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2023/6/5 14:13 《現在地》
相対した。
約20年も前の誌面以来ぶりの遭遇となる、金山隧道旧道最大の崩壊現場。
印象として、やはり誌面の光景以上に崩れているように思ったし、また当時から継続して崩れ続けていることも、崩壊斜面がほとんど地山化&緑化していないことから窺い知れた。
この崩壊が未だ危険度を失っていないことは一目瞭然であった!!
瓦礫の状態や傾斜の具合を足先で軽く確かめた後、意を決し突入!
目測だが幅100mを優に超える規模を持った崖錐斜面である。
見た目は派手だが、その突破の難しさは斜面の形質次第であり、実際に相対するまで判断は出来ないと思っていた。
そしていま、実地でその判断を下す、最も重要な局面にあたっている。
観察の結果、この斜面を構成している瓦礫は、砂利と砂の中間のいわゆる礫と呼ばれるサイズ感のものであり、かつ均質的だ。
礫の安息角(自然に作られる斜面の角度)は45度とされているが、ここも明らかに45度に近い数字になっている。
そして、オブローダー的な技術の話になるが、この手の礫斜面は締まっていない方が遙かに与しやすい。
締まっていないと斜面に足が良く埋まるので、逆にグリップして滑り落ちにくいのである。一見崩れまくるので危なそうに見えて実は安全だ。
一方、良く締まっているとグリップがなく危険である。一気に滑り落ちるリスクがある。
この斜面は、やや締まっていると感じる。
表面以外は水気を含んでいて、そのせいもあるのだろうが、グリップがあまり良くない。
だが、そこで救いになるのが、どこを渡るべきか悩ましい程均質で広大な斜面に撫でつけられた一筋のタイトロープ的ケモノ道の存在である。
はっきりとした歩道と言えるほど平坦ではないが、小さな足がかりでもあるとないとでは段違いである。
オブローダーに手を貸してくれる名も無きケモノさんたちに感謝だ!
この斜面で一番の怖さを作っているのが、路肩の下に切れ落ちている垂直の擁壁と、底知れない水面の存在だ。
まあ、現実的には尖った岩敷きの河原に落ちるよりも生存確率は高いかもしれないが、動きのない水面は不気味だ。
そして実際に歩き進めていくと、足元から零れた礫が次々に水面へ落ちる音を聞くのであった。
カラカラカラ……(間)……しゅぽぽぽぽぽぽぽ…………(静寂)。
なお、敢えてこういう“客観視の現在地”は知らない方が、怖くなくて良いと思う。
路肩から転げ落ちたらどうなるのか、このアングルからだとよく分かるだろう?(苦笑)。
現役当時の道幅が何メートルあったのか正確な所は知らないが、最低限の単線線路の幅のままであったとしたら3.5mくらいだろうか。
僅かそれだけの幅の所に、もう絶対これ以上は積み上げられないという量の土砂が積み上がって、綺麗な安息角の斜面を作り出している。
なので、今から墜落してきた瓦礫は、ほとんどがそのまま川まで落ちていると思う。ある意味、これ以上は壊れることがないという終着状態で安定している。
また、現状この場所の川の流れが常に一定水位の湖面であることで、浸食による状況の変化も回避されている。
道があった場所は全て崖錐斜面になっているが、その上部はご覧のように恐ろしく切り立った露岩である。
川の流れと風雪により悠久の時を使って磨かれた、神々しささえ感じるこの磐座の元に、初めて雄々しくツルハシを叩きつけたのが、北海道開拓の使命を帯びた鉄路であった。
その実際の工事にあたった者達の苦闘は想像に余りある。
【人跡未踏に限りなく近い世界】
に、当時の世界最先端の分明利器である鉄道を、重機にも機械力にも頼らぬ手仕事で持ち込んだのだ。人が細々行き交う道を通すのとは訳が違う難事であろう。
しかし、彼らの健闘は報われて、鉄道としてまず30年間北海道の黎明を切り開いた後は、さらに道路として36年間活躍した。
「こんな場所によくぞ」という感想は、廃道探索においては珍しくもないが、いやはや、ここは活躍の度合いの大きさも踏まえれば、その極地の一つと言えよう。
危険だが、訪れて良かったと思う。
14:15
バカでっけ〜足跡だぁ〜〜!!
完全に、ヒグマさんの足跡である。
それも、この鮮明さは最後の雨よりも後のものだろう。ってか、今しがたでもおかしくない。
いやぁ、ケモノ道なんだからケモノは誰でも通るんだろうけど、こんな所でヒグマと鉢合わせたら嫌だなぁ…。
核心部通過中に撮影した全天球写真。
空を映して静かに留まる空知川に、ときおり僅かな波紋を立たせながら、私の孤独で真剣な時間が流れていった。
このときも私はそのへんで拾った木の枝を借りて、二足歩行の不安定を補助している。これも危険斜面トラバースの常套手段である。
市販のストックなども使うことはあるが、廃道ではいざとなったら気兼ねなく投げ捨てられる木の棒の方が、難所に集中できるので好みだ。
14:17
斜面に突入して約5分経過。
崩壊地の主要な部分を突破した。
大きな足跡にはビックリしたが、ケモノ道はほんとありがたかった。
もし鉢合わせになったら、彼らとも譲り合えると信じているよ。
進行方向の風景と、(チェンジ後の画像)振り返った風景と。
崖錐斜面が小さくなり、樹木が路上に現われだした。
崩壊の頻度が少なくなっている証拠だ。
最大の難所を突破できたに違いないが、また余談は許さない。肝心の金山隧道が現われていない。
もしそいつが通り抜けられなかったりすると、引き返す羽目になる可能性が残っている。
前方に現われてくる風景にこれまで以上に注視しながら、残りの瓦礫斜面を慎重に進んだ。
14:18
お気づきか〜? もう見えてるぞ〜〜!!!
枝葉の影に、黒い穴が。
っしゃぁあー! 貫通!!!
明治生まれの金山隧道、未だ健在を確認!!
14:19 《現在地》
上流側から旧道を辿ってきた場合、最大の難所を乗り越えると同時に、区間内唯一の隧道である金山隧道が待ち受けている。
距離的には上流側から約600mの地点であり、下流側は残り400mであるので、隧道が見たいだけなら下流側から来る方が楽であろう。
金山隧道は、写真からも分かるように、入る前から間近にある出口を見通せるような短さが大きな特徴といえる隧道で、前説でも紹介した『大鑑』のデータによれば、全長は僅か17mに過ぎない。
道路トンネルとして見ても相当に短いが、官設の鉄道トンネルとしてはより特筆レベルの短さだったと思う。
これは通常なら切り通しになる短さであるが、川に突出した堅牢かつ高峻な岩脈を貫いているため、この長さでも隧道以外の選択肢はなかったと思われる。
短さだけではない金山隧道の大きな特徴として、坑門が存在しない珍しい構造も挙げられる。
通常は坑口に坑門があり、地山を抑える役割の他、文字通りトンネルの入口をなす門として、扁額を掲げるなど、意匠的に大きな特色を有するものとなるが、この隧道には坑門が無く、坑道を巻き立てる煉瓦の断面が直接地表へ現われている。扁額も見られない。
これもかなり珍しい構造といえるもので、『鉄道廃線跡を歩く』の当該レポートにおける金山隧道の解説文は「坑門部分のない珍しいトンネル」という一行であるし、鉄道構造物解説のバイブルとして私が愛読する小野田滋氏の『鉄道構造物探見』にも、鉄道トンネルの珍しい坑門の例として本隧道が写真付きで示され、「坑門自体がない例で、固い岩盤に掘削されたトンネルなどでごく稀に存在する」と、希少性を紹介している。
この隧道が貫く地山は長期間の浸食に耐えて川へ突出していることから、きわめて堅牢な岩体であることが窺えるが、そのため建設当初においても、わざわざ坑門を設置して地山を抑える必要はないと判断されて、工期工費の面からも不必要な工事が避けられたのだと思う。
そしてこの明治の北海道官設鉄道の建設に携わった技術者たちの判断は――
見事に大的中!
竣功の年から数えて探索時点で実に133年、最後に使われていた道路としての廃止からだけでも54年の年月が経過しているにもかかわらず(この間は全くの無手入れだろう)、ご覧のように隧道内部にはひび一つなく、完璧な煉瓦の美壁を保っている!!
たった17mとはいえ、ここまで完全な煉瓦トンネルは、廃隧道としては奇跡的である。
これは必要最小限の工事で完璧な隧道を完成させる仕事が果たされている例だと思う。技術者たちに最大限の賛美を送りたい。
シェルターのようにあらゆる破壊から守られた隧道の内部を目前に、もう一度だけ来た道を振り返る。
そこにあるのは、同じ道として同じ経過を共有したとは信じられないほどに壊れ果てた道の姿。
無事に通り抜けられた幸運に一礼をしてから、入洞した。
短い洞内は、入洞して最初に本来の洞床に足を降ろした時点で、全長の半分近くを終えていた。
写真は、半ば以上まで崩落した土砂に埋れている入洞側の坑口を振り返って。
崩れているのは全部外界由来で、内壁には亀裂一つない。
そしてこれが進行方向、出口側の風景だ。
こちら側は一転して、穏やか……かはまだ分からないが、緑陰の元に口を開けているようだ。
洞床には靴が埋まる深さで乾いた落葉が堆積しており、最後まで未舗装であったという洞床は全く見えない。
繰り返すが、この隧道はもともと鉄道用で、明治33年から昭和5年まで根室本線の一部を構成していた。
昭和5年の時点では、道央と根室あるいは帯広・釧路といった道東の主要都市を結ぶ最短かつ最重要の鉄道線路であり、その輸送量や運行頻度は私が探索当日に目にした“風前の灯火”としての同鉄道とは別格であったと思われるから、爆走する蒸気機関車の煤煙による内壁の汚れが強く残っていることを想像したが、実際は不思議と綺麗な壁であった。
その理由として、道路化してから長い年月を経ているというのはもちろんあるだろうが、おそらく隧道自体が短すぎて、煤煙が籠もって壁に付着すること自体少なかったのではないかと想像している。
14:21
立地といい、外見といい、歴史といい、とても私好みの隧道だが、如何せん短く、その短さも魅力ではあるけれど、時間をかけて鑑賞する余地はさすがに少ない。
1分ほどで簡単に通り過ぎてしまい、早くも下流側の坑口から振り返り見る風景をお届けしている。
やはり、坑門を持たないシンプルな坑道のみの坑口であった。
隧道抜きでは絶対に迂回の出来ない地形であることが、よくよく分かる景色でもある。
再三再四述べているように、昭和8年から昭和44年までは道路トンネルとして使われた。
だが、道路トンネルとして使うための特別の改修や改造が行われた形跡はない。
単線鉄道トンネルの断面のままに、国道237号の一部として利用されていたようである。
道路標識や一般の交通があった名残……例えば轍や空き缶などのゴミも見られなかったのである。
私が生まれるより前に道路としても廃止されていたのであるから、道路として現役風景を想像することは、むしろ鉄道時代以上に手掛りが少なく難しい。
車が行き違える待避所がそこここにあったようにも見えないし…。
現在の北海道の国道はどこも素晴らしい出来だが、昔はこんな鉄道のお古もおフル、落石多発で放棄したような跡地を転用するしかないほどに細々とやっていたのかと思う。鉄道との力関係が今とはまるで逆さまだ。