀麗無比なるあの隧道と、漆黒のダンジョンを連想させるこの隧道。

そもそも、この隧道は貫通していたのだろうか。
せいぜい長さ50mくらいしかないと思うので、その可能性は高いと思うが、実際に潜り抜けて確かめるのは絶望的だ。




登頂した。

この崩壊パターンに陥った隧道の多くは、こうした“山頂”辺りが空洞の終わりで、
その先は天井まで崩土が満ちて閉塞しているというのを良く見るが、
この隧道では反対側へまだ下って行けそうだった。

いよいよ、真の闇の底へ向かう心境だな……。



幸いにして、下りの終わりは間近に見えていた。
底から登ってきたのとだいたい同じくらい下ったところが、本当の終点らしい。

もう目視で行き止まりを確認出来ている段階で引き返したい気持ちになったが、
(なんか上下に屈曲した穴の奥の奥くとか空気の流れも悪そうだし…)
ここまで来たのだからと自らを奮い立たせ、終点の有り様を間近で確かめることにした。

そして終点の崩土の一角に見える、もしも入り込んだら
二度と抜け出せなさそうな狭くなった部分に根源的な恐怖を感じながら、
そこから意識を離すことが出来ず凝視していた私の目に、

あり得ないと思っていたものが見えた。




微かに煌めく外光を目視!


つまりは、こういうこと
↓↓↓

←先ほど見たこの西口の崩土と天井の隙間には、洞内の空間に通じる僅かな隙間が存在していたのである。
その事を知ったとしても実際に通りぬけようとは思えないが、かつて両側の坑口が繋がっていたことが確かめられた。

第2号隧道の工事も貫通を果たしていたのだ!



洞内探索の最大の目的も予想外の幸運によって無事に達成した私は、
すぐさま危険な洞内から地上へ戻った。この探索中に崩れないでたすかった。

そしてそのまま村道を経て、第3号隧道東口に置き去りにしていた自転車へ帰還した。




専用線終着の地、芦生田。嬬恋駅跡


10:54 《現在地》

さて、ちょうど1時間ぶりにここへ戻って来た。まさに衝撃の1時間だったわけで、今度こそ本当に満足した気持ちで終点の地へ足を踏み入れる事が出来そうだ。
あと残りは700mほどでしかない。

芦生田の住宅地にぽっかりと口をあけた第3号隧道に連なる、うっすらとした築堤を脇目に見ながら、前進を再開。




隧道から100mほどはそれらしい築堤が見えていたが、やがて墓場への通路に重なると集落の生活道路に組み込まれてしまい、後は分からなくなった。
ここで鉄道の工事が行われたのは70年前であり、近隣の住民の中でも実際に工事の風景を見ていた人は少ないだろう。
ましてや戦時中の事であるから男性住民は地元を離れていた可能性が高いし、女性住民もその後に他の場所へ嫁いでいる可能性が大だろう。

それでも時間を使って聞いて回れば、きっと面白い証言は得られそうだが、今回はもうお腹いっぱいなのでいいかな。



隧道から200mほどで、専用線推定ルート上の道は、吾妻川沿いの村道と合流した。
地形的に見て、このまま村道沿いを進む以外の選択肢は無さそうだが。
あとは終点の草軽電鉄嬬恋駅跡まで住宅地が続くようなので、現存遺構は厳しいかな。




少し進むと、村道の下にトンネルから出て来たJR吾妻線が突然現れた。
昭和46(1971)年に長野原駅からこの嬬恋村へ向けて開業した線路(建設中の名称は嬬恋線)は、専用線の時の夢を四半世紀ぶりに嬬恋村の現実としてもたらしたものだった。

そんな因縁ある線路を見下ろす村道脇に、赤い前垂れも眩しいお地蔵さまが安置されていた。
そして脇には「日本鉄道建設公団」の銘が入った、因縁ならぬ、由緒が書かれたプレート。
未成線と関係する話題ではないが、鉄道工事に関わる事象として興味深いので一部転載したい。



この仏像は昭和四十三年七月嬬恋線 小宿隧道掘鑿工事にあたって同隧道出口より八十米付近の地中から累々とした土石にまじって奇蹟的に出土したものである。(以下略)

小宿隧道を地図で見ると全長が700m以上もあり、その「出口から80m付近の地中」が文字通り隧道内の地中であるならば、確かに奇蹟というか不思議である。なぜそんな場所から仏像が?

ここから先は本当に私の妄想なので読む価値はない。
この仏像は、終戦時、専用線の工事が志し半ばに終わったことを嘆いた“トンネルの佐藤”の屈強なトンネル戦士たちが、将来さらに理想的なルートで鉄道が復活することを期待し、その位置(小宿隧道)を図面から予測したうえで、子世代のトンネル戦士を驚かせるべく、一晩で埋蔵したものである。



嬬恋駅跡まで残り300mの地点で、村道は小さな橋を渡った。
出合橋という名前で、下を流れているのは北軽井沢の高原から流れ出た小熊沢なる可愛らしい名の川だった。(地形図は小熊沢、橋の銘板は小熊川の表記)

専用線もこの小熊沢を渡る橋を計画していたに違いない。
そしておそらくそれが“最後の橋”だったろう。
正面の突き当たりの辺りは、もう終点嬬恋駅跡の一角だったから。


何か残ってたりは、しないよね? 




ぐにゃぁあ〜!(←歓喜)


最後まで100点満点だな今日は。

帰り道で隕石に直撃されて死んだりしないよね。



11:02 《現在地》

小熊沢の左岸にポツンと取り残されてたコンクリート製の橋台。
相対すべき対岸の橋台は撤去されたものか見あたらないが、おそらくはシンプルな短径間の上路PG橋を計画していたのだろう。

今回の一連の探索では、数多くの橋台を発見確認したが、これが一番現代的な姿をしている。
見える部分が全てコンクリート製であることや、戦時中のものとは思えないほど老朽化が進んでいないのが、そう感じられる理由だ。

それにしても、本当にこの上信鉱業専用軽便線の工事は、全線にわたって繰り広げられていたことが了解される。
2年前の探索の成果と併せても、1km以上にわたって遺構を見つけられていない区間は、起点の長野原駅周辺と、途中の羽根尾周辺だけでなかったろうか。
それ以外は500mとおかずに次々と現存遺構が展開しており、おそらく最終的な土工の進捗具合は7割を越えていたのではないか。
もちろん、鉄道として開業させるためには、駅などの施設の工事や車輌の準備なども必要で、そっちの進捗は聞こえてこないが、事業主体が国であったことを思えば、それらも可及的速やかに完了させることが出来たろう。

この路線の工事が、昭和17年や18年といった戦争の前期に打ち切られず、20年の終戦時点まで進められていたと伝えられていることも、国にとってこの路線がどれほど戦争遂行の核心的な施設と見なされていたかを伺わせる。
本土防衛のための重要施設と謳われていたあの大間線でさえ、18年には打ち切られている。
したがって、もしあと1年間戦争が続いていたとしたら、戦況の如何を殆ど問わずに、この鉄道は誕生していたのではなかろうか。
多くの国民が涙を流す、惨憺たる国土の中で。



11:08 《現在地》

群馬大津駅前を出発してからちょうど5時間。
吾妻線の駅で数えればたった3駅目にも届かない約8kmの道程で、専用線の終点と伝えられる、草軽電鉄嬬恋駅跡に到着した。

そこは草軽電鉄跡を語る多くの情報のとおり普通の街角であり、遺構の代わりに設置されているらしい駅跡地を示す案内板さえ見つけられなかった私は、完全に燃え尽きた風の体たらくであったのだろう。

草軽より遙かに日陰者であった上信鉱業専用線の未成線は、地域の変わらぬ愛情を誇る案内板を眩しがるかのように、ひっそりとその手前、小熊沢の橋台で終わっていたのである。

この街角にあったものの姿を、帰宅後に少し調べてみた。