道路レポート 旧三原山ドライブウェイ 中編

公開日 2017.01.03
探索日 2016.02.06
所在地 東京都大島町

“割れ目噴火 VS ドライブウェイ” の古戦場


2016/2/6 14:35 《現在地》

分岐から1.5kmの地点で突如鋪装が綺麗になったと思ったら、直後に道は不思議かつ不自然な状況になっていた。

写真では分かりづらいと思うが、前方30mほどの地点で上下線が左右に分かれており、その先は方向転換のためのループカーブになっている。
このことで、分岐地点の青看に行き先として表示されていた「割れ目火口」に到着したのだと分かった。
旧ドライブウェイは噴火活動により寸断され、今なお自動車の通れる道としては復旧されないままになっているのだろう。

だが、実際にはこの折角のループカーブも通行する事出来ない。
なぜなら、向かって右側の道は、大量の瓦礫のようなもので封鎖されていた。




ところで、この“終点”の直前には、小さな建物が二つ、道に面して建っていた。
いずれの建物もコンクリート製である。
噴火以前の航空写真には見あたらないので、ここが“終点”となった際に整備された施設だろう。


奥の円柱を横に倒したような形の建物は、バスの待合所だと思われる。
以前はここまで路線バスが運行していたのかもしれないが、現状ではバス停も見あたらないし、外壁もかなり風化してしまっている。
頑丈なコンクリート造りなのは、火山災害時に降下する噴石から身を守る壕的な役割も期待されているのだろう。
これよりも作りはシンプルだが、島内の数ヵ所に似たような避難壕が建造されているのを、この2日間で目にしていた。

また、手前の円柱を立てた形の建物は公衆トイレだった。
利用を試さなかったので、現役かどうかは分からないが、こちらもだいぶ痛んではいた。



写真は、ループ道路の部分を振り返って撮影した。
中央に見える植え込みは人工的なもので、その周囲をぐるりと道が取り囲んでいる。
だが、ループ道路の左側半分は、大量の瓦礫の下敷きで通行できない。
外部から持ち込まれた工事用残土のように見える。

探索の2年半前である平成25(2013)年8月に撮影されたGoogleストリートビューの画像では、ここも普通に路面であったから、それ以降に何かが起きたらしい。
この期間内に大島を襲った土砂災害というと、甚大なものが一つ思い当たるが、関係あるのだろうか。




そしてこちらが、運命の眺め。

ドライブウェイが本来あった場所の、あまりにも変わってしまった、現状の風景である。

旧ドライブウェイは、見あたらない。

割れ目火口跡が観光地になっていることを把握した時点で、そこに普段の廃道探索で相手にしているような“素のままの災害廃道”が放置されているわけではないことを理解していたが、思った以上に、旧道感というものは失われてしまっているようだった。

それは災害の大規模だったがゆえなのか、それとも、災害後に行われた観光化のせいなのか。或いはその両方か。
その判断は、もう少し保留しておこう。まだ何ともいえない。




なお、この日の終点付近に観光客の姿はなかった。
というか、分岐地点からここまで、誰とも出会っていない。
入口に簡単なバリケードが設置されていたので、この結果は当然なのだろう。

それでも1枚の案内板が、私に貴重な学びの機会を与えるべく待っていてくれた。
全文は以下の通りである。

割れ目噴火 C火口列  Fissure erupion C craters
1986年11月21日17時46分に、外輪山の北西の山腹から割れ目噴火が始まりました。割れ目噴火は南東から北西方向へ伸びて、長さ約1キロメートルの間に11個の小さい火口ができました。それぞれの火口から次々に溶岩を噴水のように吹き上げ、6番目の火口からは溶岩が流れ出て、元町の方へ向かって谷を下りました。そして、島民約1万人が島外へ避難しました。
大島火山は、山頂火口だけでなく海岸付近や山腹からも噴火をくり返しおこしてきました。そのときの火口や割れ目は、南東から北西の方向にひび割れるような大きな力を受けているためです。そのひび割れの方向で噴火が何度もおこり、溶岩や火山灰などが降り積もったために、伊豆大島は南東から北西に伸びた形をしています。


“終点”の先には、入口に車止めが設置された幅3m程の舗装路が1本だけ先へ伸びていた。
湯場の分岐地点に設置されている案内板に、「溶岩流遊歩道」と書かれていた道に入ったのだ。

その舗装は、明らかに旧ドライブウェイ時代の路盤ではない。
だが、おそらくはそれがあった位置に重なって存在している。
周囲に他の道路跡は見あたらない。

傍らには、「天皇陛下臨幸之跡」と刻まれた、大きな木製の標柱が立っている。
側面には昭和62年6月に建立されたことが書かれており、割れ目噴火の半年後に臨幸を迎えている事が分かる。
その際には、一般自動車道としての事業を終えて大島町道となったばかりの旧ドライブウェイを通行されたのであろう。

そして、道はすぐに“突き当たった”。




道が、なくなっている!!


…いや、 “ 遊 歩 道 ” は、ちゃんと続いていた。
やや草むしてはいるものの、中央に擬木コンクリート製の手すりが付いた立派な階段歩道だ。

しかし、私が捜すドライブウェイの痕跡は見あたらない。
というか……、もっと重大な事実に気付く。

地形。

ドライブウェイを支えていた根本の土台としての地形が、変わっている。
眼前に階段を要する急斜面が立ち塞がっていて、そこには車道が通じていた形跡が無い。
つまり、この目の前の階段のある小山は、割れ目噴火によって突如出現した“新山”というべき地形であるらしかった。
実際に登ってみれば、そこは確かに今までの沿道と比べて遙かに植生が乏しく薄い。
そしてその薄さの下には、未だに焼けた風合いを濃厚に留める黒い溶岩が、粗々と露出していた。



「見たまえ! これが旧ドライブウェイの跡地だ!」

そんな風に叫んでも、その声は虚空に消えるだけだろう。
私の声を受け止めてくれるような遺物がないのだ。

私が立っている場所と、右奥に見える旧ドライブウェイ“終点”との高低差は大きい。
そしてこれがほぼそのまま、“新山”が、ドライブウェイを埋めてしまった深さである。



翻って、進行方向。

先ほど目にした解説板の記述通り、遊歩道に沿って幾つもの噴火口が存在していた。

この割れ目噴火の発生を目の当たりにして、大島町長は、全島民の島外避難を数時間のうちに決断したのだ。
先に発生していた山頂の噴火の方が規模は大きかったが、遙かに人里に近い山腹で
突如大量の溶岩の流出が始まった割れ目噴火の発生は、もはやこの島のどこにいても
溶岩から逃れることが出来ないかもしれないという、未曾有の恐怖と危機感を与える出来事であった。



遊歩道に面して一際大きな口を空けているこの火口が、解説板にあった「6番目の火口」であるようだ。
この火口から溢れた溶岩流は、元町集落の山手にあった斎場手前70mの位置まで、非常に速い速度で流れ下った。
これは昭和61(1986)年の三原山噴火によって生じた溶岩流の中で最も人里を危険に晒したものとなった。

こうして火口から眺めると、溶岩流が駆け下った谷と、
その先にある元町集落の間の危機的な位置関係が伺える。
結果として集落も人身も無事で済んだが、これは十分に戦慄を覚えさせる光景だ。



「見たまえよ…。 これが、旧ドライブウェイの跡地…。」

………………。

私は、なんども遊歩道の左右へ外れて、溶岩とススキの原野へ分け入った。
そのいずこかに、一欠片でもドライブウェイの路面を、なにがしかの痕跡を、見つけ出そうとした。
「溶岩流遊歩道」の長さは約400m。割れ目噴火に呑まれた旧ドライブウェイの区間も約400m。
両者は必然的に“近い”はずだったが、前者を行く私に後者の姿は、全く見えなかった。

前方は、果ては見えるがまだ遠い、外輪山の山稜線。
振り返ると、果ては霞んだ海に溶け込んだ、ススキの原野。
どこまでも荒涼とした、道の“後”。(「痕」や「跡」ではない、「後」が相応しい)




14:52 《現在地》

“終点”から約10分、自転車を押しながら、階段の多い歩道を進んだ。
この間、一度もドライブウェイの痕跡を見出せなかったが、ここにきて変化が起きた。
前方50mほどの地点に現れた、観光客らしき複数の人影と、彼らが乗ってきただろうクルマの姿。

私は、割れ目噴火によって分断された区間を貫通し、その“続き”に辿り着いたのだ。

だ! だッ!!」


私は、愛しい道を求め駆け出したッ――




キターーーー!!!

茫漠の原野を抜けて、突如のドライブウェイ出現! 目が醒めた!

いいぞこれ! 凄まじい、ぶった切り感ッ!




道が噴火口に突き刺さっていくスタイル!

久々に再開したドライブウェイは、別れ際までのゆったりとした平坦な道とは打って変わって、
猛烈な上り坂の姿で地上に現れた。

それを逆に振り返って見ると、猛烈な下り坂が、
噴火により生じた“新山”に突き当たって唐突に終わるという、
“異様な光景”を見ることが出来た!



この異様さに満ちた“終点”の光景は、火山の噴火によって一部が廃止されたという特異な経歴を持つこの道を、道路趣味的な意味で愉しむうえでの最大の見所であると思う。

火山の噴出物(というか火口そのもの)によって見馴れた普通の二車線道路が断ち切られているという、この場所に期待された光景が見事に現出していた。

噴火口が大きな道路上に出現するという現象自体の発生頻度の少なさを思えば、これを見るためだけに大島を訪れても後悔はしないと思う。

しばらく求める道を完全に取り上げられていただけに、この再開時の衝撃はとても大きかった。
(なお、この歩道連絡の区間で標高は一気に50m上昇し、現在地は海抜500mである。失われた区間の急勾配ぶりが伺える数字だろう)


反対側の“終点”とは違い、こちら側の“終点”は、旧道の処理について、とても雑である。
それが、被災した道路のリアリティを感じさせ、一帯の魅力を高めている。

急勾配の路面に土を被せて無理に均して作ったような駐車スペース、傍らに残された埋もれかけのガードレール(熱で焼けたような色になっている!)、長い時の刻みを隠さないボロボロの舗装路面など、様々な旧道の名残を隠してしまう再整備を行わなかったことは、意図してか、予算不足故かは分からないが、ファインプレイだ。

観光地として整備された割れ目火口一帯には、噴火のあらましを伝える解説板も設置されているのだが、そこにドライブウェイの存在についての記述は一切見られない。
そのため読む人によっては、この道も噴火の後に火口を観光するために整備された道だと考えるかも知れない。




さあ! 足元に甦りし三原山ドライブウェイよ!

分断を乗り越えた私を、“本当の終点”へ誘えたまえ! そして、

完全に通行させしめよ!!



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机上調査(1): 不運だったドライブウェイ


改めて噴火前後の地形図(←)を比較してみると、割れ目噴火による三原山ドライブウェイの破壊が、執拗であったということを感じる。
割れ目噴火の影響は、下流に溶岩流が流れ出したことを除けば、かなり局所的なものであった。
そのことは実際に現地を訪れてみても、道が分断されている領域のほんの少し外側には普通に植生があり、道も普通に現存していることなどから実感出来る。
にもかかわらず約400mにもわたって道が失われてしまったのは、割れ目噴火の発生した領域を、“不幸にも”、横断ではなく、縦断する形で通っていたからに他ならないだろう。

はっきり言って、三原山ドライブウェイはその終末に限っていえば、おそろしく不運(bad luck)であったとしか思えない。

三原山は我が国でも有数の活発さを誇る活火山であり、近代に入ってからもおおよそ35〜40年間隔で溶岩の噴出を伴う(中規模)レベルの噴火をおこしてきた。
昭和61(1986)年の噴火の前は、昭和25(1950)年から翌年にかけても同程度(中規模)の噴火が起きているし、その前は明治45(1912)年から大正3年までも中規模の噴火をしているといった具合だ。
だが、これは帰宅後に調べて初めて知ったことなのだが、そんな三原山にあっても、外輪山の外側まで溶岩流が流出する噴火は18世紀末(安永〜寛政)以来であり、まして外輪山の外側に新たな火口が出現する(割れ目噴火が発生した)噴火に至っては、15世紀初頭以来であったというのだ。

つまり、昭和61年11月21日に突如外輪山の外で起きた割れ目噴火は、三原山にとって約500年ぶりの出来事だったのであって、以前から島内に古い時代の割れ目噴火の痕跡がいくつもあることが知られていたとはいえ、新たな割れ目噴火がドライブウェイを直撃する事態を予見出来る人など、おそらくいなかった。

その上でなおこの道に運が無かったと思うのは、そんな青天の霹靂のような割れ目噴火が、狙い撃ちのようにドライブウェイの延長方向に出現してしまったことである。
縦断ではなく横断的に破壊されただけならば、数年後には同位置に復旧できたのかもしれない。



今回の探索では、割れ目噴火の直接の影響を受けたであろう区間内には、全くドライブウェイの痕跡を見つけることが出来なかった。

道は完全に失われてしまったのだろうか。
それとも、私が見逃した可能性もあるのだろうか。
その疑問の答えを求めて、噴火前後の航空写真を較べてみたのが右の図だ。

噴火前の昭和51年時点では、当然のことながら路上にこれといった障害物は無く、小さな沢に沿う形で道が整備されていた。
そして、この比較図には示さなかったが、噴火直後といえる平成3年の航空写真では、道は分断され黒い噴出物に覆われてしまっている。
画像だと平面的にしか見えないが、実際は現地で見たとおり、割れ目火口の周辺は“新山”といえるような盛り上がった地形に変わっていた。

さらに、平成11年(右図のチェンジ後の画像)になると、火山噴出物の様子は変わっていないが、その上に一筋の小径が出来ている。
言うまでもなく、今回歩いた「溶岩流遊歩道」の姿である。

溶岩流遊歩道と旧ドライブウェイの位置関係を見てみると、今回私が遊歩道の左右に少しはみ出しながら捜索した範囲で、全体がカバーできていたと感じる。
やはり残念ながら、旧ドライブウェイは既に地表から見える姿では現存していないのだろう。
と同時に、ぶ厚い火山堆積物の底を捜索することが可能ならば、焼け爛れたアスファルトであるかもしれないが、なんらかの痕跡が埋没している部分はきっとあるだろう。

以上、三原山ドライブウェイの“失われた400m”についての机上調査だ。