道路レポート 旧三原山ドライブウェイ 前編

公開日 2016.12.31
探索日 2016.02.06
所在地 東京都大島町

ドライブウェイの濃密な残り香に、ヨッキれんが興奮!


2016/2/6 14:16 《現在地》

それでは本題の旧「三原山ドライブウェイ」へと進行しよう。

もし何事も無く全線を通行できれば、約4.1kmで三原山外輪山上の御神火(ごじんか)茶屋に到達するはずだが、手元の地図では、ここから1.6kmの地点で道は歩道を示す破線に変わり、その破線が450mほど続いた後で、何事も無かったかのように再び広い車道に戻っている。そして、破線区間の脇には「割れ目噴火口跡」との注記がある。
つまり、この0.4km強の区間が、昭和61(1986)年11月に発生した三原山の噴火に伴い廃止されたものであろう。
火山噴火で生じた廃道というのはこれまで経験が無いので、どんな状況が待っているのか楽しみである。




いざ進入と思ったが、入口をバリケードが塞いでいた。

傍らに設置されている観光客向けの案内板には、割れ目噴火口跡まで普通にクルマで行けそうに描かれていたが、少なくともこの探索日はそうではなくなっていた。

ただ、設置されたバリケードはごく簡単なもので、廃道を封鎖するのに用いている感じではない。
1枚だけ取り付けられた工事看板に、「工事中のため通り抜けできません」と書いてあるので、実際に工事中なのかも知れない。
もしそうならば予定通りに探索を遂行できないおそれがあるが、しかしこの段階での私の勘は、現在進行形で何かの工事が行われているとは感じなかった。
そもそも、通り抜けが出来ないとあるだけで立入禁止とまでは書いていない。

探索開始だ!



さっそく、路上に淋しさと侘しさが積もっていた。

せっかくの2車線の道路だったが、道幅の両側は誰も使わないようで、落ち葉が厚く堆積し始めている。
中央の路面は綺麗だから、全くクルマが通っていないわけではないだろうし、センターラインも色褪せなく鮮明なのだが、現状の簡易バリケードで封鎖された状況は結構長く続いているのかもしれない。

なぜ封鎖されているのか分かるまでは不安もあるが、依然として近くで工事が行われている気配は感じなかった。

(→)
道の左側の斜面に、思わず見逃してしまいそうな目立たない階段があった。
深い椿の森に吸い込まれていきそうな苔生したコンクリートの階段だ。
入口には、支柱から脱落したような木製の看板が一枚。
「藤森成吉文学碑」との文字が入っていた。

文学に疎い私は知らなかったが、帰宅後に調べたところ(←参考)、藤森成吉氏は大島にゆかりのある小説家で、昭和50(1975)年に彼の作品と関係の深いこの「湯場」の地に、文学碑が建立されたとのこと。だが、碑は後に元町港近くの公園に移設したという。
碑の移転と噴火の関係は分からないが、現状の道路の様子を見る限り、それは正解であった気がする。



文学碑の跡地を過ぎてすぐに、今度は大きな廃墟が現れた。

一部三階建てコンクリート造の建造物で、道路に面した一階部分がガレージのように解放された作りだ。右写真のようにお洒落にデザインされた部分もある。

「湯場」という地名からも察せられるとおり、ここにはかつて温泉施設があったらしい。
しかし、廃墟化してから相当の月日が経っているようで、周辺の樹木が建物を覆い隠さんばかりに生長している。
特に不逞の輩が押し寄せた気配もない(落書きが見られない)のに、見える限りの窓ガラスという窓ガラスがことごとく割れているのが印象的である。
廃業の時期は不明だが、噴火活動(空振や噴石)により粉砕されたのだろうか。ここはもう割れ目火口から直線距離1.2kmの至近である。



14:18 《現在地》

廃墟の前を通り過ぎようかという所で、今度は、三原山ドライブウェイを知る上でとても重要と思われるものが現れた。

それは、「ここから」の補助標識が取り付けられた、「三原山登山道路 Miharayama tozan doro Ave.」の標識(「道路の通称名」の標識)だ。
矢印の向きからして、これまでの区間が「登山道路」であることを示している。
であるならば、ここからの区間はなんの道かという話しになる。

その答えを明示するものは見あたらない。しかしそれは明らかだ。
分岐地点から100mほど入ったこの地点(温泉施設を過ぎたところ)こそ、道路運送法による一般自動車道「三原山ドライブウェイ」の起点だった。
ここまでは全て道路法による町道や都道だったが、ここからは一種の“別世界”。

さすがに“別世界”は大袈裟だと思われるかもしれないが、私の中で道路運送法による一般自動車道は、そう呼ぶに相応しいだけの遠い存在と感じる。
その理由はいろいろあるが、一番は徒歩や自転車での通行が出来ないせいだろう。
高速道路のように目的や外形からして明らかに自転車歩行者お断りというのなら、ここまで印象にも残らない。だが、「一般自動車道」という、あまり知られていない制度で生み出された道であるがために、外形は平凡な一般道路のようでありながらも、自動車専用道路としてあり続けるしかない一群の道路が存在する。
“こんな本”を書くほど道路制度に夢中となった私が、その不思議さに興味を持つきっかけとなった初期の体験の一つが、自転車を許してくれない一般自動車道への疑問であった。



今日は、かつて決して自転車が許されなかった道を、自転車に乗って通過する。
ドライブウェイが現役だった時代、三原山の山頂一帯は今よりも遙かに自転車では近付きがたい領域だったことだろう。

現在でも日本各地に一般自動車道が存在する(リスト)が、そのほとんどが有料道路であり、全てが自動車専用道路である。
だが、一般自動車道としての管理が廃止されると、道路法の道路へ変化することがある。
詳しい話は机上調査としてレポートの末尾にまとめるが、噴火を機に一般自動車道事業を廃止した三原山ドライブウェイの場合も同様で、昭和62(1987)年に町や都に移管されて町道や都道となった。
だから、今は自由に自転車や徒歩で通行できる。

ドライブウェイが消えて、30年が経つ。
左の写真に写る道路の手前半分と奥半分が、どちらも同じ大島町道になってから、それだけの時間が経過している。
にもかかわらず、今も両者の路面は明らかに違った表情を見せる。
アスファルトの色や、センターラインの白とオレンジの色の違い、破線と二重線の違いなど、別々の生まれであったことが隠せていない。

…このことは、噴火後の30年という年月がこの道にとって変化の少ない……言ってしまえば斜陽の時間であったことを物語っているように思う。

ところで、東京都が公式に定めた道路の通称というのがある。
標識で案内されている「三原山登山道路」や「大島一周道路」もそのひとつである。
都の資料(リンク)によれば、現在も「三原山登山道路」の終点は、この旧ドライブウェイ接続地点のままであるようだ。噴火後、ドライブウェイの代わりとなるよう、都道が延伸されて御神火茶屋まで通じたが、「登山道路」の通称は新道へ移転しなかった。



うっひょー!!

墨汁を垂らしたように色の濃いアスファルトは、どことなく公道ならるサーキットを彷彿とさせた。

濃厚だ。

とても濃厚。

路面の色だけじゃあない。旧有料道路、旧一般自動車道、旧メインストリート、色々な繁栄の残り香が、とっても濃厚に感じられる。
突然の噴火によって昨日までの仕事を取り上げられねばならなかった道路の悲哀を思った。

入口に案内板があったことから分かるように、旧ドライブウェイを割れ目火口観光用に活用することが決定され、実際にそのための手入れも行われたのだろう。
だが、その手入れの程度はといえば、実際の利用者の数に応じた必要最小限程度であり続けたのだと思う。(←ナイスプレーだ!)

だって、この何ともいえない路面の草臥れた風合いや、有料道路時代のままに違いない今日では滅多に見られない極太センターラインなどは、明らかにこの30年間に一度も再舗装が行われなかったことを物語っている!
これを「うっひょー」せずにいられるか。
来た甲斐は大いにあった。俺はもう満足した。 (←早ッ?!  いや早くないよ。これは普通の反応だよ)




分岐から約300m、起点から約100m進んで来たところで…

あ! アレは!



14:20 《現在地》

これは紛れもなく、料金所の跡!!

残念ながら料金所の建物自体は取り壊されていたが、その位置を示す道路中央のゼブラゾーン(導流帯)や、「止まれ」の道路標示の一部であろう「まれ」の文字などが、はっきりと残っていた。
さらに料金所建物の基礎の一部がアスファルトの隙間に露出しているのも、少し雑な施工を感じさせ、当時の慌ただしさを彷彿とさせた。

有料道路を最も象徴する施設である料金所の跡が、ここまではっきり分かる形で残っていたことに興奮した。



なお、昭和51(1976)年当時の航空写真を見ると、有料道路時代の一帯の様子をだいぶ鮮明に知る事が出来る。

当時は料金所の周囲にいくつかの建物があったようで、おそらくその中に道路管理者だった大島登山自動車道株式会社の事務所もあったと思われる。
だが、探索時には道路の両側が密度の高い低木の森になっていたため、廃墟の存在には気付かなかった。
googleの航空写真を見る限り、もしかしたら今でも小さな建物が一棟だけ残っているかも知れない。




名実ともにかつて有料道路であった区間に立ち入った。
しつこいようだが、前はこの自転車でここへ入る事は、許されなかったのだ。そう考えるだけで興奮するのは、根っからのワルニャン気質のせいなのか。
道の作りも料金所までと変わった様子は無いが、それはすなわち相変わらず……ボロボロで、美味しい……ということである。

この料金所を過ぎた最初のカーブには、見馴れているはずなのに、意表を突いたものがあった。赤矢印の部分である。



標識の背が、尋常でなく低い!

たまに標識柱への取付位置がずれて下がってしまったものは見るが、これは標識柱自体が低背であるから、予めこの高さに設置されていたのだとしか考えられない。

しかも、この標識が取り付けられた同じカーブの後半部分に、一見するとデリニエータのようなポールが2本立っているが(上の写真の緑矢印)、反射板が取り付けられていないので、それらのデリニエータではなく、背の低い標識柱であった可能性が高い。
おそらくは、カーブの全体にわたって「右カーブ」への注意を促す標識が取り付けられていたのだ。

ドライバーの目線より遙かに低い位置に設置された標識とか……、普段の常識が通用していない。
こんな道路標識の取り付け方の自由さも、一般自動車道ならではといえるのだろう。
道路標識の中でも、一部の規制標識は公安(ようは警察)しか設置出来ない決まりだが、もともと道路管理者が設置する警戒標識などは、一般自動車道のように道路管理者が民間の企業であったとしても、彼らに(ある程度の範囲内で)任せられているようだ。



写真は、分岐から500m(料金所跡から200m)ほど進んで来たところである。

ここまで道はほとんど平坦であり、最終的にはドライブウェイ全体で標高差120m以上は登らねばならないという事実を、まるで忘れているかのようだった。
大きな谷の無い、いかにも若い火山らしい緩やかな山腹を、等高線に沿って大まかになぞる線形は、やはりサーキットのような雰囲気だ。
まあ、いい加減気の毒を感じるくらいに鋪装はボロボロなので、そこはサーキットというか、どこかの発展途上国の国道のようであったが。

さらに火山の存在を感じさせるものとして、路傍に地味〜に設置された地震観測機器の存在があった。
それは一つではなく、いくつかが点々と設置されていた。
火山性微動などをチェックしているのだと思うが、いずれも大学が設置したものらしく、防災観測というよりは、学術的な研究に利用されているのか。
ようやく、この道の現在の真っ当な利用者を見た気がする。



14:24 《現在地》

分岐から700mで、分岐の案内板にもその存在が描かれていた、「富士見峠展望台」と呼ばれている場所へ辿り着いた。
昭和51年の航空写真でも、この場所には車数台分のロードサイドスペースが見て取れ、ドライブウェイ時代からの“由緒ある”スポットなのだろう。
今は路上の区画線がほぼ全て消えてしまったため、無闇に道幅の広いカーブに見える。やはり、サーキット的だ。

なお、「富士見峠」というネーミングの最初の3文字は分かるが、「峠」というのは少し解せない。
なにせ、現地にはあまり峠感が無い。ほとんど平坦で僅かに上っている坂道の途中地点でしかないからだ。しかし小さな尾根を回り込む地点ではあるので、そのため見晴らしが良い。

活発な火山であるうえに、常に海風に晒される三原山の中腹より上は、どこも高い木が全く生えない灌木帯のような植生である。
にもかかわらず、地形の緩やかさと路傍の密な灌木のため、路上から眺望の利く場所はあまりない。



↑ これがその眺望。

下刈りをしなくなったせいで、足元の眺望が利かなくなってしまったのだろうが、
もとよりこの展望台が一番に見せたかったものは、島内の何かでは無い。
海と陸を挟んで80km彼方に聳える日本一の山を見せたかったに違いないのだが、
あいにく今日は、最寄りの海面さえ覚束ない霞みっぷりであった。

むしろ、この眺めよりも私の目を引いたのは――



←これ。

各地の展望台でしばしば目にする、眺望に説明を与える看板である。
今日のように眺めの悪い日に訪れてしまった観光客を慰める目的もあったろうから、ことさらに鮮やかな色味で描かれているのだが、それが逆に現状とのギャップを強く感じさせてしまう結果になっている。
現実の眺望の悪さとのギャップではなくて、この展望台の現状とのギャップだ。

現役の案内板にある施設なのだから、もう少し手を加えてやってくれと思う一方、私の中ではこの現状が何よりも愛おしかったりする。

おそらくこの看板も有料道路時代の遺物と思われる。
そして、現在地は割れ目噴火口まで残り700m程度である。
苛烈を極めた噴火の影響かは分からないが、看板の表面は、何か粒子状のもので研磨されたように塗色が脱落していた。




その後も、路面状況こそ相変わらずの悲哀に満ちていたが、進行の妨げになるようなものは現れず、分岐から1.1km(富士見峠から0.4km)ほどの所で、これが現れた。

比較的最近に崩れたらしき法面と、その下の応急処置的に通行を確保している道路である。

おそらく、入口が「工事中」であるとして封鎖されていたのは、この状況のせいではないだろうか。
さしあたって応急処置以上の工事が施された様子は無いが、急いで復旧させるほどの需要も無いのだろう。


さらに前進中。

緩やかに登ってはいるが、自転車でもかなりハイペースで進めている。
行き違う人も車も全くなく、広大な三原山の山腹に、たった独りだけいるような感覚を覚える。
道や沢や海など、音を奏でるものが近くにないせいで、本当に静かだ。

穏やかなのである。

だが、今から30年前に、大島の全島民1万人を1ヶ月間も島外へ追いだしたほどの噴火の現場の一つが、もう500m以内の至近に迫っているはずだ。
この道を一度は壊滅させた噴火の現場でもある。
このまま何事もなく道は続いていそうに見えるのだが、現実はそうではないからこそ、私はいまここに独りなのだ。



14:35 《現在地》

分岐から1.5km地点。

突然に鋪装が新しくなり、同時に、不思議な分岐が現れた。

どうやら、車を転回させるための作りであるようだ。

つまりは車道の終点。割れ目火口に着いたらしい。