道路レポート 川根街道旧道(三ツ野古道) 第1回

公開日 2016.3.24
探索日 2015.3.10
所在地 静岡県川根本町

大井川の大いなる蛇行に付き合って… 前半戦


2015/3/10 12:01 《現在地》

ぐるっと周遊、大井川蛇行の旅のはじまりはじまり〜。(←もうはじまってますけどね) …というわけで、現在地は前回の最後の地点柳崎大橋の袂から、三ツ野へ通じる川沿いの町道を約300m進んだ地点だ。

まだほとんど景色に変化は無く、道の行く末の山腹が広大な杉の植林地に占められているように見える事から、スタート前のだいぶ“構えていた”印象とは対照的に、今回は少しばかり単調な山歩きになるかも知れないなどという、別の不安を感じた。
それに、今回の行程は最初から最後まで大井川沿いだが、この川に占める白い河原の広さはどうにも長閑で、緊張感を削いでいる。
「いざとなったら河原に降りて歩けば先へ進めそうだ」…なんてことを、軽口を叩くみたいに頭の中で考えていた。




この時点では川根本町の「町道」だと思っていた、この1.5車線程度の幅を持った舗装路(正体は後ほど判明)は、ルートの変化により国道も県道も対岸に取り逃がしてしまった富沢と三ツ野という旧道沿い2集落にとっての生命線、唯一のアクセスルートである。

路傍に置かれた、いかにも代替わりを続けてきましたと言わんばかりの「落石注意」の案内板に、未だ防災工事が完全ではなく、通行者自信に注意を要求しなければならない“町道”の悲哀を、勝手に感じた。
だが、結局心配したような荒れ場が現れることはなく、私の自転車は順調に距離を消化していった。




更に進むと、道のすぐ山手で重機が唸りを上げながら木材の伐出を盛んに行っている現場があり(治山工事だったかも知れない)、通行には支障はなかったのだが、そこでちょっと見馴れないものがペダルを止めさせた。

細長い箱状に組まれた木板が、苔生した石垣の表面に立て掛けられていたのだ。

ぶっちゃけ、このように見たとおりを説明しただけでは、一旦通り過ぎかけた私が、わざわざ振り返って戻るほど興味を感じた理由が説明出来る気がしない。
と!ともかく! 何となく興味を感じたんだ! そういうことって、たまにあるじゃないか?




あっ (察し)

この愛くるしい灰色の“おみ足”は、オブローダーを含む全道路利用者に癒しを与える路傍の石仏、お地蔵さまに相違なかった。

なんとも見馴れない風景ではあるが、私の心を朗らかにさせる効用は大であった。
美しい、人が持つ優しさを見た思いがした。
木を伐る(あるいは治山をする)という現代の仕事の中に、遠い昔に見ず知らずの誰かが置いたお地蔵さまを、その仕事中に発生するかも知れない落石や崩土から守り抜くという要素が、おそらく寸分の疑いもなく組み込まれていた。しかも、ブルーシートで覆い隠すようなマネキン同然の扱いではない。手慣れた板組みは、今回の施工者にとって、こうした仕事が常である事を物語っていた。勿論、価値が公認された文化財だから守られたなどと言うオチではない。



12:06 《現在地》

入口からちょうど1km進んだところで、植林地の鬱そうがパッと晴れ、ホッとするような集落の景観が現れた。

山を負い、川を前する東向きの緩斜面に、10戸くらいの屋根が道沿いに建ち並んでいた。
これが、富沢集落である。

かつての川根街道の通り道であると思えばこそ、街村的な佇まいに心動かされるものがあったのだし、同時に現在は“ほぼ”袋小路(この先にもう一集落ある)になっているがために生じたであろう観光看板の色褪せぶりが、物寂しくもあったのだ。



交通の大きな流れから取り残されはしたが、人が住み続けている日本の山村のほぼ全てがそうであるように、ここも道は大変に綺麗でゴミひとつ落ちていなかった。
その事に安堵する私も居た。

公道とは、心ならぬ部外者の立ち入る機会が失われるほど、そこに住む人の手によって美しく清浄に掃き清められていく。
その一種の自浄力さえも及ばなくなったときが、いよいよ村としての終わりであると、私はそう感じている。
たとえ崩れ果てた無人の廃屋が村の中に数を増そうとも、公道が清いうちは、まだ村の根には力があると思われるのだ。




富沢集落を外れると、道は一度大井川に背を向け、小さくVの字型に迂回をする。そしてその迂回の頂点で1本の橋を渡る。
取り付けられた小さな銘板によれば、橋の名前は三ツ野沢橋、竣工年は昭和38年3月であるという。

水量の割に広い川幅には、両岸の玉石の護岸をほとんど覆い隠してしまうほどに莫大な量の砂利が蓄えられていた。もっとも、この川が特別というわけではなく、少なくとも大井川流域では見馴れすぎた光景といえる。平時であれば簡単に渡れるが、一度増水すれば木製橋脚など忽ちへし折る、そんな川の景観。当然のように旧橋の痕跡は無かった。

なお、この川はかつて(明治22年以前)の村境である。そのまま現在では、崎平と千頭の大字境だ。
まだ本格的な廃道探索が始まる前であるが、地名の上では一足も二足も早く、千頭へ戻ってきたのである。



12:10 《現在地》

三ツ野沢を渡って300mほど進み、再び大井川の縁に戻ってくると、そこにも集落があった。
これが三ツ野集落で、家数は非常に少ない。3戸くらいだろうか。
郵便屋さんでさえも毎日には訪れそうもない、本当に末端の小集落である。
しかし、綺麗な舗装路と端正な茶畑が、ここでも私を迎えてくれた。

前述したとおり、ここはすでに千頭地区に含まれる。
今ではここから直接千頭地区の中心部へ行くことは出来ないが、これより探索する川根街道が生きていた時代には、そうでは無かったのだ。




持参していた地理院地図によると、道はこの三ツ野集落の入口辺りで破線に変わってしまっている。だが、実際にはさらに先まで舗装路が続いており、そのまま集落を通り過ぎる所まで来た。

ここからは、今までは対岸に張り出した半島状の山のため見えなかった、蛇行のずっと先の方の此岸の山腹までが見通せた。
かなりの急傾斜地であるが、ほぼ満遍なくスギが植えられているようだ。
そして、初めてその林の表面に、この道の続きであろう一筋の横線を見出したのである。
地図上の破線は、単なる徒歩道ではない車道的な規模を伴って、あの場所まで通じている気配が濃厚である。
大好きな“明治車道”への期待感に胸が躍ると同時に、随分上るもんだと感心した。



12:12 《現在地》

柳崎大橋袂の入口から約1.9km、遂に車道の終点に達した。
少し前に三ツ野集落を通過した辺りから、路上に落ちた枯葉や枯れ枝がそのままになっているのを見て予感をしたが、的中した。


終点の末端側に、ここまで私を連れて来てくれた道の正体を明かす立て札があった。
「林道富沢線」というのが、この道の正体であった。私が辿った距離とやや少しの乖離があるが、その差分には心当たりがある。(おそらくは柳崎橋旧橋との関わりであろう)

そして、その立て札の脇には、行き止まりの林道の意志を継ぐように、踏み跡が伸びていた。
得たりやおう。私が辿る道は、これに違いあるまい。

さらに、立て札の裏には見馴れた送電線巡視路の表示板があり、私と進路を同じくしていた。
中部電力の屈強な“電力マン”という“同伴者”の存在は、とても心強いものがある。




さあ、始めるとするか!


ゴールまで あと6km



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大井川の大いなる蛇行に付き合って… 後半戦 の始まり


予定通り自転車を乗り捨て、送電線巡視路の案内がある、旧川根街道のものと思われる道形へ踏み込んだ。

第一印象は、間違いなく「狭いな」だった。そして次が、「荒れてるな」だ。

現役の送電線巡視路にしては荒れている。もしかしたら現役でないのか?
だが、中途半端に「自転車でも行けるか」などと思い悩ませる要素がないのは、好都合だったのかもしれない。いま思えば。




そして、踏み込むと間もなく小さな枝谷を渡るようになっていたのだが(沢にはこんな金網橋が架かっていた。いかにも巡視路的だ。)、その対岸の道が「馬鹿みたいに」ぐんぐんと上っていく様を見て、私は落胆を禁じ得なかった。
私の(勝手な)事前の期待が、音を立てて崩れ去るのを感じたからだ。

この道、旧川根街道は、「明治馬車道」と呼べるような高規格な車道では無かったらしい…。
もはや、車道であったかさえも、怪しい気がするぞ…?
車道以外の廃道に費やす時間が無駄とまでは思わないけれど…、これから3km以上も付き合う事に、失望を覚えたことは否定しない。



枝沢から再び大井川沿いの山肌に戻ると、道は何事も無かったかのように平坦さを取り戻した。
だが、道幅はせいぜい1間(1.8m)。やはり車道としては物足りない。
ここにも巡視路の表示があった。

それから少し進むと、小規模な炭焼き竈の跡が残っていた。
その上に植えられたスギの太さを見ても、これはかなり古いものだ。




12:25 《現在地》

う〜〜〜ん。

どうしようかなぁ…。

い や ね 、ぶっちゃけ、どうしようかと思いましてね。
ここまで歩き始めて約10分。引き返すなら、この辺りが頃合いだった。

私は、基本的に引き返すことがヘタクソだという自覚はある。あるのだ。
だから、あまり深入りしてしまうと、探索を中止するという当然許されるべき計画変更が、
絶大な敗北感という高い壁の向こう側へ逃げ隠れてしまいがちとなる。
結果、選べなくなり、ズルズル何時間も…(←大量の没ネタを量産している私のいつものパターン)



とまあ、現場での私の葛藤をいくら語ってみたところで、結果的にここで引き返していたのなら、このレポートは生まれていないわけで…(苦笑)。

目の前に道が続いているのが見えていて、しかもそれが私の目指していた道であるという確信もある…。そんな状況では、それこそ危険過ぎて踏破を諦める状況か、体力的・時間的に断念せざるを得ない状況にならない限り、簡単には“フレ”ないんだよ。
ここで「あまり面白くなさそうだから」という理由で引き返しちゃったら、ここに至るまでに見て考えたこと、あるいは心の高揚が、みんな宙ぶらりんで終わってしまう気がする。
全力で立ち向かって敗北(引き返す)するのとは、全然意味が違っている。

というわけで、一度手を付けたのだから行けるところまでは行こうという、全くいつも通りの結論になったわけだが、そんな決意に冷や風を浴びせるように、道は、「街道?何それ美味しいの?」な杣道(そまみち)レベルと相成っている。
さすがに最初からこうだったわけではないのだろう。辺りは全体的に崩れた斜面のようだ。



ちなみにもう、川縁の安穏とした道ではなくなっている。
序盤に一気に高度を稼ぎやがったせいで、その後の道全体の危険度が底上げされている。全く困ったものだ。

ようは、ここの杣道(それも崩れている)を一歩踏み外したら、そのまま立木をピンに見立てた肉体ピンボールの球になる運命が待っている。
ワンミスで即座に60mくらい滑落し、白い川砂利の地面に叩き付けられる危険があるということだ。

とても分かり易く、両足が支える命。
(マジでここは割に合わんぞ…)



危険だが、短い区間だったのならば、まだいい。
だがここは区間としてもそれなりに長かったから、世話が焼ける。

一応は丸太材が桟橋のように組まれているのだが、半ば崩土に埋もれているそれの強度が、あとどれくらい残っているかについては、足裏の不確かな感触で確かめるくらいしか出来ない。嫌らしい。

毎日こういう道を往復するのが仕事なのだとしたら、林業とは木に触れる前の段階で凄まじくキツイ仕事である。
それに、相変わらず送電線巡視路の矢印に沿って歩いているのに、この有り様なのはどうしたことだろう。
経験的に、この手の巡視路が危険な場所を通るときには、手すりやロープなど、それなりに安全に配慮された設備があるものだが…。(巡視中の事故が労災対象になるからだろうか…)

ここは、いろいろやばい気がする…。(割に合わってないって…)



12:38 《現在地》

最初の崩落を見てから約10分間、息の詰まるような緊張歩行を続けた結果、車道終点から450mばかり進み、今回の行程中“最もミステリアスなエリア”の入口に差し掛かった。

“最もミステリアスなエリア”というのは、対岸からは窺い知れなかったエリアという意味合いが大きい。
今回の行程は基本的に全て大井川筋にあるのだが、このエリアだけは、支流オチイ沢に引っ張り込まれるように大きく蛇行していた。
それゆえ、対岸からはまるで見えなかったので、ミステリアスなのだ。

さらに、今回の探索のきっかけとなった明治41(1908)年の地形図には、オチイ沢に架かる橋がはっきり描かれている。
橋がある事が、車道だったのではないかという期待を高めたのだし、今やそれは風前の灯火(もう消えてる?)だけど、せめてオチイ沢渡河地点の現状を確かめるくらいの成果は、持って帰りたかった。 ん?! 矢印? 岩陰に何か?




地蔵キター!!

しかも、どぎつい色の草鞋付き〜?!

ま、マジかよ。 ここまでお地蔵さん背負ってきた人が居たんだな、おい…。
しかも、お供え物の草履については、さほど古いものでは無いような…。
わざわざお参りにだけ来たのだろうか? それとも、歩き通したのか?



歓びのままにかじりつき、身を屈めて最接近。

お地蔵さまの表情は、混じりけ零の純粋な優しさで出来ていました。
いくらそんな表情で見つめて頂いても、命のやり取りをしているのは私ですから、ほんと困るんだけどね!(…ありがとうございます)

そして、物言わぬお地蔵さまから以“石”伝心の情報収集。
向かって右側には、「通行人安全」の5文字である。
南無阿弥陀仏とかじゃない平易過ぎる願文は、現代でも色褪せない。通行人安全、いいね!

向かって左側には、「大正七年三月 西山清吉建之」の控えめな小さな文字。
大正7(1918)年時点においては、この道が大勢の通行人を往来させていたことの証左である。
そうでなければ、右の五文字が意味を成していない。

西山氏が本像を寄進した背景は全く不明だが、往来の無事を願う利他の心境が無条件で後の人々の共感を誘ったことは、かような立地に有りながら見棄てられていない証したる、しっかりと結わかれた草履の姿に見て取れた。

それゆえに、私も何かをしたくなってしまった。草履を持っていないことが悔やまれた。

よし、ここは賽銭で喜捨の心を示そう。
例年、初詣にさえ行かない私の財布からおもむろに取り出したのは、大奮発の100円硬貨。

と、ここまではまあ良かった。自己満足としては上等な部類に入る。
だが、硬貨をこれ見よがしに(お地蔵さまから見て)目立つ場所に置き、挙げ句は証拠として自分の手を加えた写真を撮影する辺り、完全に100円(税込み)で「通行人安全」の御利益を購入しようなどという、利己の極みヨッキであった。

…ちょっと情けない(笑)。



じゃあな、お地蔵さま。

前を向いて、再び歩き始めると…




尾根を回り込む、左120度の大カーブ。

これより、オチイ沢南側の斜面に入る。

曲がると、景色も雰囲気もガラリと変わっていた。
まずは視覚。
路肩に重なりあって視界を遮っていた木々の緑が、今までよりも薄くなり、何とも肌寒い。
杉の植林地を抜け出したことと、今まで以上の急傾斜の存在を示していた。あと、対岸の山肌が白っぽいことも…。

そして聴覚。
平坦に流れている今日の大井川が奏でるはずのない轟々という水の音、滝の音が、足元の切れた所から幽気のように立ちのぼっていた。
オチイ沢の深さと険しさを示していた。

また視覚。
気付けば辺りが薄暗い。青空はどこへ行った。御利益はどこ行った。




ああ…
これは、やべーな…。

直感するものがある。
オチイ沢の両岸は、ガチで断崖に近いのではないか。
そして、今までと同程度の道の保全状況だったとしたら、それは到底通行に耐えるものではない気がする。
今の時点でも道幅は50cmあるかないかという程度なのに、これ以上崩れたら即刻、逃げ場はない。高巻きや谷への下降も、現時点では落差がありすぎて無理だ。

足元を覗くと、オチイ沢の糸のような流れが見えた。白く見える時点で、流れの急さが分かる。
地図を信じるなら、オチイ沢の大井川合流地点から渡河地点までの流路長は300mほどしかないが、この間に約90mの落差を流れている。
一つも滝の記号は描かれていないが、滝のような流れである事は疑いようが無い。
そして道は、その300mの急湍のうち、200mくらいを南側と北側でなぞっている。
その区間が最大の難関になっていることは明らかだった。



なお、道自体はあまり高度を下げず、オチイ沢が上ってくるのを待ってから対岸へ渡る模様。

であるから、対岸にもこちらと同じくらいの高さに、道があるはずなのだが…


対岸の状況って…

↓↓↓


絶望の一枚岩(スラブ)…。


しかも↓



その中腹の高さに隣接するのは、

人の往来を声高に主張する、城壁の如き擁壁群!


この期に及んで↓



石碑(モニュメント)
とは、卑怯でろう!!

死なせたいか、そんなに。



今まで何度となく“石碑みたいな形をした自然石”には、泣かされてきた経験がある。

そして今度もそうかも知れない。自然は時として、奇跡のように巧妙な贋物を作る。

だが、それでも私は、対岸に立つ必要があるだろう。

少なくとも、石垣は絶対に幻ではない!

これまでの道とは比較にならない規模の構造物が、対岸絶壁上の自身とほぼ同じ高さに存在している!

彼我を隔てるは、50mの距離と深さ50mの谷。

もしも私が鳥のように飛べたなら、どんなに楽だろうかと思った。




だが実際に与えられているのは、

このあまりに頼りない、踏み跡だけ。



ゴールまで あと8km