廃線レポート 神之谷“トロ道木馬道” 第4回

公開日 2025.03.17
探索日 2022.04.08
所在地 奈良県吉野郡川上村





(……ホワイトアウト明けて……)




2022/4/8 17:08 《現在地》

辿り着いた、新世界!

俺にもやれたぞ!

これは登ってきた崖を見下ろして撮影した。
登るよりも下る方が怖いと思う。私にはここは下れないかも…。
よっぽどの必要に迫られなきゃ、降りることなんて考えないだろう。

ところで、私を助けてくれた“謎のワイヤー”だが、これがなんというか、思った以上にすげーラフな感じで木立に引っかけられているだけだった。
こんなんでよく引っ張ったときにズレてこなかったなと思うが、他端がどこかにしっかり固定されていたのかもしれない。
え? こんな怪しいワイヤーを頼りに登ったのかって?   ……た、体重かけてないから……。

それにしても、なぜここにこんなケーブルが置かれていたのか。
私は使わなかったが、ボロボロの存置ロープも近くにあったので、私や永冨氏より先に探索した人がいる可能性は高い。
探索というか、登山的な趣味かもしれない。
ただいずれにしても、最初にこのケーブルを持ち込んだのは登山者や探索者ではないだろう。



見よ!

これが神之谷の運材ハブの現状全容である!!

この見える範囲のそこかしこに、私と、偉大な先人永冨氏一行の足跡が、縦横に刻まれておる。
自身の足で、歩ける部分と歩けない部分を総当たり的に捜索し、概ね把握した。
この面と線が交錯する眼下の世界で、結局のところ通り抜けられるルートは一本道であった。
今回辿った、この一本。
それ以外は、少なくとも私の技術では辿れないものだった。

結局、この見えている範囲に最初に足を踏み入れてから、後にする今時点まで、経過した時間は約20分であった。
それほど長い時間とは思わないかも知れないが、日没を目前とした時間帯に、一所に滞在した長さとしては異例であった。
崖登りの成功によって、どうにか暗くなるまでに下山はできそうであるが、今回なまじ有力な先行探索情報を見ていたせいで所要時間の見込みに余裕を持たなかったのは、リスク管理的な意味での反省点だ。

神之谷砂防ダム直下に閉ざされた暗き谷の迷宮を、今脱出する!



って、勝利宣言みたいに書いたけど、この崖の縁の木馬道を攻略しなけりゃ生還はないぞ。

大丈夫なんだろうな?! 俺が乗る、人生という名のこの木馬!



(……今回は、なんとたった3枚の写真を見て貰ったところで、本編終了です……)

(そのかわり、人によってはこの探索の行く末以上に興味があると思う、木馬を知るためのレッスンを準備しましたよ。)




 ちょっとお勉強タイム 〜最も危険な運材労働 “木馬” についての基礎解説〜


本編にて何度も登場した木馬(きんま)という運材手段および、これを通すことを前提として整備される運材路である木馬道(きんまみち)について、皆さんはどのくらいご存知だろうか。

これ(→)のことでしょって思った人はもちろん、林鉄やトロッコなら馴染みがあるけど木馬となるとあまり分からないなと思っているそこのアタナも、ぜひこのあとの解説で木馬について詳しくなって欲しいと思う。
ちなみにこれ(→)は木馬(もくば)であり、木馬ではない。

というわけで木馬についてのお勉強だが、あいにくこの運材手段が今日行われている現場というのは目にしたことがない。本当に全く行われていないかは確かめられないが、大規模な木馬運材は既に前時代の技術となって消滅したものと考えられる。林鉄についても国内ではほぼほぼ廃絶してしまっているが、木馬もレガシーな運材方法という意味で近い存在であるとともに、技術的背景にも近い部分があった。

そんな失われた技術である木馬について、それがメジャーな運材手段として利用されていた時代に編まれた林業関連の文献を頼りに説明を進めたい。





木馬道の構造図 (『森林工学 〔本編〕』より)

木馬道は木馬運搬に要する道であって道幅1.2mから2mまでとし、その構造は図に示す如く盤木と称する丸太を路面に横に並列してこれを小杭で留めたものである。盤木は木馬の大小に従いその木馬が常に2本また3本の盤木に跨がるような距離に敷設する。その盤木は堅牢なる質の木材で長さ1mから1.2m、末口3cmから7cmくらいの丸太とする。盤木には常に油をさして木馬との摩擦を少なくしないと円滑に木馬を牽くことが困難である。

木馬道と云うものは極めて便利な道であって、林産物搬出には最もよく適した道である。木馬道は適当な勾配さえあれば木馬自身の下降力で降り、ただ屈曲の所で楫(かじ)を取る位でほとんど人力を要せず多量の木材等を搬出し得るものである。また山へ帰るには木馬を肩にかついで帰れば良いのであるから大いに便利なものである。

しかし勾配の工合が悪いと非常に力を要して搬出し得る分量も極めて少なくなる。勾配は約6分の1より20分の1までの間がごく良いのである。これより急では木馬が走り過ぎてこれを留めつつ下降するのに随分骨が折れ、またこれより緩では木馬が非常に動き難くてこれを牽くに多くの力を要してよろしくないから、木馬道は全線是非共以上の勾配の範囲内になるよう設計に努めなければならぬ。勾配さえ良ければ軌道と同様の搬出力があって木馬に2000kgくらいまでを積みてよく牽き得るものである。逆勾配を設くることは絶対に宜しく無い。屈曲は適宜なるも長材搬出の場合には10mの半径位を急屈曲とすべきである。

『森林工学 〔本編〕』(昭和5年刊)より

上記は、戦前の代表的な林業技術書『森林工学 〔本編〕』(昭和5年刊)にある木馬道の解説文をほぼ全て引用した。
木馬道を利用した木馬輸送が、非常に便利な運材手段であることが、その理由と共によく述べられている。
また、木馬道の標準的な幅員(1.2〜2m)や勾配条件(6分の1〜20分の1=17%〜5%)、曲線条件(10m程度以内)、1台あたりの輸送量(2t)などの技術的基準も簡潔に示されている。

特に興味深いのは勾配についての内容で、今日の林道と比較しても相当に急勾配といえる17%近い勾配を「ごく良い」としているくらい、(軌道運材と比べて圧倒的に)勾配に強かった。そして、勾配の適応範囲もとても広かったのである。

今回紹介したトロ道について、当初は木馬道であったという情報があるが、木馬道をトロ道にするのは勾配的にどうなんだろうかと思った。だが、5%くらいの勾配ならばどちらにも適応できるらしく、実際に現地の平均勾配を地図上から計測してみてもこのくらいの数字であるから、大きくは手を加えずにトロ道への改築が出来たのだろう。
一方、本編中でいままさに登場している右岸の木馬道については、現地の印象としては非常な急勾配ではあるものの、それでも17%が「ごく良い」勾配なのであれば、こちらもまずまず適応しているといえるのだろう。 ……たぶん。

このように便利な木馬は、実際に日本中の林業地でとても広く普及した技術であり、かつ利用された期間も長かった。
以前こちらで国有林林道の種別の変遷を解説したが、国有林林道の種別として軌道や車道、牛馬道などと共に木馬は明治35(1902)年から既に制度化がされており、昭和48年の改定で軌道関連がなくなってからも木馬道は残ったほどだ。(現在はなくなっている)
さらに民有林での運材手段としては、国有林のように大規模な軌道運材が少なかったこともあり、より多く木馬は使われていたきらいがある。


次に、前出書や、戦後の林業技術書である『林業労働図説 [第2編] (素材生産編)』(昭和28年刊)を引用しながら、木馬道を走る車である「木馬」の構造や、実際に木馬を利用した運材風景を見ていこう。


木馬の構造図(例) (『林業労働図説 [第2編] (素材生産編)』より)

木馬は、木馬運搬に使用する梯子状のもので盤木の上を辷らし人が牽く土橇(そり)にして、樫(かし)やミネバリなどの硬木で造るものである。(中略)大小様々ありて一定しないが、親骨2本、横貫4〜5本からなるもので、親骨の長さは1.5〜2.4m位、幅10〜14cm位、厚約4cm位のものを使用する。

『森林工学 〔本編〕』(昭和5年刊)より

ようするに木馬輸送とは、注油で滑りをよくした丸太(盤木という)を杭(留木という)によって等間隔に並べた滑走路(木馬道)を、梯子状の木製ソリ(木馬)に荷を乗せて人力で牽引する輸送方法である。道と車の間の摩擦力を軽減させ、位置エネルギーの有効活用によって省力的に運材を行う点で、軌道を利用した乗り下げ運材とよく似た、そのより原始的スタイルと言えると思う。


(木馬曳き)(木馬のワイヤー制動)(木馬の運搬)
すべて (『林業労働図説 [第2編] (素材生産編)』より)

これらは木馬運材の実際の風景である。

ドライバーが車を身体の一部のように思うままに操作する「人車一体」という言葉があるが、これはもはや、人体そのものが車のエンジンとなって、ハンドルとなって、ブレーキとなって輸送に従事する、別の意味での人車の一体だ。
どの写真も労働強度的に凄まじいものがあることを真っ先に感じるが、1枚目と2枚目が木馬を使った運材風景である。

1枚目で男が抱きかかえている車体の前方へ長く引き出された木材が“楫”であり、即席のハンドルである。車としての木馬の一部ではなく、荷の一部をこのように引き出して使う。

2枚目は山盛りの短材の上に高射砲のような長材を乗せて車のバランスを取っている。そして分かりにくいがやはり“楫”が出ている。これは木馬をワイヤーで制動しているシーンなのだが、実際に何を行っているかは、このあと改めて解説したい。

3枚目は、運材を終えた木馬を背に乗せて木馬道を登り返す姿である。
こんな服役よりも重い労働を、朝から晩まで、ほぼ毎日続けることが、山村に生まれた男子の普通であった時代が長らくあった。


ここで今回の探索に関係して重要な事柄を説明したい。
それは、木馬道と思われる周辺で何度か登場した、謎のワイヤーの正体に関わるものである。

既に察せられた方も多いと思うが、あのワイヤーはおそらく、元は木馬道の制動装置として敷設されたものだったと思う。
実は私もこれまで木馬について今回ほどは深く考えたことがなく、木馬というものを下り坂でどのように制動していたのかをあまり知らなかった。で、調べてみた。


制動ワイヤーの巻き替え (『林業労働図説 [第2編] (素材生産編)』より)

『中部地方の民具』(昭和57年刊)によると、信州では木馬道の急な下り坂を「タテミチ」と呼び、そこを通る時の基本動作として、「積み込んだ木材を両肩にあて、両足に力を入れて踏ん張りながら一歩一歩力をためておりてくる」という。
だが、これで止めきれない坂道では、初期には「テコあて」という制動方法が使われた。これはギザギザの刻みを付けた長さ60〜75cmほどの「テコ」という棒を「タテミチ」の始まりの位置に予め置いておき、下りながらこのテコを木馬と盤木の間に挿し込むことでギザギザ部分の摩擦力で制動を試みるものだったという。

だが、昭和15年頃から次第にワイヤーを用いた制動方法が普及したという。
具体的な制動の方法は、予め「タテミチ」の開始地点の頑丈な立木などにワイヤーの一端を縛っておく。木馬が差し掛かると、このワイヤーを“楫”に2、3回巻き付けて先端側を手に持つ。そして、ワイヤーの先を少しずつ手で送り出すようにしごきながら、ゆっくり進んだ。これによってワイヤーが外れたり切れたりしない限り、木馬の暴走を止めることが出来、大変安全性が高まるとともに、それまで木馬を設置できなかったような急斜面にも設置が可能になったという。
このメカニズムは、懸垂下降に用いるラペリング装置に似ていると思う。

先ほど紹介した3枚の写真のうち、制動シーンとした写真をよく見ると、“楫”に巻いたワイヤーの先を手で握り込んでいるのが分かる。これは引っ張っていたわけではなく、ブレーキ操作だったのである。
また、右の写真は“楫”にワイヤーを巻き直している場面である。
ワイヤーの長さよりも長い坂を通過するときには、複数のワイヤーを途中で巻き替えながら下ったという。
今回、木馬道の周辺で目撃したワイヤーの正体も、このように利用された制動ワイヤーであったと考えている。


木馬道の勾配 (『伐木運材経営法』より)

右図は、木馬道の種類や制動方法ごとに適応できる勾配の範囲をまとめた表である。
ワイヤー制動装置を持たない従来式の木馬の場合、標準勾配10%で、最大でも12.6%とされているが、ワイヤー制動を用いることで標準勾配が16.7%まで増強され、最大で36.4%という、もはやインクラインのような勾配でも木馬を用いたことが分かる。

以上のように、木馬の仕組みを知ることで、探索で目にした風景をより合理的に解釈する術を得たのであるが、この“お勉強タイム”の最後は、木馬という装置の最大の問題点に焦点を当てたい。
もしあなたが何らかの事情で異世界転生を果たし、そこで様々な職業を自由に選べたとしても、木馬夫になるのは、よほど山が好きで体力自慢であってもやめた方が良いという話だ…。少しでも生き残る確率を上げたいなら……。



木馬最大の問題点は――


危険すぎたことである。

「だろうね」 って思った人も多いとは思うが、具体的な数字や事例を挙げながら、どのくらい危険だったかを紹介しておきたい。こういうデータはあまり知られていないと思う。

最初に紹介した昭和5年刊の『森林工学 〔本編〕』では、木馬というのは至極便利なものだという内容が強調されていて、ネガティブな面についてはまったくと言って良いほど触れられていなかったが、戦後の代表的な林業技術書である『伐木運材経営法』(昭和27年刊)だと、「普通木馬」の解説文の冒頭は次のような記述となっている。

木馬運材は我が国各地に極めて広く普及しており、現在では集材や林内小運搬の作業として最も普通に見られる作業である。しかし木馬そのものも、木馬道の構造も地方によって著しく相違するから、運材コストもまた千差万別といってよい。在来の木馬曳きは橇運材と共にその技術の習得に多年の体験を要する特殊技術であって、中年以下の優秀な木馬曳きは漸次消滅しつつある。しかも木馬曳きは林業労働中最高の重労働であり、従って他の職種にはこれに匹敵するものが見られぬ程の超人間的筋肉労働である。その上災害率の最も高い非常な危険作業であるから近代林業の作業の中にこの種の運材法が残存していること自体がそもそも不思議という外はない。従って近年次第に他の運材法に改変されつつあるとはいえ、なおかつ山岳地においては少額の資本で相当弾力性のある運材を行い得る強みによって将来もまだ相当用いられるであろう。

『伐木運材経営法』(昭和27年刊)より

この林業の教科書にある表現は、本当に凄いと思う。

「林業労働中最高の重労働」
「他の職種にはこれに匹敵するものが見られぬ程の超人間的筋肉労働」
「災害率が最も高い非常な危険作業」
「残存していること自体がそもそも不思議」…………

昭和22年に労働基準法が公布され、あらゆる労働における人命の最尊重が法によって徹底されるようになった。
林業のシーンでも、例えば軌道運材については、脱線転覆事故の最大の原因である保線の徹底のため、機関車が入線する線では9kg/m以上のレールを用いることを決め、そのため全国で相当量のレールが交換されたりしている。

木馬についても改良が行われ、主に高知営林局管内で普及が進んだ単軌木馬という、木馬道に単線のレールを敷設して脱線を防ぐと共に、自転車のブレーキのようにレールを握る制動装置を用いて暴走を防ぐことで、大幅に安全性を向上させた木馬が登場したりもした。(これの登場により従来の木馬は普通木馬と呼ばれるようになった)
だがそれでも全国的には最後まで普通木馬が優勢であった。コスト面の優位性が圧倒的だったからだろう。

ワイヤー制動の普及などで戦前よりはかなり安全性が向上していた昭和30年当時でさえ、木馬の死亡事故発生率は次の統計の通り、とても高かった。


(『林業労働とその安全』より)

右表は、『林業労働とその安全』(昭和32年刊)に掲載されていた、昭和30年の作業別死亡災害分布表である。
全部で461件の死亡事故が発生しており、最も死亡事故が多く発生しているのは、68件(全体の14.7%)の木馬作業である。
これと高所作業が多い架線作業と、伐倒木の下敷きになりやすい伐木作業の3つが、飛び抜けて死亡事故率が高い3大危険作業であった。

こうやって数字を見ると、一見危険そうに思える軌道運材作業の4.3%という数字はそう高くないし、林道工事なんかも絶対に危なそうなのに、実は1.7%とほぼほぼ死なない作業(でも死ぬ)だったようだ。作業ガチャで、上記3大危険作業にあたったら、マジで念仏を唱えるレベルだな…。

同書には、直近1年に発生した作業ごとの死亡災害実例も多く掲載されているが、木馬作業は凄く多い。
試しに見出しと発生場所、死亡者の年齢、死因を列記してみるが、見出しを見るだけで、その危険さや、命を守るための訓戒が感じられると思う。

ここにある6件のうち、4件は制動ワイヤーの切断が直接の事故原因である。
「ロープの切れ目が命の切れ目」という見出しがあるが、その通りである。
ワイヤー制動という便利な手段が発明されたことで、それありきの急勾配の木馬道が増えたことも、死亡事故率の高さと関係があるのかもしれない。

また、全部が民有林の事故事例であったが、これは一般に国有林の現場の方がより防災意識が高く、かつ新人育成が充実していたことによるかもしれない。実際、死亡者の多くは木馬作業を始めて数日目という初心者が多い。

最後に、6番目の事例「木馬道の急カーブ〜」の本文にある、「対策」の欄を紹介して項を閉じることにしよう。
記述された場面を想像しながら読んでみて欲しい。

木馬作業の危険性については何回となく知らせているが、なかなかその災害は減少しない。
背に六石の荷を受けて、十度の傾斜を降りる。足はまばらに置かれた丸太の上、それに荷の向きも変えねばならない。どう考えても安全な作業とは考えられない。
桟道の勾配は標準の六度程度とし、カーブは設けるべきではない。盤木と盤木の間は盲(めくら)盤木とすべきである。労と費用を惜しんではならない。このような安全な木馬道にするに要する労力と費用は決して人間の生命より高価なものではない。遙かに廉価なものであろう。
毎年々々多くの木馬夫の血汐が、木馬道に流されている。業者の猛省を促す。

『林業労働とその安全』(昭和32年刊)より

木馬作業の安全の最大の前提は、安全な木馬道の作設であった。

危険な木馬道では、安全な木馬作業は出来ない。
これは木馬に限らず、道を利用する全ての輸送に言えることだが、木馬や軌道運材というものは意図的に道を滑走しやすく、制動しづらい環境においているものだから、不適切な道があると、運行者の意志や技術だけでは克服ができない危険をしばしば惹起したのである。
止まりたいときに止まれない。そんなことが根本的に起こりやすいメカニズムであった。

もしあなたが明日からの木馬作業を命ぜられたら、何が何でも木馬道を安全なものに整えておくことを心してほしい。

Let's KINMA!!!


 木馬用のワイヤー制動の詳細
2025/3/18追記

木馬の制動ワイヤーの詳細について、『林業労働とその安全』に掲載された木馬作業中の死亡災害事例紹介より、「ロープの切れ目が命の切れ目」の項の「対策欄」に、次のような解説があった。

気紛れな暴れ牛の鼻綱は丈夫なものを用い、牛の鼻にしっかりとつないでおかなければ危険であると同様に、木馬の制動ロープも、制動力に十分耐える強度を有し、(十九本線六つより、径九ミリメートル以上のものを使用)、かじ棒に巻く部分に継目があるとか或いは素線のきれ曲がったひげがあったりしてはならない。止め杭は強固に固定し、ロープの末端は結目より二十センチ以上余裕を持たせ、解けないように確実に止め杭に結んでおかなければならない。

『林業労働とその安全』より

というわけで、制動ワイヤーは径9mm以上が推奨されていた。

だがこれはコメントでいただいたのだが、私が現場で見たワイヤーは太すぎるように見え、これだとかじ棒に巻くことが難しいのではないかという意見があった。
言われてみればそうかも知れない。
このワイヤーの径を計っておくべきだった。
もし実測値が9mm程度だったら、制動ケーブルと判断できると思う。


 youtubeに現在も行われている木馬運材の解説動画がありました!

◇ 諸職の技『木馬(きんま)−山の木材運搬』/竹中大工道具館ビデオライブラリー




 終わった後に気づく、そんな幸運もあるんだよって話


17:08

退路を断たれたに等しい状態で、今日初めて足を踏み入れる木馬道の探索をスタートする。
写真左下に見えているのが、20分ほど前に登ってきたトロ道である。
木馬道とトロ道が上下連携して、この神之谷川の山から吉野川出合の“カラッタニ”まで出材していたのであろう。

これから登ろうとしている木馬道の行く末は、眼下のトロ道から既に何度も見上げているので、真に知らない道ではないことと、永冨氏がこのルートで脱出していたはずだという記憶が、私を励ましていた。

次の写真は、ここから見える最初のカーブの前で撮影した。(↓)



極めて高く切り立った石垣の狭い右カーブ。
勾配がキツく、かつブラインドの状態だ。
歩道にしては十分過ぎる道幅や、しっかりとした石垣の存在は、見慣れた軌道跡と似ているが、この勾配の強さだけは、さすがに軌道たり得ないものだ。
つまるところやはり、ここが木馬道であったがゆえの、急勾配であり、幅員であり、石垣なのだと思う。

……と、このように言うだけなら容易いが、「この狭いブラインドの急な下り坂を木馬で下ること」の“容易く無さ”は、どれほどであったろう。
この私の驚嘆の気持ちを一人でも多くの読者に共感していただきたいがために、前回、木馬輸送の実態と、特にその危険性についての“お勉強”を強要したのである。歩いて通る、あるいは牛や馬に荷を牽かせて通るとしても確かに危険な道ではあろうが、ここを、アノ木馬で下る危険さたるや…。
だれも落ちていないと、良いんだが……。



石垣の路肩から見下ろすと、ご覧のように、恐怖の渓壑が口を開けている。
その狭さ、急峻さは、V字谷なんて生やさしいもんじゃない。そんな言葉があるかは知らんが、I字谷とでも呼びたい切り立ち方をしている。
ここから助走を付けて勢いよく対岸へ跳べば、川自体は飛び越せるだろうな。で、対岸のトロ道に落ちると思う(落ちる高さは半分だが、それでも助からないだろう)。

ってか、ちょっと見逃せない“構造”に気づいてしまった。

見逃せないと言いながら、そこを通った時点では何の疑いも持たず普通に通っていたのであるが……。

あの、“矢印”のところの石垣、やばくねぇか…。



拡大&明度を明るくしたのがこの写真。

石垣の下、ほぼ空洞じゃねーか!!!

なんて所を通らせやがったんだよ!! 

廃道を歩いているときに足を乗せた石垣が崩れたなんて体験は過去にないので、私は廃道にある石垣というものを信用しているんだが、さすがにこんな状態のものを、親カルガモの後ろを歩く子カルガモの純真さで歩いていたのだと思うと、ぞっとしないな。

なお、撮影の時点では気づかなかったのだが、少し前に【谷底で撮した写真】にも、この危うい石垣は写っていた(矢印の位置)。直下は深淵の滝壺ゴルジュである。

そして、さらに写真を振り返って見ると、約30分前に【この写真】を撮っているとき、実は私の足元が“お留守”だったことが判明した。
もしここを歩いてみようという人がいたら、注意してね!!!



最後にもう一度、命がけでよじ登った道の末端を振り返って撮影。
結局、時間的に、あそこに見えている砂防ダムよりも上流のトロ道へは行くことはできなかったな。
だが、命さえあれば再挑戦はいつでも出来る。
まずはこのライフを安全な場所まで連れて帰ろう。



17:09

ブラインドカーブを回ると、この風景。

絶壁の谷底を脱し、崖の上にある樹林帯へ近づいていることを窺わせる風景の変化に、ホッとする。
ただし、路肩の崖の険しさは相変わらず最高潮だ。
そして、坂道の急さにも全く遠慮というものがない。本当に、ガシガシ登っていく。
木馬のような車輪を持たない乗り物が通る道も“車道”といえるのかは異論がありそうだが、現代の林業現場でよく見られるブルドーザーが通る作業道的な勾配と云えば伝わる人が多いと思う。

そんな勢いで登っていくものだから、眼下のトロ道はあっという間に闇の底へ消えつつあった。
前に見て貰った写真から振り返ると、今いるのは、【このへん】だ。



これがこの日、トロ道を見た、最後のワンショットだ。
左下のところ、辛うじて、茶色い平場が見えている。
逆にあそこからここを見上げた景色は、【こうなっている】



17:10

木馬道を歩き出してから2分足らずで、狭い谷底を脱し、尾根とその向こうの空を見る高みへ景色が変わった。
既に夜へと落ちた谷から、どうにか薄明るいうちに地表へ出てくることが出来たことに、心底安堵した。
下から見上げた時に驚いた急勾配の印象は、実際に歩いてみても、その通りのものであった。
距離はとても短いので、疲れを感じる暇もなく、激しい興奮のうち、あっという間に上り詰めたのである。これぞ急転直“上”の展開だ! …なんて事を思った。

そしてこれも特記したいが、この道は、残るはずがない桟橋の部分を除けば。思いのほか良く形を留めていた。
石垣も、法面の切り取りも、ほぼ完全な形で急勾配の道を支えていた。
道の土台である石灰岩の一枚岩が極めて堅牢であることが大前提になっているのだろうが、そこに命を懸けるに足る確かな道づくり……教訓:木馬道の安全は木馬道の完成度に最も依存する……がなされていたのだと感じ入った。

先人たちが命懸けで造り、使った道が、地図から消えてしまった遙か後にも、こうして私の生還を助けてくれていることは、ここに紡がれてきた偉大な仕事の末席に座ることを許されたようで嬉しかった。



17:11

神之谷川の絶壁に突出する形で、尾根を均した三角形の広場が道に面してあった。
集めた木を一時的に集積した土場だろうか。建物があった様子はない。
更地なので正体は読み取れないが、間違いなく人工的な広場だ。

そしてこの広場の奥側は、神之谷川へ落ち込む小さな支流の谷となっている。
広場で道は終わらず、その脇を登りながら抜けて、奥の谷を渡るような攻勢であった。
地図上では、この谷の上に車が通る林道があることになっていた。



17:12

谷にはU字のカーブを描く長い石垣が残されていた。
水は涸れており、稀に出水すると石垣の上を越流しているようだ。
ここまで大いに岩がちだった右岸の山も、この高度まで来るとようやく穏便な杉林になっている。

この確かな石垣を辿っていけば、間もなく林道へ辿り着けると疑わなかった。



17:13 《現在地》

だが、最後に予想を覆し、急勾配で登っていた石垣は、谷を渡り終えた直後、突然消えてしまった。
ここに唐突に現われ、私の大事な石垣を断ち切っていたコンクリート擁壁こそは、16:41に初めて“対岸”に見つけた、当初は林道の路肩だと思っていたものであった。すぐに考えを改めて木馬道の延長上にあるものとしたが、実際にはこれも不正確で、木馬道を絶ち切る存在として登場した。
おそらくこの擁壁の正体は、上部にある林道や山林の保護を目的とした治山工だった。

例によって、トロ道から見上げた写真は、【この通り】
対岸トロ道との落差は、既に30m以上あるだろう。
いま渡った水のない谷については、ここから谷底まで40m以上も瀑落して、途中で触れた石灰石の表面に鍾乳石の【白い模様】を作り出していた。

なお、計算から一連の木馬道の勾配を概算してみると、約150mで30mの高度を得ていたことから、平均勾配は20%(5分の1勾配)となる。これはワイヤー制動を使用した木馬の適応範囲内である。



コンクリートの壁にぶつかった時点では、その反対側まで行けば木馬道の続きが再開しているものと楽観視していたが、そこに道は見つからなかった。
暗くなりつつある山の中で十分に時間をかけて捜索し尽くしたかと問われれば、万全にイエスとは言えないものの、しかし擁壁の周辺は(下方向を除けば)全て穏当な杉林だったから、そこに道形を見つけられないというのは少々不可解であった。

結局、5分ほど探し回って、遂に木馬道の続きは見つからなかった。
あまりに訝しかったので、帰宅後真っ先に永冨氏のレポートを読み返したのはこの点についてだったが……
「杉植林と車道林道の工事で埋もれてしまったようだ。最後は杉林斜面を直登して車道にあがらねばならなかった。」
……とあったから、おそらく林道直下の木馬道は地形ごと失われてしまったか――



――あるいはもっと単純に、ここが木馬道の終点であったのかもしれない。

この写真は木馬道の石垣の終わりから来た道を振り返って撮影したものだが、前述した尾根上の三角形広場がすぐ傍にあり、三方から集材しやすい谷のドンツキであるこの場所が終点だったというのは、あり得る線だろう。
まあその場合、僅か200m足らずの木馬道のために、これまで見てきたような大土工が惜しげもなく投入されたということになり、そこに多少の引っかかりはあるが。
いずれ、この広場から先へ進む何らかの道はあったはずだが、それは石垣を有するものではなかったと見られる。



17:17

道の続きが見つからないので観念して、最後の石垣の地点からこのように15mほど上に見えていた林道の路肩(矢印の位置)を目指して、急な杉林を直登した。



17:19 《現在地》

林道神之谷線へ無事脱出!!

神之谷川の尋常ではない険しさに一時はどうなることかと思ったが、今日もなんとかなったな……。 ふぅ。

しかしもうすぐ本当に暗くなるが、自転車は大迫ダムの直下に置いたままだ。

ここからどうするのか。 どう帰るのか。



17:31 《現在地》

林道を約500m歩いたところに愛車のエクストレイルが待っていた!
むしろ俺がお前を待っていたんだ! 
ありがとう! この探索が始まる少し前にここへ車を止めた私よ!
(……というわけで、何が何でも引き返したくなかった理由の一端が、この車のデポにあったんだよねという種明かし)


しかし、あそこまで行きながら、砂防ダムの先を見ずに終わったのは、やっぱり悔いが残ったので……。






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