道路レポート 天野橋と天野新道 後編

公開日 2017.02.25
探索日 2012.05.15
所在地 宮城県仙台市青葉区

天野氏の新道で、段丘崖を突破せよ!


2012/5/15 5:35 《現在地》

飛び石伝いに青下川の水面を渡り、初めて左岸の領域へ踏み込んだ。
目の前には、ものの見事に失われた天野橋の左岸側橋頭部。
驚くべきことだが、まるで橋脚のように見えるコンクリートの柱は、橋台である。

橋台と左岸側の地山の間には、右岸にあるのと同じような玉石練り積みの築堤が存在していたはずだが、倒れ伏した擁壁の残骸があるばかりで、築堤は完全に流出してしまっていた。

そしてこの事実は、もう一つの残念な結果を引き起こしている。
橋台の上か近くに置かれていたはずの2本の左岸側親柱。それらが行方不明になっていた。
河床のどこかに埋まっているのだと思うが、広瀬川の本流まで流れているかもしれず、探しようが無い。
失われた2本の親柱には、橋名の読みと河川名が記されていた可能性が高く、であるならば情報として必須のものでは無いけれど、それ以外の特異な内容が記されていた可能性もあり、失われているというのは単純に残念だ。



(←)
失われた左岸橋台付近より見上げた、川岸の斜面。
橋が健在だった時代には橋台裏側の土中であったに過ぎない場所だけに、なんら人工物は見あたらない。
これを橋台の高さ分だけ登った位置に路面があったはずだが、既に完全に流出しているのだろう。
まったく平場はなく、見通せぬ高さまで急斜面が続いていた。

(→)
斜面を下流へ向かって斜めに上りながら、失われずに残った路面を探した。写真はその際に橋の方向を振り返って撮影した。
既に橋から5m以上も離れているが、破線の位置にあるべき道は、まるでなくなっていた。




5:37 《現在地》

平場発見!

橋の端部から10m前後離れた位置で、明確な平場を発見した。
これがかつて、天野橋とセットになって青下川両岸間の交通を一身に担っていた道路…。

橋の惨状を見た時点で覚悟してはいたが、案の定、きついヤブ漕ぎを強いる廃道になってしまっていた。それに、この先ヤブ漕ぎだけで済めばいいが……。

とりあえず足元にある平場の規模を観察すると、もともとの幅は5m程度もあったと思う。山側が崩土に埋没して斜面化しつつあるが、盃氏が感嘆符付きで「昔(戦前?)は車が走ったそうです!」と書いていたように、自動車の通行が可能な規模だ。
そもそも天野橋の構造からして、人や荷車より遙かに重い自動車の通行を想定したものだった。この道も、自動車の通行出来る構造であったと考えて良いだろう。




緑濃い灌木帯を、少しの間進んでいくと…



頁岩らしい砕け方をした巨大な落石が、道を塞いでいた。

乗り越えて進む事自体は難しくないものの、明らかにこの落石は最近の出来事だ。
なにせ、押し潰されてしまった倒木が、今年の若芽を僅かに生き長らえさせていたのだ。
前年の東日本大震災から未だ余震のときおりある中で、この落石は生々しく恐ろしかった。


落石現場の上部には、落ちてきた巨岩のさらに何杯も大きな岩が、不安定そうな姿を晒していた。
周囲の樹木の下にある斜面も皆、その岩の辺りから落ちてきたであろう瓦礫に覆われ、典型的な崖錐(がいすい)斜面になっている。
今回の落石は地震の影響であったとしても、この立地だと、現役時代から道は落石に悩まされていたのではないかと思う。

ちなみに奇岩の姿は、出発直後の遠望の中で見えていた。→写真
遠望の中の「現在地」付近はまだまだ緑が濃く、その先に較べれば遙かに安全そうに見える。



典型的崖錐斜面!
崩れても崩れても際限なく崩れてきて、これを抑えるためには大規模な土木工事を必要とする、道にとっては根治の難しい慢性疾患のようなワル地形である。

天野氏の新道は正面からそれに挑んでおり、他にルートはなかったのかと思うけれど、実際になかったのだろう。天野橋の下流側はこのような状況だが、上流側はこれより遙かに強烈な断崖絶壁(参考写真:【青下橋から眺める天野橋上流の地形】)なのである。

しかし、道として何かしらの落石対策はしていたのかどうか。
少なくとも、コンクリートによる擁壁や落石防止ネット、柵、ロックシェッドなどなど、現代の道に見られるような対策の痕跡はまるでないが…。

…強いて言うならば、道幅が思いのほかに広いこと。
それが、通行人が落石に直撃される可能性を分散して減少し、また、ある程度の落石を受け入れながら道を維持するための現実的な対策であったのかも知れない。
そんな道の広さが功を奏して、未だに道形自体は思いのほか鮮明であった。
その広い道幅のどこにも、クルマの轍はもちろん、踏み跡さえ見あたらないが…。




山側のが崩れ放題なら、反対の川側はどうかと言えば、こちらも特に擁壁で補強されていた様子は無い。
ただそこには、落ちまいと必死に根を張る異形の樹木が、道を見上げながら踏ん張っていた。
ガードレールも、駒止めも、転落を妨げるものは何もない。
外見的にはまったく、自動車が登場する以前の車道、いわゆる近代車道そのものといって良いだろう。ただ僅かに道幅の広さが個性と感じられる程度のことだ。

こちら岸に着いてからの道は、川岸の急斜面を横切りながらぐんぐんと高度を上げており、既に眼下の水面はだいぶ遠くなっている。同時に、流れの正体も青下川から広瀬川の太い奔流へ置き換わった。




道は着実に段丘崖を登り続けており、ゴールへ向かって進んでいることが分かる。

だが、見ようという意識を働かせずとも行く手に見えはじめている、大きな“白の領域”の存在は、

この行程が安穏では終わらないということを、ほとんど約束に近い確度で宣告してきていた。



更に進むと、その“白い領域”を隠していた前景がどんどん消耗していく。

そして、完全に進路を横断するように横たわる“白い領域”を見分けられるようになる頃に

気付くのである。我々が既に、道ならざる部分を歩いているという事実に。

ここで道は完全に外見を失い、かつてあったのに過ぎない斜面下の幻想となった。



5:50 《現在地》

“白い領域”
の本番へ突入!

橋から150m前後の地点からは、ついに旺盛な斜面崩壊の産物である崖錐が、樹木の存在を卓越するようになり、天気さえ良ければよほど明るかろう、見晴らし絶好の高高度ガレ場斜面を横断しなければならなくなった。地理院地図に描かれた破線の道が跡絶えるのも、この辺りから。

斜面を埋めているこの巨大な崖錐は、ここに道があったからこそ存在している。
その証拠に、道よりも低い斜面はみな、瓦礫を留めておく置き場がないため、川面まで鋭い崖になっている。
出発時に見た【地層も露わな川崖】の上端が我々の進路であり、それは転落が死ということを意味している。



今日はじめて、真剣な顔になった二人。
崖錐は歩き慣れているつもりだが、それでも緊張を強いられる。
頼り甲斐の無さそうな樹木に頼りながら、大きく高巻きつつ横断しようとする盟友の姿が、そんな現実を露わにしていた。

これは路面を完全に埋めてしまった崖錐横断のセオリーというべきことだが、路肩に近い低い位置ほど斜面の傾斜は緩やかで歩きやすい。だが一方で、万が一滑落した場合には、ほとんど猶予無く路肩から絶壁へ滑り落ちるハメになる。
とはいえ、それを怖れるあまり高巻きを徹底すれば、今度は斜面が急傾斜になりすぎて歩きづらいばかりか、万が一滑落した場合に急斜面で速度がついて止まりづらくなる。

この相反する二つの要素、すなわち斜度と路肩までの安全マージンのバランスを見極めて突破ルートを定めることが、こうした前任者の踏み跡がないガレ場の横断には必要となる。
私が、ただ1本でも踏み跡が残っていれば、それだけで難易度は7割減と感じるのには、そうした事情がある。

また細田さんが魚雷みたいに頭から突っ込んでくるし!!

いやまあ、とはいえ、ここは必死にならざるを得ないのだ。

一部、本来の路肩の高さよりも上まで川に直行する絶壁がクレバスのように伸びてきており、その上部を横断するところだけは本格的な危機を感じた。
この探索は既に5年も前のことであるから、現在はクレバスの崩壊が更に進んで、本当に通過不可能になっている可能性もある。注意して欲しい。


危険は見晴らしの良さと相性が良い。
弱ったことだが事実である。

蛇行する川を中心とした展望を見晴らすのには既に十分な高度があり、その眺め中央には、見知らぬ土地で不安げに立ち尽くす愛車の姿が見えた。
この眺めは、おおよそ半世紀も昔に旧道となるまで、毎日の通行人を楽しませていたものと、ほとんど変わっていないだろう。
或いは、広瀬川の浸食によって路肩が削られた影響で、より鮮麗さを増しているかも知れない。

ずっと遠くの方に赤い熊ヶ根橋(国道48号)の勇姿が見えるが、その袂から始まる熊ヶ根の集落をはじめ、この界隈の全ての集落が四方の段丘面上にある。
我々が登っている斜面も例外ではない。



遠望した時点で“そんな気”はしていたが、崖錐によって道が完全に呑み込まれ、平坦部分の全くない左高右低の斜面と化している区間は、おおよそ100m以上も続く。
一度立ち入ってしまったら、気軽にやり直しとはいかない、なかなかの覚悟を要する長い危険地帯だ。

それも終盤にさしかかると、粒の大きな瓦礫から、目の細かい土質となり、それが少しばかり湿っていたために、爪先を突き立てるのにも締まりが強くて難儀した。
おそらくこれが(地味に見えても)一番の難関かつ恐所であり、反対側から辿ってきた場合には、慣れる前にいきなりこれが始まるわけだから、踏破のハードルは格段に上がると思う。
それに、下り坂に沿ってガレ場を横断するのは、その逆よりもよほど怖いものだ。なにせ、下り坂を水平にトラバースするだけでは高巻きの過剰になり、わざわざ見たくもない崖下へと意識して下りながら横断しなければならないからだ。




6:00 《現在地》

どうにか突破出来たようだ!

一連の斜面を横断するのには約10分かかったが、ようやく崖錐斜面を脱出し、同時に川崖からも離脱出来たようだ。

見れば左手すぐ上方に、段丘面の縁であるのに違いない、いかにも直線的なスカイラインが近付いていた。
そのことが、我々の目的達成の近いことを教えてくれていた。
最後まで藪は濃いようだが、命の危険を感じずに済む方がマシである。“細田さん魚雷警報解除”。




おお〜〜!

段丘崖から段丘面への移行は、景色の変化も劇的だった。

なんだかいまにも雨が降ってきそうだが、晴れていたらもっと気持ちよい場面だったことだろう。


…しかし、ここに来て最後の最後に……



やぶきっちー!!


……これでは、最後まで“こちら”側から踏み込んだ足跡が見られなかったのも、道理である。

もともと、地図で分かり易い国道や県道の旧道でもないので、存在自体地味なのだろうが、それにしても埋もれすぎ。

生命の迸(ほとばし)りを手足の動きに、空ぶった余りを叫びに変えながら、

突入時点ではまるで終わりの見えなかった猛烈な笹藪に挑んだ結果――



6:05 《現在地》

脱出!!

まるで道など見えない茫漠とした原野に、突然放り出された! ひでぇ扱いだ。

が! その時二人に衝撃走る!!

なんか、滅多に人なんて来なさそうな目の前に、

いかにも中身が詰まっていそうに膨らんだ、大きなバッグが二つ。


ゲームだったら、ステージクリアーのご褒美の絶妙なタイミングだが、ここはリアルワールド。

二人は、顔を見合わせて思った。

扱いに困った金」 か 「■■された■■」 か。




二人は、同時に近付いて、




――開けた。





投棄された二つのバッグを埋め尽くしていたものは――





使用済みと思われる女性用の下着であった。




細田氏がボソリと口にした、

アダルトオークション

という言葉の意味を私は 断じて・・・ 知らない。



…気を、とりなおして、

我々が登り着いた段丘上の平地は、本当に原野のようなところだった。

地名としては、仙台市青葉区大倉の萱場という集落の周辺だが、とりあえず見える範囲に民家はない。
唯一見えた民家といえば、振り返った先、広瀬川の巨大な谷の向こうの山際に立ち並ぶ道半という集落のそれであり、それは萱場集落よりずっと遠くだ。

それにしても、こちら側からは本当に道があった形跡が見あたらず、入り口に目印らしいものもないから、この写真で記録をしておかなければ、二度と見つけられなくなるかもしれない。
もっとも、また来る必要があるかどうかは、かなり怪しいが。

このあと我々は、適当に原っぱを歩き、やがて田んぼの畦に辿り着き、さらに歩いて…




6:09 《現在地》

舗装された道に辿り着いた。
と同時に、ようやくこの平地に建つ民家を遠目にちらほらと見かけられるようになった。

なお、この舗装路に出た所に、「大原館跡」と書かれた案内標柱が立っていた。
この辺り(つまり我々が段丘上に登り着いた一角のことだろうが)には、16世紀終わり頃から大原館跡という館があり、国分氏の家臣作並宮内が居住した云々とのことであった。
見晴らしの良い場所で、かつ古くから谷を渡る交通路を抑えうるような場所であったから、居館が設けられたのだろうか、……などということを考えた。



あとは、のんびりとした帰路であった。
しかし、最短ルートである廃道を戻りたくない我々は、スタート地点へ戻るのに2.5kmほども迂回して歩かねばならなかった。

左の写真は、その途中で撮影した萱場集落の景色。
右は、同集落の路傍で見つけた、昭和6(1931)年の記銘を持つ馬頭観世音碑だ。
碑前の道は天野橋より通じる道であり、昭和11(1936)年に天野橋が架せられる以前から、この道が広く利用されていた可能性を感じる碑だった。




6:27 《現在地》

まだ帰路の途中だが、レポートはここで区切りとしよう。

天野橋の400m上流地点で、谷底から50mの高度で青下川を一跨ぎにする、現代の青下橋。
あらゆるアップダウンを無くした、理想的架橋。

そこを平穏に走る路線バスと、制した谷を怖々見下ろす細田氏のツーショットで、フィニッシュ!




天野橋小史 with にょ氏


前編冒頭で述べた通り、今回の情報提供者の一人にょ氏は、天野橋の来歴について記録した資料を二つ、その内容と共に教えてくれた。

二つの資料とは、『歴史探訪関山街道を歩く』(平成21(2009)年/社団法人東北建設協会)と、『宮城地区平成風土記』(平成15(2003)年/いきいき青葉区推進協議会)である。前者を実際に入手して読んでみたが、天野橋については後者を引用した記述であると書かれており、実際その通りのようなので、ここでは後者『宮城地区平成風土記』(以下『風土記』)の記述内容を掲載する。

← 新しい          (歴代地形図)          → 古い
@
地理院地図(現在)

A
昭和26(1951)年

B
明治40(1907)年

定義方面へは青下川が広瀬川と合流する地点の広瀬川左岸断崖を斜めに登り降りしていた。(中略)
昭和6年8月30日仙山東線の開通に伴って大倉方面の人々や定義如来参詣者の多くは陸前白沢駅からこの危険な道を往来するか、熊ヶ根駅から青下水源地を通って大原に出るかであった。同11年ごろから同14年頃まで、芋沢畑前出身の天野政吉氏が、陸前白沢駅と定義間にバスを運行したが崖の斜めの道は徒歩で連絡していた。私財を投じて開いたその道跡と「天野橋」と命名した朽ちかかった橋がかろうじて当時を物語っている。

『宮城地区平成風土記』より引用。

関山街道から野川橋の袂で分かれ、萱場を経て定義(じょうげ)如来へと詣でる道が古くからあった。
明治40(1907)年の地形図において、後に天野橋が架けられる位置に既に橋があり、「荷車を通せざる部」であることを意味する片破線の「里道」が定義方面へ通じているが、これが当時の ――風土記が広瀬川左岸断崖を斜めに登り降りする危険な道と書く―― 古道である。
定義如来へは仙台から通じる道(定義街道…現在の県道55号沿い)もあるが、山形方面からの参拝者にとっては、この里道を通った方が遙かに近かった。

そんな、便利だけど“危険な道”をどうにかしようという気運が高まったのは、仙台より建設が進められていた仙山東線が、昭和6(1931)年に作並まで開業し、同時に陸前白沢と熊ケ根の駅を駅を開業させたことによるらしい。この鉄道の開業により、仙台方面から定義如来への最短ルートは、陸前白沢駅で下車し前出の里道を通るものとなったからだ。(萱場集落で見た馬頭観音も昭和6年の建立だったが、無関係ではなさそうだ)<

そこで突然のように登場するのが、芋沢畑前出身の天野政吉という人物である。
『風土記』に彼の功績として書かれていることは二つある。
私財を投じて「天野橋」と橋へ通じる新道を開削したことと、「天野橋」を通る陸前白沢駅〜定義間のバスを運行したことである。

昭和26(1951)年の地形図を、明治40年のものと比較すると、青下川を渡る橋自体は書き換えられていないが、左岸の崖を上り下りする道が2本に増えている。
1本は従来からの旧道で、新たに描かれているもう1本の道が、天野氏の開削した新道とみられる。この新道は描かれ方も(里道/町村道)としては最も上等な「達路」を示す二重線になっており、前後とは異質である。さらに良く見ると、野川橋から萱場を経て定義へ至る一連の道路全体が、「荷車を通せざる部」ではなくなっている。(←補足説明
これらは地図上では地味な変化に過ぎないが、『風土記』の記述とあわせれば、かつて徒歩専用だった道が、バスの運行が出来るまで大幅に改修されたことを窺わせる。

もっとも、『風土記』によれば、バスの運行開始後も、崖の斜めの道は徒歩で連絡していたとのことであるから、新道とて、大型車両が(まして大勢の客の命を預かって)通行するには危険過ぎる道であったのだろう。このことは、実際にこの道を開通から三四半世紀の後に歩き、放置された惨状を目にした一人として、とてもよく実感出来る。
いったいどこまでバスが入り、どこから徒歩であったかは正確には分からないが、左岸崖道の途中に【妙に広い場所】があった。もしかしたらそこで転回していたのかもしれない。
なお、現地の探索では、新道開通以前に存在していたはずの旧道や旧橋について、全く痕跡を認めなかった。


『風土記』の記述から判明したのは、以上のような事柄である。
一つの橋を巡る地方交通史として矛盾のないストーリーであるけれど、天野政吉という人物の正体(動機も)には謎が残る。
彼について僅かに与えられている情報は、芋沢畑前出身というものだが、この地名は萱場集落から見て大倉川の対岸へ2kmほど離れた、仙台市青葉区芋沢の畑前集落であろう。
天野橋を建設された昭和10年代、萱場も畑前も共に宮城郡大沢村に属する集落であり、青下川は同郡広瀬村との村境だった。(両村が合併し宮城村となったのは昭和30年、宮城町を経て仙台市に編入されたのは昭和62年である)

天野政吉氏が大沢村の村政に関わる人物であった可能性に着目したが、少なくとも歴代村長に天野氏の名は見られない。
また、バス事業を経営したとの記述に着目して、国立公文書館でバス事業の免許に関する記録を調べたが、やはり彼の名前は見つからなかった。
そういえば本編では省略したが、我々が探索の最後に立ち寄った萱場集落でお話しを伺った70歳前後の古老から、橋を架けた天野氏はその後に「金福建設」という会社を立ち上げ、いまも市内の大崎八幡に会社があるということが分かったが、このルートについては未調査だ。

そんなこんなで調べていくと、仙台市が運営する「広瀬川ホームページ」にある連載記事「広瀬川の記録」のvol.20が、天野橋についての多くの聞き取り調査を含む、とても濃い内容であることが判明した。→【広瀬川の記憶 vol.20】
天野橋をボンネット型の木炭バスが運行していたことや、橋を渡ってお嫁に来た人の話など、貴重な内容はリンク先を訪れて読んで貰いたいが、天野政吉氏についても証言があった。「自動車会社を経営し、材木商もしてて山から木を伐り出したりしてたみたいです」と。

天野政吉氏が経営したバス会社の社名だが、定義乗合自動車であった可能性が高い。
wikipedia:仙台市交通局白沢出張所によると、定義乗合自動車は昭和18(1943)年に仙台市により買収されたが、その当時、陸前白沢駅前と定義如来を結ぶ路線を経営し、車庫が陸前白沢駅前にあったという。


橋の上からいち早く身を退いて渓水に洗われ続ける「天野専用橋」の親柱が、謎を孕んでより一層、私にこの小さな橋への興味を深くさせている。

私は、天野政吉氏が私費をもって架橋と開道を行って地方に多大な貢献をした、そんな善意の人であったということを疑わない。
しかしそれだけに、完成させた橋の銘板に「天野橋」ではなく「天野専用橋」と仰々しく記したことの意外さと、その真意に興味が湧いた。
関係者に直接聞き取りをすれば解決出来る可能性のある問題を、そのままにして私見を述べるのは私の怠惰だが、バスや貨物を用いた自動車事業を行ったという記述と絡めた一仮説として、同業他者の利用に一定の制限を与えたい意図をもって、このように名付けた可能性がある。
より単純に私設の道「私道」であった可能性もあるが、なんらかの料金徴収や通行制限が行われていたという証言はみあたらず、誰もが自由に渡っていたようだ。


ともかくこうして、段丘崖の険しさには苦しめられながらも、住民の生活に旅行者の参詣にと大活躍をした天野橋が役目を終えるのは、大倉ダムの工事用道路として昭和33(1958)年に(旧)青下橋が架けられたことによる。この新道に対して、天野橋と旧道はあらゆる意味で太刀打ち出来なかったことだろう。

だが、天野橋を含む今回探索した一連の廃道は、いまなお仙台市の認定する市道であり続けている。

仙台市市道路線認定網図」には、左図のような経路を持った市道(路線番号:青葉5476、路線名:野川大原線)が記載されており、路線データとして、最少幅員3.4m、最大幅員9.3m、延長1256mとあるほか、図中で破線をもって示した区間は「交通不能道路等」であるとされていた。

この市道の一部として、天野橋(或いは天野専用橋?)は、いまなお市の管理する物件なのだろうか。
通行不能区間の前後には通行止めの看板一つ見あたらず、もはや通行を試みる者もないと判断されていそうな“廃道”であるが、法的な廃道には非ず、歴とした市道である。
こんなところにも、天野氏がこの道を私道ではなく公道として提供し、大沢村や広瀬村の村道として認定されていた名残があるように思われるが、いかがだろうか。