道路レポート 山口県道23号光上関線旧道 上関狭区 中編

所在地 山口県上関町
探索日 2019.12.24
公開日 2025.01.03

 続・離島の名残りが色濃い旧県道をねっちりと愉しむ


2019/12/24 6:48 《現在地》

役場前の交差点といえば、その町や村の中で有数の交通量を誇るところとなるのが普通だろうが、この上関町にその常識はあたらない。
これが上関町役場と役場前交差点(右端のカーブミラーのところ)である。来た道を振り返って撮影した。
ここに集う4本の道は全てが狭く、うち1本は四輪車の通行が事実上不可能な状況にある。
そしてその四輪不能の道を含む2本が、本土と島を結ぶ県道で主要地方道の光上関線であった。


山口県光市の起点から約30km走って室津半島突端に架かる上関大橋で長島へ上陸した県道23号光上関線は、それから1kmほどで上関港に面する上関町役場前へ至る。それがここ。
そしてこの先の県道は、その名の通りとても細長い長島の島内を島の西端近くにある四代(しだい)の集落まで続いていた。この部分の距離が約10kmあった。うち900mほどが、今回の探索のテーマとなっている“旧県道”、数年前に県道から降格した区間である。

なお、主要地方道光上関線の認定は昭和51(1976)年であり、上関大橋が架けられた昭和44年当時は先代である一般県道四代平生線の時代だった。同県道の前にも四代柳井線という県道が存在した記録があり、遅くとも昭和35年時点では既に本土から長島へ渡り上関町役場前を通って四代へ至る県道が存在した。

上の地図の明るい部分が上関町の範囲だ。長島、祝島、八島という3つの有人離島に本土側の室津を合わせた4地域からなる。昭和33(1958)年に確定した町域だが、その際に本土側の室津村を離島側の上関村が編入して町制を施行している。逆のパターンはよく見るが、離島側への編入合併は珍しい。しかも当時はまだ架橋もされていなかったのである。それだけ長い繁栄の歴史を有する上関には“重み”があったということなのだと思う。

そんな町の政を中心で担う役割を果たしてきたのが、ごらんの役場庁舎であり、そこへ至る道として万人に利用されてきたのが、ごらんの旧県道であったわけだ。


そう思うと、たとえ外見はこのように貧弱な細道であったとしても、暮らしに根付いた力強さが感じられる気がする。
この道が長島における、そして上関町における、中心的な道であったという誇りが、感じられる。
そもそも、離島であった当時の徒歩中心である交通事情に照らせば、道幅を広くする必要は本土ほど大きくなかっただろうし、それよりも重視すべき大きな政治の仕事があったのだろう。例えば、見事に実現した上関大橋架橋のような。

ここが県道でなくなったのはほんの数年前のことであるが、その後に(前回最後に述べた通り)町役場の新設移転が完成している。
現在は、写真右側の仮囲いの場所に立派な役場庁舎が建っており、県道から町道になったこの道も写真奥の辺りまで拡幅がされている。まあそれでも普通車がギリギリ交差できるくらいの幅だが。
したがって、この写真やさっきの写真の風景は、もう見られない。


(旧)役場前交差点から100mほど進むと、密集した人家の隙間を微妙に曲がりくねりながら進む、急坂道になった。
そして、とにかく狭い!

ここまで特に通行規制の表示や車止めはなかったが、既に四輪車の通行は想定されていないものと思われる。
沿道に見られる車輌は、スクーターや自転車など二輪のものばかりだし、四輪車を収めるようなスペース自体が見当らない。
いちおう、地理院地図やSMD24のような各種地図だと1車線幅の道路として描かれているが、これは無理だろう。


でも、な〜〜んか、見えるんだよなぁ。

コンクリート路面の左右の端ギリッギリについた白い轍が…。

やはり、狭路最強である地元ドライバーの軽トラなんかが、入り込んでいたりするんだろうか…?
ただ道が狭いというだけならともかくも、路外のほとんどの空閑が何らかの“壁”になっていて、かつ尖った角が沢山あるという……、
車体感覚が自分の身体並に発達したプロでも無ければ速攻車体を擦りそうな激甚狭路なのであるが、轍の正体や如何に。

ところで、この写真の左側にある一軒分の土地は空地だが、その石造りである土台の一角に見慣れない構造があって目を引いた。


花崗岩ぽい堅牢な石組みの一部が、古代遺跡の入口を思わせるような開口部になっていたのである。
現在はブロック塀で閉塞させられているが、本来はどのような用途の開口部だったのだろうか。

この写真の背後には高い石壁の擁壁が見えているが、ここは既に海沿いの低地を離れて山上へと分け入る坂道の途上である。
全体に傾斜が多く、沿道にあっても同じ高さに建つ家は二つと無い。各家は別々の土台の上に構えられており、その土台の作りや素材も家毎に違っていて見飽きることがない。


地酒の看板を掲げた「神崎酒店」は、もう営業はしていないか。
それはそうと、ますます坂が急になっている。道の狭さと微妙なカーブで遠くは見通せない展開が続くが、先が見える度に坂が急になる。うっかり計測するのは忘れたが、この辺りで既に20%くらいはある感じだろう。県道かつ車道という条件下にあっては、なかなか稀な急勾配である。

そして相変わらず道幅も狭く、行き交う人とは常にガチ恋距離距離となる。
いわゆる都市ではないけれど、この地区の人口密度は都市並だろう。限られた土地での密住という離島型人口過密だ。
もっとも、上関町の人口の減少度合いは、鉱山の閉山関連を除くと全国ワーストクラス(40年で3分の1に減少)らしい。
私はこの道では誰ともすれ違わなかった。それでも路上とは思えないほど間近に生活の物音や炊事に匂いが感じられた。


神崎酒店の向かいに、「惣津ふれあい館」の看板を掲げた、いかにも公民館とわかるこの建物があった。

…………駐車場がある。

この駐車場に四輪車が収まったことがあるのかが気になる。
Google Earthで2014年、2017年、2021年、2022年、2024年のこの駐車場を覗いてみたが、車は停まっていなかった。
やはり少し厳しいか……。


また少しだけ進んで振り返った。
左奥の白いガードパイプが見えるところが「ふれあい館」だ。
背景の山の見え方や、空の広さから、結構登ってきたという感じが伝わると思う。
海岸から300m、役場前からだと200mほどしか離れていないが、これも急坂のお陰である。


7:04 《現在地》

役場前から約230mの地点で、丁字路にぶつかった。
電柱に海抜19.4mの表示がある。
まさに丁字路であり、どちらも道なりとは言えない感じだ。

だが、地理院地図もSMDも、縮尺の都合か、この丁字路は全く表現されていない。
そのかわり、ちょうどこの辺りで、1車線道路の記号が、徒歩道の記号に変わる。
なので、地図はどちらへ行けば良いのかは教えてくれない。
どちらかは旧県道で、どちらかはただの道であるはずだが……。



(←)六地蔵のいる激坂細道か?

なにもいない激坂細道か?(→)



さあ、どっち?



右だぁ〜〜!

これは実際に正解だったんだが、特に判断材料があったわけではないので、当てずっぽうの2択を成功させただけのことで特に盛り上がる展開ではない(笑)。

チェンジ後の画像は、振り返って撮影。
ほんの少し進んだだけなのに、既に丁字路の角に建つ家の1階屋根よりも高いのが地味にヤバイ。
この道幅と急勾配のコンボは県道としてとても味があり、県道だった時代に上手く“告知”をしていたら、全国の道路ファンを集められたかも知れない。
具体的方策としては、道路管理者がここに“ヘキサ”を1本立てるだけで良かった。そうすれば道路ファンの口コミから、在りし日の“登山道国道”や、今日の“階段国道”みたいになったかもしれん。(県道じゃダメ?)


地図上では徒歩道表記の区間へ入ったが、道の状況はこれまでと特に変わらない。
これは今までの地図表現が良すぎただけで、ずっと徒歩道表記という方が実態には近いと思う。
それでも車止めや規制や階段といった車両交通を拒否するアイテムはないから、二輪車は大手を振って走行可能だ。私の自転車も走行した。


おお! これは今まで見たことがないパターン。
路傍の石垣の一角に、井戸が埋設されていた。
中を覗くと、あまり深くはない井戸の底に透き通った水が溜まっており、縁に置かれたバケツが水場としての現役を物語っていた。


おおっ!!!

夏みかん色のガードレールが見えてきたぞッ!!

夏みかん色のガードレールと言えば山口県。これ、道路ファンにはよく知られている事実だと思う。
でも、なぜ山口県に“だけ”夏みかん色のガードレールが設置されているのかというワケも知ったら、ここでの私の興奮がより共感できると思う。
山口県に夏みかん色のガードレールがあるワケは、昭和38(1963)年に県内で国民体育大会が開催されたことを契機に、県は景観整備の一環として、県が管理する国道や県道に県特産の夏みかんをイメージした色のガードレールの設置を始めたためである。

ポイントは、県が管理する国道や県道に設置されたということ。
つまり、ここが国道や県道である/あったことを報せる証しと言って差し支えのないアイテムなのだ、夏みかん色のガードレールは。
他の都道府県よりも一つ多いんだよね、山口県での県管理道路の判断材料は。なかなか面白い。


再び振り返り……

うん、登ったなぁ〜 と実感。

地図で見る標高は依然として30mそこそこで、奥の海上に見える上関大橋の中間部よりも低いくらいだが、坂道を登ってきたという体験の密度の濃さは、十分過ぎる達成感を私に与えていた。

便利な道だけが良い道じゃないなんて、当サイト読者には疑う人はいないだろうけど、ところ変われば道変わる、離島という環境が生んだミニマルな県道の味わいだった。
訪れたのがほんの数年遅かったために、県道としての現役ではなくなってしまったけど、来て良かったと思える道だった。


夏みかん色の(経緯からしてオレンジ色と私は言わないぞ私は)ガードレールが守っている道幅の狭さよ(笑)。
でもここまでなんだかんだ言って、道幅の一線は死守している。
軽トラ幅という一線を。
実際に通った実績があるかは分からないけどね。

そして、このガードレールの出現が合図となって、【この角】から約400mにわたって続いた一連の激坂狭隘に一つの区切りが。(終わりとは言わない)


ガードレール越しの風景も、気づけば島のアタマ越しに。

これは南の方の眺めだが、近くに見える島は1.2km離れた無人島の横島、遠くに見える大きな島影は9km離れた八島で、定期船がゆく上関町の一部である。同じ方角に約40kmで瀬戸内海の果てとなる四国の佐田岬半島があるはずだが、全く見えない。瀬戸内海を(なぜか)広くないと思うのは、私のような土地鑑の浅い者にありがちな誤解である。



7:09 《現在地》

さあて、地理院地図にも描かれている1車線幅の道路に出た。

役場前からここまで約20分かかったが、これは私が道をねっちりと楽しんだからで、普通に歩けば5分くらいで辿り着けるだろう。

そして行く手は、ピンボール台の盤面みたいに傾斜した路面が無造作な感じで三手に分れているが、いったいどれが旧県道だったんだ?







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