切ヶ久保新道 第5回

所在地 群馬県みなかみ町〜高山村 
公開日 2007.12.21
探索日 2007.11.28

 切ヶ久保北壁 攻略 

 伝説の証言者





2007/11/28 14:36 

 私は、思わず立ち尽くした。

超高層ビルのごとき灰色の岩崖が、わずか幅2〜3mの道に対し、直立して天を突いている。

いままでいろいろな峠を、廃道を見てきた。
だが、かつてこれほどの大質量を、身体の傍に感じたことがあったか。
路傍にそそり立つそれは、まるまるひと山! その圧倒的大きさ!!

それに対する道の、なんたるか細さ。
そこを歩く私など、些々なるものの極み!


 …この景色を…

いま独り占めする興奮に、私は心底から奮えた。

そして、この想定を遙かに超えた大断崖に対し、明治の新道がいかに立ち向かうのか。
そのことへの興味が、私を突き動かした!!




 相変わらず、少しも峠へ登ろうとしない道。
覇気なき者の道が、左へ続いている。


だが、峠を目指そうとするならば、
おそらく、何処かで無茶をしなければならないだろう。
これまでのこの道の傾向を見ても、決して良道ではなかった。
ときおり、車道らしからぬ急勾配が現れたりした。

 となれば、ここ!

ここ一番で、何か決定的なウラワザがあるはず。
そうでなければ、この未曾有の岩のカーテンは打ち破れまい。

いま私の眼前に現れた、岩崖の亀裂。
これぞまさに、勇者の道に相応しい。

私は、まるで天啓でも受けたかのように、正道を無視。
そして、この亀裂へと前進した。




 「勇者の道」

それは、地上部の幅約2m。
両側を垂直の崖に画された、石割りの道。
路面と思われる部分には、ふかふかの落ち葉が厚く堆積し、前方へ向け40度近い急勾配で傾斜している。
隔靴に感じる微妙な岩の凹凸を頼りに、階段状の斜路を登ってゆく。

しかし、行き着く先に峠は無い。

行き止まり。




 亀裂によって母岩から切り離された左の岩体。
これ自体、ちょっとしたマンションほどの大きさがある。

裸の岩山で有るにもかかわらず、その上には何本もの大木が生えている。
また、私が前進を断念した亀裂の最上端からは、一本のツタが、崖の上までその先端を延ばしていた。


 これこそが、真の…

真の勇者の道 “ブレイブメンズ タイトロープ” に他なるまいが、逆立ちしても人には辿れぬ道であった。


人である私は、正規のルートを行くことにした。





 前方の岩陰に、たいへんなものを発見してしまった。

思わず、私は振り返って撮影。

その、発見したものを正視する前に、まず振り返って撮影。

この行動パターンは、私にありがちなこと。


 その、“たいへんなもの”をお見せする前に、
ここで撮影した動画を一枚ご覧下さい。

ちょっと、この空間の広がりは、文章では書き尽くせない!

北壁動画

動画は、はじめ左の写真と同じアングルで後方を撮影した後、頭上の岩棚から、さらに前方の景色へとパンしていく。






 あったよー。

 あったよーー。

あったよー。



 お墓

 あったよー。








 ・・・目立ってない。

  えらく地味。


 こんなに近づくまで、全然気がつかなかったんよ・・・。

ここまで、布施の集落を離れてから、ただのひとつも石碑や石仏、道標の類を見ることはなかった。

何せ古い道であるからして、橋が残ってないとか、そんなのはやむを得ないと思っていた。
でも、こういった信仰と道の関わりを示すものの名残さえ無いというのは、少々物足りなく思っていた。

 が、やっと出てきた。

明らかに、この道の付属物としての、石碑(墓標?)。





 どうも、墓標ではないらしい。

ここで落石か何かで亡くなった人がいて、その供養碑かとも思ったが、そうでもないようだ。


 石碑は、ちょうど路面から1.5mほどの高みに設置されている。
台座があり、その上に墓石形に整形された、高さ7〜80cmの石標が載せられている。 背後は先ほど“マンションほどの大きさ”と形容した大岩と、ほぼ密着している。

 この岩場の鎮守。

いかにもそんな雰囲気だ。





 碑の文字を確認するべく碑に近づこうとしたが、岩山には落ち葉が積もっているため、容易でなかった。

目の前ににんじんをぶら下げられた馬の気持ちで、焦って登ろうとした私は、二度も転倒してしまった。

 ま、まず落ち着け自分…!


丁寧に碑の前の岩面に積もった落ち葉を払いのけ、そして至った。

この、碑の前に。




 まずは、一番下にある台座の文字が目に入った。

布施 邨中

 そう、大きく書いてある。

 「邨」は見慣れない字だが、「村」と同じだ。読みも含めて。
だから、“布施村一同“というような意味だろう。



 続いて肝心要の、表書き、だ。


非常に達筆であるのと、長年の風雪によって変色が著しく、不安定な足場での解読には手こずったが…、おそらくは…

 馬頭観世音

…たぶんね。

つか、ほぼ解読出来たと思うのは「観世」の2文字だけだが…。
あと、いま写真を見直してみると、左の余白にもごく小さな文字が10文字くらい彫られているのであるが、現地で気付かなかったので、解読してません!(涙)



 ともかく、これは墓石ではなかった。

道行く人々の守り神として、古くから崇敬されてきた馬頭観音の碑であった。
まさに、「ここが人々が頼りにした道であった」、そういう証だ。


 さらに衝撃があった。

碑の両側面にも文字が彫られていた。

向かって左はこう。

 十二月如意日

「如意日」というのは、「吉日」というような意味らしい(自信がないが)。

問題は、右側の文字。

 明治七年甲戌


 この符合に、私は身悶えた!

この道にとって最も意義深い年、「明治七年」。

それは、この道の開通の年である。


 おそらく、この道の最大の難所は、ここだったのだろう。
今までひとつも現れなかった石碑がここにある。その一事だけでそう思われる。

今日見てもこれは紛う事なき難所である。
落石の危険を考えれば、通行するだけで命がけといって良い。
となれば、この岩場を切り開いて道を穿つ困難は、如何ほどであったろうか。

建設にあたった布施の人たちは、開通を記念して、自らこの立派な石碑を建立したのだろう。
自分たちが作ったばかりの道を、重い石碑とともに歩み、最大の難場である当地に安置したのだ。

 なんという慈愛の深さか。

道の普請はさておき、石碑の建立まで強制されたはずもない。
行政が補助を出した記録もない。
にもかかわらず、彼らは難工事を成したのみならず、後を往く旅人たち全ての安全を願い、この碑を建てた…!!




 本碑の尊さ。

それは、頭上50mの断崖よりも…高かった!!


 残っていてくれてありがとう。

  気付かせてくれて、ありがとう!







 と、本当にこんな感じで感動しちゃいました。
先行きに不安満載であるにもかかわらず、いろいろな角度から碑や碑の周りの写真を撮りまくり、5分近く滞留。






 神仏への加護を祈り終わりましたので、心おきなくアタックですか?



 馬頭観世音碑の前を通り過ぎ、道はいよいよ北壁の核心と言うべきエリアへ進入した。

岩盤の根元を、いじらしく掘抜いたような道。
片洞門に近い状態となっている。
そして、頭上を見上げれば全て右写真のような崖。
まるで石切場だが、下部を除けば殆ど自然のままだ。
殆ど時を無限に与えられた自然の浸蝕力というのは、凄まじい。

 余りに険しい環境下、道は少しでも延命を図るべく、3mを越える十分な幅を持たされている。
明治10年代に県の許可を得て本格的に改良した約500mというのは、やはりこの一帯であろうと思う。
繰り返された落石によって路肩側ほど埋められているのは、いかに頭上の崖が垂直であるかの証だ。
未だ明治の道は私の前に生きていて、開削者の息づかいさえ感じられるような壁面に右手を這わせさえすれば、普通に歩くことが出来るのだ。
殆ど廃道となってから約一世紀、道は生き長らえていた。



 先ほどから、盛んに聞こえる甲高い獣の声。
キャーキャー騒いでいるのはサルたちに違いない。

常に頭上から聞こえてくるので、この信じがたい絶壁の上から、不意の闖入者を威嚇しているのだろう。

その声は、進むほどに反響の度合いも、トーンの高さも、増してきている。
この先は間違いなく袋小路なのだ。
微かだが、瀬音も聞こえ始めた。

 なのに… いまだ少しも登らない…(涙)




 右側の、これまで岩の屏風かカーテンそのものであった岩盤が、初めて緩んだ。

そして、小さめの体育館ならまるまる納められるほど大きな、椀状の凹地を現した。

最上部に見えるは、約20分前に私が松の木と戯れたあの尾根である。
あの尾根が、北壁を乗り越えて辿り着いた高みである。
地形図を信じるなら、あの上に道が付いている。

ここまで、高度に関してはまるで努力を見せなかった私(新道)にとって、余りに遠い彼我の距離。
この窪みの底をよじ登る道は考えられず、当然、サルでもない私には不可能である。



 指をくわえて、ここを素通りせざるを得ない。



14:50

 見えたっ!

遂に、本当の峠の稜線とでも言うべき尾根が、足元から連続する一連の風景として見えてきた。
アノ空に消えている尾根まで辿り着ければ、ゴールは間近。私の愛車(チャリ)が、もう間近に待っているはず。

 しかし、安堵できるわけもない。
そこに、奇跡の“どんでん返し”など無いことを知らされた。

やはり北壁は、この谷の最も奥まった部分にまで続いていた。
最後は、きっちりと滝でシメているようだ。
黒く濡れた岩場が、右の崖の裏から見え始めていた。

 今のところ、この崖を越える道の姿はない。
しかも、谷底へ向けてこれ以上近づくことさえ、容易はでなくなってきた。
これより先、いままで私を運んでくれた平坦な道は無い。
一様に、谷に向かって傾斜した岩場である。
崩れたのか、埋まったのかは分からないが、とにかく影も形もないのである。




 えー。

極めて「私の都合」的な話なのですが…。

この後、少しの間…

ほとんど写真を撮ってなかった。

失敗したな〜と、いまは思うけれども、現地ではちょっと余裕がなかったらしい。
私が写真を撮るのを忘れるというのは、それ以外考えにくい。普段撮りまくりですから…ね。

 ただ、不幸中の幸いというか、少し長目の動画を撮影してあったので、サーバーの容量的にこれを使うのは少し辛かったんだけど、いっぱい圧縮して公開します。この動画から、この先の光景。特にこれから紹介する3枚の写真が、それぞれどこを撮影したのかを確認していただければと思う。

北壁動画2

動画は、始め右手の崖を、それから谷を越えて対岸の崖へとパンする。それは、この後の進行方向通り。



 これは対岸の様子。

足元は写っていないが、だいたい対岸と同じだと思って良い。
後ほど対岸からこちらを写した写真があるので、それを見ていただければと思う。


 で、あっさりと“対岸行き”を告白してしまったが、そうなのである。
こちら側はもう、まもなくどん詰まりになる。
それで、写真内に書き足した黄線(写真にカーソルを合わせてください)のように、対岸へ行くこととなった。
見た感じ、それで正解らしい。
とりあえずは。

(その先は… 現状「やばそう」としか言えないが…)




 ようやく、峠直下といって良い谷奥まで辿り着いたわけだが、結果的にはここにも「北壁」を登り切るための道は無かった。

そういうわけで、ピンクの矢印よろしく対岸へと向かわざるを得ない。消去法的に。

この展開には、地図を見ながら唸ってしまった。
先ほど明治7年の馬頭観世音碑を見ているだけに、この道がダミーということは考えられまい。
となると、何処かに上へ抜ける道があるはずなのだ。
峠までの直線距離は僅か200m強。
されど、その高低差は依然として80m近い。
松の木の尾根に乗ったときからここまで、ほんの少しも高低差を埋めれていないという、予想外の展開!

もっとも、北壁の下端をなぞってここまで来ることで精一杯だった。
それは、頷ける。
…この地形を目の当たりにすれば、頷かざるを得ない。

 さあ、貴方ならこの地図を見て、どんなルートを想定しますか?




 そんな問いかけを悠長に書いている私だが、現地での私は、半分涙目はさすがに言いすぎだとしても、かなーり“ ハラハラドキドキ ”の岩渡りの最中だった。

当然のように谷の最奥部、我々の辿っていた左岸の道が潰えた(正確に言えば最後の方は道ではなくただの岩斜面だったが)先に橋などあるはずもなく(痕跡のひとつさえ)、水はほとんど流れてはいなかったが、滝を横断せねばならなかった。右岸へ移るために。

ここは、濡れていて滑りやすい、落ち葉が積もっていて滑りやすい、角度が急で滑りやすいの三重苦。
丁寧に進路上の落ち葉を払い落としながら、慎重に慎重を重ねて横断したのである。
幸い、岩はゴツゴツしていて、なんとかなった。

 写真は、横断中に上部を撮影。
ここが峠への紛れもない最短ルートだが、この崖を登る道は想定し得ない。
原敬さんがここをよじ登ったわけもないだろう。




 もう一枚、滝付近を横断しながら撮影。

滝は正確には二股が一箇所に落ちており、そのうちメーンは上の写真で、サブがこの写真の場所。

奥はまるで穴のように見えるが、これを見て隧道だと一瞬色めきだったのは内緒。

実際には、近づく術のない岩の巨大な凹みである。




 滝を横断し、さらに枯葉の詰まった谷底も渡り、岩にたくさんの落ち葉と少しの土が乗った斜面を少し登って、ようやく対岸へ。

まるで、巨大なカボチャである。
対岸真っ正面の岩山は。

 こんな奇想天外な造形物を惜しげもなく見せるこの北山一帯であるが、「高山村史」によれば、数百万年前の火山であるらしい。
それは、今日火山として形を留めている赤城山や榛名山などより遙かに古く、まだ日本が大陸と地続きであった、遙か遙か昔の、いわゆる地質時代の話らしい。
で、“なんとか安山岩”とかいう一大岩盤がこの山の中身のほとんど全てで、それが延々浸食されて土壌から露出し、こんな岩山を見せているらしい。
山の北側が険しく南側がなだらかであるのも、単に北側の利根川水系赤谷川の浸食が激しかったからだという。
頂から水面まで高低差500m以上あるわけだが、数百万年の間にそれだけ地表が削られたのだ。(隆起や沈降もゼロではないだろうが)





 やはり、道はこちらへ来ていたようだ…

明らかに、人工的に整形されている気配を感じる。
路幅も2m程は感じられる。
もっとも、落ち葉や落石で平坦ではなくなっているが。

あとは、これを進めばなんとか成るのか。

何とも成らなかったら、困る!




 これが最後だから、後を振り返らせて欲しい。

いま渡ってきた谷、そして、そこに至るまでの岩場の行程を、3枚の写真で振り返りたい。
振り返り写真が多いのは、言うまでもなく、その場にいながら写真を撮る余裕が不足していたせいだ。


 先ほど頭上にそそり立っていた岩山が、いまは向こう側に。
松の木の尾根から、北壁の下縁に沿って来た道が見て取れる。
恐ろしいほどの大迫力だが、緑の濃い季節の景色も見てみたいものだ。(再訪してみたいと思っている)



 そして、谷底に近づくと忽然と道が消えたのだった。
それで、やむを得ず危うい岩の斜面に足掛かり、手掛かりを探しながら、慎重にここまで横断してきた。

まあ、写真で見るほどに困難ではなかったが(写真だととても歩けなさそうに見える)、かといって無難に渡れるほど楽でもない、難所であることは確かだった。




 滝の部分のアップ。

この、黒く濡れた部分の横断に、最も肝を冷やした。
滝を登れれば、もうなだらかな斜面だけしかないと思われるし、峠はすぐそこだ。
だが、写真を見ても明らかなように、道はない。


 さて、後ろ向きはここまで!





 次回、

     北壁決着…  隠されたルートを見つけ出せ!!