10:40 (登り始めて8分後)
普通だったら絶対に上ってみようと考えない斜面を、やむを得ない事情から必死によじ登っている。上ろうと思えば好きなだけ登れるような斜面ではなく、とにかく苦しかった。
まるで、登ろうとする者を妨害する意図を持っているかのような、鼠返し状に反った細い灌木が常に行く手を妨害して、あまりの苦しさに叫び出したくなるほどだった。普段なら登ることを考えない勾配に加えて、この灌木の仕打ちであった。
もっとも、どんな邪魔な灌木であっても、あるだけありがたいという面もあった。
草木が全くなければ、あまりにも恐ろしい崖登りになっただろうから。
チェンジ後の画像は、そうした灌木の急斜面に深く腰を沈めて、ひとしきり息を整えようとしたときに撮影した下方の眺めだ。
中央の奥に微かだが青滝上部の渓流が見えている。
ここで4分か5分休んでから、再出発した。
10:53 (登り始めて21分後)
ひどく、 ひ ど く 、時間がかかっている。
地形図がよほど間違っていない限り、先ほどは10分ほどで登り切っている“小さな高巻き”と同程度の高さ、すなわち60m程度を突き上げれば、上部にある高原の縁に到達出来るはずなのだが、休憩時間も含まれているものの、倍の20分かかってもまだ登り着かなかった。
理由は単純に、普通は登らないような斜面を無理矢理に登ろうとしたからだ。当然ペースは上がらず、体力の消耗も尋常でなくて、しばしば息を整えねばならなかった。
しかし、ここでやっと四つ足でなく、2本の足で地面に立てるくらいの傾斜となったのだった。
写真は登ってきたところを振り返っているが、飛び込み台を覗き込むような傾斜を感じるだろう。ここは絶対に下ろうとは考えないはずだ。
なお右奥に見える長い雪渓は、青滝上部の谷底である。
そして、チェンジ後の画像は同地点から上部を撮影している。まだ登らなければならない!
10:57 (登り始めて25分後) 《現在地》
助かったー…。
30分近くも要したが、あるところを境に地面は驚くほど平坦となり、私は長閑やかな疎林に包まれた。
これほどなだらかな地形が、軌道跡の6〜70m上部に広がっているのだが、敢えて軌道はこの容易に線路を引き延ばせそうな土地を選ばず、急峻な侵食の壁面の横断を専らとしている。
その理由は、高原内の地形にあるのだと思う。高原は確かに全体としては平穏だが、等高線は相当に入り組んでいるのだ。特に青滝のような渓流が描く等高線は数キロ単位で出入りしていて、一定の片勾配を保つことが重要である軌道にとって、こうした谷を上り下りしながら横断するのは、大きな損失になる。
したがって、このような勾配の問題を持たない現代の自動車道路はは、当然にこの高原をメインの通路として利用している。
こんなところにも、軌道が如何に山地には不向きな交通手段であったかが分かるな…。
今回のピンチは、転倒したとか負傷したというような咄嗟の行動の不注意ではなく、ルート選択が原因で危うく進退が窮まりかけたという、今まであまりなかったパターンのものだった。
原因は、行く手の状況を安易に自身に都合良く想定し、戻れなくなることへの危機感を充分持てなかったことと、実際に戻り難くなってしまった装備の不備の2点であった。
それぞれ反省すべき点であり、今後に活かすことを肝に銘じつつ、まずは本日の探索のこれからについて、ここで冷静に検討したい。
現在時刻や現在位置から考えて―― 探索はこのまま続行可能と考える。
現在地は、当初ここで想定した“大きな高巻き”のルート上に近く、かつ軌道の終点まで未踏破の長さは500m〜700m程度と考えられる。
路盤へ復帰出来れば、あとひと頑張りの距離だ。
一時は生還することだけで頭がいっぱいになったが、ここからまた気持ちを切り替えて探索を続行する。
ただし、いまいる高原から路盤へ再下降する場所は、少しだけ変更したいと思う。
もともと考えていた“大きな高巻き”では、ちょうどいまいる辺りから尾根沿いに下るつもりだったが、まだ高原へ登ってきたばかりで、私が心底苦労をして登った斜面からさほど離れていない場所を下る気にはならなかったのだ。
下った先の路盤に、またも越えられないガリーがあって窮するのではないかという恐怖感も強くあって、命の安全が保証されていそうなこの高原に長居したいという弱気の虫も騒いでいた…。
そんなわけだから、あまり合理的な判断とはいえないかもしれないが、もう少し先まで進んでから、路盤へ下降しようと思う。
幸い、地形図を見る限り、この先にも傾斜の緩やかそうな斜面がある。
11:01 (高原のトラバース継続中)
道らしいものも、誰かが残した指導標もゴミも切り株も、人がいた明確な痕跡を持たない森だ。
どこへなりとも歩いて行けそうな、緩やかな起伏の森が、見渡す限りに続いている。唯一、渓谷の方向を除いて。
私は渓谷へ落ち込む縁に近いところを東へ向けてしばらく歩いた。
こまめにGPSを確認し、地形図上、“最も緩やかに路盤まで下りられそうな地点”を目指した。
ここを歩くのはとても簡単で、舗装路と大差ない速度で移動できた。
だが、私にはフワフワとした奇妙な感覚があった。
つい先ほど“命がけ”に灌木を握りしめていた両手のひらだけが、未だ熱を帯びていた。
11:04 (高巻き開始から32分後) 《現在地》
……よし。 いい加減に下りるか……。
地形図では緩やかそうに書かれているが、こうやって高原の縁から見下ろすと、200mも低い所に谷底がある霧ヶ滝の谷は恐ろしく深く見え、下りはじめればすぐにまた恐ろしい急崖に遭遇するのではないかというような不安を与えた。
……なかなか足が進まなかった……。
ピンチを体験した私にとって、この反応は何も不思議はなかったが、私が滑り落ちて流血したのを見たわけではない読者諸兄にとっては、腑抜けを見る思いだろう…。
11:06 下降開始。
11:12 (下降開始から6分後)
ブナの巨樹が大きなソーシャルディスタンスを保っているふかふかの土斜面を下り込むこと暫し、
次第に傾斜がキツくなり、タノムソロソロアラワレテクレ と弱気に願いはじめた矢先であった。
目視可能な等高線が1本!
間違いない! 路盤の続きだ!!
青滝上部で私の喉元に匕首を突きつけた、あの激昂をまるで忘れたかのように平穏そうな道だった。
深く深く、安堵した。
11:14 《現在地》
おおよそ40分ぶりに霧ヶ滝線の廃線跡に戻ってきた!
地図を見るとこの場所は有名な霧ヶ滝の直上辺りだが、滝まではまだ50m以上の落差があるので、全く見えない。
そして、私を震え上がらせた青滝上部のガリーから、霧ヶ滝線を150mほど終点側に来た位置と推測された。
起点からだと通算1.4km付近で、全長2kmだとすると終点まで残り600mくらいだろうかという地点だった。
これは最後に下ってきた斜面を見上げて撮った。
緩やかなところを下ってきたと思ったかも知れないが、それでも実際はこのくらいの傾斜である。
登り返すとしたら、結構大変だろう。今後また再び大きな高巻きを余儀なくされるとしたら、
体力的にもしんどくなってくる。今回の高巻きは、精神的にも肉体的にも、非常にキツかった。
さ て 、私は甦ったぞ。
まずは、俺を殺そうした青滝に、安全圏から皮肉たっぷりの視線を向けてやらないと気が済まない。(自然と真摯に向き合うとか言えば格好いいのに、実際小物だからね)
というか、このまま先へ進んだら、歩かなかった区間が100m以上も残ることになるので、ここから一度起点方向へ戻るのは必須だ。
そして、必ずここへ戻ってくるはずだから、リュックは置いていく。少しでも体力を温存したい。
再会した路盤が思いのほか良さそうで、それでホッとしたせいか、いま、どっとした疲れを感じている。
11:16 起点方向へ、再出発。
ほんと……、軌道沿いでは青滝があった谷だけが、別格に険しかったっぽい…。
青滝の谷を過ぎたこの辺りの印象といえば、青滝と出会うまで歩いていた“霧ヶ滝線との再会”というのが、最もしっくりくる。
楽というわけではないが、逸脱した危険を感じることのない、爽快に探索が出来る軌道跡だ。
もっとも、軌道跡のラインから外れることは難しい。
霧ヶ滝が待ち受けている谷側へ下りようという人はまずいないと思うが、高巻きに関係して高原側へ登ろうとするのも、チェンジ後の画像のような、雪渓や雪崩に磨かれた岩場が随所にあって、地形図から感じる印象よりはだいぶ険しかった。
結果として、私が臆病風に吹かれて選択した高巻きからの下降ルートは、このような岩場に出会わなかったので、ラッキーだったと思う。
11:21 《現在地》
歩き出しから5分足らずで、太い尾根を回り込む場面となった。
ここを越えれば、因縁の青滝の谷の左岸へと入っていくことになるはずだ。
この先には約束された険しさがあるが、もし反対側から探索していたら、今回の探索はどういう決着を迎えたであろうか。
実は計画の段階では、終点側から探索することもかなり最後まで検討していた。
奥地ほど困難だろうという想像から、時間と体力に余裕がある序盤のうちに奥地に決着を付けたいという考えで真剣に検討したのだったが、やはり林鉄は麓から奥地へ向け探索するのが正道だという気持ちが強く、索道直登の困難を圧して、起点側からの探索を決定していたのだった。
……もちろん、こういう「もしも」に確たる答えはないのであるが、どちら側から挑んだとしても、青滝の谷が私に極めて鮮烈な体験を用意しただろうことは、まず間違いなく断言できる。
だって……
こちら側から青滝の谷へ臨むと、
尾根を回り込んだ、その瞬間に――
対岸の崖に、隧道を目にすることになるのだから……。
これは、強烈な印象を与えたに違いない!!
もちろん見えているのは、探索済の【この坑口】だ。
しかし、非貫通を知らない状況であれば、何が何でも近づきたいと思ったろう。
そして、その激情の末に、私はやはり、過ちに足を取られたかもしれない…。
この青滝は、本当に私のタマをとりに来ていたのかも知れないな……。
そう思えるくらい、この地の魅惑と危険の癒着は本当に性悪であった。
オブローダーを生きて返さないための罠が、張りめぐらされていた。
尾根を回ると、辺りはたちまちのうちに日陰になって、聞き覚えがある滝の音に包まれた。
進行方向から空が奪われ、代わりに私を苦しめた急傾斜の谷壁が背景を覆う。
ここまで来れば、例の“越せなかったガリー”まで数十メートルの距離だ。
しかし、今のところ似たような崩壊地が現われることもなく、どうやら本当に、越せない場面は幅わずか4mほどのあのガリーだけだったようである。
そのたった4mのために、叫びたいほど苦しめられた。(高原に辿り着いたときに叫んだのは内緒)
(→)
青滝三の滝が崖下の枝葉越しに見下ろされた。
路盤からという条件付きなら、ここから見る滝が最も全体像を捉えている。
どこかの屈強な沢師が【ロープを垂らして】あの滝を下ったようだったが、我々オブローダーは彼らと異なるトラバースという生態系に生きており、滝を接点とした両者の交わりもまた短いものであった。
滝を見下ろす、残雪によって下半分を塞がれた切り通し。
見覚えのある景色だった。
正確には、この切り通しを反対側から見た景色に、見覚えのありそうな予感がした…。
予想以上に、簡単にここまで来られるんだな……、反対側からだと。
11:27 《現在地》
ここだった。
血塗られかけた、越せずのガリー。
反対側から見たら、なんか越せそうなのな(苦笑)。 ←ありがち。
でもそれは、越す必要がないという安心感からそう思ったのであって、
真面目に向き合えば、やっぱり無理できないわ。土斜面じゃなく、土で汚れた岩崖なのがキツイね。
落ち葉が乗っていて、実際踏まないと凹凸が良く分からないのも、ヤル気にさせないポイントだ。
まあ、何気なく通過できちゃう可能性もあるが、転落の可能性が無視できないガリーだと思う。
動画で復習すると、こーんな感じ。
嫌なとこだよここは。
さあ、心機一転、
今度こそ終点を目指すぞ!
11:36 《現在地》
20分ぶりに、リュックのもとへ戻ってきた。
高巻きからの下降地点…、現時点における路盤上の最奥到達地へ。
再び荷物を背負い、終点目指して前進を再開する!
終点方向も、軌道跡の状況はとても安定していた。
この辺り、地形図を見ると霧ヶ滝渓谷の核心である霧ヶ滝の直上で、等高線も相当に密なのであるが、軌道跡周辺は一定勾配の土斜面と豊かな森が広がっていた。
霧ヶ滝も全く見えなかったが、斜面を降りて見える場所まで行きたいという気持ちにはならなかった。ただ、後からネットで画像は見たが、とても素晴らしい滝である。
11:40 《現在地》
これまで何度も同じような地形を越えてきた……、ここもまた尾根だ。
だが、今回の尾根が今までと違うのは、これが最後だということだ。
対岸へ回り込んで続く道はもうない。これが最後の尾根。
そしてここから見下ろすと、3〜40m下に谷底が見えた。
それは霧ヶ滝の上にある本流で、少し前までは200mも下にあって決して水面を見せることがなかった谷底だった。
また今回の探索との関わりで言えば、約5時間前、薄暗い谷底にある【出口を見た】霧ヶ滝渓谷との再会であった。
一つの谷を極めたところに、一つの林鉄の終わりがある。
こういうパターンは珍しくないが、達成感があってとても好きだ。
この尾根の時点ではまだ3〜40mの落差があると書いたが、これが0になるまでの変化は驚くほどに早かった。
尾根を回って先を見ると、そこにはもう、軌道跡の水平線が、白く迸る渓に追いつかれようとする姿があった。
霧ヶ滝そのものは落差65mの直瀑らしいが、その前後の急流も含めると、わずか250mの間で150m以上も落ちている。この極端な谷の落差を克服し、霧ヶ滝より奥の谷へアプローチするための軌道が、冒頭に落差250mの索道を有する霧ヶ滝線であった。
軌道跡を辿り、この滝上の地に至ったことは、設計者の願望の成就を見届けたことに他ならない。私と設計者の心が通じ合った瞬間でもある。尊い!
ともかく、目の前で急速に谷底に呑み込まれて行く軌道跡。
九十九折りとかインクラインとか索道とか、何らかの技で奮起して高度を稼がない限り、まもなく行く先は閉ざされることになる。
霧ヶ滝線は全長2kmだというから、終点まではあと300mほどか。距離からして、谷底に終点がある可能性は極めて高いだろう。
レールは見当らないが、ここにも枕木の羅列があった。
これがある限り、軌道跡が続いていると判断できる。
枕木を失った軌道跡と、木馬道や牛馬道といったものを完全に区別する手段はない。
終点らしいと思える場面があったら、そこを終点と判断する思い切りも必要になるのが、事前情報がない軌道跡探索の最終局面である。終点がはっきりしないケースは、案外珍しくないのである。
なんか軌道跡が、初めて登り始めたぞ?!
起点からここまで、既に1.7kmくらい来ているが、ほとんど坂道を感じたことがなかった。
それもそのはずで、起点の標高が780mくらいであったのに対して、現在地の標高が830m前後と、50mくらいしか上っていない。
平均勾配は3%未満であり、徒歩だと上り坂だと感じにくかったのも頷ける勾配だ。
そんな緩やかだった軌道が、谷底に追い立てられて、初めて本気を出したみたいに登っていくではないか。
(しかしこの場所、もともとの路盤は水平に直進していたように見えるのは、私だけではあるまい。真相は不明だが、小規模な路線の付け替えが行われているかも知れない。)
11:45 《現在地》
やや唐突に、林鉄としては少々厳しい急坂が始まったが、所々枕木が見えるので、ここも軌道跡なのは確かであろう。
しかも、100mくらい先には路肩に石垣が長く連なっている部分が見えており、コストも掛っている。
そして、もう現われることはないのかと思っていた高い崖が、再び現われた。
青滝周辺で目にした白い崖に勝るとも劣らない高さを持った黒い崖が、谷の両岸を屏風のように囲んでいて、太古に滝が後退した痕かもしれない。
どうやら、霧ヶ滝の上に隠されている終点も、牙を持たない平和な渓流というのではないらしい。
まだ侮りがたい!
哀 悼
野口浩二君(29歳)
平成6年8月この地で没
明石山の会
没後25年追悼山行
令和1年6月24日
あーー……。
忘れていたなんて書いたら聞こえが悪いだろうが、正直、途中から自分のピンチに没頭してしまったこともあって、これで「そうだったんだ」と思いだした。
【登山口の警告看板】に、平成3年、平成6年、平成7年5月と、相次いで3人の登山者が転落により命を落としたことが出ていたが、その中のお一人(平成6年に亡くなられた方)の事故現場が、こういう形で計らずも判明することになった。
(この探索の2年ほど前に、山の同胞たちが追悼登山に訪れ、これらの掲示物を残したもののようである)
そうか、この場所で命を失った……。
しかし私には、この場所に、真夏の遭難死を誘うような危険があるようには思われなかった。
だがそれこそが、前回も書いたが、“トラバースの生態系に生きる私”(および道を辿ることを山中行動の基軸とする大多数の皆様)の想像力の限界なのだろう。
例えば、この画像の矢印の位置に、こんなものを見つけてしまった。
軌道跡の上部に張り出した巨大な黒い崖。その上部の立ち木から、先端が切断された1本のロープが所在なさげにぶら下がっていた。異様な光景に、不吉な想像が浮かぶ。
これが平成6年の事故に関わるものであるかは分からない。
しかし、登山者が残したものであることは、青滝周辺で度々目にした存置ロープを引き合いに出すまでもなく、間違いないと思う。
この崖を登る必要があるかなどという愚問はすまい。その言葉は、形を変えて容易く私の元へ復ってくるだろうから。
そしてこの終焉の地の50m先、
長い石垣と、黒く濡れた大岩盤に取り囲まれた場所で、私は――
終点到達を宣言!
11:48
晴天にも拘わらず、この終点の路盤は、しとどに濡れていた。
原因は、路盤上にまでオーバーハングした黒い大岩盤にあった。
岩盤上から大量の水が垂れていて、好き放題に辺りを濡らしていた。
岩場を水が流れ落ちることは、ただのありふれた自然現象に過ぎないだろうが、
文明の名残を慰撫するような水しぶきの印象と、霧ヶ滝線をかつて行き交った人々もまた
この印象的な光景を目にしていたに違いないと思う、そんな私の共感は、ありふれたものではなかった。
巨大な岩盤に圧せられた谷底の終点、その全景を振り返る。
もともとこの路線は距離が短く、終点も簡単な施設だけだったろう。
周囲に建物の形跡はなく、短い複線部分(写真の残雪の辺りだけ複線幅)だけの終点だったと想像する。
もともと、この終点について現役当時の情報は皆無であり、
廃止後の状況も記録がなかったので、このどん詰りの谷が終点であることの
状況的な説得力は極めて高いが、それ以上の肉付けされた想像をすることは難しかった。
それでも、磐座(いわくら)に守られた終点の荘厳な雰囲気は、
私の達成感を充足させるには十分過ぎるものだったといえる。
今回の探索は、とても強く命の危険に晒されたという自覚があった。
こうやって生き残って眺める風景は、普段以上に私を喜ばせていた。
路盤の本当の端っこは、私が動画で“終点宣言”をした、さらにその50mほど奥にあった。
雨垂れの大岩を潜った先にも、片側が低い石垣になった単線の路盤が真っ直ぐ伸びていた。
チェンジ後の画像は、最後の直線の終わりにある末端部分だ。
石垣が尽き、しっかりした幅がある路盤も、同時に終わっていた。
その先にも微かな道形はあるが、大量の残雪がある雪斜面と化していた。
11:53〜12:01
終点に到達し、これにより霧ヶ滝線の全線踏破を達成した。
記録によるとこの路線の全長は2.0kmで、実際に歩いた正確な距離については途中の迂回もあったので不明だが、とにかく路盤とみられる部分で歩けるところは全て歩いたはずである。
また、今回の所要時間には試行錯誤が多く、あまり参考にならないであろうが、起点の索道上部盤台を出発したところから、ほぼ4時間を要した。
距離の割に大変時間が掛ったが、うち1時間以上は青滝周辺での死闘とも呼ぶべき悪戦苦闘に費やされたものだった。
私は終点の本当の端っこに腰を下ろして、昼飯を食った。
探索中に食べるものはいつも貧相だが、この腹を突き破りかけたほどの“大物”を平らげた後だけに、振り返り見る路盤の眺めが、何物にも代えがたい戦利の美酒であった。
事実、この同じ景色を眺めた者のうち幾人かは、無事に帰宅することが出来なかったのである。
感傷に浸るのはここまでだ。
軌道の終点は麓からは遠い場所にあって、真に生還を安堵するのはまだ少し早い。
これから出発地点へ戻らなければならない。
だが、もともとの計画から、来た道を戻るつもりはない。
ここから霧ヶ滝の渓谷を遡り、畑ヶ平高原まで登ってから町道畑ヶ平線へ出て、スタート地点の菅原へ戻る計画である。
距離や高度の面からは、まだまだこれから山奥を目指し続ける時間が続くことになる。
ところで、今回の探索のきっかけを提供してくれた『林鉄の軌跡』に掲載されていた地図(→)だと、「現在地」の付近は既に軌道の終点を過ぎていて、木馬道であるということになっている。
ただ、本文中にこの軌道終点から奥へ伸びる木馬道に関しての言及がないので、詳細は不明である。同書の畑ヶ平林鉄に関する記述は地元古老の証言をベースとしたものであるようだから、この木馬道についても古老の証言が元になっている可能性は高い(著者自身は霧ヶ滝線の跡地には立ち入っていないので)。
しかし今回実際に現地を歩いてみた結果、少なくともこの「現在地」までは、軌道跡で間違いないと思う。
ここには枕木も残っているし、距離的に全長2kmを充足するには、ここまで軌道でなければ足りないだろう。
したがって、木馬道があったとしたら、この「現在地」から先の渓谷沿いということになると思う。
そして私は引続きこの木馬道跡を辿って、畑ヶ平高原の車道を目指したい。
12:01 終点からさらに“奥”へと出発進行!
前方の雪の斜面にも微かに道形が見えており、これが木馬道の跡ではないだろうか。
(最近思いついて習慣化しているのだが、休憩から出発する際に、進行方向を指差して撮影することをしている。
休息時間が明確になるし、後で見返した際にどれが進行方向の写真か分からないということも避けられる。)
出発直後だが、まずこの残雪の山を越えるのがちょっとした難所だった。
ここまでの軌道跡ではこんなに雪の残っている場所はなかったのだが、雪が溶け残りやすい西向き斜面であることや、雪崩の通り道であること、そしてそもそも道幅が狭いという理由で、こうした状況になってしまったのだろう。
ここは簡易アイゼンが本領を発揮した。普段は土の斜面とか、濡れた朽ち木とか、そんなものばかり踏み越えているので、ちゃんとした残雪で使うのは珍しい。
冒頭の残雪を乗り越えた直後が、これだ。
今度はご覧のような赤土の急斜面が道を寸断していて、これまたアイゼンの刃も頼って乗り越えはしたものの、軌道跡と比べれば圧倒的に規格が劣る木馬道の恐ろしさを早くも身体に叩き込まれている。
地理院地図には軌道跡に引続いて徒歩道が描かれているこの渓谷沿いだが、もはや歩ける道など残っていないということを、最初の5分足らずで思い知らされた。
挙げ句の果てに、滝まで現われた。
こいつはなかなかキツイ谷だぞ……。
霧ヶ滝より上にある軌道の終点に辿り着いた時点で、それより上流は、
のんびりした高原的な渓流かと思えば、どうもそんなことはないらしい。
100mほど先に、2段になった落差10mくらいの滝が谷いっぱいに落ちていた。
しかも、やはりこの先にも残雪が多くあり、もはや谷底を辿ることには困難と危険しかないと察知した。
結局のところ、上流からも下流からも、霧ヶ滝線の廃線跡に楽に辿り着くルートというのはないようだ。
12:06 谷からの脱出を決断!
谷沿いに辿るべき道がないことを理解した私は、手近な右岸の斜面を強引によじ登って、高原へ脱出することを決意した。
このよじ登りも強烈な急斜面で、青滝周辺での冷や汗まみれの登攀を彷彿とさせるものがあったが、退路がない状況ではないだけで、随分と気持ちは楽だった。
ただ、ある程度登ったところで不可解な獣臭に取り囲まれたのは、嫌な体験だった。
ほんの1〜2分の間だったが、かつて嗅いだことがないほど強烈な獣臭に満ちた部分を通過した。
よく聞く話で、そんなときは近くに熊がいるから気をつけろなんていうのがあるが、こんな身動きの困難な急斜面で遭遇するなんてことは、御免こうむりたかった。
それとも、冬の間に死んだ獣の死臭だったのだろうか。
臭いに気づいた時点で、もはやどちらに行けばより臭いの原因に近づくのか分からなかったから、一刻も早くその場を離れたいという気持ちもあって、周囲の観察はせず、がむしゃらに直登してしまったので、結局、臭いの原因は不明のままである。
滝を見下ろすこの写真を撮ったとき、ちょうど私は臭いの真っ只中だった。
12:13 《現在地》
急斜面を無事に突破し、青滝でも私を助けてくれた渓谷上部の平坦な樹林帯(高原というか樹林帯だよね)に登り着いた。
地形図上では全く道のないところに出てしまったが、GPSによる現在地確認さえ失われなければ、もはや安全地帯に辿り着いたといって言い。
私もこの段階で、生還を確信できた。(でも、GPSがなければ、ここもまだ恐ろしい場所だと思う…)
高原には小さな起伏が縦横にあり、それらはいずれも霧ヶ滝や青滝の谷へと集まっていく源流であった。
そして、どこへでも歩いて行ける高原のそこかしこに、幹回り3mもあろうかという巨大な切り株が点在していた。
これらの大木は軌道の時代に伐採され、軌道を使って伐出されたものなのかもしれない。
私は、あの恐ろしい軌道を生み出した原動力である森を、愉快な気持ちで歩行し続けた。
高原を15分ほど北上すると、ついに“道”に出会った。
それは現代の重機が切り開いたいわゆるブル道、作業路であって、それを辿っていけば確実にもっと大きな道、そして最後には人里に通じていると思えるものだった。
12:47 《現在地》
高原に到達しておおよそ35分で、今度こそ地形図に描かれている車道に出会った。
地形図に海抜970mの「写真測量による標高点」が描かれている地点に作業道の分岐地点があって、私が辿ってきた道を除く2方向は、地形図に「軽車道」として描かれている道だった。
さすがに標高も上がっているので(軌道の終点より120mくらい高い)、雪の量が多く、雪原のようなところを歩く状況だったが、地形が極めて平坦なのと、雪がよく締まっているので、さほどの困難は感じなかった。
この分岐地点を右へ向かうと、霧ヶ滝の上流を横断して上山高原方面に通じる登山道になっている。
今回、私が脱出路として使う予定だった道でもあるが、前述の通り、そのルートの途中で滝や残雪に阻まれたので、通ることはなかった。
おそらく私が通らなかった区間に対する警告の看板が、分岐の一角に落ちていた。
「 この先、滝方向では断崖絶壁のため滑落事故が多く発生しています。山道からそれる場合は充分注意してください。 温泉町
」
つまり、今回探索した霧ヶ滝渓谷上部の霧ヶ滝線の軌道跡は、その入口と出口の両側に、遭難事故を警告する看板が設置されていたということになる。
私も今回は危ない目に遭ったが、皆様にはどうか他山の石として欲しい。
13:03 《現在地》
軌道終点を出発して約1時間、無事に町道畑ヶ平線に到達した。
探索そのものはまだまだ長い歩行があるが、表題である霧ヶ滝線は、これで完結だ。
このあと私は町道沿いに残る上部軌道の痕跡を調べながらのんびりと歩き、
16時過ぎに、怪我なく菅原集落へ生還した。
大事なことなので、もう一度書くよ、
生還した。