唐突だが、上の地図を見て欲しい。
チェンジ前の地図は、平成13(2001)年版の「人文社広域道路地図」で、緑色で太く描かれた道路が地図の右と左を結んでいる。
一方、チェンジ後の画像は、令和5(2023)年版の「スーパーマップルデジタルver.24」だが、緑色で描かれた道路は中央付近で途切れている。
つまり、一昔前の道路地図では太くはっきり描かれていた道路――緑色だから「主要地方道」――が、最近の道路地図だと描かれなくなった。
これは、気になる。(気にならない?)
が、別にネタバレを引っ張るような謎でもないので、先に答え合わせをしてしまおう。
上の地図は、今から数年前に確認した地理院地図だ。
そして、チェンジ後の画像も同じ地理院地図だが、これは今日確認した最新版である。
地理院地図では黄色く塗り分けられている県道(主要地方道含む)の経路が、ここ数年の間に変化したことが分かる。
経路変更前の旧ルート(=旧県道)をよく見ると、県道の途中にごくごく短い破線(=徒歩道)の区間があり、自動車は通れなそうだ。
SMD24が県道を途切れているように描いているのは、このような自動車の通れない道に誤ってドライバーを導かない親切である。
この場所では、とても長い間、車の通れない道に、県道のルートが設定されていた。
その原因ははっきりしないものの、最近になってようやくそのルートが変更され、まともに車が通れる道が県道として案内されるようになった。
ただし、この新たに県道になった道も、べつに最近になって開通したわけではない、数十年は昔からあった町道だった。
そして当然、地図を頼る必要もない地元の道路利用者は、当たり前に、その町道を使って行き来をしていた。
ただただ、道路地図や年代の古いカーナビを頼りに車を走らせた異邦者のみが、この罠に陥る畏れが大きかった。
もしあなたがその立場で、冒頭に紹介した「人文社広域道路地図」を頼っていたら、この罠から逃れられただろうか。
なお、今は亡き人文社の名誉のために書くと、同時の道路地図帳の大半(昭文社の「グランプリ」など)が同じ表記をしていた。しれっとね。
今回紹介するのは、ほんの数年前までは確かに県道(主要地方道)であった道の驚くべき実態だ。
ここまで一切の地名を挙げずに説明を続けてきたが、この奇妙な県道があった現場は、山口県上関(かみのせき)町の中心部(町役場のすぐ隣)である。
そして地味に、当サイトが取り上げた道の西端をこのレポから更新する。
この上関という場所について、土地鑑のない初訪問の私がネットや本で集めた付け焼き刃の知識で解説をしても仕方がないので、極めて簡潔に紹介だけすると、上関は昭和44(1969)年に上関大橋で本土と道路で結ばれた長島という島にあり、古くは瀬戸内海における海上交通の要衝として、下関、中関(防府市)と共に栄えた歴史深い港町である。
私がこの場所を訪れたきっかけは、コレクションしている歴代の道路地図を眺めていて、冒頭で紹介したような描かれ方の変化に気づいたからである。
そして、令和元(2019)年12月に行った第2次瀬戸内海遠中に探索した。
それでは本編スタート。
2019/12/24 6:48 《現在地》
まだ日が昇るまで30分くらいあるが、さっそく自転車を漕ぎ進めております。
写真に写っているのは、冒頭の紹介にも名前が登場した上関大橋。渡っている海の名は上関海峡。
開通から半世紀のあいだ長島と本土の交流を支えてきた、県道23号光上関線の要である。
(潮風に耐えて頑張りすぎた結果、この探索翌年の11月に突如橋面に段差が生じ、5ヶ月近く復旧に要している)
ほんの数分前にこの約220mある海上橋を自転車で渡ってきた私は、生まれて初めて長島の土を踏んでいる。
こちらが長島で、橋の対岸が車を置いてきた本土側の室津半島だ。
ここから“問題の旧道区間”を目指して、県道23号を短い距離進んでいく。
ほぼ同じ位置から、進行方向である上関港および上関市街地を撮影した。
帆船時代には風待ちや潮待ちに最適な天然の良港として栄えた上関の海は、この朝も湖のように穏やかだった。
行く手にはどこへ出しても恥ずかしくない真っ当な2車線道路と、その素性を明かす“ヘキサ”の姿。
ヘキサの支柱がずいぶんと潮で焼けているので、たぶんこれは、“この先の県道が真っ当ではなかった時代”からあったヘキサっぽい。
いったいどんな道を背にしたヘキサだったのか。
地形図の表現通りの狭路県道の登場が期待されるところだ。
なんつっても、秋田からこれ目当てで来たんだからね!(さすがにこれオンリー目当てではないけれどw)
古く栄えた港町らしく、山を背にして小湾を囲う細長い平地には、立錐の余地もなく建物が並んでいた。
後年の埋め立てを感じさせる2車線の県道はその最も海側にあり、沿道の片側は商店や商いの名残を留める住宅によって占められ、もう片側には無数の漁船が係留された船着場が連なっている。
かつて大鑑巨船が多く繋がれた国内有数の港も、陸路の整備によって地方漁港へ落ちぶれはしたが、今でもこの港に発着する旅客航路があって、上関町を構成する長島以外の二つの有人離島と結ばれている。
6:51 《現在地》
そんな旅客船が接岸する小さなふ頭に面したこのY字交差点が、今回の主役である旧県道と現在の県道の分岐地点であった。
が、思いのほか旧道側の主張は少なかった。
旧道時代には、もしかしたら左折が県道であることを示す標識がここにあったりしただろうか。
残念ながらそれを確かめるには数年遅かったのだ。
これなら土地に不案内なドライバーが左折を迷うことは無さそうだ。普通に直進し、気付いた時には町道を辿っていたことだろう。繰り返しになるが、今はこの直進の道が県道に改められているので、混乱が生じる余地はない。
ただよく見ると、左折方向の案内板が存在し、かすれた文字で「古い町並」「上関町役場」という二つの行先を案内していた。
数年前までの県道は、これらを目指して進んだのである。
同交差点を海側から撮影した。
この奥へ延びる道が、数年前までの県道23号である。
期待通りというべきか、早速、とても狭い道……いわゆる路地……である。
そして、行先の背後には、市街地が背負っている小高い山並みが、結構な切迫感で盛り上がっている。
地図を見る限り、旧県道はほぼ直線ルートの最短距離で、あの山の上の方まで上っていたようだ。
かなりの急勾配が想定される地形といえる。
これより、旧道探索スタート!
左折して僅か20mほどで、すぐにまたY字路にぶつかる。
しかも今度は、左右どちらの道も同じくらい狭い路地である。
特に行先を案内する看板などもないので、初見だとどちらを選ぶか悩むと思う。
ただ、同じくらい狭い中で、右の道は奥まで見通せるため、心理的に選びやすいだろう。
9:53
だが、県道は左だった。
これは、本県道を辿る者が克服すべき、最初の試練だった。
事前情報無くこの交差点と向き合った10人のうち、おそらく9人は自然に右を選ぶだろうここで、左を選ばねばならない。
左の道は奥が見通せないので、ちゃんと抜けているのか不安になるのが普通だろう。
地理院地図では、「3〜5.5m幅の道路」として、通り抜けられるように描かれているが……。
地理院地図を信じ、左の道を選ぶことができた者の前には、次の光景が広がる。(↓)
どこから見ても、駐車場だ。
入口にかすれた文字で案内表示があった上関町役場の駐車場が、ここにある。
この駐車場の端っこの僅か2mほどの部分だけが県道だったなんて、普通は思うまい!
(だがよく見ると、駐車場部分とは舗装が区切られていて、そもそもの管理者が違うことが見て取れた…)
なんとか、(地理院地図への)信心を保って先へと進むと……(↓)
6:54
きっ キチーーー!
狭すぎる。
これは間違いなく地理院地図に描かれている道幅(3〜5.5m)よりも狭い。
1.5mくらいしかないと思うし、描くならば「軽車道」の記号相当であろう。
特段、道路標識などによる通行規制は見当らないが、完全に【自動車交通不能区間】道路の状況(道幅、カーブ、勾配など)によって最大積載量4トンの普通貨物自動車が通行できない区間に入った模様だ。しれっと逝きやがった。
だが、この直後、私を“さらなる驚き”が待ち受けていたのである……!(↓)
ちょ、ちょっと……
ま、マズくないですか、その位置…
6:55 《現在地》
電柱じゃま〜〜!!!
立てる場所、ここしかなかったのかよ〜〜〜!!
ここは交差する路地との十字路になっており、県道は直進する経路だった。
道なりと言えば聞こえは良いが、こちらの路地は電柱のお陰で完全に四輪自動車は通り抜けできない状況だ。
(道幅の比較対象物として、私の自転車を電柱と一緒に撮影している)
十字路側から、旧県道を振り返って撮影。
電柱だけじゃなく、カーブミラーまで“路上”に立ちはだかってやがった(笑)。
隣接家屋の庇を借りるような道であるが、今も間違いなく公道であるらしく、全国地価マップでも公道として表現されていることを確認した。
そして、このような入り組んだ路地の風景というのは、生活空間への自動車の導入が遅く、かつ居住スペース自体が圧倒的に限られている離島という環境においては、とても見慣れた風景である。私も離島巡りが趣味であるから、本当にそう思う。
少し人口が多い有人離島ならば必ずあるような、路地風景だ。
また、気づいた人もいるかと思うが、右手の民家の壁面に、ちゃんと時間の合っている公衆時計が設置されている。
これなども船が当然の交通手段であった時代からの伝統だろう。公衆時計も離島の路地ではよく見るアイテムだ。
この路地を真っ直ぐ抜けた突き当たりの海が定期船の乗り場だから、時計は今も役に立っているようだ。
長島が架橋によって本土と接続したのは昭和44(1969)年であり、この手の島の中では比較的に早い架橋といえるが、その出来事によって大量の自動車が雪崩れ込んでくる以前から連綿と受け継がれてきた歩行主体の生活道路であった県道が、どういうわけか、離島を脱し、便利な車道が別に整備されてからも、随分長らく県道の地位を維持していたものらしい。
同交差点を、交差する町道側から撮影した。
旧県道は町道より明らかに狭いが、これも良くあるパターンで、現在の海側の2車線道路が埋め立てによって整備される以前は、こちらの町道が集落を縦貫するメインストリートだったのではないかと思う。
実際、商店だけではないいろいろな施設が、この通りに面して軒を連ねている。
特に、この左のコンクリート製の建物は上関町役場の本庁舎である。
チェンジ後の画像は、私の立ち位置から左を向いたところにある、その玄関口の様子。
近年では稀に見るほど年季の入りまくった庁舎だった。
改めてここ数枚の写真を見返してみてほしいが、激狭旧県道の片側の壁は、町役場庁舎だったのである。
仮に、電柱の1本がその敷地から県道の路上へはみ出して設置されていたとしても、相手は天下の役場である。県道が負けて譲って然りであった……(これは妄想ね…笑)。
交差点から、旧県道の進行方向を撮影。
こちら側も軽トラ幅の激狭路地だが、それでも軽トラ幅の車なら通れる車道であり、コンクリート舗装の路面に積年の轍が見て取れる。
また、道はここから上り坂が目に見えるようになり、三方を山に囲まれた谷戸を登っていく形になる。
中心市街地を外れて、隣の集落への山越えに掛かる第一歩である。
ところで、この写真には工事現場特有の仮囲いのフェンスが映り込んでいる。
これを書いている2025年元旦の時点では、なんとここに、上関町役場の庁舎が新設移転しているのである。
私もレポートを書く前の事前調査で知って驚いたが、移転工事は2019年12月(=探索の月)に始まり、2022年3月に新庁舎での業務がスタートしたそうだ。
そしてこれが重要なのだが……(↓)
現在では、探索当時の庁舎は取り壊されて更地になり、その場所に、旧県道の路上に設置されていた電信柱が移設されていた。
おかげで、激狭だった路地もその気になれば軽トラくらいは通り抜けられる感じに見える。
これは皮肉と言って良いか分からないが、長い県道時代には車の通れなかった道が、町道に降格してすぐに、いくぶん改良されたことになる。
単に、庁舎移転との兼ね合いでそうなっただけだとは思うが……。
次回は、こんな路地からスタートです。
おたのしみにね!
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