切ヶ久保新道 第4回

所在地 群馬県みなかみ町〜高山村 
公開日 2007.12.19
探索日 2007.11.28

 予兆 

 松の尾根


2007/11/28 14:19 

 麓から長く付き合った沢を渡り、やはり長い付き合いの尾根(地形図で点線道の付けられた尾根)に接近する。
ここは、海抜650m以上では最も等高線の間隔が広く描かれている一帯で、確かにこれまでと較べればかなり緩やかな印象だ。

 峠に近づいて勾配が緩まるのは結構なことだが、この峠では嵐の前の静けさに過ぎない。
いわば、最後の難所である「北壁」(左図中の黄色いハイライト部分)に挑む前の、脚安めの場である。

 不鮮明だが、ここで一本の道が左下方からぶつかってきたように思う。(写真内のピンクのライン)


 この桃色のラインが地形図に描かれた点線道。すなわち尾根上の古道であるかもしれない。
少し地形図ともずれているが、可能性はある。
実際に辿って確かめてみたわけではないので、断定できないが。

左の写真は、交差地点を振り返ったものだ。
ピンクの道はいかにも急で、少なくとも切ヶ久保新道とは違うものだろう。
無視して前進する。




 沢の手前あたりから見えていた一本松の巨木。
その下へ辿り着いたと思ったのも束の間、実はそうではなく、前に見た尾根の上の松はもう少し先だった。
ここに来て、さらに100mほど先の尾根上に、何本もの松がヒョロヒョロと背を伸ばしているのが見えたのだ。
地形的に考えて、前に見たものはそのうちの一本に違いない。



 そしてなぜか、この大松の根元には、ボロボロに朽ちた別の太い幹が、ひとかたまり置かれていた。
自然に倒れ伏した残骸なのではなくて、明らかに、“置かれた”ものだ。
切断面は人工的な形をしているし、これだけ太い幹であるにもかかわらず、近くにはその”残り”のようなものが見あたらない。
持ち出されたかして、処分されたようなのだ。

 ここまで、杉林が所々にある他は、人の介在を感じさせるものが少なかっただけに、そのような人工林を抜け出た先で見つけたこの太い切り株は、余計不思議に感じられた。それが、あまり木材として伐採されることの多くない松であることも、謎。




 いったいいつ、誰がこの松を切り倒し、そして、その一部を道の端に残していったのか。
人が腰掛けて一休みするには、ちょうど良いくらいのものである…。


    ……  まさかね。


 …ひとりで深い山に入ると、いろいろ、普段だったら考えないような想像をすることがある。

それは例えば、“天狗”のことであったり、“山爺”のような妖怪のことであったり。
街にいるとき、あるいは仲間と山に入ったときには、そんなことはまず考えない。

 きっと、こういう思考の“あそび”というのは、環境が押し付けてくる寂しさを紛らわせるため、人に予めインプットされた思考パターンなのではないか。
昔から、旅人が作った“妖怪話”は非常に数多い。



 路上にこんな凹みが現れた。

…1m四方。
深さ20chほど。
ついさっきまで、泥をこねくり回していたような痕がある。
そして、その泥には、幾つもの“指”の痕が残っている。

おそらく、これはイノシシが“ぬたうった”跡だと思う。
イノシシの数が多い伊豆の山に入ったときには、これと同じものを多く見かけた。




 しかし、

もし私がイノシシのそんな習性を全く知らなければ…、この如何にも生々しい痕を見て、こんな想像をしたかも知れない。

 「山奥に、子供が土遊びをしたような痕があった」

 「妖怪だ」 「狸が…」 「天狗のしわざ…」 


 このとき遂に、陽が隣の尾根に落ちた。
ほぼ同時に風が吹き始めた。
いまだ夕陽を満面に浴びて、上半分の雪山が茜色に染まった遠くの山脈の向こうから、吹き抜けてくる北の風。
雲さえも、震えているようだった。

 ここまで、ワクワクどきどき。その気持ちだけでグイグイと登ってきた私に突きつけられた、夕暮れの予兆。
時計を見れば、まだ2時24分。 ホッとした。
ホッとしたが、あと1時間少々も経てば本当の夕暮れ。のんびりしてもいられないのだ。





 ゆめまぼろしに思いを馳せるのは楽しいが、今はまず峠越えだ。

前を見据えて再び歩き始めた私に、これまでで最も深い藪が立ちはだかった。
細い木の藪が、尾根の上に向かって続く道を覆っている。

しかし、そのブラインドの向こう側には、先ほど尾根の上に見えた松の大木が、空に大きな樹幹を翻していた。
それを目指して歩けば事足りた。





 大松では収まらない、これはキョ松だ。

幹周り2mはあるだろう、巨大な松の木。

道一本分の幅しかない尾根の上を塞ぐように、太く鱗のある根を盛り上げている。
その幹は途中で二つに分かれ、周りに他に大きな木がないのを良いことに、高く高く伸びている。
故に、地表が山の陰に入った今も、淡い陽光を浴び続けていた。





 14:24 尾根上の大松に到着。

周囲は細かい枝が檻のように張り巡らされており、地形的には絶景が望めるものの、実際にはそれほど優れない。
特に、定点からカメラで写そうとしても、ご覧のとおり邪魔が多い。

ともかく、峠への第一橋頭堡である尾根上に辿り着いた。
ここから、本格的に北壁へ挑戦することが想像される。
そうしなければ、峠にはたどり着けない。

ちなみに、地形図にはこの尾根上に点線の道が描かれているが、見たところそれらしい道はない。




 左の写真を見ても、ここに道形を見出せる人はないだろう。

かくいう私も、実はここで迷った。
灌木をかいくぐり、目印として無比であった大松の元へ辿り着いたは良いが、そこで道を見失ったのだ。

 吹きさらしの尾根でのまさかの道ロスト。
私は肝を冷やしたが、
「困ったときは、物理的に進める方向へ歩いて見るべし」という家訓?に従い、唯一緩い傾斜である尾根上を、全く道は見えないまま、峠方向へと進んでみた。

 で、それが正解だった。

こんな線形、予想外だ!
模式図は右の通り。
斜面に沿って登ってきたのに、尾根に達したらいきなり向きを変えてその上を行くなんて、珍しい。




 ほぼ180度に近いターンを経て、尾根上を行く。
20mほど進むと幾分、木藪が落ち着いてきて、それとともに、道形らしきものが復活してきた。

 ふぅ。 取りあえず道に復帰したようで、愁眉を開く。

 そして、また例の切り株というか、切断された幹である。
それが、道を斜めに塞ぐようにして置かれている。
また松のようであるが、一体これはなんであろう。
道を塞ぐ目的でわざわざこんな事もしないと思うのだが、或いは廃道後に置き去りにされたのか。

 また、傍には細いワイヤーが捨てられていた。
切られた木材とワイヤー。この組み合わせで連想するものは、伐採と集材。
辺り一面に殆ど大きな木のないのは、以前に皆伐を受けたからで、残っているのが松ばかりというのも、単に松が要らなかったからかもしれない。




 そんなことを考えながら尾根の上を歩いていくと、間もなく道は尾根から左側に反れ始めた。
そして、思いがけず道は鮮明に。
ここまでの状況からは考えられぬほど、極めて良好な状況。

 が

なんだこのキョ松わ!

こんな事が、あり得るのか?!

端から見たら、きっと私の驚きぶりに驚くほどに、私は驚いた。

道の真ん中に、周囲のどこよりも太い木が生えている。

異常な景色。私の常識の外の異様な道路風景。




 ええええええ。

あんで、あんでこんな松が、道の真ん中に?!

しかも、何十メートルかの間隔を開けて、同じような大松が、やはり道の真ん中に並んでいる?!

 冷静に、こうなった原因を考えてみる。
この松は、どう見ても100年やそこいらの樹齢ではない。江戸時代から生えていたように見える。
だとしたら、明治新道を作るときに邪魔にならなかったというのはおかしい。
でも、松を避けても十分なスペースが両側にあることも事実。
むしろ、ここまでのどこよりも、道は広く作られている。

 となると、明治の彼らは、この松を、おそらく自然に生えていたこの松を、活かしたのか。

道を、守る、深く太い 根。
或いは、冬の積雪のなかで進路を見失わないための、目印。
事実、先ほどは雪ではなく、藪の中でこれらの松が私の磁針になった。



 振り返って撮影。

巨大な松を中心に、幅5mを越す路幅を有する道。

周囲にはあまり大きな木がないだけに、松の大きさがとにかく目立つ。
道の年令と木の年令を考えれば、この両者は確実に交差していたはず。
今日の道路造りとは全く異なる、別の思考・理論が、この道には介在していたように思えてならない。

そして、明治以後殆ど利用されず廃道の憂き目を見たがため、そんな古い景色が今日まで温存されてきた、これは希有な例なのではないか。



 道は、完全に尾根の左側斜面を定位置に定めたらしく、やはり地形図上の点線とは異なる進路となった。
峠への最短である尾根の上を、行きはしない。

 だが、峠自体そう遠くない。

沢を挟んだむこうにも、こちらと良く似た高さの尾根が登って来ていた。
いずれも、切ヶ久保峠のある郡境の稜線が、利根郡に下ろした枝だ。
そう言えば、私がこの旅のはじめで道を誤り、鉄塔に登り詰めた尾根。
あれもやはり、ここと平行する枝尾根のひとつだった。



 松の“変則的”並木を過ぎる頃には、尾根に登ってから既に200m近く進んでいた。
依然として道は極めて鮮明で、遂に行く手に峠の鞍部と思しきものが、出現した。
いままでは、幾重にも重なった木々や地形自体によって、見えなかった。
それが、直線距離ならば残すところ300mほどにまで近づいた今、ようやく捕捉された。

地形図で確かめてみても、やはり確かそうだ。
あれが、切ヶ久保峠。
間違いない。

 そして、思った。

 まだ高いな と。






 異変。

それは始め、遠い隣の尾根に現れた。

隣の尾根が、一足先に“北壁”へと、ぶつかったらしかった。


地形図が私に教える、約50mの垂直に近い高低差。

切ヶ久保北壁。

これを越えなければ、峠の攻略は ない!





 ほぼ同時。

対岸の出火とほぼ同時に、此岸の屋根も発煙!

 今は、まだ煙。

が、いっときはなだらかに、私を、松たちを受け入れた尾根が、

再び、
鋸歯のような岩尾根に変貌しつつあった。



  そして…





 北壁 突入!




 北
 壁
 突
 入
 !





 14:33

ゾクゾク来た。

なんだか、トンデモナイものと対峙しつつある。

或いは、既にその陣中に踏み込んでいるのやも知れぬ。

ほんのいっとき見えていた峠も、今はまた、
見えない。

今、空を画するのは北壁の天蓋のみ。




引き返すならば、今。


飽くまで峠を求めると言うならば、越えてみせよ!


そんな声なき声が、他でもない、己の心のなかより発せられる。





 …全然、悲しいほどに、登っていない。

むしろ、尾根を渡って以来、少し下っている。

峠への直線距離だけが、虚しく減ってゆく。
なすべき事をなさず、ただ、漫然と、北壁の陣中深くへ入り込んでゆく道。


 他人事では、全くナイのだ!

一体どうするつもりだ?!
おい! 攻略する気あるのかよ!道ぃ!




 道が、紅い…。

突如、道が鮮やかな紅色、緋色に変化した。

それは、頭上に覆い被さる捻れ木たちの、どれかが降らせたものらしかった。
見たところ、どの枝にも一枚の葉とて残っていない。
だから、植物に無知な私には、誰が犯人かは知れない。



 ここまで褐色と灰色、あとは杉の濃緑だけを見てきた私にとって、この紅い道の印象はすこぶる強烈で、くぐり抜けた直後に見た景色と相まり、切ヶ久保峠の印象を極めて深くした。







 切ヶ久保の「キリ」は、「切り立っている」の「キリ」に間違いないだろうな(笑)

さっきまで、ほんの200mほど手前まで、自分がその上を歩いていたあの尾根は、見上げても見えない所まで、一気にいってしまわれました。

トンデモナイ道です。
これを登って峠に立つなんて、有り得ない。
いや、いくら何でももう少しまともな場所がこの先にあるのだろう。
だからこそ、道はこの“切ヶ久保キャニオン”(←北壁は改名だ(笑))の底を、さも申し訳なさそうにくぐって前に進んでいるのだろう。
きっとこの谷の奥には、私がいま想像していないような隠されたルートがあって、峠へと運んでくれるんだろう。

 でなきゃ、無理だから。


 …これでは、車道化が無理だったわけだよ。

戦後、この峠を避けて県道が指定されたのも、大いに頷ける。
というか、明治の村人たちは、なんでここに“良い道”が得られるなんて思ったんだろうな。
無理だろう。

 それと、聡明な原敬さんが気絶…じゃなくて、“奇絶”と評した意味もやっと分かった。

これは確かに、奇なること絶大だわ……。





 次回、

     北壁攻略の 驚異的ウラワザ とは?!