廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 帰還編 最終回

公開日 2020.11.30
探索日 2010.05.06
所在地 静岡県川根本町

寸又峡の天にある村


2010/5/6 12:44 「14.5」キロポスト付近。

路上整備の一台の重機と行き違ったことによって、路面状況は劇的に改善した。
昨日の夕方から始まった、長い長い林道歩きも、ようやく終わりが近づいていた。

もっとも、地図上における私の位置は、まだまだ大変な山の奥である。標高は1000m以上あるし、集落に近い林道の起点まで、まだ15km近くもある。

とはいえ、その15kmのうち12.5kmまでは、探索初日に自転車で走破済みである。未知の領域を切り開いていくという本当の意味での探索的な部分は、もうすぐ終わる。



12:52

これほど高い位置から眺める寸又川も、そろそろ見納め。
道は徐々に下っているが、河床との比高は前よりもさらに拡大していて、500m近くもある。

そんな上空から眺める谷底にも、相変わらず千頭林鉄跡は存在しているが、あの辺りは今回のスタート地点である大樽沢よりも下流であり、約2週間の4月21日に行った第一次探索の範疇だ。
広い河原を渡る華奢な吊橋が見えるが、あれは千頭堰堤の800mほど上流に架かる「天地吊橋」だ。

林鉄は、あの橋の左岸袂に天地索道所という停車場を有した。橋の上空を東洋一の規模を誇る天地索道が横断し、写真奥に広がる上西河内や下西河内の奥まで長大な作業軌道が敷設されていたという。
千頭の秘奥は、この方面にもまだまだ果てしなく広がっている。




12:55 《現在地》《標高図》

出発から8時間後、左岸林道13.5km付近にある、「お立台」に到達した。
この海抜1000mの地点は、左岸林道上随一の展望地である。
寸又川の西側に広がる広大な山域を、天竜川水系との分水嶺まで一望でき、私の探索の全領域を包含していた。

はじめは林道上の一地点に過ぎなかったであろうこの場所だが、そう昔ではない時期に観光地として整備されたらしく、立派な案内看板やベンチや公衆トイレなどが存在する。
しかし、現在は左岸林道が起点から一般車両通行止めであるため、14km地点にあるここを観光目的で訪れるのは簡単ではなくなっている。

私はここで2日ぶりに、現在時刻を知る以外の目的で、ケータイ電話の画面を見た。
この見晴らしであるから、麓に電話が通じやしないだろうかという淡い期待があった。
もし電話が通じるなら、真っ先にはじめ氏と連絡を取りたい。互いの無事を確かめ合いたかった。

無情にも、アンテナはゼロ。(au)



お立台にある公衆トイレ「お立台の厠(かわや)」は、このようなログハウス風の建物で、これまで沿道で繰り返し見てきた営林署時代の廃宿舎や、それよりは新しいだろうが荒れつつある避難小屋とは一線を画して、我々の気軽な隣人のような顔をしていた。

(チェンジ後の画像)
そして、この公衆トイレのすぐ脇に、私をとても喜ばせる発見があった。
林道から分かれて下って行く、一本の階段歩道を見付けたのである。
この歩道が使えれば、行程を大幅に短縮する起死回生のショートカットができる。




右の地図を見て欲しい。
現在地の「お立台」から、北西へ尾根伝いを下り、日向林道と交差し、さらに「千頭堰堤」まで下る道を、赤破線で示した。

以後これを「短絡路」と称するが、地形図には日向林道と千頭堰堤を結ぶ区間だけが徒歩道として描かれていて、お立台に通じるようにはなっていなかった。しかし、2日前の9:02に、日向林道上でこの短絡路と交差した際に、それらしい入口を見付けていた。

この短絡路が利用できれば、素直に林道を経由して日向林道へ入るよりも、自転車デポ地までの距離が3kmも短縮される。3kmといえば、私の今の歩行速度の1時間〜1時間半分にも相当する!

今朝出発した時点では、自転車デポ地への到達時刻を正午頃と見込んでいたが、実際は私の足が思うように動かず、この時点で既に1時間くらい遅れていた。
このままでは、懸案である無想吊橋への寄り道を実行することは、時間的に難しい感じになってきていたが、これは起死回生となり得るショートカットだ。

タノム! まだ私に選択の幅を残させてくれ!
祈るような気持ちで、昨日の夕方に軌道跡を脱して辿り着いた釜ノ島以来、約20kmも連れ添った左岸林道に別れを告げて、地図にない、行き先表示もない歩道に、身を躍らせた。

13:05 当初計画の1km手前で左岸林道を離脱!



13:10

林道のすぐ下には、久々に目にするスギの植林地が広がっていた。
それだけではない。
なんとこの海抜1000mの森の中には、多数の石垣が存在した。
石垣は土地を段々に区画する形で尾根の周囲に築かれており、ここに集落が存在したことを示していた。

この尾根に集落があったことは、導入第2回の小コーナー「寸又川の幻想郷「東側」集落について」で解説した通りであり、間違いない事実である。
ここには、上川根村大字東側に属する上日向という集落が、戦後間もない頃まで存在していた。お立台で眺めた絶佳の山景を窓に暮らした人々が実在したのだ。

江戸時代にはもっと上流の大根沢辺りにも集落があったという話だが、近代以降に存続した集落としては寸又川沿い最奥であり、おそらくこの標高1000mという立地は、静岡県で最高所の集落ではなかったかと思う。そして、最も都会から遠い集落でもあったろう。

地形図や文献の中では存在を知っていた上日向集落だが、実際に跡を目にしたのは今回が初めてだった。

まるで白昼夢の中の出来事のような集落跡との遭遇だったが、歩道は最初の5分足らずで石垣地帯を通り抜け、後は滑り落ちないように注意を要する急角度の尾根道が、荒れた雑木林をジグザグに伸びていた。踏ん張りの効かなくなってきた足にお願いしながら、20分ばかり黙々下り続けると……



←日向林道だぁ〜!

うっぅっうっうー(嬉しい)。

遂に今回の探索中に一度通った道へ戻ってきた。一周した!
2日前にはじめ氏と自転車で駆け下った日向林道である。
3.5kmの林道歩きを、わずか500mの山道で短縮することができた。これで1時間は回復したぞ!




13:28 《現在地》

日向林道に到達。
ここは2日前の9:02に通過しているので、おおよそ52時間ぶりの帰還となった。

短絡路はこのまま林道を突っ切って千頭堰堤へ下っており、これが寸又峡温泉への最短帰還ルートでもあるのだが、まずは自転車を回収しなければならないので、デポ地点まで片道2.7kmほど日向林道を往復する必要があった。無想吊橋まで足をのばすかどうかの判断は、デポ地点到達時に決する必要がある。

しかし、いずれにしても必ずここに戻ってくる訳だから――


一計を案じて、足手まといなデカリュックを残していくことにした。

デカリュックの中に畳んだ小リュックが入っており、食料など短期の探索に必要なものだけを移し替えて持ち歩く準備があった。これで重い野営道具を無駄に持ち歩かずに済む。今回の探索で初めてこれが役立つ場面がきた。
はじめ氏から預った携帯ラジオも小リュックに移し、全行程を同行して貰ったのは言うまでもない。

デカリュックを道端に脱ぎ捨てて歩き出してみたら、たちまちのうちに足から全身へ幸せが駆け巡った。
昨日の夕方、釜ノ島で一瞬だけデカリュックを下ろして探索した時間があったが、それに匹敵する幸せな軽さを感じた。
これならもう少しくらいは頑張れそうだと思った。



13:49

ここで久々の動画である。

内容は、私をずっと苦しめ続けている足の痛みについての詳細な報告と分析だ。
痛みは後から思い出すのが難しいので、出来るだけ言葉にして残そうとしたのだろう。

しかし、両足の指先と踵が靴擦れして痛いという、痛々しい報告とは裏腹に、妙に饒舌なのが面白い。
このときの私は、会心のショートカットを成功させたこと、重い荷物から解放されたこと、いよいよ自転車の回収が近づいていること、そしてもちろんこの3日間の盛大な成果も含め、良い出来事が重なっていて、とても上機嫌だったのだと思う。



14:03

日向林道は、デポ地点の直前に寸又川を渡る橋があるが、起点からそこまでは全て豪快な下り坂である。
2日前は自転車で豪快に下ったところを歩かねばならないのは億劫だったが、半ばウィニングランの心境だった。

そして、1.5kmほど歩いたところで、本日二度目となる土木作業車との遭遇が!
しかも今回は、見るからに危険そうな絶壁の現場で、ヴォンヴォン唸りを上げて駆動中だ。車外にいる監視員の姿も見えたが、これははじめ氏以来のヒトだった。

この作業現場だが、2日前の9:15に通過した【崩壊地】だった。なんとタイムリーな仕事ぶりだ。後で小耳に挟んだ内容だが、この頃の左岸林道と日向林道は、毎年春に重機を出して途中まで開通させた後は、翌春まで放置されることが通例であったらしい。なので私が千頭山に引きこもっていた3日間が、たまたま年一回の路上整備に重なっていたようである。(そして現在は、この作業が行われていない)

私は、この写真を撮影した数分後に現場を通過した。その際に、重機の爆音にかき消されない大声で私の存在を伝える必要があり、なにか声を交わしているのだが、内容は記憶から欠落している。



14:30

下り果てて、寸又橋に再到着。
左岸林道にいるときには、400〜500mも下に見ていた寸又川に戻ってきた。
千頭林鉄の永遠の伴侶となった、この渓(たに)に。

昨日の16:26、釜ノ島の少し先の寸又川を、ちょうどこれと同じくらいの高さから見下ろしながら、撤退を決した。
そこから22時間かかって(うち10時間は野営中だが)、また戻ってきた。
これより上流にある、大樽沢、小根沢、大根沢、栃沢、こういった地形図に名前がある数々の支流の他、無数の枝から集まってきた水が、ここにある。

水は自然に任せ無造作に流れてくるが、これをヒトの身で逆さに遡ろうとした今回の企ての如何に困難であったかを振り返るとき、私のように辿るべき道の“跡”すらない無人の渓に、762mmの軌条を戴く2m幅の鉄路を完全な形で生み出した先人達の想像を絶する苦闘を、想わずにいられない。

家族と己のため命を賭して千頭山に挑んだ者達の記念碑が、この渓のそこかしこに残された、私が拾い集めたものの全てであった。


寸又橋を渡り終えると、もうすぐ――





14:36 《現在地》

自転車発見!

実質的な探索開始地点である大樽沢の軌道跡入口へ辿り着いたのだ。

はじめ氏が乗ってきた自転車が、ちゃんと消えていることが確認できてホッとした。




寸又峡温泉(探索のゴール)まで 残り13.0km



ヨッキれん、暗黒回廊に死す!


(↑)なんとも不穏なタイトルで始まった、最終回のなかの最終回。
もし本当にここで死んでいたなら、10年後にこのレポートを書いたのは誰なんだ? 実はこっそり、2代目ヨッキれんに代替わりしていたというのか。皆さんの誰も気付かないほどの周到さで。だとしたら2代目の方が優秀なヨッキれんだと思われていて欲しい。

2010/5/6 17:36 《現在地》

(←)この異様にむくんだ顔面の持ち主は私だ、ヨッキれんだ。
14:36に自転車デポ地に到達した私だが、それからちょうど3時間後にも同じ場所にいた。
この3時間、意識不明になっていたわけではなく、逆河内支線の補足的探索無想吊橋への再訪を果たしていた。
疲労困憊の私に羽根を与えてくれた自転車の力を借りて、片道3km往復6kmあまりの探索を3時間で実行し、ようやく戻ってきた時の表情が、これだった。
私はここに、はじめて廃道探索による解脱を果たした者の表情を見る。 むくんでるけど。

というわけで、ここから改めて、はじめ氏が待っているであろう約束のゴール地点、2日前の出発地点でもある寸又峡温泉の市営駐車場を目指す!
残距離は13km。あと1時間で夜になってしまうが、約2週間前の4月21日に無想吊橋を探索した際の帰路(未執筆)と同じコースを辿るのであり、勝手知ったる道と言って良かった。
おそらく普通の状態で、かつ自転車があるならば、2時間もかからず帰り着ける計算だった。




17:46

デポ地からの再出発の直後、最悪な出来事が起きた。

自転車のリアディレイラーが、突然ぶっちぎれてしまった。

この手のトラブルは、多段階変速のMTBで稀によく起きる。
ディレイラーという精密な可動部分が車体外に大きく突出しているので、路上の障害物にぶつけた衝撃で曲がったりすると、そのまますぐ近くで高速回転する車輪のスポークに巻き込まれてしまうのだ。そうなると、速度にもよるが、ディレイラーは付け根から破壊されることがある。

私のMTB遍歴の中では、平均して1年に1回程度このトラブルに見舞われていて、ディレイラー本体やディレイラーハンガーという取り付け金具の交換をするハメになっているのだが、まさか今ここで起こるとは、なんというバッドタイミング…。(初日のスタート直後とかよりは、マシだったけど…)

今回の場合、出発直後が下り坂で、それなりに速度が出ていたところに、たまたま踏みつけた木の枝が跳ね上がって車輪とディレイラーの間に挟まった瞬間、ディレイラーがぶっちぎれてしまった。
写真は、ディレイラーハンガーが切断されて、ぶらんぶらんになってしまったディレイラーだ。

17:51

そのままではチェーンを回転させて自走することが出来ないばかりか、外れたディレイラーが車輪に干渉して惰性で走行することすら難しいので、応急的にディレイラーを取り外す処置を行った後が、この写真だ。

リアディレイラーが消滅し、車輪と干渉することはなくなったが、チェーンの遊びが大きくなりすぎていて、力を込めてペダリングすると空転するうえ、変速も最も重い組み合わせで固定されてしまった。(チェーンカッターがあれば、チェーンの長さを適正に調整できたかも知れないが、滅多に使わないので持ち歩いていない)
これでは上り坂を自走することは不可能で、平坦な道でもだいぶ厳しい。
通常であれば、極めて大きな痛手であるが、この先の行程を考えると、最初の2.5kmほどの日向林道を戻る部分だけが上り坂で、後は大半が下り坂なので、まだ救われていると考えられた。

救われていないけどな! 故障が起きなかった場合と比較すればよ。
ともかく、この応急処置で5分以上も浪費したうえ、この後の移動に大きな不利を背負うハメになった。
これはどう考えても、運の悪い出来事だった。



自転車にまつわるトラブル、もう一つあった。
実はさっき(30分ほど前)、無想吊橋からデポ地点まで日向林道を走行してくる途中に、路上に散らばった大きな岩に左のペダルだけをぶつけて、金属製ペダルの外側3分の1ほどが千切れ飛んでしまった。

このトラブルは、私の長いMTB遍歴でも初めてだったが、帰ったあとにペダルの交換をすれば済むと侮っていたのだ。だがどっこい、ディレイラーの破損によって自走不可能となり、自転車を押して歩くようになったいま、千切れた金属ペダルの先端がナイフのように尖っているところにズボンを何度も引っかけるハメになり、僅か数分で私のズボンは写真のようなボロっキレにさせられてしまったのだ。
もし、肌が直に接触すれば、大流血待ったなしの切れ味だった。

なんだこれ?
小さなトラブルが、別のトラブルと重なって、予想外の不調を生み出している。
何この展開。俺が、不運だと?
何が起きている?
俺らしくない。

私は趣味のパチスロでは人一倍ツキがないが、探索中だけはツイてツイてツキまくる幸運の星の下のオブローダーという自負があったのに、ナニコノ展開?!
まさか、無想吊橋を欲張ったことが良くなかった? その強欲の罰によって、我が伴侶の自転車に呪いがかかったのか?!

そんなことあるわけない!




3度目の夕暮れが忍び寄る日向林道を、トボリトボリと歩き続ける私の独白。

同じ道の上で4時間前に撮った妙に饒舌な動画の同一人物とは思えないほど、歯切れが悪い。
もうなんか、脳みそに酸素が行き渡っていない感じ。我ながら痛々しいものがある。
無想吊橋への遠征が、この一行では言い表せない消耗を与えたのは間違いない。



18:11 《現在地》

ここは、4時間前に命懸けの排土作業が繰り広げられていた現場。
道は綺麗になっていたが、作業員は車と共に姿を消し、辺りを静寂が包んでいた。

急に、街の灯りが恋しくなった。ここで出会った彼らが少し前に帰っていった、街の灯りが。
私だけが今日もまた、これで3日連続、この山に取り残されようとしていることが辛かった。



おとといの今ごろは、小根沢の廃屋で、渓声を枕に早いうたた寝を楽しんでいたのだし、
昨日の今ごろは、不安と焦燥に駆られながら必死に宿を探し歩いていた。
そのいずれもが、千頭山の巨大な腹中の出来事だった。

今日の今ごろだけは、街の明かりの中で仲間と無事を喜び合っているはずだったが、またも取り残される。

だが、それでも足を止めるのは最小限。今日は夜闇で止まることはしない。いや、止まってはいられない!
今日に限っては、この夜闇の訪れを、私と同じくらいにはじめ氏も心配しているはずだから。
彼と取り決めていた集合時間は今日の夕方。場所は寸又峡温泉市営駐車場である。

今日は絶対に帰るんだ!




18:43 《現在地》

着いたー…。
デポ地から、ほぼ自転車を押して歩くこと1時間。
日向林道を2.7km逆走し、本日の13:28から5時間15分ぶりに短絡路交点に復帰した。
ちゃんとそこには、中味の半分ないデカリュックが転がっていた。

今から、日向林道を外れて「短絡路」へ入る。
行き先は、千頭堰堤だ。
ここから堰堤までの距離は僅か800mほどだが、この間に180mも下る必要がある。計算上の平均勾配は22%ほどにもなるから、明らかに車道ではない道だ。
これは先ほどお立台からここまで下ってきた道の続きでもあるのだが、この一連の道「短絡路」の正体は、かつて上日向集落と千頭堰堤および千頭森林鉄道を結んでいた、山の生活道路である。

今回の探索では、この先の区間を初めて通行するが、4月21日にも一度通っているので、状況は把握している。
ただ、前回は自転車は持たず、歩いて通った。
自転車にはハードな道であることは理解していたが、それでも800m耐えられれば、ゴールに向けた大きなショートカットが達成できる。ましてや、上り坂を自走不可能になったこの自転車で、素直に林道を帰ることは考えられない。

危険であることを承知のうえ、自転車とデカリュックという今回最大級の大荷物を持ったまま、短絡路に踏み込んだ!




18:46

短絡路は既に闇の中にあった。
廃道ではない現役の登山道なのだが、路面が大量のゴロ石と、それを隠す落葉に覆われているため、自転車に乗ることはしなかった。

間もなく一軒の廃屋が現われた。
短絡路上部の海抜1000m付近の尾根上に上日向集落があったという話を前にしたが、同じ尾根の海抜800m、この現在地付近には、オサキ集落があった。(オサキとはこの地方の言葉で尾根のこと)
こちらもとうの昔に廃村になっているのだが、崩れかけた二階建ての木造住居が、道端に一軒だけ残っている。また、屋敷割の石垣も豊富に残る。

(参考:2010年4月21日撮影写真はこちら




19:00

3日ぶりの灯りだぁ〜! 道の進行方向、そう遠くない闇の下、規則的に並んだ照明が見えた。
あれは無人の千頭堰堤に灯る中部電力の光である。あそこを通らなければ帰られない。

先ほど、平均勾配がどうという話をしたが、実はあまり意味をなしていない。
というのも、集落がある前半は馬の背のような尾根に沿っているので意外に緩やかである一方、後半は千頭堰堤に直降する岩混じりの急尾根をジグザグに下る道であり、危険な急さがある。
人間が落ちないまでも、うっかり自転車から手を離せば、そのまま100m以上も下のダム下流谷底に失う畏れがある道だ。

必死に自転車を守りながら、坂落とし試練に堪えた。その過程で空転する“刃”(左ペダルのことである…)によって何度か足を刺された(後で見たら血も出てた)。

(参考:2010年4月21日撮影写真はこちら




19:05 《現在地》

日没の30分後、千頭山に灯る最奥の光の下に辿り着いた。千頭堰堤到達。

自転車同伴では難路となる短絡路を、夜闇の悪条件と、先ほどからチラつく奇妙な不運に負けず、無事に通過した。所要時間は約20分。全線下り坂にも拘わらず、私の顔面が新しい汗で光っているのは、そういう道だったということだ。

千頭堰堤のこの堤上路は、昭和10(1935)年から存在しており、当初から千頭林鉄が寸又川を横断するための構造物としても活用されていた。
したがって、昨日の15:56以来、約27時間ぶりに、千頭林鉄の路盤を踏んだことになる。

そしてここから先は、軌道跡を転用した林道(通称「右岸林道」、正式名「本谷軽車道」、旧名「本谷車道」)である。
この道を9.5km辿った先はゴールだ。
3日目の夜を迎えてしまい、きっとはじめ氏が不安の中で待ってくれているだろう。未だ連絡を取るチャンスがないのがもどかしい。ならば残る力を総動員して、一刻も早く帰り着くのみ!


帰路の最後の区間に突入!!




19:14

右岸林道の位置や道幅は、ほとんど林鉄時代から変化していない。途中にある長い隧道も、コンクリートの吹き付けが行われているだけで古い断面のままだ。
一般的な林道よりも狭い軽自動車専用の道が、寸又峡の最も深く侵食された回廊状V字谷の側壁に、9.5kmにもわたってへばり付いているわけで、もしも千頭堰堤を維持するための道として維持がされていなければ、千頭林鉄の中でも探索難度が特に高い区間になっていたことは間違いないと思える。

(参考:2010年4月21日撮影写真はこちら

しかし、景色という要素を取り払った右岸林道は、全線舗装された勾配の緩やかな下り坂であり、ディレイラー故障のためほとんど自走できない今の私に優しくしてくれる数少ない道であった。
自転車でも十分に長さを感じられるだけの距離はあるが、これ以上に消耗する要素はなく、淡々と黙々とおおよそ40分ほど耐えれば、ゴールに辿り着ける……はずだった。



19:18 《現在地》

はっきりした場所の特定は出来ないが、堰堤から3〜4km走った所で撮影した写真だ。

闇の中で撮影した大変なピンボケ写真で、何が写っているのかよく分からないだろうが、4月21日の日中に撮影した写真と比較すれば、どういう場所か分かるだろう。

実は、探索当時の右岸林道はここに決壊箇所があり、復旧工事が行われていた。
4月21日の探索で遭遇したが、その時は朝早かったため作業が行われておらず通過できた。
2週間ほど経った今回も、まだ工事は終わっていないと予想しており、現にこうして「通行止」の看板が見えてきたわけだが、やはり通過時刻が日中ではなかったので、前回同様、問題なく通過できる……はずだった。

はずだった。







19:31  泣かされちゃったよ。


顔面に強い痛みがあったが、どうなっているのか分からず、自分を撮影して確かめようとしたが、
デジカメのレンズ保護用のフィルターが消えていて、しかもレンズが歪んだようで、上手くズームが働かなかった。
腕の力で強引に捻っていると、バキッという感触の後に動くようになったので、撮影したのがこの写真。

どうやら右目を負傷してしまったようだ。赤く腫れているのが見える。



私は倒れていた状態から上半身を起こした。
身体の下を見ると、なくなったと思ったデジカメのフィルターが落ちていた。
ガラスは割れていた。

何が起きてこうなったのか、私は鮮明に憶えている。
ただ、これらの写真を撮影した時間が、【直前】から11分経過していたことを、このレポートを書いている今になって気付いた。気絶するほどの“こと”は起きていなかったので、動かぬデジカメのレンズと格闘していた時間だろうが。

私は大失態を犯した。




決壊地点を横断中に、うっかり足を踏み外し、自転車ごと4mほど滑り落ちて、下にあった地面に投げ出されたのだった。

(参考:2010年4月21日撮影写真はこちら

足を踏み外した原因は、崩れた斜面を保護する目的で敷かれていた(ペグで固定されていた)ブルーシートの上端部を歩いたことだ。実はブルーシートの下の一部は空洞になっており、雑な足運びをしていた私は、そこを踏んでバランスを崩した。重い荷物を背負い、さらに自転車を抱えていたため、体勢を回復させられず、そのままブルーシートを引き剥がしながら自転車と一緒に斜面下の平場まで転落して止まった。

ちなみに、4月21日もここを通過しているが、その時も同じ通り方をして、無事に済んでいた。足の置き場に十分注意を払っていたのだろう。



これは「通行止」が表示された工事現場内での出来事であり、100%私の責任だ。勝手に立ち入った以上は、跡を濁さず通り過ぎるのが責務だったが、ブルーシートを引き剥がして現場を荒らしてしまったことを、工事の関係者に心からお詫びします。

この出来事は不運ではなく、疲労のために集中力を欠いていたことはもちろん、ブルーシートの上を不注意に歩くという初歩的なミスを犯したことが直接の原因となって発生した、必然的な事故であったと考える。
そして、これが不運ではないどころか、転落の最中に、私は実に幸運だったことを理解した瞬間は、心底から震え上がった。

この画像をよく見て欲しい。
私が転落の際に無造作に投げ出されたのは、自転車と同じ場所(私の上に自転車が乗っかってきた)なのだが、その周囲に点々と地固め用の鉄棒が突き出している。やや殺意の低い針山地獄のように。
もし、これらの鉄棒に上から被さる形で落ちていたら、致命傷を負った可能性があった。
おそらく不幸な発見者をトラウマにさせるような死に方をした可能性が。

また、仮に斜面が4月21日の状況のままだったら、“針山の平場”自体が存在しなかったので、100m下の寸又川まで滑落した可能性もあった。
その場合、行方不明になっただろう。

この大失敗による事故をレポートに残すことは、非常に屈辱的であり、心苦しかったが、今の私なら同じミスを犯さないと思えるようになったので、なおも自戒を込めて、ありのままを公開した次第である。
はじめ氏にもこの事故のことは語っていなかったが、実はこの事故の影響が大きくて、彼をして「満身創痍」と言わしめる酷い姿になったのだ。
また、このとき右目を(おそらく自転車のフレームに)強くぶつけたせいだと思うが、数ヶ月後の眼科検診で右目の網膜剥離が発見され、レーザー手術を行うことになった。

ここを離れたのは19:40であり、20分近く現場にいたことになる。




20:03 《現在地》

転落現場を脱出しておおよそ20分後、厳重な封鎖ゲートが現われた。
ここは尾崎坂と呼ばれる地であり、かつて林鉄の本線と大間川支線が分岐する、重要な拠点の一つだった。

明るい時間なら、ここに展示された林鉄の保存車両の展示を見ることが出来たはずだ。
また、そういうものがあることから察せられるとおり、この尾崎坂までは、寸又峡温泉を起点とするハイキングコースに含まれる、気軽な観光の対象である。
温泉の入口まで残り2.5km、そして真のゴールである市営駐車場まで残り3kmとなった。

2日前の早朝に左岸林道の起点ゲートを突破した瞬間から、この右岸林道の尾崎坂ゲートを抜け出すまで、要するにこの探索のほぼ全ての行程が、一般車両進入禁止な山域での出来事だったことになる。千頭林鉄の奥地探索が難しいといえる大きな理由の一つが、このアクセス性の悪さにあったことは言うまでもない。



20:15

尾崎坂から先がどういう道であるかは、実際に歩いてご存知の方も少なくないだろう。観光地として知られている夢の吊橋や飛竜橋があり、もし今が天気の良い日中だったら、多くのハイカーが私の尋常ではない姿を目にすることになったはず。

だが、20時過ぎにこんな所を歩き回っている人があろうはずもなく、場違いに明るい天子隧道が逆に不気味に思えるほどの静寂に包まれていた。
しかも、この隧道内は下り勾配ではないので、自走出来ない私は自転車を押して歩くことを余儀なくされ、一刻も早くゴールしたいのに焦らされた。

生還させて貰えてありがたい。そんなことを最後に考えていた憶えがある。
今回は実力を越えた探索になった。最終日の最後の下山の部分で、無茶な探索のつけが表面化したような事故に遭った。最後の最後で運否天賦の死地を彷徨った。しかしギリのギリで生かされた。帰ってヨシと千頭山の温情に許された。堰堤に辿り着いたときの凱旋ムードは、消え去っていた。




20:27 《現在地》

自転車デポ地を出発して2時間50分後、最終最後のゲートが現われた。この向こう側は、林鉄の大間停車場があった大間集落で、現代は寸又峡温泉の名で通っている都邑だ。人里に戻ってきた。ゲートを越えれば静岡県道77号である。

脇の歩行者用通路から、ゲートアウト。
明りが灯っている。
明りが動いている。
はじめ氏だった。
彼はやはり生還していた。
彼は夜の路上であるゲートの前で、ひたすら私を待っていたのか。
私も生還した。

このピンぼけのゲート写真が、探索中に撮影した最後の1枚となった。
このあと、はじめ氏に付き添われながら、自走不可能な自転車を押して集落内を500m歩き、「ワルクード」が待つ市営駐車場に行って、そこがゴールだったわけだが、写真は撮らなかったらしい。再会したはじめ氏の姿も撮影していないとか、薄情者かよ。

20:35頃 生還。



タイムスタンプが翌日5月7日1:49の写真がある。
これが一連の探索における正真正銘の最後の1枚で、お見苦しい写真だ。
痛みの原因となった右足の水ぶくれを撮りたかったんだろうが、探索中にさっさと安全ピンで潰してしまえば、だいぶ痛みを抑えられたのにと今なら思う。ここまで育たせたのは、この一度きりだなぁ。

寸又峡温泉に辿り着いた私は、すぐに車を出発させたと思う。
静岡から東名高速に乗り、途中一度だけサービスエリアに寄って夕飯を食べた。そのまま東京都日野市のアパートに帰還した。そこではじめ氏と解散した。途中一睡もしなかったが、眠気を感じたという記憶はない。帰宅直後に撮影したのが、この水ぶくれ写真で、それから風呂に入って、泥になった。

私は生かされた。
この探索で得たことを一つでも多く記録に残そう。
それが私に出来る、千頭山の温情に報いるただ一つの行動だろう。


――千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 完――




【特別寄稿: 2020/11/24に、はじめ氏から戴きました】

10年前の千頭奥地探索を振り返って

2010年5月のGW、多くの人々は長期の休日ということで観光地に行かれたことでしょう。そんななか私たちは、千頭の山奥への苦行を実行することにしたのです。なぜこのような時期に設定したのかは、最早10年という歳月が流れており、その記憶は定かではありません。しかしこれは、当時の段階で最も困難な探索に挑む、そこに一緒に行こう!そのような心持ちで山奥へと挑んだもので、それはどんな煌びやかな観光地よりも魅力的なことであったと言えます。

私の山についてのスペックはといいますと、北アは単独でテント泊装備の縦走を行える程度(1週間程度まで)というのが一番わかりやすいかと思います。だからと言っては何ですが、今回の千頭森林鉄道・奥地攻略作戦は、私としては特に心配のないものでした。一番の心配はというと、水が確保できるかという方向に向いていました。
「体力はまあ大丈夫、ヨッキさんの足枷にはならんだろう」と思っていましたが、レポートの通り思いもしなかった事態となりました。それは自転車。歩くのと自転車を漕ぐのでは、使う筋肉が違う。その判断を甘く見ていた、私自身の判断不足が、この探索を困難なものにしたのです。

輪行が終わり、私の得意な徒歩での移動の段階で、足への負荷が想像以上となっていました。特に靴擦れは致命的で、まだ先が長いこと、また単独ではないという点で、撤退を決断しました。前にも本文中に掲載していただきましたが、「無理をすれば行けたかも」知れません。しかし無理をすれば、という時点で引き際である、ということも忘れてはいませんでした。先行していた登山者が滑落死していた、などということは、北アなどの山に行っていれば、珍しいことではありませんが、そうなり得る段階に自分が今いること、そんなことが頭に過ぎりながら足を進めていくことを考えれば、止むを得ないが最も良い判断だったと思います。

撤退は辛いことです。一緒に挑戦している仲間がいれば、尚更です。でもヨッキさんならこの先も必ず進んでいってくれるだろう。また本当にダメなときは、きちんと撤退をするだろう。なんだか撤退というキーワードばかりですが、とても大事なことです。その判断への価値観が通じているからこそ、お互いを信頼し山奥へと足を進められる。そして自分自身の状態を正しく判断し、動きを決定できる。チームという視点と、個人としての視点両方が通じている、よき仲間です。

様々な取り決めは事前にしていましたが、そのなかで私が先に戻る事態となった場合、車(ワルクード)を好きに使っていいというものがありました。駐車場へと戻った私は、まず装備を外し、車の中で休み、近くにあった立ち寄り入浴ができる温泉に入ったりしていましたが、ちょっと飽きてきたときにはワルクードの運転を楽しんでいました。マニュアル車なので久々でしたが、運転の楽しさを改めて感じたり、動力で進むことのありがたみを感じたりして、ヨッキさんには申し訳ないですが楽しんじゃってました。

ヨッキさんがどこまで行ったのか、どうなっているのか、全くわからないなかで、彼の車で遊んでいることは、これは不思議な感覚といいますか、ちょっと言葉では言い表せない気持ちでした。また事前に「先に帰宅してもいい」という取り決めをお互いにしていましたが、どうもそういう気分にはならず、ここで彼を待つ、という気持ちに自然となったものです。

暗闇のなかからヘッドライトの明かりが左右に動き近づいてくるのを確認したときは、本当に嬉しく思いました。ああ、無事に帰ってきたのだと。お互いの取り決めをかなり細かく決めていたのは、逸れた場合の通信手段がないからでもありました。いつ戻るのか、予定はありましたが、それはあくまで予定です。予定と極端に違う事態となった場合、特に予定よりも大幅な時間が経過しているにもかかわらず戻らない場合は、捜索のお願いを関係各所にしなければなりません。その心配ももちろんありましたから、待つこととしたのです。だからこそ、戻ってきた姿を確認できたときは、本当に心から嬉しく思ったものでした。通信手段がなくても、お互いを思う気持ちというのは、いいものです。

ヨッキさんは私が待っていたことにやや意外という表情をしていましたが、私としては再会がとにかく嬉しかった。しかし戻ってきたヨッキさんの姿は、まあどこまで言っていいのでしょうか。とにかく凄まじい姿でした。顔も傷だらけ、装備も汚れ、まあ一言でいうと文字通り満身創痍、酷い状態でした。帰りの運転を私がしようかと提案しましたが、彼は大丈夫と言い、ハンドルを握りました。どんな探索であったか、それは記事の通りでもあり、記事では触れていない、私たちにしかわかり得ない話を殆ど途切れることなく話しながら、東名高速を進んで行きました。

このときのヨッキさんは、ちょっと意気消沈という感じでした。それは最終目的地まで行けなかったこともそうですが、こんな辛い思いをしてまで、何故探索するのだろう、という彼の本音の部分が見えた瞬間でもありました。

私は、私自身が何故山に行くのか、探索に行くのかを話しました。それは「生きている、という実感を得たいから」というのが根源にあると、話しました。現代社会のなかで、車や電車で移動する生活というのは当たり前のものですが、しかし自分だけで成り立つことはない移動方法です。そしてそれは進化すればするほど、人の匂いを感じなくなっていくものでもあります。

そんな社会で生きていくなか、人を感じたい、自分を感じたいと思うからこそ、私は生きていくうえでは行く必要もない北アを含め、幾つもの山域へと足を運ぶのだと。
そしてそのなかにまだひっそりと存在している、かつて人が営んでいた跡を辿ることで人を感じるのが好きなのだと。そんな話をしました。

彼は言いました、今まで出会ってきたなかで、その部分に触れたのはあなたがはじめてだ、と。

その、お互いの心のなかで本気で通じている部分があったからこそ、彼とは探索を共にし、その達成を喜びあい、達成できなくてもお互いの存在を喜んでいったのだと思います。あれから10年、一昔と言える歳月が経ちましたが、あのときの探索は、今でも私にとっても、ヨッキさんにとっても大きな探索だったと言えるでしょう。そして滅多に連絡はしませんが、それでも時々ふと、私は彼のサイトを眺めるのです。ああ、またすげぇとこ行ったな、と(笑)。

これからも、お互いに体に気をつけていきましょう。よき友へ。

-はじめより-