廃線レポート 杉沢森林鉄道  最終回

公開日 2015.11.21
探索日 2015.11.13
所在地 秋田県五城目町

追加訪問2: 本線終点、銀ノ沢製品事業所跡


2015/11/13 12:25 

本林鉄唯一の隧道を探索し終えた後は、今回の締めくくりとして、終点を訪れる事にした。

杉沢森林鉄道の本線の終点は、昭和25年から廃止となる昭和47年まで銀ノ沢製品事業所であった。
その所在地は、馬場目川の源流である光沢の奥で、現在の車道である杉沢林道(県道15号)から1.5kmほど外れたところであった。
そこへ行くには、杉沢林道光沢支線を辿れば良く、その終点となっている。


これが杉沢林鉄の終点、銀ノ沢製品事業所の跡地である。
現在は五城目町の最高峰である馬場目岳の登山口として、光沢園地の名の下、鋪装された駐車場や夜営の出来る施設などが整備されている(ただし、あまり活用されている様子はない)。

一見して、林鉄時代の名残は「光沢園地」としての再整備の下に失われていることが肯かれる風景で、ここへ始めてきた10年以上前に今回するはずだった落胆を先取りしていたために、今回はその部分は省略することが出来た。



光沢園地に残る林鉄時代を彷彿とさせる数少ない名残りを挙げておく。

← 周辺の藪化した平場に残る、焼却炉の残骸。
おそらくは銀ノ沢製品事業所関係のものと思われるが、証拠はない。

→ 鋪装された駐車場の入口に残る廃レールを使ったゲートの残骸。製品事業所の門扉と思われ、現在の林道の位置に林鉄が通っていた名残と考えられる。



過去の訪問で見つけていた遺物は以上であり、大したものはなかったのであるが、今回敢えて再訪したのには理由があった。
次の2枚の写真を見て頂きたい。 ↓↓↓


特撰 森林鉄道情景』より転載。

まず左の写真だが、駐車場の奥に続く敷地を撮影したものだ。
ここは、恐らくはキャンプサイトとして整備されたらしき草原になっていて、奥の方に利用者が少ない事を窺わせる、朽ちかけた木製のベンチや机がいくつか並んでいる。
馬場目岳への登山道は向かって左の杉林の中にあるので、軌道跡を利用した林道は、この草原が終点である。

続いて右の写真だが、これは2014年に発売された『特撰 森林鉄道情景』に掲載の、昭和45年10月に撮影された銀ノ沢製品事業所の風景である。
そして、左の写真と同じ場所を写していることが、地形や、奥に見える大きな木の一致から判明する。

私は、この写真を目にした瞬間、もう一度現地へ行く必要を悟った。

な ぜ な ら !


写真に写るレール…終点らしく複線になったレールの先が、現在の広場の奥に生えている大きな木の所で終わらず、さらに続いているように見えたからである!

私は過去の探索で、この広場までは来たことがあったが、広場の奥、巨木の奥へ行ったことはない。
そこは単なる河原のような場所で、それ以上路盤が続いているとは思わなかったし、“終点”という固定観念から、“終点にも広がりがあるかも知れない”ことへの観察が甘かった。いまなら、そのように反省することが出来る。

また、林鉄時代の写真と、現在の写真、その両方に姿を見せている大木そのものにも興味を持った。
当時の写真に写っている様々なもののうち、建物やレールが残っていないことは確認済みだが、集材機の安全タワーのようなものは、こうした比較写真がなければ場所も分からず、探しようが無かった。

古きを知るが故の新たな発見があることを期待した。それが、今回の再訪の動機であった。



そして、実際に成果があった。
件の大木に近寄ってみると、昭和45年の写真で幹に取り付けられている看板らしきものが、その根元に落ちているのを発見。
その正体は、「秋田営林局」の文字が入った山火事注意の標語看板で、まといを持ったコミカルなリスがデザインされていた。
看板自体は珍しいものではないが、林鉄と同じ写真に収まっていた当時の看板の可能性が高いという点では貴重だ。

そしてさらに、大木の枝分かれした太い幹の一つに、錆びたワイヤーがグルグルと巻かれているのも発見した。
このワイヤも、先の古写真に写る集材ワイヤーの一部であり、まさに写真に見えるのと同じ幹に巻かれたまま残っていた。
残念ながら、ワイヤーに連なる部分(安全タワーや集材機本体など)は全く残っていなかったが、確かにこの木が古写真の木であると確信された。

大木の寿命から見れば、林鉄があった時代は短かったかもしれないが、その活気に満ちた時代が年輪として刻まれていることを感じられ、嬉しかった。



右図は現地の模式図である。

駐車場、キャンプ広場(草地)、大木などの配置を確認されたい。

そして、古写真に見えるレールの行方は、大木のさらに奥へと向かっているように見えた。

果たして、そのゴールはどこなのか。

これまで立ち入らなかった末端部分には、何かの痕跡があってくれるだろうか。




12:26 【現在地:上図参照】

大木の下、キャンプ広場の端である。草刈りなどの手入れがされているのはここまでで、地形図にはこのまま光沢に沿った徒歩道が続いているように書かれているものの、実際に踏み跡らしいものは見あたらない。冬枯れした太い雑草の茎が背丈ほどの高さまで林立していて、夏場ならまず立ち入る気にならなそうだ。

路盤らしい感じもいまいちしないが、とりあえず極めて緩やかな上り傾斜の広場が川沿いに続いているので、まっすぐ進む事にした。




銀ノ沢製品事業所の奥部


12:27 《現在地》

成果はすぐに上がった。

藪が茂る一角に立ち入って間もなく、振り返ればまだ冬枯れの雑草の頭上に件の大木が間近に見える辺りで、さっそくにして1本の枕木が転がっているのを目にしたのである。

枕木自体は、今日の探索でも数え切れないほど見ていたが、いずれも撤去後に積み上げられたもので、敷かれたままと思しきものは今日はじめて見たと思う。

とりあえずこの発見によって、広場の奥へレールが延びていたことが、確信された。
後はこれがどこまで続いていて、そして、何が残っているかであった。




発見は狭い範囲で連続して起きた。

次に現れた(柴犬氏が発見した)のは、沢の流れ水から突き出した、1本のレール。
最初見えていた部分は僅かだったが、引っ張り上げてみると、JIS規格の軽レールとして定められた5.5mの1スパン分あるようだった。
また、メジャーを当てて軽レールとしての規格を調べてみたが、おそらく6kgレールである。
杉沢森林鉄道の本線で用いられていたレールは、9kgと10kgの2種類のレールと記録されているので、6kgレールがあるとしたら、それは本線用ではない(作業線など)と思われた。

しかしいずれにせよ、終点と思っていた地点よりも上流でレールが見つかったという事実は、無視できない。



レール発見地点から、さらに谷の奥方向を撮影。

多くの森林鉄道の終点がそうであるように、ここも林鉄の道中では許されないほどの、水面すれすれの低地(標高が低いという意味ではない)である。
これだけ水面に近いとなると、出水時には容易く水に洗われてしまいそうだが、実際そうであることが、水際を好む植物の低地全体を埋め尽くすような生え方から伺えた。
この植生は水際の灌木帯である。

そして、度々のように洪水に見舞われているとしたら、壊れていない林鉄時代の遺物を期待するのは、難しいのかも知れないと思う。
私の中に、確信的な落胆の色が広がっていく。
あるいは、もっと奥までレールが続いていれば、立地条件の変化が期待できるが、前方の谷はいかにも狭く急で、轟々と滝のような音をここまで響かせており、目の前に見えている土地が、本当の終点であるということを、強く訴えていた。

「これは駄目かな」

そんな言葉が、口を出ようとしていた。

しかし、実際に口を突いて出たのは、うわずった声で、全く違う言葉だった。




12:29 《現在地》

う、うわ〜〜!

枕木があった、犬釘があった。それは、さっきも見たものだ。

レールがあった。それも、さっき見たものだ。

だが、両者が同時に、あるべき場所にあるべきように並んでいた。

それが意味する事柄は一つ。

敷かれたままのレールを発見 !!



私は後ろを歩いていた柴犬氏に向かって、即座に発見の内容を伝えた。

うわずった「う、うわ〜〜!」を皮切りに、クマに襲われたとしてもここまでは張り上げないと言うだろう声を張り上げて、レールが敷かれているらしいことを伝えた。

数秒後に私と同じものを見た柴犬氏にも熱病は伝染し、即時に重度発症した。

何も知らない人が見ていたら、私たちの姿は滑稽を通りすぎて、恐怖の対象であったに違いない。
あるいは、これを読んでいる方の中にも、きっといると思う。
何をそこまで喜ぶのかと。

反論はしない。
だが、私にとって、この場所で敷かれたままの林鉄レールを発見した意義は、とんでもなく大きかった。
15年、いや、20年。そのくらい前から立ち入っていた、私の“探索者”としての産土の山に、希(こいねが)い続けた林鉄の現存レールを発見してしまったこと。
秋田県内、いや、北東北全域を見回してみても極めてレアな林鉄レールの現存地が、県都秋田市から山一つを隔てた、本当に近場に隠されていたこと。
ここが東北日本で最後に廃止された森林鉄道の真の終点であり、その終点に残っていたということ。あるいは、故意に残されていたのかも知れないこと。

色々な“特別”が、私の絶叫を、歓喜を、欣喜雀躍を、強制的に引き起こした。

これは、大事件だ!!



安心して欲しい!

敷かれたレールは一切れだけだった、なんて下らないオチはない。

我々の目は、最初のレールの一切れを見つけた直後から、周囲の地べたを蛇(くちなわ)のように這いずって、あっという間にその片割れ、対となるレールが枯れ草に埋没していることを突き止めた。

ここには、敷かれたままのレールとして必要な一式が完備されていた。
その奥行きはまだ知られないが、最初に見つけた地点がスタートであった。
それより下流側ではレールは無論、枕木の列も途切れていた。

そしてこの時から、私たちにとっての“究極に至福な作業”が、始まった。

踏み跡なき深い枯れ草と灌木の原野から、埋もれた2本のレールを、再び地上の世界へ取り戻すための作業。
現実的に言えば、刈払い。
幻想的に言えば、保線作業だ。




12:42 (レール発見から13分後)

2人がかりの刈払い作業は、意気の高さもあって極めて順調に進み、

しばらくすると、私が夢見た風景が、まさに現実のものとして現れてきた。

写真は最初にレールを見つけた地点を振り返って撮影している。柴犬氏が居る場所がそこだ。
そして、私が立っている場所の先(手前側)にもレールは続いていたが、草付きが一層頑固で、
とりあえずここまでを一区切りとして、作業完了区間を見渡したのが、この写真だった。



この写真は、上とは反対に、レール現存区間の下流側端部から終点方向を撮影した。

現時点で明らかになっているレールの長さは15mほどで、何とも嬉しい事に、直線ではなく緩やかなカーブを描き出していた。
それがまた堪らなく、美しいと思えた。




JIS規格の軽レールの1スパンは5.5mなので、15mほどのレールの連なりを目にしている今、途中にレール同士の連結部の姿も見ていた。

洪水時に沢の水に洗われる環境がここでは良い方向に働いたのか、土に埋もれずに済んでいたレールは、普段目にする多くの廃レールがまっ赤に赤茶けているのに較べ、圧倒的に黒い光沢を秘めており、明らかに程度が良いように見えた。
レールの締結部に使われている各部材についても同様で、注油と衝撃を与えてやれば、ペーシ(継ぎ板のこと)に固定されているモール(ボルトのこと)を回すことさえ出来そうだった。

また面白い事に、ここで使われているレールは、9kgと10kgのものが混在していた。写真でも明らかに左側のレールが太く見える。
そして、対面するレールの継ぎ目位置も不一致で、バラバラである。
林鉄の場合、9kgと10kgは混在しても列車の走行に問題は無いとされ、レールの継ぎ目位置も(一般の鉄道とは異なり)一致させる約束はなかったが、上等か下等かと言われれば後者に属し、このことは終点部で利用度が少なかったかもしれないの線路に、いくらかの施工上の妥協があったことを伺わせた。



刈払いの作業末端部から、終点方向を臨む。
刈払い前の路盤は、このようにレールが見えにくくなっている。

したがって、この後ももちろん刈払いを行うのであるが、作業時間の配分のために、
先にこの場所が“確かに”終点であるという事を確かめる事にした。

一旦ここを抜け出して、上流へ向かう。



12:55 (レール発見から26分経過)

レールを確認した地域を離れ、光沢の上流へ来てみたが、そこには連瀬となった流れと、その左右をV字に扼する険しい山峡があるばかりで、軌道の路盤が入り込む隙間は無かった。
念のため、九十九折りやインクラインの存在も疑って、周辺の散策をしてみたが、結論として、これ以上先に路盤もレールも延びていないと分かった。

再び、刈払いの現場へと戻ることに。

そして、至福の作業を再開。
慣れない種類の運動に、徐々に疲労を感じはした。
だが、そのことに幸せの気持ちが害されることはなかった。
ときおり会話を交わしながら、専念の作業が続いた。

そして、一通りの作業が終わったと判断したときには、
ここに眠っていた全てのレールが、我々の前にその姿を示した。




13:39 (レール発見から70分経過) 《現在地》

延べにして1時間ほどを刈払いに費やし、全区間の作業が完了した。

写真は、刈払いによって明らかとなった真の終点を撮影している。
これより奥には沢水が流れていて、傾斜も急で、路盤は存在しないことを確認済みである。




そしてこの終点には、太い2本の丸太と、それらを綾なすワイヤーによって構成された、大きな車止めが残っていた。【近接写真】
はじめて見るタイプの車止めで、いかにも“トロッコ”の終点らしい野趣に溢れるものだ。
レールは片側がこの車止めの直前で消えていたが(撤去?流失?)、片側は残り、ワイヤーがその下を通って、車止めとレールを堅く締結していた。 
また、車止めの背後には沢の出水によって集められたらしき太い倒木や石礫が山積しており、その存在は路盤全体の洪水被害を軽くしているようであった。



終点付近から眺める、下流方向の線路。
半世紀くらい前までは、秋田県の至る所で展開されていた光景なのに、
今では非常に得難いものになってしまった眺めである。ここに奇跡があった。

なお、発見されたレールは単線であったが、その山側にもう何本かレールを敷くことが出来るくらいの空き地がある。
そこにもレールがあるのではないかという期待から、しばらく地面をほじくり返してみたが、結局、単線という結論に至った。



だが、この追加の刈払いの中で、柴犬氏が不思議なものを発見した。

それも二つ。同じ場所の落ち葉の下に隠されていたそうだ。

形としては、細長い板状をした金属のパーツである。
二つは鏡像のように互い違いの形状で、おそらく向かい合って存在するものなのだろうが、直接二つを組み合わせることは出来ないようだ。
長辺方向に70cmくらいの長さがある。

これが機関車のパーツの一部だったりしたら最高なのだが、正体不明である。
可能性が高そうなのは集材機であるが、この形のパーツに心当たりの方がいたら、教えていただきたい。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

↑2015/11/18に、「RICOH THETA S」で撮影。
この画像はマウス操作などで360°の方向にグリグリできます。


Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

↑2015/11/18に、「RICOH THETA S」で撮影。
この画像はマウス操作などで360°の方向にグリグリできます。

↑これらの動画は、2015/11/18に、「RICOH THETA S」で撮影。
Google Chrome」などのブラウザで再生すると、マウス操作で360°の方向にグリグリできます。

そして、この一連のレール現存区間の長さだが、メジャー計測の結果、25m前後と判明した。0.025kmである。

お世辞にも長いとはいえずく、あくまでも、終点の敷地の一角に撤去されないままのレールが残っていた。
そういう状況である。東北管内だけでも、これよりも長いレールの現存区間を、いくつかは把握してもいる。

しかし、レールが敷かれたままの林鉄跡を、こんな手軽に訪れられる場所で見つけたことには、大きな意味がある。
今までに私が知った秋田県のレール現存地は、どれも山奥過ぎて、私自身滅多に行けない場所ばかりだった。

ここからはいささか地元贔屓な話であるが、全国屈指の林鉄王国だった秋田県にあるべきもの、
秋田が誇る林鉄の確かな痕跡として人に伝えるのに極めて有用なものを、やっと見つけ出せたという想いがした。
愛する郷土の大きな自慢の種を、この手で見つけ出した!


しかし、なぜレールが残っているのだろうか? 撤去は容易い場所だ。

あるいは、もしかしたら、このほんの僅かな終点のレールだけは、
東北地方で最後まで働いた林鉄の思い出として、関係者の手により、
密やかに、こっそりと、撤去をサボって放置したのかも知れない。

保存でも展示でもない、“本当の林鉄”を、子や孫に見せるため…。