廃線レポート 富士電力大間ダム工事用軌道 第1回

公開日 2020.12.07
探索日 2019.05.23
所在地 静岡県本川根町


《周辺図(グーグルマップ)》

先日、探索から10年かかってやっと千頭森林鉄道の長編レポートを完結させたばかりの“千頭”だが、今回はそのレポートの中で起点&終点となった大間(おおま)の地に眠る、まだあまり知られていない廃道(廃線跡?)を紹介したい。
千頭森林鉄道とも少なからず関係がありそうな物件だ。

この探索のきっかけは、2019(平成31)年4月に匿名の読者様からメールで寄せられた、以下のような情報だった。

匿名読者からの情報提供

情報という程のものではないのですが、大間ダム建設資材運搬用の鉄道跡が残っており、隧道も二本健在しています。コースは草履石公園からダム管理棟のあたりまでで1kmほどの短かさですが、天子トンネル下部の垂直に近い岩壁に穿たれた隧道の孤高の容姿はまさに圧巻です。

書き出しは謙遜しているが、内容は超HOT!!

なんでも、大間集落の外れにある草履石公園付近から大間ダムの辺りまで約1kmにわたって、大間ダム建設の際に使われた工事用軌道の跡が残っていて、天子トンネルの下方には2本の隧道が残っている?!というではないか。

これまでの千頭林鉄探索の過程でこの区間(大間〜天子トンネル〜大間ダム)を何度も往復しているのに、そんなものが近くにあるとは、ぜんぜん気付かなかったぞ!
さらに、この辺りを描いた歴代の地形図は全て集めたつもりだったし、この辺りに関係する文献の資料だって相当に読んだと思うが、ぜんぜん知らなかったぞーー!!


匿名の情報とはいえ、ガセ情報が寄せられることはほとんどなく、信頼は出来ると思う。
とはいえ、現地の地形をそれなりに知る者として、何度も通った道の近くにそういうものがあるといわれても、即座に信じがたいのもまた事実なわけで……。
実際に現地へ行く前に、保険として、昔の航空写真をチェックをしてみると――。

右図は昭和22(1947)年の航空写真だ。
この当時の大間集落は、まだ寸又峡温泉として発展する前の素朴な山村であったが、ここを通る千頭林鉄はもちろん健在で、柴沢に終点があった歴代最長の時期だった。
その路線の位置は航空写真でもよく見えており(線が見える部分を緑色に着色した)、忠実に現在の右岸林道の位置と重なっている。

そして確かに、大間集落から大間ダムへ向かう林鉄(=右岸林道)と並行する位置に、別のラインが見えていた(見える部分を赤色で表示)。
さすがに航空写真からは、これが道路なのか鉄道なのかの判別が付かないし、大間ダム付近や天子トンネルの辺りがどうなっているかはよく分からないが、少なくとも現在の地形図には描かれていない道が林鉄の下方に並行して存在していたらしいことが分かった。
これが情報提供者のいう、大間ダム建設用軌道なのだろう。

建設用軌道というからには、大間ダムが完成すれば用済みだったように想像するが、少なくともこの航空写真の中では、当時現役だった林鉄と同じくらい鮮明に見えており、廃道になって久しい感じでは明らかにない。何らかの用途に利用され続けていたのだろうか。

航空写真のチェックにより、大間にはまだ探索すべき道が眠っていることが確かめられた。



左図は、昭和13年8月現在における、寸又川周辺の発電所と軌道の概念図だ。

寸又川における最初の水力発電所は、昭和初期に大井川水系での水電事業を目論んでいた富士電力(株)の分社である第二富士電力(株)が、昭和10年9月に竣工させた湯山発電所である。
この事業計画は昭和5年に許可され、寸又川の上流に取水のための千頭堰堤が建設されることになったが、このダムの建設によって不可能になる千頭御料林の木材流送補償および、工事用資材輸送手段として、同社の負担で軌道が敷設された。これが工事完了後の昭和13年12月に帝室林野局に譲渡され千頭林鉄となった、寸又川軌道および大間川支線である。

湯山発電所の完成後、第二富士電力を再び吸収した富士電力は、寸又川第二の発電所として、下流に大間発電所を計画した。同発電所の事業許可は昭和11年8月に出され、同年10月に着工。
湯山発電所に続いて、この工事も請け負った間組が請け負っている。『間組百年史』に次のような記述がある(抜粋)。

当社は昭和11年9月、富士電力からこの「大間発電所土木工事」を特命で受注した。請負金額は150万円である。つづいて、同年10月に「大間発電所工事用材料輸送工事」(請負金額5万2663円)、12年7月に「大間発電所新築工事」(請負金額5万2000円)、13年3月に「静岡送電線路建設第一工区工事」(請負金額5万7000円)などの工事をいずれも特命で請け負った。
工事は寸又川に大間堰堤(堤高32.5m、堤頂長107m)を築造、延長約2kmの圧力隧道で大間発電所に導き、最大出力1万6100kWを得て、放水隧道でふたたび大井川電力の寸又川調整池に放流するものである。
当社は昭和11年11月、大間出張所の直轄下に飛龍詰所、赤石詰所、井川詰所の三つの詰所をおき、工事を進めた。昭和13年8月完成。
『間組百年史』より

なにぶん古い工事であり、これ以上の詳細な情報は今のところ得られていない。
大間ダムの建設に工事用軌道を敷設したというはっきりした記録も見当たらないが、上記引用文中の「大間発電所工事用材料輸送工事」が、それに当たるのではないかと思う。この工事は、発電所の建物新設工事と同程度の高額な請負金額になっており、当時既に寸又川軌道が完成していたことも合わせて考えれば、これを利用した単なる交通費とは考えにくいものがある。

大間発電所の着工時点では既に、ダム建設予定地の上部を寸又川軌道が開通していた。にもかかわらず、並行する工事用軌道を新たに敷設したという点には疑問符が付く。現地探索で地形的な妥当性なども判断したい。ちなみに、寸又川軌道であった時代から帝室林野局による木材輸送は、富士電力の受託輸送という形で行われていたので、その利用との兼ね合いで、新たに工事用軌道を敷設したということも考えられる。

今回探索したものが大間ダム建設用軌道だとすれば、利用された期間は、昭和11年11月から13年8月頃までの短期間だと考えられる。
そしてそれは、千頭林鉄の前身である寸又川軌道と同じ時代の遺物ということになる。
千頭林鉄の風景は既に見慣れたが、その先代の実態と近いものを見られるかも知れない。

このような期待感を持って挑んだ現地調査を待ち受けていたのは、期待通りの風景と、予想外の風景の両方だった。




大間集落の外れに、新たなる探索の舞台を探す


2019/5/23 午前中 《現在地》

ここは大間集落(寸又峡温泉)の一番外れだ。
県道77号川根寸又峡線の終点であり、いわゆる右岸林道の起点でもある。
また観光客相手には、「寸又峡プロムナードコース」の入口と案内されている。同コースはここを起点に、天子トンネル、飛竜橋、尾崎坂、夢の吊橋といった寸又峡として代表される景勝地を周回し戻ってくる人気のコースで、写真にも【入口ゲート】に差し掛かろうとしている二人連れのハイカーが写っている。

このゲートは一般車両を遮断するもので、平成22(2010)年5月6日の午後8時過ぎに、私が千頭林鉄奥地探索から生還し、はじめ氏との再会を果たした現場もここだった。
ここは千頭林鉄と非常にゆかりの深い場所であり、この足元の道自体が林鉄跡そのものだし、右に見える【赤い波トタン屋根の建物】は、【林鉄大間駅】の駅舎である。ここが大間駅の跡地なので、おそらく駅舎も移設ではないだろう。

このような林鉄ファン垂涎の風景が、林鉄大間駅が今回の探索の起点である。
しかし今回は、林鉄の奥地へ通じるゲートを越えていくのではなく、ここから右へ緩やかに下る道へ入る。
情報提供者から教えられたキーポイント「草履石公園」が、この先にある。



下って行くとすぐにすべり台が現われ、そこで道は二手に分かれるが、右へ行く。
草履石公園とは、ここから奥に見える杉の木立までの敷地に造成された人工池がある庭園で、平成23(2011)年に完成したばかりなので、私が盛んに千頭林鉄の探索をしていた時期にはまだなかった。

また、この道自体は公園で行き止まりではなく、グリーンシャワーコースと呼ばれる遊歩道へ延びている。その沿道には夢の吊橋と対をなす猿並(さんなみ)橋という吊り橋があったりして、静かを愛するハイカーにはむしろこちらをおすすめしたいと思える森閑コースだ。




7:47 《現在地》

入口から250mほど進んできた。
草履石公園を過ぎたところで道は未舗装になっている。
そして相変わらず緩やかに下り続けているが、ここで最初に分かれた右岸林道の水平路が、20mほど上部に並行しているのが見えてきた。

現代的には、これは寸又峡温泉が推す2本の遊歩道の並走だが、私の目はここに、2つの廃線跡の並走を見ようと頑張っている。
そしてその頑張りに応えるような光景が、現われる。

写真の「矢印」の位置に近づくと――



目印として置いた私の自転車の左側、森の奥へ延びていく水平に近い平場が見える!

提供された情報の内容に合致する位置であり、かつ事前にチェックした航空写真と照らしても、この辺りにあっていいはずだ。
さっそく見つけてしまったか?!
いやはや、確かにこれは今の右岸林道の近くではあるが、なんとなく歩いていても気付かない場所だったと思う。

すぐに平場の奥へは立ち入らず、別の角度から確認してみることにした。
ちょうど遊歩道のすぐ先に広場が見えているので、そこまで行ってみよう。




この広場、もともと遊歩道として造成されたものなのか、この左側にある工事用軌道らしき廃道との関連の中で出現したものなのか、さすがに判断は付きかねるが、後者の可能性も十分にありそうだと思える広さであり立地だ。
この奥は遊歩道と繋がっているが、途中に階段もあるので、自動車はここまでだ。




広場から、来た道を振り返って撮影した。
林鉄大間駅から下ってくる直線的な坂道から、緩やかに分岐する赤線で示した水平路が、工事用軌道らしき廃道だ。
路肩にしっかりとした石垣が残っているのも見える。

寸又川軌道(=後の千頭林鉄)と工事用軌道が繋がっていたかどうかも、記録がないのではっきりとしない。
接続するなら、いま歩いてきたルートの他ないだろうが、大間駅からここまで水平250mで落差15mほど下る工事用軌道としてはかなりの急勾配(計算上は60‰)なのが懸念材料。インクラインにするほどの勾配ではないが、重量物の運搬がメインとなる工事用軌道なら可能性があるかもしれない。

いずれにしても、この周辺に工事関係の様々な施設(材料貯蔵庫や飯場など)が置かれていた可能性は高いと思う。
なぜなら、ここから現場となる大間堰堤付近までは非常に急峻な地形になっていて、用地に乏しい。




7:50 《現在地》

自転車を入口に捨てて最初の一歩を踏み込むと、

あの日の林鉄歩きではほとんど見ることがなかったスギ植林地の中に、

林鉄と同じな廃れた踏み心地があった。明らかにこれは廃道だ。


我が病みつきの千頭山、またしても私を深遠なる廃の階梯に誘うか。

臨むところだ! まだ老いてないってとこを見せてやる!



大間ダムまで あと推定.0km



この道の正体は、いったい……?


2019/5/23 7:51 《現在地》

入口から50mくらい入ったところ。
路肩に低い石垣(玉石練積み)があるおかげで、道形ははっきりしているが、全体的にガレていた。
もとの道幅は2.5mくらいだったろうか。いかにも軌道跡っぽい。

見上げると、そこにも崩れかかった石垣があった。
法面の擁壁というよりは、畑か家屋敷でもあったような感じがする。
そしてそのさらに20mほど上に、右岸林道(寸又峡のハイキングコース)の高いコンクリート擁壁が見えた。かつての千頭林鉄の位置である。




ガレ場を埋める大量の石に混じって、古そうな空き缶がたくさんあった。
ここに写っている3つの缶は、全て「キリンビール」の古いデザインで、飲み口に特徴があった。
いずれも昭和40(1965)年に新採用されたプルトップ型という飲み口だった(参考サイト)。

同じ銘柄、同じ時代のビールの空き缶ばかり、なぜこんなにまとまって落ちているのだろうか。
ガレ場に混じって落ちているという状況からすると、右岸林道を歩くハイカーのポイ捨てに由来するのか。
う〜ん……? 昔は、ビールを飲みながらハイキングするのは珍しいことではなかったのかな?



さらに50mほど進むと、廃線跡なら間違いなく複線区間だったろうと思える幅の広さになった。
明らかに前後よりも幅が広い。交換所だったのかもしれない。

(チェンジ後の画像)
そしてここにも、懐かしさを感じる空き缶があった。
「ビタミン牛乳」。
なんかこういうの昔あったよなー、なんて私も感じたのだが、調べてみると1990年代に一世を風靡していたようである(参考サイト)。

90年代?
90年代の探索者の残していったものか?
それとも、20mは離れている右岸林道から全力投球で投げ捨てた?


この複線らしき部分の路肩には、高さのある石垣があった。
そしてこの石垣は、冒頭で見た玉石練積ではなく、空積みだった。
この石垣の方が古い感じがする。
一方で、入口付近で見た玉石練積には、「大間ダム工事用軌道」としての想定よりも少し新しい印象を受けていた。

現状、この道の正体について、現地の風景からは絞り込めないでいる。
道の正体を確定させるような発見が、果たしてこの先にあるのかどうか。 ……期待したいものだ。


(→)
さらに進むと、レールを見つけた。

軽レールだ。林鉄とか工事用軌道なんかの産業鉄道全般で使われたレール。

軌道跡でレールを見つけたら、もっと大喜びするのがいつものパターンだが、今回のはちょっと違う気がした。

どうにも、ここに敷かれていたレールという感じがしない。
切れ端っぽいんだよな。
切断面にレール継ぎ手の穴がないし、断片的に短い。
だから、上部を並行して走る千頭林鉄から転げてきたレールというのとも違う気がする。

これは、何かの工作物(落石防止柵とか)の残骸のような気がする…。



この先、大きく崩れて道全体が斜面と同化している。
この傾斜なら横断は難しくなさそうだが、先が思いやられる。

地形自体も険しくなってきた。
最初は谷底からゆっくりと始まった道だったが、北上するにつれ急激に谷底との落差が拡大している。
道は水平なのだが、谷が凄い勢いで落ち込んでいるのだ。
谷が行き着く先は寸又川の本流で、道の行き着く先は寸又川を堰き止めた大間ダムである。
この調子だと最後まで両者の比高は大きいままだろうし、この先はさらに険しくなりそうだ。


(→)
そして、この崩壊地を渡っていく最中、崩れた斜面の上の方に目を向けると――



あるわあるわ!レールだらけだ!

ありすぎで、ありがたみがない(笑)。

そしてやっぱり、さっきあったのも含め、レールの正体は落石防止柵の残骸だったようだ。
しかも廃レールだけでなく、廃枕木も使われていた。
枕木にレールを針金で固定して、柵状にして斜面に刺していたのだろうが、崩壊に巻き込まれてしまったようだ。

当然、ここにあるレールと枕木の出所は、昭和42(1967)年に廃止された千頭林鉄とみて間違いあるまい。
これまで千頭林鉄の本線支線のほぼ全てを歩いたが、レールや枕木は橋の上に残っているのしか見なかった。
やや皮肉な感じがするが、こんな麓に近いところに、こういうイレギュラーな形で、たくさん残っていようとは思わなかった。

しかしそれにしても、ここに廃レールを使った落石防止柵があるというのは、重要な情報だ。
この時点で、今いるこの場所(道)が、昭和13年の大間ダム完成後ずっと今まで放置されていたというわけではないことが、はっきりした。
この道は、林鉄が廃止された昭和40年代以降も“何か”に使われていたのだ。それがはっきりした。

何に、使われていたかって?



それは遊歩道しかないと思う。

現在は右岸林道を歩いているハイカー達だが、昭和42年の林鉄廃止までは、どこを歩いて上流を目指していたのか。
軌道をそのまま歩いていたというのも、時代を考えれば十分にあり得る話だが、そうではなかったとしたら?
今いるこの道が、林鉄が健在だった当時やその後もしばらく、遊歩道として使われていたのではないか。
そう考えることで、ここまで路上で目にした多くの古い空き缶や、廃レール落石防止柵などの存在理由を解釈できる。

そして仮にここが遊歩道だったとしても、大間ダム工事用軌道の存在を否定することはない。
断定的だった情報提供者の証言もあるし、昭和22年という遊歩道などわざわざ作らなそうな時代の航空写真にもこの道は見えていたし、工事用軌道として昭和11年頃に完成した路盤を、後に遊歩道に転用したというのが、もっとも可能性の高い説であるように感じる。非常に勾配が緩やかで、かつ一定の幅員を保った随所に空積みの石垣を有するこの道の外見的特徴は、見慣れた軌道跡にそっくりである。

写真は、崖を削って作られた水平の路盤と、そこから樹間に見下ろした寸又川の谷底だ。6〜70mもの比高がある。



8:02 《現在地》

岩場の狭い道に、何やら謎の物体が続々(←、→)と。

(←)
岩に立て掛けられていた、謎の金属片。
こいつの正体は、帰宅後の調査で判明した。
これはチェーンソーの部品だった。 こちらの参考サイトにチェンソーの各種部品が図示されているが、この「@」のパーツがこれとそっくりだ。

(→)
こっちの金属物体はなんだ?
2本か3本の脚で地面に立ってられていたようだが、脚が折れて倒れていた。
こちらの正体は結局不明だが、もしかしたらスタンド灰皿だったりしたのかもしれない。
今では考えられないことだが、一昔前まではハイキングコースの沿道にはよくスタンド灰皿があった気がする。



山側から水が流れ出している所があった。
そしてそこを横断する道は……

どうなっているんだろう?
橋がある感じもするが、瓦礫に埋れていて、近づかないとよく分からない。

また、そのすぐ手前の道の真ん中に、太い切り株のようなものがあった。
おそらく電信柱か何かを切断した跡だと思う。


橋だ!

ちゃんと、架かっていた。

しかしいよいよ、遊歩道の橋だと思う。
溶接されたアイビームの主桁2本の上に、隙間なく木板を敷いて橋床としていたようだ。
構造的に(その年代も)軌道の橋ではないだろう。

これでいよいよはっきりしたと思う。
この道には遊歩道として使われていた時期があるということが。


ぶっといレールが、路盤を串刺しにするように落ちていた。
おそらくこれも落石防止柵として使われていたものの一部だろう。
レール自体は9kg/mレールだった。

意外に綺麗に道は残っており、今のところ難しい箇所はない。
しかし、地形の険しさは、かなりのものだ。
道からは一歩も外へ出られない。

上を通る右岸林道、すなわち千頭林鉄よりも険しい位置を通っている。
これは谷に近いことが原因している。谷に近いほど険しい地形なのは千頭山の基本。基本だから、前にいった奥地も、この辺りの中流域も、変わらない。



少しなだらかな所に、原型を止めた落石防止柵が残っていた。
たくさんの廃レールが使われていた。

柵の上には高いコンクリート擁壁があり、その上には右岸林道。
グループらしきハイカー達の楽しげな声が、ここまで聞こえていた。
昔は、あの賑わいがこっちにあって……、その代わり、向こうにはときおり大きな振動が、行き来していたのであろう。ゴロゴロガタガタと、山を切り拓く栄光の足音が。
ここから走る林鉄を眺めた人は大勢いたと思う。楽しい体験だったろうなぁ。




8:11 《現在地》

ムムッ!

この先、いよいよ危険な険しさを感じるぞ。
崩壊がかなり進んでいる。踏み跡らしいものも見当たらない。
覚悟を決めて、突入だ!
そして、天子トンネルの下に現存するという2本の隧道を解き明かすのだ!



大間ダムまで 残り推定.6km