生鼻崎の自転車道 前編

所在地 秋田県男鹿市
探索日 2014.09.01
公開日 2014.09.05

【位置図(マピオン)】

上の位置図を最初に見て頂きたいが、男鹿市に生鼻崎(おいばなさき)という場所がある。
ここは、秋田市よりももっと南から延々と70km以上も続いてきた平穏な砂丘海岸が終わりを迎え、男性的な岩石海岸を主体とする男鹿半島の景観へと移り変わる最初の地点であり、昔から男鹿への関門となってきた。縄文時代頃までは歴とした日本海に浮かぶ孤島であったという“男鹿島”の南東の端にあたる。

右図はこの生鼻崎付近の地理院地図で、最近は更新されていない紙の地形図に替わる最新の地形図だ。
見て分かるように、生鼻崎には長短2本のトンネルが存在する。
短い方が昔からある生鼻崎トンネルで、開通は昭和53年。全長490m。
長い方は平成19年に開通したばかりの第2生鼻崎トンネルで、全長723mである。
これらのトンネルは、秋田県の一般道路ではおそらく唯一の片側2車線で運用されており、秋田と男鹿を結ぶ大動脈として国道101号に指定されている。


続いてこちらの図は、少し古い平成8年発行の道路地図にある生鼻崎付近である。上の地図よりは広い範囲を表示している。

この当時は当然生鼻崎トンネルは1本しかなく、国道も伝統ある船川街道をなぞって、茶臼峠越えを選んでいる。
生鼻崎トンネルの開通以降、茶臼峠は地元で「幽霊が出る」と噂されるようになるほど交通量が激減していたが、それでもごく最近までずっと国道であり続けていた。
生鼻崎トンネルが2本になってからもしばらくそうだったのだが、ここ1〜2年の間にようやく国道と県道59号男鹿半島線が入れ替わり、本来のイメージ通りになったようだ。

そろそろ本題に入る。

右図の生鼻崎をもう一度よく見て欲しい。

当時は、岬の先端を回り込むような車道も存在していたのである。

しかも私はその道を、秋田で暮らしていた小6の夏(平成元年)から平成18年までの間に少なくとも一度、自転車で通った記憶がある。
私の最も古い写真フォルダを見ても、残念ながらその時の写真は見あたらない(=デジカメを購入する以前、すなわち平成12年以前の通行らしい)が、通ったという記憶は確かだ。

当時は地図にも道が描かれているように、いたって普通に通る事が出来ていたのだが、最近の地図にはこの道が描かれなくなっていることに気付いた。
それでまさかと思い、平成26年9月1日に現在36才の私が現地へ行ってみたのが、今回のレポートである。




思ひでのサイクリングロードは今


2014/9/1 14:27 《現在地》

私にとっては既にお馴染み、しかし「山行が」では初めて紹介する景色だと思う。
ここは生鼻崎トンネルの東口で、男鹿市脇本脇本にある。
集落は砂丘海岸に立地しており平坦だが、その西側は厳然と生鼻崎の山脚に画されており、集落を貫通した国道もその地平面のままにトンネルへ突っ込んでいく。

左に見えるのが従来からの生鼻崎トンネルで、右に見えるのがまだ新しい第2生鼻崎トンネル。
私が立っている場所は、4車線化(上下線分離)に伴って作られた集落への出入り用の側道である。




自転車ではまだ通ったことのない第2トンネルを脇目にスルーし、より馴染みの深い(第1)トンネルへ近付く。
この日はたまたまこのトンネル内で何かの作業をしており、1車線が規制されていたが、本来は秋田では珍しい一方通行2車線のトンネルである。
(以前はそうではなかったので、脇道から進入したドライバーが勘違いして逆走しないように、写真のような注意書きがある)

そして、このトンネルの入口で左に分かれるのが、現在の地図では記載されなくなった生鼻崎回りの道だ。
確か「サイクリングロード」だったような記憶があるのだが、この記憶も確かで、調べてみると、ここは「秋田男鹿自転車道」という名の大規模自転車道(以前探索したここと一緒)で、昭和63年に一般県道403号秋田男鹿自転車道線に認定されていた。(ちなみに秋田県道のラストナンバーである)
つまり、地図から消えた道は県道である。
(冒頭で紹介した地理院地図でも、ちゃんと県道の色で塗られていた)



昔の写真フォルダを漁っていたら、平成14年7月25日に撮影した生鼻崎トンネル東口の写真を見つけた。

これは懐かしい当サイト初期のレポートである男鹿林道へ向かう途中だな。
当時は探索と言うよりは純粋な“山チャリ”だったから、「道路レポート」ではなく「走破レポート」であった。
写真のタイムスタンプも午前5時18分だから、日が登る前から当時の自宅があった天王町出戸浜(現:潟上市)を出発していたことが分かる。

残念ながら、この時の私はこのままトンネルへ向かってしまい、海岸沿いの道には入らなかったのだが(既に通った事があったからだろう)、今の写真と比較するとわずか十数年とは思えない違いがある。
当時まだ県道だった道が片側1車線だったのは無論のこと、側道は存在せず、現在は単なる歩道となっている部分にも、暗にサイクリングロードであることを示す白線が描かれていた。ここが歴とした県道403号だったわけだ。当時からトンネル内に歩道はあったが、サイクリストは生鼻崎を回るのが普通であったと思う。



“現代”に戻って、これがサイクリングロードの入口だ。

地形図から抹消されている道なので、入口に「通行止」を示す何かがあるかとも思ったが、そんなものはなく、別に変わった様子もない。
おそらく工事関係者のものと思われる乗用車が停まっていて奥が見えないが、とりあえず問題は無さそうな感じだ。

ちなみに、生鼻崎トンネルの坑門はその上下で色が違うが、これも昔は無い意匠だった。
昭和53年生まれで少しだけ古びてきた坑門を、観光地の玄関口らしい姿を目指てし化粧直ししたものだろう。
上半分は白く塗られ、下半分はまるで石垣のようなイラストが施されていた。また、なぜか金属製の立派な銘板が消滅していた。理由は不明。




あ……れ?


なにあの緑。


嘘だろ?

道、あったはずだぞ、ここ。



14:28 《現在地》

これが現実。

微かに見覚えのある道は、その見覚えの中にある防波堤だけを地上に残して、私の目の前から姿を消していた。

これが、地形図から抹消されるという現実なのか。
破線さえ残さず消えていたのは、こういうことだったのか。

…俄には信じがたい。

私は確かにこの道を通った憶えがあるのだ。
それだけに、目の前の光景を素直に受け入れられなかった。



道を塞ぐ“緑の壁”としか形容しようがないものの正体は、腰くらいの高さまである土砂の山を苗床とする夏草だった。

ここには確かに道があったはずだから、腰丈の土砂はどこからもたらされたのか。
余りに完膚無きまでに道を埋めていたので、人為的に道を埋め戻したのかとも思ったが、現実はそんな甘い物ではあり得なかった。
やはりこれは、自然に発生した土砂災害の結果なのだった。

…私が目を離した数年の間に、馴染みの道が死んでいた…。




私は“緑の壁”の先を知るために、路肩にある腰丈の防波堤に登った。

防波堤の向こう側には、波消しブロックも砂浜も無く、直接に青い海が広がっていた。
ゾクッと来て、ヒヤリとした。

そしてその海の向こうには、平穏な砂浜がどこまでも続いていた。
間近に見える脇本漁港の小さな突堤が、まるで人里から私に送られた小さなエールのようだった。
しかし、そんな気休めではとても支えられないほど、先行きに対する私の不安は大きかった。  な に せ …




防波堤の上から見る先行きが、こんなだったから。


私は、“緑の壁”の裏側に、見覚えある道が眠っている事を期待していた。
決してそれが甘い期待であったとも思わない。
普通は、崩落を抜ければその裏側に道があるのだ。

しかし、見ての通りここに道はなかった。見える限りに。
まるで初めから道なんて無かったかのように見えるし、そう思っても無理はないだろう。
ここには、昔から防波堤だけがあったのだと。



そんなバカなことがあるものか!
私はこの道を通った事があるのだ!!




私は騙されないぞ……!

私と道との再会は、まだ手遅れではないと信じている。

私は、諦めない。





防波堤が、唯一の“道”になっていた…


堅牢な防波堤があったおかげで、その天端を歩くというイレギュラーな通行手段が残されることになったが、それが無ければ猛烈なヤブ漕ぎを強いられたであろう。

ただ、この防波堤があったおかげで、崩れてきた土砂が重力に任せて海へ流れ出る事も出来ず、その全てが道を埋め立てることに利用されてしまったという現実もある。
道路管理者としても、当初は海の浸食の方が怖ろしく、山の方はどうにでも抑えられると考えて、こういう作りにしたのだろう。
実際、この生鼻崎の海岸には少しも砂浜や岩場などがないことを見ても、一帯の海蝕は相当に強力なものがあると思われ、防波堤が無ければ既に道は陸ごと海に消えていたと思われるのだ。




沖ノ鳥島だっけ?

本来は浸食で消えてしまう運命の陸地を、人工の防波堤で無理矢理守っている光景に、その名を連想した。

とりあえず、路面を埋めている土砂の盛り上がり方から見て、この道に入って最初に遭遇した“緑の壁”が第一の崩落現場で、その先に続く茫洋たる“緑の海”は、第一の崩落でもたらされた土砂が防波堤に堰き止められて路上を埋め尽くした結果であろう。
これらの状況から、発生した土砂崩れは相当に水分を含んだ土石流のようなものであったと思われた。



すばらしき“緑の海”である。

自転車が余裕を持ってすれ違えた道幅が、おそらく平均で50cmを越える土砂の下に埋もれている。
山側の(申し訳程度の)落石防止柵が壊れていないにも拘わらず、道が土砂で埋もれているのは、道に沿って土砂が流れ込んできた証しであろう。

この生鼻崎を回り込む自転車道の長さは、全長490mの生鼻崎トンネルに対して550m程度であった。大した迂回ではない。
元来短く、かつ平坦だったこともあって、自転車だとあっという間に通りすぎてしまう区間だったから、あるサイクリストにとっては、この先に待ち受ける男鹿半島サイクリングへの期待感の前に前哨戦を意識するまでもない、ほとんどただの通過点でしかなかった。




それが今や、歩きよりも遅い速度で怖々と自転車を押し歩くのが精一杯という有り様だ。

与えられた道は、足元で常に海がチャプチャプ音を立てる幅50cmだけ。
黙って歩くだけなら子供の悪戯レベルだが、自転車付きだとこれも結構神経を使う。

しかし、この鈍足のお陰様で、かつては素通りしていた風景を、じっくりと観賞できる。
ここには存外に美しい眺めがあった事を知る。素通りは惜しいことをしていた。




これがその眺め。

まるで沖に出た船上からの眺めだが、生鼻崎の護岸堤から見る秋田湾で相違ない。

すばらしき弧状海岸の広がり。左は船越、天王、秋田港へと続く防砂林地帯。背後は太平山系だ。




逆境にこそ活路を見出すオブローダーの愉しみに、うっとりし始めていた私の前に

これでも食らえ!

と言わんばかりに差し出された、試練のパンチ!
我が唯一の進路であった天端路(路じゃないけど)に迫る、“緑の影”…。




14:31

折角気持ちよくなり始めてたのに、水を差しやがる、夏の藪。

さすがにこの後に及んで天端路(路じゃないって!)に固執するは危険であろう。
夏藪の肉圧に押し出されて、ニコニコ顔で海へドボンすると、結構笑えない、いや、
絶対に笑えない結末になるだろう。砂浜まで泳ぐしか無いし、たぶん死んでしまう。




なので、ここは意を決して、

天端路(路じゃ…もういいか)よりも高くまで盛り上がった、

第二の崩落へヤブ漕ぎ突入!!


どうやらこうやら、踏み跡らしきものがある。

これは明らかに、私がオブローディングの入口を見出した秋田の地に、次世代のオブローダーとなるべき宿命を持ったワルニャンコたちが育成している証しと考えられるだろう。
壮境に立ち至った私は、若人が切り開いたであろう藪中の小径に感謝しながら、額に汗して自転車を押し進めた。

そして、この背丈を超える夏藪を突破した。




ちなみに、道をこんなに滅茶苦茶にした生鼻崎に至っては、この余裕の表情である。

こいつが犯人で間違いないのに、既に崩れた痕跡をマント(群落)の下に隠して素知らぬ顔だ。

これは相当なワル地形であると断言せざるを得ない。




こうして第二の崩落を越え、再びの定位置(天端路)に戻ろうとした私の前に、

“衝撃的光景”!!




「すごいや、道は本当にあったんだ!!」


かつて通った道なのに、それを見つけてこんなに喜べるとは、我ながら意外だった(笑)。

これが生鼻崎自転車道の再発見である。

岬の突端に近付いてようやく、“あるべきもの”があった。




14:33 《現在地》

かつて島崎藤村はその著書「夜明け前」の中で「木曾路はすべて山の中である」と書いたが、それに倣って、「生鼻崎自転車道は全て藪の中である」と書かなければならなくなるかと思い始めた矢先であった。

入口からおおよそ250m、その大半は土砂崩れの土砂と、そこに育つ夏藪の中にあった。
しかし、集落がこんなに遠く見えるようになって今さら、道が復活した。
何ともいえぬ嬉しさだ。
未開の海に探検に出て、新大陸を見つけたような気分だ。

次回は、“新大陸”(ただし残り300m)の探検だ!!