切ヶ久保新道 第1回

所在地 群馬県みなかみ町〜高山村 
公開日 2007.12.14
探索日 2007.11.28

 100年昔の道を探す難しさ 

 みなかみ町布施河原より、出発


2007/11/28 12:14 

 チャリをデポした私は、車を駆って山を下り、県道36号の赤根峠を越え、さらに国道17号に移って西へと進む。そして、切ヶ久保峠の北口である赤谷川沿いの布施地区へ。
付近の適当な駐車場に車を止め、装備を整え、早速出発。
すぐに、国道17号(新三国街道)から「切ヶ久保新道」が分かれる、布施河原交差点に着いた。



 T字の交差点から「切ヶ久保新道」へ入る。
ここが海抜440mで、峠までは高低差が約360m。地図上で計算される距離は約3kmである。
順調に歩ければ、1〜2時間で峠に立つことが出来るだろうという読み。

 しかし、ただそこにある道を辿って峠に立てば満足というのではない。
やはり、明治の人々が切り開いた、その当時の道を出来るだけ辿りたいものである。



 この図は、「内務省地理調査所」が発行した5万分の1地形図「四萬」の昭和4年版の一部である。

切ヶ久保新道が国道はおろか、県道でさえ無くなってしまって久しい時分のもので、青ハイライトで示した切ヶ久保新道は町村道として描かれている。(さらに詳しく見ると、「町村道(聯路)」かつ「荷車ヲ通ゼザル部」を示す記号だ)
図中を東西に横切る太い道は、県道「沼田六日町線」となっていた当時の新三国街道である。(昭和9年に国道となった)

 当時と現在とで、切ヶ久保新道の起点である交差点の位置は変わっていないようだが、そこから峠道へ入っていく途中の沢久保および上原地区では、一部現在の地形図にない道を通っていたようで、これは出来るだけ忠実に辿りたい私の頭を悩ませた。

 続いて、現在の地形図をご覧頂こう。



 上の地図と見比べて欲しい。

一見、新旧の道はそれほど変わっていないように見えるが、細部を見るとそうでもない。(画像にカーソルを合わせてみてください)
特に、集落内の道は結構形が変わっているようだし、上原地区から図中に「A」と示した地点までは、道の表記が完全に途絶えている。

 現在地から「A」地点までは、本格的な峠へのアタックを開始する前の、言わば前哨戦。或いはアプローチである。
はじめ、時間もないことだし、林道上にあるA地点から探索を開始することも検討したのだが、やはり峠越えの醍醐味は、峠の前後の集落を結んで歩く事にある。
そう思い直して、国道上を起点にとったのであった。
しかしこの拘りが、予想以上の困難を私に課すのだった。

 ともかく、右の地図に旧地形図から拾った道を書き加えた、手製の「攻略MAP」を片手に、踏査開始!





12:18

 現在は町道になっている最序盤の切ヶ久保新道は、1車線の舗装路である。
左手に用水路のようにコンクリートで固められた沢を従え、結構な勾配で真っ直ぐ沢久保、上原集落へと登っていく。
探索時に、こうやって舗装路を歩くというのは、自分にとっては珍しい事であり、なんだか落ち着かない感じがする。
チャリだと、もっと、こう、肌で勾配を感じるというか…道を味わえるというか…  って、それは可笑しいなと、一人ほくそ笑んだりした。

 間もなく、坂道を見下ろすような、一柱のお地蔵さまに出会う。
それは仲睦まじい双体道祖神で、この地方ではよく見られるものだが、移設でない限り、ここが古くからの道であったことを教えている。



 起点から約200m、海抜460mの地点で、現在の地形図には記載のない道へ左折する。
古い地形図は5万分の1なので、細かな部分は結構粗いものだ。はっきり言って、歩くには物足りない縮尺である。
しかし、こうして現在の地図に当てはめて見て、ぴったりと思われる位置に分岐があった。

 まだ序盤も序盤だが、なんだか早速お宝を発見したみたいで、嬉しかった。



 左折するとまず、民家の裏山的な斜面をかなりの急坂で登っていく。
その急坂ゆえ、簡易な舗装がされている。
50mほどで登り詰めると未舗装になり、傍らに古ぼけた墓場があった。

 切ヶ久保新道は、幅9尺を目安に造られたという。
すなわち、約2.7m。
狭めの林道なんかにありがちな幅だ。



 さらに進むと、真っ正面に整地されたあとの急斜面が現れ、道はそこを避けて左に向かっていた。
周りは赤谷川の河谷を見下ろす桑畑だ。

 正直、ここはよく分からない。
本来の道は真っ直ぐ斜面を突っ切って進んでいた様にも思われるし、しかしそれは古地形図ゆえの“ゆらぎ”であって、元もと道は左に迂回してから登っていたのかも知れない。
分からなかったが、私はともかく真っ正面の斜面によじ登ってみた。

 …そうすれば、少なくとも一つ、得られるものがありそうだった。



 この眺めが、得られる!

 写真は、高台の縁に立って振り返って撮影。
眼下を横切る幅の広い谷が利根川支流の赤谷川で、真っ正面の上越国境線から流れ出ている。
里に木枯らしの吹き付けるこの日、国境の峯々はとうに白装を終えていた。

 かつて、同じ時期に切ヶ久保峠から下ってきた旅人達も、これと同じ眺めを見たに違いない。
あの真っ白い三国峠は、厳冬期こそ通行が止められていたが、多少の雪でも人は越えていった。
彼らは、どんな気持ちで、この景色を見遣ったものだろうか。

 三国街道は日本列島の最も分厚い部分を横断する道であっただけに、その過程で越えねばならぬ峠の数も半端ではなかったのだ。
南から、中山峠、切ヶ久保峠、いまはここ。…そして、三国峠、火打峠、二居峠、芝原峠、栃原峠…、日本海沿いの寺泊に達するまで、まだまだ果てなく長い。




 布施上原 旧道捜索


12:12

 段の上に登ると、そこは思ったよりも広い田圃になっていた。
そして、その先には山裾をなぞるように地形図にも載っている車道が横切る。
その車道を行けば容易に上原集落へ着けそうだが、旧地形図を信じるなら、この真っ正面の斜面に道が付けられていたはずなのだ。
「おかしいな」とは思いながらも、私は舗装路を横断し、真っ正面の斜面に取り付いた。




 やっぱり、「おかしい」のである。

大昔の赤谷川の河岸段丘崖である急斜面は、そこに真っ直ぐ道を付けられるような勾配ではない。
ギザギザに刻めば或いはあり得るが、植林地に変わった林にその気配はない。
いや、おそらくここは旧地形図の誤りではなかったか。
どうにも、道を作るような感じの場所ではない。

 それに、苦労して数十メートル登った先にも、やはり道らしいものが無く、民家の庭先に出てしまった。
とりあえず少し迷ったので、まずは地形図に載っている道へ出てリカバリを図った。




12:29

 というわけで、地図にある道へと復帰。
ここから、“環”の形をした上原集落道をしばらく登って、入口を間違えずに峠へ取り付かねばならない。
現在地は海抜510mの、現在の河床から数えて第二位の河岸段丘上だ。
数百万年前には、この辺りが河床だったのだろう。

 ここまで来ると、いよいよ高山村で「北山」と呼んでいる山嶺が、険しさを増してそそり立って見えてくる。
こちら側の旧新治村では、この同じ山々を「南山」と呼んでいた。
こういった名前の齟齬は、この山並みが土地を完全に隔てるような険しいものであった顕れととれる。




 さらに進んでいくと、現在の舗装路に面して墓場がある。
そしてよく見ると、この墓場の中を突っ切るようにして、低い石垣で片側を画された幅2mそこそこの道が、バナナカーブを描いている。
確固たる証拠があるでもないが、経験上、これが旧道なのだと思う。



 そして、間もなく道は二手に分かれる。
これは現在の地形図にも載っている分岐点だ。
左へ進路をとる。



 上原の集落には少しも平坦な土地はない。
全体が山腹の傾斜の上にあり、下手を段丘崖に、上手を険しい北山の山壁に塞がれている。
立地的には、決して楽な暮らしが出来そうな土地とは思えない。
それでも、切ヶ久保新道が明治7年に開通し、それから盛んに利用された時期には、宿とまではいかなかったが、峠の登り口・降り口にあたるから自然と栄えたそうだ。

 現在地は標高540m。
切ヶ久保峠は海抜830m。この彼我の距離は、直線に均せば2kmに満たない。
故に、その稜線は集落にむかって切れ落ちるように険しい。その一部では岩場が露出してさえいる。
高山村で眺めた景色とは、山の険しさが全然違う。同じ峠の表裏とは思えぬほど。

 ぞ、 ゾクゾクする。



 村の栄えた名残か、現在でもそこかしこに「馬頭観世音」と彫られた石碑を見ることが出来る。
石碑を拵えるには当然、石工に依頼して仕事をさせるだけの財力が必要だった。

 私は道すがらにこういった石碑を見つけるたび、「ああ、これで間違ってないんだな」と安心した。




 時には道を誤ることだってある。


12:35

 これより皆様には、自分としても珍しい、「手痛い失敗」を見ていただくことになる。
「切ヶ久保新道だけ見せてくれればいい」という方は、ここから次回に飛んで下さい。正規ルート上である右図中の「A」地点から始まります。

 このミスの原因は、地形図を読み誤ったために、実際の現在地と脳内の現在地とが進むほどに乖離してしまった事による。
まあ、山歩きとしては起こりがちなミスではあるのだが、こと「廃道あるき」に関してはあまりこういう事は多くない。
一連の廃道を辿るとき、そこには共通したムードのようなものがあるし、まして山中ならば、道の数自体が多くないから、迷うことは珍しいのだ。

 右の図を見て欲しい。
なぜミスが起きたのか。その最初の“勘違い”は、地図にないピンクの破線で示した道が出来ており、舗装路を辿っていった結果、知らずその道へ分け入ったことだった。この時点では、脳内の現在地と実際の現在地とはほんの30mほどしか離れておらず、振り向けば見つけられる程度だったわけだが、時間に余裕がなかったことと、慣れない徒歩であったため、周囲を隈無く観察する手間を惜しんでしまった愚

 この、ごく小さな勘違いが、これからどのように、歪んだ果実を育んでいくのかを、ご覧頂こう。
山を歩く人にとって「あるあるー」となれば、幸い?である。



 地形図にない道であるが、私はその30mほど東側に描かれている道にいると疑っていなかった。

 とすると、広域農道を渡ってすぐの辺りで、道をさらに東に外れて「A」地点へと緩斜面を進まねばならないという頭があった。
だが、いくら地図に描かれていないとはいえ、何かしら分岐の痕跡はあるだろう。まずはそれを見つけたい。

 しかし、私が勘違いで歩いていた道は、それらしい分岐もないまま広域農道から100mほど進んで、そのまま工事資材置き場で行き止まった。
この時点で、「何か違う」とは思ったので、取りあえず畦道を縫って東へと進路をとったのだった。
本来ならば、地図と異なる道へ入っていたことに気付いた以上、一旦引き返して然るべきだったのだ。



 そのまま進んでしまった私だが、悪いことに、間もなく“おあつらえ向き”な分岐を見つけてしまったのだ…。
廃墟と化した養鶏場の脇に、いかにもうら寂れた道が分かれていた。
「得たり!」と思い、迷わず左に進んだことは言うまでもない。

 この段階でも、まだ正規ルートに対し200mも離れてはいなかった。
これといった特徴的なもののない傾斜地を歩く中で、この程度の誤差を気付けなかったことは無理もない。
私の中でも、「ミスが起きそうだな」という悪寒は、最初に地図を見た時点からあったのだ。何か、大きな沢とか峰に沿って歩くような道ならば、何も問題はなかったのだが…。
そう言う場所だからこそ、もっと慎重に入口を検証すべきだったというのは、大きな反省点だ。
結局のところ、まだ当分のあいだ、このミスに気付けなかった…。



 ちなみに、これが正しい分岐地点であった。

図らずも、私がミスった分岐の景色とは異様に似ている。
ここからA地点までの道も、大変に似ていた(笑)

地図に無い道と有る道とが混在する中を歩くというのは、かくも難しいものなのだ。(←イイワケ)




 左手に浅い、殆ど水の流れていない沢を見ながら、杉林の中を暫し登る。
昔は軽トラくらいは通っていた感じがあるが、現在では浅い藪になっている。


 さらに進むと、桑畑が現れた。

近年は育つに任せられているらしく、奇妙にねじれた枝が絡まり合うように伸びている。

私はどうにもこの桑の木が苦手だ。
何となく枝振りが気持ちが悪い。まして、このような人里から外れた場所に忘れられたような林を見つけてしまったとなれば…。





 道まちがいの末路…


12:50

 歩くこと暫し。500mほどで舗装された林道に突き当たった。

実際には右の図の通り、いよいよ救われぬ所まで外れてしまっていたのだが、それでも気付けない。

GPSでもあれば、ここで気付けたかも知れないが…高額だし、壊しそうなので持ち歩いていない。



 愚かな私は、林道合流地点の傍には「A」地点、すなわち、峠への登り口が有るはずだと、探した。
正直、ここまでの道が少し違っているかも知れないというのは、うすうす感じていたのだが、まさかこんなに大きく外れているとは…思考の外だった。

 そして、なぜかこう言うときに限って見つけてしまう。
如何にも“それっぽい”登り口… 「A’」を……。
地形図で見るのとは明らかに“道の繋がり方”が違うのだが、「まあ廃道だし」などと適当に見繕ってしまった。

 嗚呼哀れ! ヨッキよどこへ行く!



 この辺りで、私の気持ちは揺れていた。
一つ二つは、地図と違うことがあっても不思議はない。
しかし、よく考えてみると、広域農道を渡って以来、何もかも微妙に違和感がある。
確かに「左へ入って」進んだし、「林道に突き当たった」し、その辺は間違いないのだが、どうにも…。

 かといって、これが正しいかそうでないかを確かめる術が、俄には無いのだ。
行くところまで行って見るより無い。引き返すにしても、もしこれが正しい道だったとしたら余りに無意味。

 路傍で、何か言いたそうにしている巨石にむかって見ても、当然答えは返ってこない。
行けば行ほど、不安は増していくのだった。



 松が目立つ雑木林に、4WD車の付けた豪快な轍を頼りにした道が続く。
扇状地状の地形になっているようで、進むほど勾配が増し、谷も狭まっていく。
私は、進むこと以外にどうすることも出来ず、焦りからか、少し小走りで進んだ。

 200mほど進むと、頼みの綱である地図付きの看板が現れてくれた。

が、

 分からない…。地図は縮尺が大きすぎるし、等高線も描かれていないと言うことで、正しいのか誤りなのかは分からない…。
ただ、先ほど横切った林道の名前が南面林道ということが分かったくらいだ。



 国有林にはいると、途端に杉の植林地へ変わる。
気持ちは余計に滅入ってくる。
なんか、本格的に間違っている感じがしてきた。
辺りの地形も、道の形も、何もかも…。
しかし、それでも引き返す根拠とはならない。弱すぎる。

 ん?

林のそこら中に転がる巨石の裏に、何かぴょこんと飛び出たものが…。



 観音さま〜。

一度はここで私は力を得たのだった。
やっぱり、道は間違っていなかったのだと。
でも、石仏は有っても、それでも間違いは間違いだった(涙)

ちなみに、刻まれた年号は天明…。
やはり大岩の上に置かれていて、またお顔の上にぴょこんとネコミミならぬ、ロバの耳のようなものが出ているという、可愛らしい姿。
きっと、ロバじゃなく、馬なんだろうな。
昔はここを、馬を使って木材を運んだ炭焼きであるとか、木挽きの人たちが通ったのだろう。



 地蔵は見つけたが、しかしその後に続かない。
途中にあった看板に「トラクタ道」と書かれていたこの道は、殆ど沢底を這うような道に変わり、如何にも作業路の雰囲気となったのだ。
さらに、自分がとんでもなく間違った位置を歩いていると気付く決定的な景色が現れた。

 鉄塔である。

 頭上に現れた高圧電線。
道は、その下を斜めに通過しているが、手にした地形図は教えている。
切ヶ久保新道は、おそらく高圧電線と交差しないと…。

 足元には、鉄塔の巡視路を示す標柱が、幾つも現れた。



 もう九分九厘間違っていると分かったが、それでも即座に引き返せなかった。

なにか、諦められる決定的な景色が欲しかったのだろう。

途中、大きな大きな炭焼きの竃の跡があった。
まるで古墳の如しである。

道は、「チョウベイ沢」と看板に書かれていた沢を離れ、人が歩くだけの路幅に変わった。そして、進路を二転三転させながら、手近な尾根の上を目指し始めた。
峠とは、方向が逆である…  もう、 いいですか?(涙)





13:22 鉄塔のある尾根で、終了…

 結局、道が潰える最後まで行きましたとも。
半ば駆け上るようにして、鉄塔の建つ見晴らしのすこぶる良い尾根の上まで。
あとになってから地図を精査したところ、どうやら右上の図で示した地点まで登っていたことが分かった。
海抜700mに達していた。峠までの、3分の2までも登っていたのだ。少なくとも高度だけならば。
しかし、せっかく得た高度も、全くの無意味だった。
現在地から山腹を伝っての正規ルートへのリカバリは、不可能だと判断した。
複雑に入り組んだ尾根や沢が、彼我の間には横たわっていたからだ。

 ここで私は悩んだ。心底悩んだ。
今日はもう諦めて帰ろうか。
それとも、今から林道まで戻って、正規ルートへのリカバリ、そして峠を目指すか。
そうしたいのは山々だけど、日没まで残された時間は3時間。余りに冒険に過ぎるのではないか…。
今日は山中泊の準備もないし、夜半には相当に気温も下がるだろう。

 しかし、峠さえ越えられれば、すぐ先にチャリは待っている。
地形図に道が描かれていないとは言っても、等高線は非常になだらかだし、峠からチャリのデポ地まで500mもない。
それに、もしそれが無理そうなら、途中でも引き返せばいいことだ。
麓には車が待っているじゃないか。

 よし! GO!
まずは林道に戻るぞ!




 思いがけず苦戦した序盤戦。

殆どグダグダだったが、次回はようやく芯の据わった“正しき道”に!


 そして、出会う。

期待以上の、明治道に!!