2013/3/15 6:35 《現在地》
いま来た道を振り返る。
飯田線の坑門があまり大袈裟なので、その傍らで町道の方は肩身が狭そうである。
というような印象だけの話ではなく、実際に狭いでしょ。狭すぎるでしょ!
幅1.6mでさえあったように見えないのは、おそらくこの坑門が鉄道開業当初…つまり、三信鉄道として初めて誕生した昭和9(1934)年当時のものでは無くて、後に町道を少し呑み込むようにして改築されたためではないかと思う。この鉄道トンネル…名前を大月トンネルというのだが(町道にあるというトンネルと同じ名前だ)、その傾斜の付いた坑門は、三信鉄道当時の物ではあり得ない。
肩身が狭いよ〜。狭いよ〜。
線路と道路が極めて近接しているのだが、両者の間に柵がないのが怖い。
この道を走行しているときに列車が来たら、間違いなく緊張で身を堅くすることになるだろう。
鉄道の写真を撮影するのにはいいかもしれないが、悪い事はしていないのに警笛を鳴らされかねない近さだ。
余計な心配をかけたくないので、この区間は早く通りぬけた方が吉だな。
幸い路面はただの土道で悪くないので、自転車で速やかに通過することにした。
150mほど進むと、線路と道路の間に微妙な高低差が出て来たので、私は線路側から見つかる心配が無くなり、胸をなで下ろした。
だが良い事ばかりではなかった。
藪が濃くなってきたんダヨ…。
これは、夏場の通行は相当厳しそうだ。
春先に探索しても、刈払われていない去年の夏草が首くらいの高さまで残っていて、自転車を漕ぎ進めるのに苦痛を感じた。微妙に下り坂だったのは救いだったが。
一方、ここで川に目を向けると、天竜川と大千瀬(おおちせ)川の出合いが作り出す雄大な氾濫原を見渡せた。
中央やや左の一際深い谷から天竜川が流れ出ている。
その出口に近い所に日本最大級の佐久間ダムが建造されたことで、今ではかつての“暴れ天竜”の凄みを見せることは滅多にないが、氾濫原を含めた川の幅は往時と変わっていないのだろう。
6:38 《現在地》
おおっ!
なかなか小気味の良い風景が現れた。
側面に「9」の数字がペイントされた小ぶりなプレートガーダー橋が、手の届きそうな低い高さに現れたかと思えば、そのまま「8、7、6、…」という風に最後の「1」まで同じものが並んでいた。
まるでそれは、楽しみにしている「大月トンネル」への接近を、私の代わりにカウントダウンしてくれているようだった。
この番号と同じく全ての桁にペイントされていた塗装表示によると、本橋の名前は清水陸橋橋りょうというらしい。
陸橋橋梁という表現がなんとも堅っ苦しいが、国鉄やJRの命名規則的なものには、単なる「陸橋」を許さないというものがあるのかもしれない。もちろん「りょう」が平仮名であることも、国鉄からの伝統であろう。
各支間の長さが5mで、それが単純に9連続いて45mという橋は、鉄橋好きでも退屈そうな目線でやり過ごすのではないかと思われる工業製品然としたプレートガーダーであるが、「9」に取り付けられていた製造銘板を読めば、これが由緒の正しい橋であったことが分かる。
昭和八年
川崎車輌株式会社制作
――――・――――
三信鉄道株式会社
飯田線では別に珍しくないことではあるが、開業当初から継続利用されてきた古鉄橋である。
川崎車輌という会社は、現在まで鉄道車輌の製造では大手に君臨しているが、昭和3年の設立当初には鉄道橋梁の製作も行っていたようだ。
6:41 《現在地》
はじめの頃こそ緊張したが、次第普段はあまり間近で見ることのない飯田線の鉄路を近くで感じられることに、楽しささえ感じ始めた中盤の並走区間であった。
だがそんな蜜月もおおよそ350mで終わりを迎え、終盤区間へ入っていくことになる。
飯田線は再びトンネルへ吸い込まれていき、難所との肉弾的格闘を最初から回避していた。
取り残された町道だけが、再び山を背負った孤独な闘いへ。
予告された大月トンネル出現まで、あと300mくらいか。
今のところ隧道が現れそうな気配は感じられないし、地形図にも記載されていないのだが、旧版地形図と、いつ設置されたのか不明な入口の看板に、その存在が予告されていた。
しかも、トンネルが通行止めという表現がされていた。それはどんな意味なのか…。
私と私の自転車は、ちゃんとトンネルの向こうのゴールへ辿り着けるのか。
路盤の状態の変化は、あまりにも明らかだった。
言うまでもなく、悪化である。
前半の路盤とは、立地や当初の道の作りといった前提条件は変化していないと思うが、こちらは見るからに“廃道”であった。
中盤の道が随分と夏草に覆われた様子であった時点で、その先の道路状況についての懸念は持っていたのだが、今それが明確な形で証明された。
終盤は、廃道だ。
ここに来て、当然のように、自転車は完全なお荷物に成り下がった。
だが、この道でのこれまでの貢献の度合いと、無事に突破した後の事を考えれば、まだまだ自転車を捨て去るという選択肢は無いことが肯かれる。
大月トンネルの状況次第では、自転車はおろか、私の身一つでも先へ進む事は出来ないかも知れない。
この道路の状況と、「隧道が全面通行止め」という予告からは、そんな未来を想像する事も容易かった。
しかし、今はまだ粘りたい。自転車についての決断は、まもなく現れるであろう大月トンネルを待って判断しよう。
次のカーブを曲がれば、おそらく旧版地形図のトンネル擬定地付近に辿りつく。
う…あ…。
果たして、それは目論見通りの場所に、決然と待ち受けていた。
お、「大月トンネル」というらしい…。
しかしコトバのイメージとしては、トンネルなんていう洒落たイメージでは到底無い。
こいつは紛れもなく、岩穴であり洞穴であって、「隧」の一字が相応しき地の穴だった。
出現した一瞬にして私から「迂回可能性」という5文字を奪い取る、凶悪なる面構え。
この探索の完抜達成の如何は、本隧道の一存に委ねられてしまった。到底、回避不可能。
もし本隧道が機能していなければ、自転車と一緒に来た道を帰ることが決定してしまう。
私は緊張しながらも、強い興奮に突き動かされるように、自転車を脇に抱えたまま、
隧道の“ジャッジ”を確かめる事が出来る目前の位置へと歩み寄った。
隧道前には、大量の巨大な瓦礫が山となって路盤を埋め尽くしていた。
な、中はどうなっているンだ?!
6:46 《現在地》
坑口を正面に見通す位置に辿りついた。
洞内に光は、見えない。
しかしまだ、諦めるには早いとも思う。
内部が曲がっているか… もし落盤しているとしても、完全閉塞であるかはまだ分からない。
諦めるな…。
…
……意外に、端正な円みを帯びた坑口に、目を細める私がいた。
見るからに凶悪さを帯びた巨大な岩屋に口を開けているから、それに相応しい荒くれの姿を想像したが、いざ坑口を見てみれば、それは小型自動車が通える最小サイズに設(しつら)えたらしき、人の息吹が感じられる綺麗な断面をしていた。このことに歓びを覚えたのは変だろうか。
巨巌を打ち抜く錐の穴を思わせるような、あらゆる虚飾を廃した真摯な姿であった。
このレポートの隠れテーマである「迂回路としての性能」だが、隧道の貫通如何以前にこのサイズである以上、やはり二輪車が限度ということになるだろう。
それにしても、凄い巨巌だ。
どこからどこまでが人の手が加えられた部分なのかも、よく分からなくなっている。
既に小さな坑門の円みを帯びた姿以外は、全て天然のものであるかのように見える。
だが、坑口前は右のように、極めて大きな人工力をもってしなければなり得ない大掘り割りになっている。
一枚岩らしき岩盤をこれだけ掘り抜くのは、隧道の延長としても、相当の苦心惨憺があったに違いない。
建造の時期も定かではないとはいえ、歴代地形図調査の結果(詳細は後述)、昭和28年以前と確定している。戦前生まれの可能性も大なのだ。おそらくは手作業によるものだ。
そして、ここまで坑口に近付いて撮影をする私には、今度こそ見えていた。本隧道貫通の可否。
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