神津島黒根の未成道 最終回

公開日 2014.01.07
探索日 2013.04.02
所在地 東京都神津島村

駆け抜けろ!! 神津島版の“アレ”



2013/4/2 7:54 《現在地》

今回のサブタイトル、「駆け抜けろ!! 神津島版の“アレ”」の、アレとは、もちろんアレである。

交通の難所のネーミングとしては、おそらく日本一有名なアレ。
まさか、この嵐の日に、離島でアレを披露する事になるとは思わなかったが、アレをしない限りは探索の目的を完遂出来なかったのでやむを得なかった。

その場面はもう少しで出現する。

つうか、もう見えてる。

返浜(かえすはま)ヘ向け、残り350m程度と推定される前進を開始する。





ああ、これはあかんやつや。

よくテレビのニュースなんかにも出てくる、例の、高波を見に行ったら波にさらわれるってヤツ。

こういう漁船がひとつも海に漕ぎ出しよらん日は、我々海の素人が海岸に近寄っちゃなんねぇ。

分かってる。

分かっているのに、止められない。止まらない!好奇心が盗んだピストバイクで走り出してる。

なぜなら、そこに道があるかもしれないからだ!!! (←あかんやつや)




で、問題の「紛らわしいもの」へとやって来た。

今回は別に勿体ぶりはしない。

だってこの穴、本当にただの岩の凹みに過ぎなかったんですもの!! (フニャ○ン)


…まあ、多分そうだろうとは思っていたよ。
そんな都合よく廃隧道や掘り掛の未成隧道が転がっていてたまるか。
ここへ来る途中も、例の落石防止ネット以来はなんら道路を感じさせるものを見ていないので、近付くにつれ期待感は冷静な落胆へと変わってきていた。
そしてそれを最終的に近付いて確認したが、凹みの内部の写真を撮り忘れるほど、どうでも良いささやかな凹みであった。

ま、いわゆる“誘い込み”ってやつですナ。




で、

軽い予定調和的落胆の後に待ち受けていたのが、

今回の本題となる、アレである。

廃隧道攻略がアレだと思った人にはゴメンナサイ。
しかし、島の廃道(つうか地形)を攻略するならば、やっぱりこういう場面が出てくるのは避けがたいのでしょう。

アレ = 親不知・子不知

すなわち、波が引き潮になった瞬間(波間)を狙って、波被りの岩場を駆け抜けて向こう側へ行くという、歴史的に有名な跋渉のスタイルである。
かつてこの国を旅する人には当然のように求められていた、タイミング系歩行術だ。

この屏風のように切り立った岩場の向こう側に、目指す返浜があるはずだ。

まあ、具体的に岩場がどのくらい続くのかははっきりしないが、せいぜい50mくらいだと思う。




引き波と〜、来る波を〜、数回〜、見定めて〜〜。


……はい ……はい ……はい ……


はいキタ! GO!!!


ビチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャ…… キタキタキタ―――ぁああ




セーフ!! セーーーーーフ……。

最後にちょっとだけ左足の長靴に波を受けたけど、ギリギリセーフ。


あとは目の前の小さな岩の張り出しを越えさえすれば、返浜へ到達出来そう。

そしてそこに何か、岩とは違った質感を持った大きなものの片鱗が見えていた。




その、驚きの姿は!
↓↓↓



ななな、何ですかこれ?!

背丈の何倍もある巨大なコンクリートの壁が、L字の形に屹立していた。

正面は海。側面は私が「親不知子不知」をやった岩場へと続く岩壁である。




L字コンクリート物体の内側に入ってみると、上へ登る階段の痕跡を発見。
だが、今日よりも遙かに激しい波が押し寄せることがあるのだろう。
コンクリート製と思われる階段は、地上から3mくらいより下は跡形も無く消滅していた。

この上に登りたいが、ここからは無理だ。
ひとまず離れて、L字の外側から全景を確かめよう。
ヤラセではなく、この段階では本当にこの物体の正体が分からないでいた。



これ、道路の護岸擁壁だわ。

すなわち、未成道の返浜側の末端だ!



この発見は、すごく嬉しかった。

返浜まで道が来ている事自体は地図の上で知っていたし、だからこそ目的地に定めた訳だが、末端部の処理がどうなっているかは不明であった。
そしてそれこそが、未成道を知る上で極めて重要なポイントだった。


返浜側の道路の末端が、延伸を前提とした構造になっているのかが知りたかったのである。

こうしていま、一連の未成道を想定する条件は整った。

私が目にした擁壁の末端部は、明らかに未完成な姿をしていた。

私は未成道(ただ道がないのではない、道を計画したが作られていない部分)を貫通してここへ来た。




返浜とわざわざ地名が付いているが、予想以上に小さな砂浜だった。

神戸山の切り立つ岩壁と、“神戸山もどき”の険しい崖錐斜面に挟まれた、横幅100mほどの小さなビーチである。

天気がよければ、海の正面には新島や式根島の島列が見えるであろうし、霞んで伊豆半島さえも望めるだろうが、今日は無理。

漁港があるわけでも、人家があるわけでもない、集落から遠く山を隔てた小さな土地で、誤解を恐れず言えば、こんな場所に積極的な用事を持つ島民がいるとは思えないような場所だった。

そして、それゆえに道は袋小路であった。




8:10 《現在地》

気付けば午前8時を回っていた。
最初に書いたとおり、8:30に島内放送で今日の船の運航の有無や、発着港がどこであるかが発表される。
果たして島内放送はこの返浜にも届くのだろうか。
それは分からないが、仮に届いたとしてもここにいては、その内容次第で船に乗り損ねてしまう恐れがあった。
8:30の島内放送はもう少し集落に近い、帰路の途中で聞く必要があった。

焦る。
焦るが、ここまで来る機会もそうあることではない。
今こそ探索の仕上げの場面であるから、見落としなく探索を完結させたい!
気を引き締めつつ、浜の奥に用意されていた階段を通って、念願の道路へ。
なお、階段隣の暗渠は水路である。
ここまで波が押し寄せることもままあるらしく、暗渠や階段の根はかなり洗われて痩せていた。
それを思えば、今日の嵐など、島では嵐と言わないのだろう。




全く飾り気のない急なコンクリートの階段を2〜30段上って、やっと道路へ到着。

この正面にある煉瓦タイルの建物はトイレで、電気も何も来ていないが、使用可能な状態だった。
また左の看板は、アワビとか色々密漁スンナよという注意書き。
建物に取り付けられた白くかすれた看板の方は、葛飾北斎の富嶽三十六景をモチーフにしたイラスト付きの、津波避難を呼びかける防災看板だった。

今どき東京都内で、こんな草臥れた津波の防災看板を見れるとは…。
さすがは集落から隔絶された土地という感じである。

久々の道路へ、上陸〜!!




ぬおぉぉおおーー!

なんかこう、

身体の内側から燃え上がって来るものがあった。

道がない海岸線を500m踏破して、別の岸辺へ上陸しただけなのだが、そこに道があるというだけで、こんなに盛り上がれるとは!!
やっぱ俺は道が好きで、道がそこにあるだけで嬉しいらしい。

それに、道が全く平凡ではない。
15%くらいあるのではないかという強烈な上りが見渡す限り休みもなく続いていた。まるで海から必死に逃れようとするように。
そしてまた、道の周囲の景観も平凡ではない。
強烈な海風が、返浜に続くこの狭い谷筋に収斂するため、今も風が極めて強いが、まるで高山のように木々が乏しかった。
これは新島でも見なかったタイプの風景かもしれない。

この道を辿ってみたい。
そう思った。




だが、今日は深入りはしない。
誘惑を断ちきって、すぐに私が来た海へと向き直る。

確かにこの道を辿って行っても集落へは帰れるが、自転車をトンネルに置き去りにしているし、今日は時間がない。
それに、最初から凄まじい上り坂で、野宿3日目の疲れ切った私には耐え難いかも知れない。
島の内陸部には魔物が潜んでいないとも限らない。

今は、未成道の謎の解明が先だ。
先ほどは海岸線から見上げた“L字”の擁壁の先端へ、今度はこの道路を通って行ってみよう。


そして、ここから道路末端を見た次の風景こそ、
私にとって、この未成道の最も象徴的なワンシーンとなった!




この戦い、道(人類)に勝算ありますか?


そんな言葉が頭をよぎる。


この先に道を伸ばす為には、少なからず海域を侵さねばならない。

だが、この海は道路の侵犯を許してくれるように見えない。

無論、際限なくお金と時間を費やせば、暴力で支配出来るもしれないが…。




私はこの風景を、
自身が見てきた数多くの未成道の末端風景の中で、筆頭に挙げたいと思う。

そのくらい気に入っている。

これが未成道でなければ、これほど不自然な道路線形は無い。
それも、立体的な意味で極めて不自然だ。

ブレーキが焼き切れそうな急坂が、最後に少しの平坦な場所もなく直に行き止まりの壁へ突き当たる。
異常としか言いようがない。





しかも、道路管理者も何か捨て鉢になっているのか、
道の終わりを物理で語る最後の壁はとても低く、

自転車や車で勢いよく突っ込んだら、乗り越えて海まで吹っ飛べそうであった。


せめて反射板とか付けようぜ。

これ、事情を知らない人が車で来たり、夜に来たりするような場所じゃないからって、安全対策がなおざりになってるでしょ(笑)。
ブレーキの利きが弱い自転車で来たら、本当に死ねる。




8:16 《現在地》

返浜の道路末端を確認!

今にも末端部にぶつかってきそうな波の勢いである。
事実、既に眼下の砂浜からは、私が数分前につけた足跡が一掃されていた。
また、強風でカモメも止まらぬ防潮擁壁末端には、私も立つ気になれなかった。



凄まじき末端を背に、トイレだけが存在する返浜の道路を見る。
一応右側にUターン分のスペースはあるが、そこを含めて上りしかない。
なお、後の机上調査で明らかとなるが、やはりこのトイレは観光計画の名残だった。

さあ帰還だ! ここから離れ、そのまま神津島からも脱出する。




帰路は単純に、来た道を早足で辿り直すだけであった。

大きな難所は返浜直前の“親不知子不知”だけであったが、いざ戻ろうとしたら、来るときの私の足跡が波の中から生えてきているのを見つけ、よく分からないがおかしくてフイタ。

海にも河童かよ。

でも、今よりも少し波が高くなったら本当に踏破が不可能になりそうだったので、ここは特に大急ぎで駆け抜けた。




そして今度は強烈な逆風に虐められながら、310mの大黒根トンネルを自転車と一緒に再通過。

封鎖区間を脱出したのが8:35で、ちょうどここへ戻ってくるまで1時間の未成道探索であったが、実り多かった。

なお、8:30の島内放送は、大黒根トンネルにいる私には聞こえなかった。
そのため大急ぎ携帯の電波が通じる長浜へと走り、昨日いろいろ教えてくれた村の観光商業課へ電話で問い合わせようかと思った矢先の8:45頃に二度目の島内放送を路上で聴取。
帰路問題は「○」「×」で言うところの「△」の解決が示されたのだった。




すなわち、当初の予定であった下田直行の14:00発 神新汽船は欠航で、10:30発の東海汽船のみの運行という案内を受けた。
(後で調べたところによると、翌日は更に悪天候で、終日全便欠航したらしい。ここで乗らねば大変なことになっていた)

この計画変更によって、島での滞在時間は予定から3時間半切り詰められることとなり、これ以上の島内探索は断念せざるを得なくなった。
私は荷物を大急ぎに畳んで、神津島港から東海汽船へ飛び乗ったのであった。

そして結局、船と自転車と鉄道をフルに駆使して、ワルクードが待つ下田港へと辿りついたのは、この日の夜8時過ぎのこと。
それからワルクードを運転して日野市の自宅へ帰着したのは翌日の朝方という、なかなか慌ただしい帰路であったが、こうしたスケジュールのアクシデントも含め、島旅のイロハと醍醐味をたっぷり学ばせていただいたと思っている。
私はこの一度の旅で、島の虜になってしまったのだ。




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探索の結果、長浜側の大黒根トンネルだけでなく、返浜側にも不自然な築堤末端部を発見したことによって、大黒根トンネル東口から返浜までの約500m未成区間とする一連の道路計画がかつて存在し、その工事が両側から進められていたことが確信出来た。

今度は机上調査による素性解明が命題となったが、『神津島村史』(平成10年/神津島村)を探して読んでみたら大変な収穫があった。
本頁の締めくくりとして、村史の記述を引用しつつ未成道出現の流れを追い掛けてみることにしよう。

その前にひとつ。
現地調査ではいまいち解明しなかった、島の都道「長浜多幸線」の起点がどこだったかという問題の答え。
一部の道路地図は道路の末端(大黒根トンネル東口)が都道起点であるかのように描いているが、実際は路線名の通り神津島村大字長浜、すなわち長浜海水浴場のこの標識の所が正式な起点である。
今回探索した赤崎トンネルや大黒根トンネルは都道ではなかった。

それでは未成道の話しを続ける。
まず右の地図を見て頂きたい。
これは昭和47年以前の島北部の道路網を大まかに図示している。

当時は都道の起点の長浜が海岸沿い道路の終点であり、返浜はおろか、長浜や名組湾へさえ車で行くことは出来なかった。
しかし、内陸部には林道天上山線の建設が、着々と進められていた。
少々意外だが、神津島の道路は海岸沿いより山間部の整備が先行していたようである。



内陸の林道天上山線から返浜への道路工事が開始されたのは昭和47年のことで、当初は林道返浜線として進められた。

本路線は昭和四七年に林道天井山線土橋付近を起点に返浜に向け着工した。
当初はコンクリート要の海浜砂を採取する目的でもあったが、調査の結果採掘量が予想外に少なく、また、海浜砂のため貝殻等の不純物が多くコンクリート用には利用出来ない事が判明した。

おい! そう思わず計画者(神津島村)にツッコミを入れたくなる迂闊さである。
未成道になるような迂闊な道は、やっぱり最初から何か“ケチ”がついていたのだと、妙に納得…。
これで敢えなく道路計画は中止かと思いきや、話しはまだ始まったばかり。

このため事業の継続について検討されたが、折からの離島ブームにより観光客の増加があり、利用目的の見直しがされ、観光、漁業の振興を図ると言う目的で事業を進めることとなった。

やっちまったパターンの大定番、事業目的の見直しが発動した。
これで林道返浜線の建設は続行され、昭和56年に返浜海岸まで1.3kmが全通したという。
事業目的の変更はあったものの、これで当初の計画は完結したと思われたが、まだ続く。

細かい経緯は不明だが、事業目的変更の過程で、林道返浜線は村道とりが沢線となり、終点は従来の返浜ではなく、都道の起点である長浜へと変更されていたのである。
そのため返浜で工事は終了せず、さらに長浜へ向けた海岸道路の建設が進められたのだった。

が、すぐに問題にぶち当たる。

返浜海岸まで整備されたが、その先が波浪の影響により海岸線の地形が変化して、事業の進捗が困難となり――

ほらー。やっぱりあの波はヤバかったんだ……。
そもそも、「波浪の影響により海岸線が変化」という理由を書いているが、波の激しい海岸線であることは建設前から分かりそうなものだ。
これで今度こそ計画を断念するのかと思いきや(村史の記述を全てとするならば、驚くべきことにこの地形の問題の解決を先送りにしたままで)…

――工事の施工を終点の長浜海岸から工事を進めて行く事となった。


おいおいおい!!!

なお、村史が編纂されている平成8〜10年頃は工事も順調に進んでいたらしく、その進捗を次のように書いている。

この工事の特色は、神津島では従来不可能とされていた隧道工事が最新の技術が導入されて既に三か所完成したことと、風光明媚な海岸沿いに遊歩道や休憩施設が設けられ、観光的にも好評を得ている。

この完成した3本の隧道とは、一連のレポートに登場した錆崎、赤崎、大黒根トンネルのことであり(錆崎トンネルは村道とりが沢線ではないが、一連の事業として村道海岸線も建設された模様)、島にとってのトンネル工事がビッグエポックであったことが窺える記述となっている。
また「遊歩道や休憩施設」というのは、赤崎海岸遊歩道のことであろう。  …返浜にもトイレがあった。

ここまでの村史の記述を見る限り、どうしても場当たり的な計画という印象は持ってしまうのだが、この話は次のように結ばれている。

その後、林道天上山線沿線にゴミ焼却場、火葬場、し尿捨て場、不燃ゴミ最終処分場等の生活関連施設が整備されたが、林道天上山線は頻発する地震や台風による被害を受け、車輌の通行が度々不能となり、住民生活に多大な影響を及ぼすことになるため、この路線のバイパス道路として村道とりが沢線の完成が急がれている。

行き止まりの一本道よりも、リダンダンシー(代替性)がある環状線が望ましいという訳である。これは確かに的を射ている。
そもそも、島の閉鎖的で絶対的に限られた土地を最大限に有効活用しなければ、本土との経済的関係(過疎問題)の中に島の未来は描き出しにくいというような、危機感に根ざした開発への意気込みが感じられるのは確かで、そこは共感出来る。
…というか、私は全面的に島の味方です。こんなに私を楽しませてくれるんだものね。




村史の記述はこれで終わりで、平成10年に大黒根トンネルが完成した後、現在の未成区間が未成である理由は語られていない。
単純に、「波浪の影響」という問題が(技術的および財政的要因から)解決出来なかったからとも考えられるが、もっと大きな原因があったようだ。

アジア航測(株)のサイトに、平成12年に撮影された未成道の画像があるという情報を読者さまから頂戴した。
次の画像がそれである(許諾を得て転載)。



この画像はアジア航測(株)の許諾を得て転載。説明のため一部加工済み。
引用元:【アジア航測サイト 「平成12年(2000年)神津島・新島地震」災害状況(2000年6月)(撮影番号-5)】
キャプションは以下の通り。神戸山溶岩ドーム北斜面の崩壊。神津島の北端に位置する神戸山は、標高269mのほぼ円形をなす溶岩ドームである。北斜面には、複数の崩壊があり、周回道路は写真右端のトンネル出口が終点となっていた。今回、いくつかの地点で、新たな崩壊があったようにみえる。

この写真は、神津島・新島地震が発生した3日後の平成12年7月3日に撮影されたもので、今回探索した大黒根トンネル東口の地震直後の状況が写し出されている。

これを見る限り工事はトンネルでスパッと終わっていた訳ではなく、その先にも50mくらい路盤があったようだ。
現状では土砂に埋もれ、草が育ち、ほとんど跡形も無いが、落石防止ネットだけは現存している。
また、現場に工事車両のようなものが見られないので、被災時点で工事は休止していたのかもしれない。

しかし、本当にこの神戸山の下は落石多発地帯であったようだ。
というのも、写真の中の崩壊が全部地震で発生したものならば、もう少し海岸線に地表からはぎ取られた倒木などが転がっているはずだが、それが見られない。
つまり、もともとここには幾筋ものガレ場があって、地震ではそれが更に崩れたのだと思われる。

“敵”は海の波だけでなく、山の崩れもあったわけで、ここに道路を敷設するのは生半可な事ではないだろう。
そんな予測された難工事を、おそらくは村単独の村道開設事業で進めていた…進めようとしたのだから、本当に剛毅である。

なお、言うまでもないかもしれないが、この平成12年神津島・新島地震とは、あの新島の都道を壊滅させた地震である。
本土では数ヶ月後に発生した三宅島噴火のニュースに押しやられてさほど長期間報道された記憶がないが、神津島村での震度は6弱という激しいもので、新島と同様に島内全土で土砂崩れが多発したほか村民1名が犠牲になっている。

今回、島を探索中に地震の事を意識することはあまりなく、道路の復旧も既に終わっていると感じたのだが、それはあくまで使われている道路の話しだった。
震災当時に建設途上であった道路は、ご覧の有り様だったのだ。

結論、大黒根トンネル東口附近の大崩壊は、平成12年の地震によるものと考えられる。

しかし10年以上経って未だ復旧がされていないのは、直しても工事を再開する目処が立たないからなのだろうか。






この500mの未成道の整備は、今後再開されるのだろうか。

個人的には、新品のまま使われていない大黒根トンネルの照明が可哀想すぎるので、村に頑張って貰いたいところだが…。

引き続き島の動きを注意深く見守っていきたいと思う。