道路レポート 川根街道旧道(三ツ野古道) 序

公開日 2016.3.20
探索日 2015.3.10
所在地 静岡県川根本町


危険な探索でした。

危険と言ったら、日本の急峻を沢山集めた“南ア”エリアの十八番である。

千頭林鉄のふるさと、川根本町に再登場を願おう。




【周辺図(マピオン)】

左図は川根本町の千頭地区周辺を描いた最新の地理院地図画像だ。
今回探索した道は、この地図をぼんやり眺めているときに、気になり出した。そして簡単な机上調査の末に、探索を決行した。
そんな緩い動機というか、きっかけから、非常に危険な探索に追い込まれた(苦笑)。

さて、この地図の中で、皆さまはどこが気になりますか?

私が着目したのは、大井川に沿って並走(一部重複)する国道362号県道77号の位置関係であった。
千頭から金谷までの大井川の中流には、国道と県道が川を挟んで両側に並走しているのだが、これは国道が右岸(西岸)、県道が左岸(東岸)という位置関係を、まるで暗黙の了解でもあるかのように保っていて、国道が左岸へ“お邪魔”するのは、おおよそ42kmの中にたった2箇所、4kmくらいしかない(平成28年現在)。
大井川の激しい蛇行を思えば、もう少し橋を架けて川を串刺しにするショートカットが多くても良さそうだが、そうした改良は、まだまだ発展途上である。

そしてこの地図の千頭付近が、そんなレアな2箇所のうちの1箇所だ。
南から千頭を目指して右岸を北上してきた国道は、「崎平」で大井川を渡り左岸へ移動。以後「田代」「小長井」を経て、静岡方面へ向かっている。
だが、地図を良く見ると、「崎平」で川を渡らず、そのまま右岸の「富沢」「三ツ野」を経由して「千頭」へ至る道も描かれている。

この状況を見て真っ先に思ったのは、「富沢」や「三ツ野」を経由する道が、国道の旧道なのではないのかということだった。


以前、千頭林鉄の探索を行ったので、この辺りの机上調査資料は、既に入手していた。
そして、“右岸旧道説”を確かめるべくそれらに目を通すと、早速発見した。
動かぬ証拠。

左図は、『本川根町史 通史編3 近現代』(以後『町史』とする。なお、この書名は誤記ではない。川根町が平成17(2005)年に中川根町と合併し、現在の川根町になっている)より転載した、「本川根地域概略図〜明治初期〜」である。
この図には明治初期の(おそらく近世から引き継いだ)交通網が描かれており、中央を大きく蛇行しながら流れる大井川の両岸に、それぞれ川岸の道が描かれている。
このうち右岸の道は、「千頭」「みつ野」「富沢」といった先ほども出て来た右岸の地名を貫いて、ずっと上流まで続いていて、「川根街道」と名付けられている。
地理院地図に描かれている右岸の道の正体は、この川根街道であろう。

なお、千頭は古くからの交通の要衝で、大井川に沿う川根街道と、富士見峠を越えて駿府城下(静岡)へ通じる川根東街道の結節点に位置している。そのため、大井川上流域の産物(主に木材)の集積地であった。(その地理的条件が、後にここを大井川鉄道や千頭森林鉄道の終点や起点にした)

なお、ここで一つ大井川流域の交通に関する、重大な“特殊事情”について、触れておきたい。
次の一文は、近畿大学がまとめた『本川根町千頭の民俗』からの引用である。

大井川は江戸時代には、川越し制度のために掛橋と渡船は勿論の事、川の流れを利用した運搬の船さえ禁止されていた。そのため、大井川上流の人々は峠道をつなぎ物資の運搬や搬入を行っていた

大井川は元来水量も豊富で、中流以下は流れも緩やかな舟運に適した河川であるにも拘わらず(その証拠に明治になってすぐに舟運が開始されている)、江戸幕府の政策により数百年ものあいだ、交通においては、障害としてのみ存在していたというのである。
(なお、千頭と対岸の小長井の間には、近世から例外的に「桶越し」というタライ船による通船が認められていた。このことも、千頭や小長井を発達させた)

この重大で全国稀な“特殊事情”は、大井川の両岸にそれぞれ1本ずつ、生活のための道を生み出さしめた。
それが、地形の緩急を問わず、激しい川の蛇行にもめげず、今日まで(ほぼ)両岸に1本ずつ国道と県道を並走させ、かつそれぞれがその領分を(ほぼ)守り続けている、原点である。
明治以降は架橋も自由になったが、簡単に数百年の伝統はふるい落とせないのだろう。

ただ、そんな中にあって、今回紹介する区間は、いち早く“架橋により棄てられた”のである。  な ぜ だ ?

そこに考え至ったとき、嫌な予感がした。


なお、入手済みの旧版地形図も当然見てみたのだが、私が最初に述べた予想 《「富沢」や「三ツ野」を経由する道が、国道の旧道なのではないのか》 は、正確では無かった。

明治41(1908)年の地形図では、「富沢」(冨澤)を通る右岸の道は、里道としてはっきり描かれているのだが、昭和42(1967)年版では既にそこを避け、左岸の「三盃」「田代」を通るようになっていたのだ。(他に昭和27年版も確認したが、道の表記は明治とほぼ変わらなかった)

国道362号が初めて指定されたのは昭和50年であるから、富沢経由のルートは、その遙か以前から旧道化していた(そしておそらく廃道化…)可能性が高い。
ちなみに、昭和42年版の地形図では、後に国道となる道が「主要地方道」として表現されていた。

これらのことから考え、今回私がチャレンジした道の正体は、近世から明治大正昭和中期まで「川根街道」として利用され、昭和42年以前の崎平地区への架橋により役目を終えた「旧道」である。

往時、この道がどの程度整備されていたのかは記録が乏しく分からないが、昭和6(1931)年の大井川鉄道開業まではそれなりの交通量があっただろうから、規模にも期待したいと思う。



なお、現在の地理院地図を良く見ると、
「三ツ野」から「千頭」までの区間、おおよそ3.4kmが、破線の徒歩道として描かれている。
そして、廃道化が強く疑われるこの区間こそ、今回の踏破目標の中心だ。

探索のスタート地点は、千頭駅に併設された「道の駅」とした。
そこから自転車で「三盃」「崎平」「富沢」を経由して「三ツ野」へ向かい、
さらに徒歩で破線区間を踏破(探索)し、スタート地点の「千頭」へ戻るプランである。

では、スタート!



対岸の様子を気にかけながらの… アプローチ


2015/3/10 11:07 《現在地》

千頭駅に隣接した敷地に、今回の出発地「道の駅奥大井音戯の郷(おとぎのさと)」がある。
もともと千頭駅は大井川鉄道開通当時の終点駅で、井川線がさらに上流へ向け延伸された現在でも、大井川鐵道本線と同・井川線を結ぶターミナルになっている。
海抜は約300mとさほど高くはないが、これより上流は大井川の谷がぐっと狭まり、人煙もずっと薄れてくる。ここは3000m級の山岳をも擁する南アルプスの南の玄関口であり、世界中から多くの山を愛する旅人が、この駅頭より旅立っているのである。

私もその末席の一人ではあるが、今回のターゲットは駅のすぐそば。まさに“駅裏”レベルの近さだ。
(だが、近いから簡単に訪れられるとは限らないことを、今回思い知ることになる。)




出発して最初に通ったのは駅西側の山際を通る町道で、特別な理由があってその道を選んだわけではなかったのだが、少し高いところを通っているため、まるで鉄道ジオラマのような駅構内を見渡せるという、嬉しい成果があった。(全体的にミニチュアめいた景色だが、特に線路上を歩く作業員達が昭和ジオラマチックだ(笑))

この写真が本編にとってどう重要なのかと問われると答えに窮するが(苦笑)、個人的に千頭駅は地方ローカル鉄道の見応えがある駅というだけで無く、これまで何度も探索した千頭林鉄の起点としての格別の思い入れもあるのだった。
ちなみに、現在の道の駅の駐車場や敷地がある一帯が、まさに千頭貯木場の敷地だったところで、この写真では大部分が右のフレーム外に行っているが、手前に伸びている井川線の線路は、林鉄現役当時、ここから沢間駅まで軌間が異なる林鉄との三線軌条で運用されていたのである。とまあ、完全に話が脱線してしまった、失礼。

同じ町道から見渡す別アングルの眺め。手前から、道の駅の駐車場、千頭駅、大井川、そして対岸の小長井集落が見える。

昭和31(1956)年までは、こちら岸が上川根村、対岸は東川根村という別の村であっただけで無く、郡も榛原郡と志太郡と分かれていた。
冒頭で述べたとおり、近世には遙か下流の東海道筋から、この地に特別に許されていた桶越しの渡河地点まで、大井川一切で渡河が禁じられていたのである。

今日では立派な橋が架けられ、川を挟んだ一個の市街地のように見えるが、これから向かう道は不自由の時代に生まれ、禁が解除されてからも人々が実際に橋を架ける力を得るまで働き続けた、今日の発展の遠い下積みとなった道なのだろう。
私はどんな道でも大概好きだが、生活道路というジャンルが一番萌える。(燃えるのは別な)

…さすがに本番前に語りすぎた。いい加減スタートだ。



11:21 《現在地》

「越すに越されぬ…」と謡われた大井川を、手近な橋で気軽に渡る。

この橋は千頭地区と田代地区を結んでいる「千代橋」の旧橋(左に見えるのが現在の橋)で、橋名は両岸の地区名から1文字ずつを取ったのだろう。
長さの割に幅が狭いため、歩行者や自転車専用になっているが、かつては自動車も通っていた。昭和36年の竣工である。

見ての通り、今日の感覚からすれば頼りない橋であるが、大井川では上流で伐採される大量の木材を伝統的な管流し(筏を組まずバラバラに流した)で輸送していたことや、暴れ川であることから通常の木造橋の維持は困難であるため、本流を渡る橋の多くが(木造橋脚を持たない)吊橋であった。それだけに重い自動車が何台でも連なって通行できるコンクリート橋脚の永久橋は、他の地方に較べてかなり遅れた導入であったようだ。




旧千代橋の下流150mほどの所に、大井川鐵道の鉄橋が架かっている。
絵に描いたようなプレートガーダーの鉄道橋は、前にここへ来たときと同じく、今回も不動の絵画的な美しさで私の目を楽しませてくれたのだが、今日ははじめて、その“背景”に意識が向けられた。

というのも、今回歩こうとしている川根街道旧道は、橋の背景に見える派手な崩壊地のような斜面を、多分横切っているはずなのだ。
崩れている場所よりも上で横断してくれていれば、何も言うことはないのだが、ちょっと遠望では何とも言えない。
もし、あの崩壊地を横切ることになるとしたら、怖そうだ。
まあ上部に杉の植林地があるので、高巻きは不可能でないと思うが…。
いずれにせよ、後の展開に対する不安材料を一つ、早くも目にしてしまった。



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川を渡るとそのまま国道362号に合流。
これが現代の川根街道である。

そのまま道なりに進むと間もなく写真の丁字路になるが、ここを右折するのが三盃(さんばい)を経由する旧国道で、直進が現国道だ。
今回は急ぐ旅ではないので旧道を選ぶことにしたが、三盃集落へ用事がある人以外は黙って直進した方が経済的だ。
なにせ、ここの旧道は川の蛇行に延々付き合ってぐるぐる走り、3kmも先でようやく現国道に合流する。
驚くなかれ、この間の現国道の延長は、僅か300mである。(マジで!)




三盃経由の旧道へ入ると、間もなく1車線になった。
遠回りの上に、狭い道。
傍らには撤去し忘れたらしき、コケに汚れた“おにぎり”があった。

ここが旧道化し、国道の指定を解除されたのは、平成元年頃である。
それまで、川根街道を走る全てのドライバーが、その通行のたび2.7kmも余計に運転していたのである。
時間にすれば、5分くらいか?
道が整備される事は、人生の自由に使える時間を増やすこと…それは寿命を延ばすのにも等しい行為である。
そんな事が実感される、てきめんな整備効果だと思った。



11:35 《現在地》

川の蛇行の頂点に形成された小規模な沖積地にあるのが、三盃の集落である。
変わった地名だが、由来は分からない。川根地方の多くの集落と同じように、ここも日当たりの良い場所は優先的に茶畑として利用している。
集落の民家の多くが道路沿いでなく、茶畑の中に散村的に点在しているのが面白い。

今回私が旧道を選んだ理由の一つとして、これから探索しようとしている対岸の様子を観察しておきたいという思惑があった。
そしてそれは、ここで実現出来た。

対岸の山腹は、この地方の山が大抵そうであるように急傾斜だが、先ほどの千代橋の上で見たもの以外に、大きな崩壊地は見あたらない。
全体的に杉の植林地が地表を覆い隠しており、林業関係者が出入りする道が最低限整備されていることも見込まれた。
とりあえずまだ踏破は始まっていないが、一応の安心を得た気がした。



11:50 《現在地》

川沿いの旧道を更に進んでいくと、たまたまこの日は道路工事をしていて、全面通行止めになっていた。
しかし、その時点でもう分岐から2km以上も来ていたので、戻る気にはなれない。
そこで現場近くにある茶畑の作業路を辿り、石垣をよじ登るという、少々強引な迂回をしたせいで、戻ったのと大差ない時間を要してしまった(苦笑)。

ともかく蜷」という所まで辿り着くと、前方に先ほど分岐した現国道が、大きな翼を拡げるような立派な橋で再び大井川を渡っていた。
これが蜷」と崎平地区を結ぶ「柳崎大橋」であり、現在の橋は平成4年に開通したものだが、昭和42(1967)年の地形図を見ると、先代の橋がちょうどこの撮影時の立ち位置辺りから対岸へ通じていたようだ。




堆積した砂利が山のように積み重なった白い河原の対岸に目を凝らすと、なるほど、旧橋の橋台が見て取れた。
旧橋の痕跡として残っているのは、どうもあの橋台だけのようである。

記録によれると、この旧橋は柳崎橋という名で(柳瀬と崎平を結ぶ故の命名だろう)、先ほど見た千代橋の旧橋と大体同規模のコンクリート橋として、昭和34(1959)年に開通したようだ。
では、昭和34年までの川根街道は、これから歩こうとしている対岸のルートであったのかというと、話はそう単純ではないかも知れない。

というのも――




現国道の柳崎大橋を渡って崎平側の橋頭に立ってみると、今度は先ほどの旧橋とは別の位置に、やはり大井川に向かって起立する立派な吊橋の主塔を目にしたのである。
なぜか(本当になぜなんだよ…俺)、あの主塔の袂へは行かなかったので、素性不明の橋(記録も残っていないし、歴代地形図にも記載はない)なのだが、高確率で昭和34年以前に使われた“旧旧橋”であろう。
吊橋構造である点もそれっぽい。



これら3世代の橋の位置関係をまとめると、左図のようになる。
旧旧橋に素性については、この地方における吊橋主塔の特徴や、時代背景から推測し、昭和6年から10年頃までの期間に時局匡救土木事業で整備された木造の吊り橋だった可能性が高いと考えている。
その場合、これから向かう川根街道の旧道は、昭和初期にメインルートとしての役割を終えていたということになる。




さて、柳崎大橋の袂より上流へ向かうこの道が、目指す旧道だ。

ここから岸に沿って約5.5km進めば、スタート地点の千頭駅に戻るはず。

地図上での行程は、川の蛇行の外周側山腹を半巡するだけの、とても単純なもの。

ここからの見通しも良く、案外すぐに終わるかとも、思ったのだけど…。


この旅で私はまた一つ、土地に刻まれた悲しみの残骸を知る事になった。



ゴールまで あと5km