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2023/10/27 11:37
枝にテープが巻き付けられていた目印の地点を過ぎると、よくある登山道化した廃車道のような雰囲気の道になった。
広い道幅のうち、歩行に必要な幅の路面だけが露出している。このような状況は刈払いの恩恵であろうと思われる。
私は50分間の分速10メートル牛歩(それも全力で運動しての速度だ)から解放され、とても爽快だった。
顔に被さる笹の葉がないだけで、こんなにも気持ちいいんですよ! 皆さん知ってますか? この開放感!
11:42
激藪を脱して300mほど前進し、残り推定1kmへ。
十三号仮監跡があった湾状の谷から外れ、峠が待つ国境の稜線を正面に見据える小尾根を巻く場面となる。
本来なら見晴らしが良さそうな場所だが、あいにく路肩には猛烈な笹藪が継続していて、視界は優れない。
ただ、藪の丈よりも上に頭を出しているチトカニウシ山の見え方が、長い藪に入る前に見た時とは違っていた。見上げる感じが薄くなり、肩を並べるような印象だ。それだけ私が高度を上げたのである。
11:45 《現在地》 海抜820m
尾根を回り込んで100mほど進むと、路上の藪が一掃される爽快な展開が待っていた。
機械的な力で本来の旧国道時代の道幅が全て甦った。
とてもありがたいが、趣味や道楽の域を遙かに超えている。
しかしその割に、自動車が出入りしている雰囲気は乏しい。轍がないのである。
そして、藪の一掃と同時に、新旧いずれの地図にも描かれていない分岐が現われた。
正面の道が地図にある旧国道“囚人道路”の続きであるが、左の同じように綺麗に刈り払われている道は、地図にない道であった。
地図にない道との分岐地点を振り返って撮影した。
左の道が旧国道で、道幅全体が刈り払われているのは、ここまでである。
(反対側から探索した場合、まさかこの状況から僅か400mで、あの“地獄の笹藪”へ堕ちるとは思わないだろう…)
地図にない右の道、入ってすぐまた枝分かれしている様子で、これが道なのかもよく分からなかったが、様子見のため立ち入ってみると……。
そこにあったのは、刈払いによって造られた転回路だった。
したがってこれは地図にない分岐ではなく、単に車輌の転回の為の施設だろう。
だが、綺麗に刈り払われている割に、車の轍が見当らず、表土も荒れていない。
専門外なのでなんともいえないが、もしかしたら積雪時にスノーモービルを走らせるような利用目的の転回路だろうか。
古い航空写真も見てみたが、国道であった当時には見当らない施設である。“囚人道路”絡みのものでもなさそうだ。
11:50
転回路を後に、進むべき旧道の続きを歩いている。
道は周到な刈払いによって、まるで公園内の歩道のように歩き易くなった。
しかし、国道だった時代に敷かれたはずの砂利道の路面は厚い土の下に隠されて見えない。
旧道となった後に一度は廃道化していた証しだろう。
この風景はむしろ、自動車ではなく徒歩や軽車両による利用が行われていた“囚人道路”当時の道の様子を(図らずも)再現したものになっていそうだ。
どこかに、「囚人道路跡」と書いた観光客向けの案内板でもありそうな雰囲気だったが、そういう娑婆っ気は、最後まで現われなかった。
廃道として周囲の目から隠すことは、意図的ではないと思うが、徹底がされていた。
11:52
さらに進み、残り600mくらいまで来ると、道の泥濘んだところにバイクのものらしき轍が見られるようになった。
北見峠旧道を目ざとく見つけ探索を試みるのは、徒歩や自転車の者ばかりではないだろう。
だが、どんなに頑張っても、麓の踏切が撤去されてしまった今、自動車が通り抜けられる可能性はない。
乗り物は、あまり深入りせずに撤退が吉である。私もうっかり自転車で峠側から探索しようなどと考えなくて良かった。踏切に辿り着く以前に、あのヤブは自転車では絶対に無理だった。
ここまで来るといよいよ国境……
……西蝦夷地と東蝦夷地
……北見国と石狩国
……網走支庁と上川支庁
……オホーツク総合振興局と上川総合振興局
……紋別郡遠軽町と上川郡上川町……
これら過去現在全ての境界である稜線が、ほとんど目線の高さになり、その向こうは空だけが見えるようになる。
囚人たちも目にしたであろう胸の透く風景だが、彼等にとって峠の頂へ辿り着くことは釈放を意味しなかったし、それどころか、苛烈な外役工事の終点でさえなかった。彼等の終点は、その前年の空知側の工事終点であった峠の西の麓、現在の上川町上越の地(第十四仮監)であり、峠からおおよそ5kmの先であった。
峠へ辿り着けば、探索という懲役ではない服務より自由に逃れられる私は幸せだ。
11:57 《現在地》/《大正13年地形図》 海抜840m
残り500m附近にある小さな谷筋を回り込むところに、またしても地図にはない分岐があった。
結論から言うと、ここから左へ登っていく地図にない道は、100mほどで現国道に繋がっている。(ここへ出るようだ)
そしてネタバレになるが、このまま旧国道を進んでも、最後は行き止まりである。
その代わりに整備されたのが、この左の道ということらしい。
読者さまのコメントによると、7〜8年以上前に原木の搬出用に造った道とのこと。
もしかしたら、さっき見た転回路や、この念入りな刈払いも、原木搬出の目的を帯びたものかもしれない。道の状況的にはトラクター運材っぽい。
また、大正13(1924)年の地形図だと、このカーブの辺りに標高832.09mの水準点が描かれている。
今回の旧道区間中3度目にして最後の水準点であったが、やはり標石のようなものを見つけ出す事は出来なかった。
11:58
もちろんネタバレを知らない私は(おそらく知っていたとしてもだが)、そのまま旧道を進む。
もはや刈払いによるものかは分からないが、相変わらずヤブはなく歩き易い。
左の斜面の上を現国道が間近に走っているが、ほとんど車通りがないので静かだ。
現道近しと言えどもヒグマ遭遇の恐怖は去らない。最後まで緊張は解けなかった。むしろ人慣れしていそうなところにいる熊の方が怖いまである。
12:04
残り300mの地点で、約4.2kmぶりに現道の姿を目撃した。
真っ正面だ。
というか、旧道はまともに接続させては貰えないらしい。接続拒否。
これが史跡でもなんでもない、ただの旧道として大地に埋れる“囚人道路”、その最後の現実であった。
2023/10/27 12:04 《現在地》 海抜840m
麓の旧道入口から約4.2km地点。
この4.2kmぶりに、旧道は現道に“接触”した。
接続ではなく。
旧道の直進を阻むように立ちはだかる、この見るからに人工的な斜面の上には、この探索の出発地点である北見峠パーキングがある。
今から3時間ちょっと前に自転車を下ろして出発した場所。
ああ、無事に戻ってこられた!
あとは、この正面の斜面をよじ登ればクリアである。
しかし、厳密さを求めるならば、まだ旧道の残りが少しだけ(300mくらい)有るはずだった。
ここに掲載したのは、旧道が旧道になって2年後の昭和49(1974)年版と、旧道化から15年後の昭和62年版の地形図だ。
どちらの地図にも旧道は幅3m未満の車道として描かれているが、後者のみ現道との接続部分が消えている点に注目してほしい。
この表記を信ずる限り、北見峠の旧道で最も早くに喪失したのは、峠側の接続地点ということになる。
そして、実質的に残された区間の通行が途絶えたのも、この峠側の切断が起きてからだろう。麓側の踏切の撤去は、もっと後だと思う。
現在の旧道の大部分を覆っている笹藪も、10年15年の放置によるものではなく、平成の全ての時間を費やす程度には醸されたものに見えた。
12:05
旧道は、現道の北見峠パーキングの土盛りの底を右へ巻くように伸びていた。
道としては全く使われていないが、土盛りを支える平地として機能している。
また、地下水の集水槽が何かが埋まっているらしく、廃材で蓋をされた窪んだ土地やマンホールなどがあった。
標高850mに迫る北見峠は、道内の峠の中では相当に高く、実際これよりも北に、ここより標高の高い峠はない。
だが、地形的には比較的になだらかな峠である。
峠の両側はそれぞれオホーツク海と日本海へ流れる渓谷に削られていて、その周囲は険しいものの、総じて見れば大らかな高原的起伏であり、早々に渓谷を脱した路上から遠見する風景もまた、人の視力を上回る広大さに特化していた。
それは特筆するような眺望ではなかったが、ただただ長路であることは察せられ、それがいかにもこの道“らしい”と思った。
霞んで見えない遙か遠くから、千数百人のマンパワーが、8ヶ月でここまで道を通した。
その労働は、従事者6人に対して1人の割合で命を奪ったが、彼らがもし強制される罪人でなければ、おそらく工事は失敗したか、大きく遅れることになっただろう。
だが、その遅延は決定的に歴史を変える危険があった。
中央道路に対する、多数の人命を対価に捧げるほどの速成が、発起者である北海道庁から、請負者である監獄に対して厳命された理由は明確だ。
ロシア・清・アメリカの視察から戻った道庁長官永山武四郎が、明治21(1888)年2月に政府へ提出した具申書には、ロシアの活発な東進政策に対する強い危機感が表れている。すなわち、シベリア鉄道が極東ウラジオストク港を目指し着工されたことを念頭に、「彼(ロシアのこと)の人を移し兵を足し水陸の運便を開き工芸を起こすの地に隣接すれば、我また天塩・北見に水陸の交通を開き、拓地殖民して彼と対峙するの策を講ずるは、今日において万止むを得ざるの急務にして、一日を後るる時は、すなわち国威に関すること一日なり」として、北見地方に一日でも早く屯田兵を送り込み開発を進めることこそが、ロシアの脅威(北海道上陸)を防ぐ最善の策であると論じているのである。
(結果的に、厳命の通り明治24年末に中央道路は完成したが、実際に屯田兵がこの道を通って北見地方へ送られたのは明治30年からである。この間にロシアが北海道へ攻めてくることはなかったが、当時の政府がロシアに対し非常に強い危機感を持っていたことが、中央道路の工事が急がれた理由である)
12:07 《現在地》
峠頂上まで、残り200m。
これが最後のカーブである。
轍は消えているが、道形は極めて明確だ。
また、前述した昭和62年の地形図だと、ここから先の道は消えていた。
カーブを曲がる。
驚いた。
いや、(昭和62年の)地形図通りというべきか。
カーブを過ぎて間もなく、旧道は最後の最後に、またあの恐るべし笹藪へと還った。
道が切り開かれる以前の緑の監獄へ。
12:09
そしてその笹藪の背後で、今度こそ本当に旧道は潰えていた。
立ちはだかる40度の斜面を無理矢理直登する。
これは、脱獄だ。そんなことを嘯きながら、よじ登る。
12:10 《現在地》 海抜850m
斜面の上は、またしても、まだしても、北見峠パーキング。駐車場の周りを半周して、結局最後に道はなし。
中央道路としての偉観を存分に表現した広大な駐車場に、出発時と全く同じく、私のエクストレイルだけがポツンと置いてあった。
恐るべき脅威の笹原に包囲されながら、その圧迫を微塵も感じさせない整った公園の風景に、3時間もケモノを恐れながら孤独によじ登ってきた旧道完抜の達成感は、少しばかり拍子の抜けた結末となった。最後に道が繋がっていなかったことも、微妙にその印象に拍車をかけた。
散々歩いて出発地点に戻ってきただけという、道化た感覚もあった。
でも、この剽軽さは、私がこの一連の旧道を一介の探索対象として無事消化できたということでもあった。
出自を見ればあまりにも重苦しい〜最も悲惨な歴史を持つ峠道〜は、前人未踏の噂と共に、探索前において、極めて強い恐れの対象であったが、無事に完抜したことで、過度に恐れる対象ではなくなったのだ。
すなわち、 よくやった!
あれは、極めて周到に用意されたものであったらしい。
私が最後によじ登ったところから、喪われた旧道のラインを延長すると、現国道の路端に接続する途上で、本編冒頭に紹介した【中央道路開削 殉難者慰霊の碑】を通っていたのである。
これは、囚人道路の犠牲者を慰霊する目的に適った配置だった。
そのうえ、敷地外周の擬木コンクリート製の柵が、その延長線上だけ撤去されていた。
せっかく苦心惨憺して通じさせた旧道を、敢えてまでは塞がないという誰かの配慮を見たと思ったが、もしかしたらスノーモービル遊びの為の撤去かも?
まあここは、私の思いたいように思うとしよう。
こんなことにも喜びを感じてしまう私の“道路馬鹿ぶり”を笑って欲しいが、このように現道側から「慰霊碑」を眺めると、北見峠の最も美しい風景が背後に広がり、なんの予備知識を持たなくとも、雄大な自然に立ち向かった工事の様に思いを馳せることができる。
だが、地を這うが如く移動した監獄の恐るべき現場、囚人たちの死地たる旧道は、まだ見えない。
それを見るためには、というか、それが其処にあることを知るためには、各々が少し興味を持って調べることを要する。
調べて、初めて碑の背後を見れば、前述の通り、囚人道路がそこにある。
それどころか、碑の建つ場所自体がその路上であることを知る。
私は、自分自身が過ごした3時間で、このことを味わった。
そして、そんな二段構えの周到さを持つ慰霊碑は、道を道として使わないという最大の非礼 〜廃道化〜 を詫びるものでもあったかもしれない。
この碑は、裏面に刻まれている通り、昭和49(1974)年に建てられたものである。これは旧道になった2年後だ。
だが、その時点での建立位置は、現在とは少し違っていたようだ。
当時の位置は分からないが、昭和52年と平成13年の航空写真を比較すると、位置が変わったことははっきり分かる。
この間に(昭和56年に国道333号に昇格したことも関係がありそう)北見峠パーキングが大型化し、合わせて旧道は切断されたのである。
12:13
ここが、旧道と現国道の合流地点であったろう。
旧道は跡形もないが。
そして、私が向いているこの先、ちょうど青看があるあたりが、峠の頂上だ。
この先は、囚人道路を現道がなぞっており、「峠駅逓」がこのすぐ先にあったが、そこはまだ車で通ったことしかない。
探索としては、ここで終わりである。
囚人道路に関しては膨大な研究資料が存在しており、紹介したくなるような面白いことも沢山あるが、今回はまずここまでとしよう。
沢山の資料はあっても、最近の北見峠“囚人道路”の現状についての情報がなかったと思うので、その空白を埋めることが本稿の目的である。
囚人労働のどこに誤りがあり、正しさがあったのかなどと論じることも、私の得意ではないからやらない。
最後に、完抜した感想だ。
囚人が沢山亡くなりながら造ったから心に迫るものがあったなどと、軽々しくは言えない。
ここは廃道である。既に道としては価値を喪失している。その喪失したものだけを私が味わったのだから、さほど美味しいとはいえない。
そして、個人的な活動は、個人的な感想に終始する。ただただ笹藪の困難さ、ヒグマの怖さ、合間にときおり垣間見える往時の道路風景への愛着、そして余白の全て埋める笹藪。
この道に特化した感想は、それほどない。
だが、まだ埋れていて歩かれ忘れている気の毒な囚人道路があるのなら、歩いてみたい。
道路界きっての判官贔屓は、囚人道路にとても心惹かれるということは、よく分かった。
中央道路の開通以降現在までの道路の経過については、本編冒頭に簡単な年表を掲示しているが、その内容は主として路線名の変遷であったので、ここに実際の道路としての整備状況や利用実態について、『北海道道路史』や『オホーツクへの道』などをもとに補筆を行いたい。ただし中央道路は大変に長い道路であり、区間によって経過が異なるから、ここでは記述を本編で紹介した北見峠に絞る。
明治24年12月27日に囚人たちの手で北見峠が開通し、札幌から旭川を経て網走へ至る“中央道路”、全長約360kmが、明治22(1889)年の着工以来ついに完成した。車馬の通行可能な幅2間半(約4.5m)の“車道”が、当時まだ人口600人程度の集落に過ぎなかった(すなわち人口より囚人が多かったことになる)網走の町を道央と結びつけ、大半が無人であった旭川以東の沿道には、旅人の便宜を計るために12の官設駅逓所が設置された。すぐさま大量の屯田兵を送り込み沿線の開墾を進めたかったが、日清戦争などのゴタゴタから延期され、明治30年に初めて中央道路を通って994戸の屯田兵が常呂、湧別原野へ入植した。翌年、北見峠は郵便逓送路線となり、それまで東京から北見地方への郵便は1ヶ月近く掛かっていたものが7〜10日間へ短縮された。また、明治28年から中央道路は全線が国費支弁の「仮定県道中央線」となった。
明治期における北見峠の通行量は明治35年頃に最盛期を迎え、峠の上川側の中越にあった九号駅逓の収支表によると、同年5月の宿泊客が67人記録されている。旅行者は1日10里の行程で、2駅ごとに宿泊することが通例であるから、通行人はこの2倍、つまり1日に4〜5人くらいあったことになる。
だが、翌36年に旭川から名寄まて鉄道が開通したことで、逓送路は37年から名寄〜湧別(天北峠経由)となり、多くの入植者や旅行者もこのルートを採るようになったため(39年の9号駅逓の収支は36年の10分の1になっている)北見峠は寂れていく。中央道路も同年10月に地方費支弁の「県道旭川根室線」へと降格した。
北見峠の交通量は伸び悩んだが、北見地方への入植は順調に進み、人口(明治43年の網走支庁管内人口5万人→大正15年20万人)と共に物産も飛躍的に拡大した。そのため中央道路は明治40(1907)年に再び全線が国費支弁の「仮定県道中央線」に復活している。だが交通の主軸は完全に鉄道へ移り、大正元年に旭川から帯広、足寄、北見を経由して網走へ達する鉄道が全通して初めて北見地方に鉄道が導入されたことに始まり、同10年には名寄〜湧別〜北見間の鉄道も開通して、より短時間で道央と結ばれた。大正8年に北海道道路令が公布されると、同9年に中央道路は「地方費道旭川根室線」へ改称される。
昭和に入ると北見地方にも自動車による交通が徐々に普及し始め、従来は馬車道を標準として築造されていた中央道路も、次第に自動車交通へ応える規格へ改良されていくが、その対象は鉄道輸送の補助として重要な部分に限られた。一方で鉄道はますます発達を続け、昭和7(1932)年には北見峠直下を貫く石北線が開通し、峠自体は再び交通の主線へと甦ることになった。終戦当時の中央道路(地方費道旭川根室線)の状況は、「市街地や集落周辺のみに馬車・歩行者などの利用があり、道路の形を保っていたが、地方部では峠を越える車輌などはほとんどないままに草が生え、いつ通ったか分からない車のわだちが2本連なっている有様」であったという。
それでも昭和初期、石北線開通直前の北見峠には、6人乗りフォード車の乗合自動車が通じたらしい。
これは大正14(1925)年に設立された丸瀬布乗合自動車合資会社によるもので、昭和4(1929)年8月から、峠を挟む白滝〜中越間を不定期運行した記録がある。また、翌昭和5年春には札幌自動車合資会社も同区間に進出し、1日3便の定期乗合自動車を運行したが、乗客が少ないのと悪路のため僅か10日で廃止された。前者についても、鉄道開通を翌年に控えた昭和6(1931)年に廃止されている。いずれも極めて短命であったが、この時期には辛うじて乗用車が通れる程度までは整備されていたようだ。
昭和27(1952)年に道路法が改正され、北海道も北海道道路令という独自の枠組みから全面的に同法へ組み込まれた。地方費道旭川根室線は一級国道39号(旭川〜網走)となった。自動車の爆発的増加から、国も道路投資の積極的拡大へ方針を転換し、道路特定財源を創設すると共に、道内の国道は全て国が直轄で整備することや、開発道路制度が整えられた。
囚人道路としての開通から60年あまり、ようやくここに北見峠の道路としての本格的復権が期待される状況となった。
当時の北見峠は、「一間道路といわれるような開拓当初の荷馬車通行を対象とした道路構造で、幅員の狭小に加え急カーブ急坂が連続し、近代の自動車交通を阻んでいた」。そのため、「改良工事の検討を迫られた」が、「改良といっても自動車に対応する道路構造は、新設工事とほとんど同じ工法と費用がかかることがみこまれた」ため、「折から開発町村道として開削中の石北峠経由の新路線への切り替えが検討された」という。
なんたることか、今度は強力なライバルである石北峠の存在が、北見峠の整備を揺るがしにかかったのである。
北見峠と同じく石狩国と北見国の境を越える石北峠は、道内有数の景勝地として古くから知られた層雲峡を通り、沿線の森林資源や水銀など鉱物資源も豊富であるうえ、旭川網走間を北見峠より16.6km短縮するものであった。戦時中に峠区間の着工がなされ、一時中断されたが、終戦後再開され、さらに昭和29(1954)年に道内を襲った洞爺丸台風による未曾有の風倒木対策のため整備が進展し、同32年10月に砂利道の町村道として開通していたものである。
国は昭和35(1960)年6月に一級国道39号を北見峠経由から石北峠経由へ変更した(昭和43年全面鋪装完成)。
一方、国道の座を明け渡した北見峠は、道道上川遠軽線へ降格すると共に、開発道路上川遠軽線に指定され、整備策を再検討されることになった。
この当時の事情を、北見峠の沿線自治体である丸瀬布町の町史は、次のように書いている。
昭和35(1960)年6月1日、国道39号線は層雲峡経由に路線が変更され、上川〜丸瀬布〜留辺蘂は道道に格下げを余儀なくされるにいたった。本町など旧一級国道沿線町村にとっては、慮外の措置であったが、一級国道の定義が「両支庁間を最短距離で結ぶ路線」とある以上、旧国道より30qも短縮した路線であることから、涙を呑む以外になかったのである。
合理性に支配された道路の条理は、しばしば歴史の伝統性を無視して新たな道に主役を与える。ここに北海道の東西を結ぶ“中央道路”の役割は、新たな石北峠が中心となって担うことになった。
こうして一度は涙を呑んだ北見峠も、国道降格より10年余り遅れて、ようやく現代的な道路へ生まれ変わる時が来る。
本格的に道路整備が進められたのは、網走側が昭和43年の北見峠、奥白滝間延長7.9kmであり、旭川側は上川町〜北見峠間延長5.4kmが同45年からである。従来、幅が4.0m、最小半径8.0m、最急勾配20%というこの峠道は、幅員を6.0m、最小半径40m、最急勾配6%に改良された。この延長13.3kmに投入された事業費は、17億3100万円に及んでいる。
北見峠の難所も、路線切り替えによる改良工事が昭和47(1972)年11月7日に完成し、昭和50(1975)年まで全線舗装化の見通しにある。
前書に述べられている、昭和43年に着工した網走側の新道7.9kmが、後書にある昭和47年11月完成の道である。
今回の探索で私が自転車で駆け下ったものがこれで、その後「幅4m、最小半径8m、最急勾配20%」の旧道をノロノロ歩き戻るという探索であった。
また、これらの工事は国の開発道路整備事業として行われたもので、実態は内地における直轄国道の事業とさほど変わることはなかった。
この辺りは、道が北海道にあったことによる恵まれた点と言えるだろう。
その後については文献的資料はあまりないが、昭和56(1981)年に北見峠は新たに指定された一般国道333号として国道への復帰を果たしたほか、昭和62(1987)年に閣議決定された全国の高規格幹線道路網1万4000kmの中に、北見峠を貫く高規格幹線道路の計画が盛り込まれたことを受けて、平成5年に国道450号として指定された旭川紋別自動車道の建設が進み、その一部である上越白滝道路が平成20(2008)年に開通。これにより北見峠は北大雪トンネルによってショートカットされることになった。
峠の上は再び静かになったが、北見峠は再び“中央道路”の大役に復帰した。
以上である。
こうして見ると、私が歩いた北見峠の“囚人道路”の活躍は、明治30年から36年までの短い期間が中心であったことが分かる。
その後は鉄道に主役を奪われ、石北峠にも奪われ、峠道としては賑わいから遠いところに終始した感がある。
だが、中央道路の整備を考えたとき、国境の北見峠の開削は要諦であり、そこに最大の犠牲が払われたこともまた、やむを得なかったのだろう。