2010/5/18 15:54 《現在地》
前回は移動と準備に終始したが、これから再び廃道をゆく。
暫しの間、自転車とはお別れ。
物理的に、自転車をすり抜けさせる隙間が無いので仕方がない。
彼には、高速で車が行き交う国道の路肩で不安げに佇んで貰う事にした。
幸い、トンネル内と違ってシェッド内は路肩が広いので、往来の邪魔にはなってないはずだ。
ここから始まる、外沢トンネルの旧道…全長1.5km。
うち北側の350mは踏破済み。
また、この探索の最大の目的である旧外沢隧道は600m先である。
オブローダーならば、きっとこの場面に興奮するはず。
こうして強く旧道の存在を意識し、さらに具体的な行動を起こさなければ、辿ることはおろか、見つけることさえ出来ない道。
今私の前にあるのは、そんなプレミアムなシチュエーション。
立ちはだかる障害が多ければ多いほど、客観的な評価はさておき、本人にとっては熱中して夢中になれるのが廃道。
というか、ハードな展開はうわの空や浮気を決して許さない。
嫌でも足元にある道に集中することになる。
ここからは、私と外沢旧道の“ふたり旅”だ。
最初の発見は旧道に関するものではなく、現道絡み。
だが一般のドライバーは絶対に目にすることのない景色であり、年代的にも興味深いものだ。
写真は(新)外沢トンネル南口の10m以上も突出した坑口で、突出部の上に換気室と思われる建屋が乗っていた。
思えば昭和4〜50年代の長大道路トンネルには、大規模な換気施設が付きものであった。
古いものほど規模は大きく、“県境の長大トンネル”のイメージは、坑門に乗っかった白いビルディングだったという人も少なくないと思う。
それが平成になると、多くの新設トンネルで小規模な設備ですむジェットファンが採用されるようになり、大仰な建屋は姿を消した。(あの個性的な台形断面も消えた)
当トンネルも現在はジェット式であり、坑門上に排気ダクトが必要な「半横換気方式」ではない。(ただし施設の詳細は不明だ。ただの電気室かも)
ん? あれは…。
見慣れた見出し標がその所在を教えているのは、水準点。
実は地形図にもここに水準点があることが記されているが、微妙に現道ではなく旧道沿いの設置。
国土地理院の関係者にしても、この水準点の現状把握は手間なのだろう。
見出し標が壊れたままになっていた。
なお、舗装はここまで。
ここだけで、随分と時間を使ってしまった。
ただ旧道に入るというだけの作業だが、大変だった。
なお、リュックは置いていくことにした。
大丈夫。
必ず此処には戻ってくるし、必要最小限の装備(行動食含む)はポシェットに入れている。
リュックの中身は自転車関係(修理工具)や、ナタなど重いものが多いので、今回みたいに必ず戻ってくる徒歩探索では、結構置き去りにすることをする。
この南側旧道の第一印象は、緑の濃さだ。
入口の時点で、すでに轍はおろか踏み跡も見えず、牧草地のように背の低い青草が一面に茂っていた。
完全に探索の時期に救われたと思う。
これは根雪が消えたばかりの5月ならではの路面状況で、盛夏期にはこの写真とは比べものにならない猛烈な藪が路上を支配しているだろう。
藁を踏むような足触りが、土の上に乗る枯れ草の量を物語っている。
すでに自転車には不向きだ。
旧道は早速急な山腹に入り込み、左側に姫川の広い谷を見下ろすようになる。
そこに、山中には似つかわしくない巨大な工場が見えたが、セメント工場のようだ。
盛んにダンプカーが出入りをしており、構内ではブルが蠢き、クラッシャーの乾いた破砕音が谷に響いていた。
旧道は現道をトンネルに失い、孤独な道行きとなるはずだったが、これは予想外の賑やかな傍観者の出現だった。
南側も対岸で盛んに護岸工事が行われていたので静寂にはほど遠く、全体的にガチャガチャした印象になってしまったのは、廃道のイメージに対する多少の不利と言わねばならない。
15:59 《現在地》
廃道らしくなってきた!
想像以上に急激な状況の悪化だ。
道幅も一挙に半分くらいに狭まっている(おそらく路肩が落ちている)し、法面からはおびただしい量の倒木や土砂が流れ込み、路面の起伏を激しくしている。
しかも食べ頃のウドに混ざって大量のイバラが潜んでおり、本当に時期を誤れば突破不可能な緑のバリケードが現出したに違いない。
おそらく獣さえもこの先に進まないだろう。
巨木のバリケードを全身で乗り越えると、今度は大きく路肩が決壊した場面に遭遇した。
まるで陥没したかのように巨大な穴が空いており、もし背丈くらいにまで緑が育っているとすると、足を踏み込んでしまいかねない危険な匂い。
現状ではまだ通れる幅は十分あるが、おそらくこの崩壊はここで止まないだろう。
何十年か後には、第2の突破不能箇所に育つかも知れない。
対岸の風景は、鈍足の視座の変化にあわせて、徐々に移り変わっていった。
あわただしいセメント工場の構内の裏手に、深く刻まれた“災禍の谷”がのぞく。
小高い尖った山の向こう側に落ち込んでいるのが姫川支流の浦川で、明治の稗田山大崩壊に伴う数億トンの土砂がここを一挙に落ちて川沿いの集落を完全になぎ倒したばかりか、姫川に折り重なってダムを造り、3日後に来馬宿を壊滅させる大洪水の元凶となった。
目線を上にやれば、稗田山を含む白馬の白い稜線が聳える。
傾きつつある日は鱗雲に隠されていた。
路上は束の間の平穏を取り戻した。
法面には長い玉垣が連なり、人の支配した過去を主張する。
しかしすでに“庭園”ではなくなった路上には、木も草も例外なく萌え競い、
前年の名残を覆い隠すまでに成長していた。
16:07 《現在地》
南口出発から13分、前方にひときわ深く刻まれた谷が現れ、進路を右に湾曲している場面になった。
地形図にもはっきりと描かれている枝谷で、南口からは約450mの位置である。
北口から入ったときは、約350mで大崩壊に見舞われて撤退を余儀なくされたが、今度も同じくらいの距離。
そんなわけで何となく嫌な予感はしたのだが、この枝谷…案の定、曲者だった。
向こうの道が鮮明すぎるほどはっきり見えているだけに、絶対に撤退はしたくない場面なのだが、これだけ藪の薄い恵まれた時期であっても、少々苦労した。
上の写真のところから、道なりに右に進むとこんな感じ。
道は斜面に同化して、まるっきり欠落している。
幸いにして絶壁という感じではなく、手掛かり足がかりは凄く豊富(視界を遮るほど)なので、倒木の這いくぐったり、木の枝によじ登ったりしながら、トラバース気味に進んでいくことは可能。
夏場は下草や枝葉のため進路を見失いかねない感じだが、何度も言うように探索時期に助けられている。
そうして、わずか20mに数分をかけ、確実に同ルートで戻ってこなければならない事を呪いつつも、藪を突破。
枝谷中央の折り返し地点に辿り着いた。
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これは一体…?
見慣れぬ地形…。
すごく急なのに、岩場ではない。
しかし木が生えてもいない。
その気になれば、草を掴んでどこまでも登って行けそうな、まるでゲレンデのような斜面。
谷だというのに水が流れる流路もなく、とにかくだだっ広い草原。
見慣れない斜面。
それは50m以上も上の尾根?まで続いており、人工物は何もない。
こんな斜面が出来た理由を考えた。
おそらくここは雪渓が遅くまで残る地点で、そのために木が育たないのではないか。
そして肝心の道は、事も無げに(橋や暗渠を用いることなく)谷底を通り抜ける。
現道が開通するまでは冬期閉鎖されていたのも、なるほど納得。
無防備過ぎるだろ(笑)。
4分ほどかかって、先ほどから鮮明に路盤が見えていた枝谷対岸へ。
相変わらず踏み跡は一切無く、若草を好きなように踏んで進む。
黄や紫の花もちらほら見えるが、彼らにとっては今がまさに我が世の春。
まもなく花を落とした彼らは、その背丈を数倍も超える猛烈なススキの藪に没して終わるに違いない。
すでに藁床のような地表からは、大量のススキが立ち上がりつつあった。
それにしても、昭和49年までは現役の国道でった事を思えば、ガードレールくらいはあっても良さそうな谷向きの場面だが、なで肩の路端は全く自然のまま。
ここまでに現れた保安設備は、法面の玉垣のみという状態だ。
これから見れば、歩行者や自転車には地獄のような現道トンネルも、車にとっては幸せなハイウェイに違いあるまい。
ん?
いろいろと出て来た。
←ガードロープの支柱。
ガードロープは昭和40年代、主に山岳道路用にガードレールの後に出て来たもので、時代的にはギリギリ符合。
→落石防止ネット。
これはいつ頃から施工されるようになったのだろう。
最近ではあまり新たな施工を見ない気がするが気のせいだろうか。
この手の落石防止ネットの後に主流になったのが、コンクリート吹き付け工という理解は正しいのか?
羊歯羊歯羊歯羊歯ッ!
もの凄い、若羊歯たちの楽園。
羊歯というと、水っぽい日影に群生しているイメージがあるが、この羊歯は日光の世界を支配している。
勇んで踏み込むと、独特の青臭さが私の鈍い嗅覚にも届いた。
羊歯の匂いに気持ちよくなって歩いていると、
突然全く思いがけないところで足を取られ、転んだ。
前のめりに転んだまま慌てて足を見ると、足がない?!
んではなく、膝より下がどっぷり地面に呑み込まれていた。
路肩を囲むような大きな亀裂があったのだ。
それが草に隠され、見えなくなっていた。
詳しくは、【動画】で。
立ち上がり、立ち止まり、あたりを見回す。
法面はこれまでになく峙(そばだ)ち、久しく見なかった岩盤が露出していた。
一方で路面には、色とりどりの花が咲き、羊歯の黄緑は眩いほど。
周囲よりもいくらか遅い春のシーンは、崖下に積もった土の中にのぞく白い塊…僅かに残った雪渓がもたらしたものに違いない。
序盤戦から一転し、あたりは静けさに包まれていた。
前方には先ほどから小さな突起状の尾根が見え、その先の視界を遮っていた。
地形図と見較べて、頷く。
私はまもなく、未見の廃隧道と遭遇するだろう。
これは…
ある
間違いない……。
が、通り抜けられるだろうか?
このとき、右上方がとんでもない事になっていた。
おっかねぇええ…!
道路のやつ、無茶しすぎ!!
この如何にも脆そうな岩盤に、“ネットだけ”で戦いに行くなど、
裸に竹槍でドラゴンに挑むような無謀。
← 見てくれ、このネットを。
どう思う?
流石に無理があるだろ!!
ひもみたいなネットでこの岩盤を囲って、
それで一体何をしたかったんだ!
岩盤の崩壊を防げると思ったんだろうか。
無駄だと思っていても、恐ろしくてどうしても巻きたかったんだろうか。
久々に、ひり付くような道路の風景を見た。
自然と道路の戦いで、まだ道路の方が圧倒的に脆弱であった時代の、祈りにも似た足掻きを見た。
どうしても通り抜けたいという、古の魂の叫びを見た。
この景色と共に、思い出して欲しい。
道が建設された、大正2年の経緯を。
従来は対岸にあった明治の街道が稗田山の大崩壊で復旧不可能なダメージを受け、突貫工事でやむなく建造されたのがこの道だった。
誤算だったのは、その道が昭和49年まで使われ続けたことだろう…。
ズタズタに切り裂かれたネットは、すでに本来あるべき位置を離れて散乱し…
隧道の開口部にまで支障する有様だった。
だが、ズタズタゆえにここでも全くの無能…。
ついに、外沢隧道に到達!
その衝撃的な姿は――。
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