国道148号旧道 外沢地区 序

公開日 2010.10.28
探索日 2010. 5.18


今回紹介するのは国道148号の旧道で、特に長野県小谷村下寺から同村中土(なかつち)地区までである。
ここは小谷村の幹線道路である国道148号が、もっとも大きく付け替えられている地区であり、外沢(そとざわ)という踏破のし甲斐がある難所を含んでいる。
なおここは、以前レポートした「国道148号旧道 下寺地区」の南側に繋がる区間であり、同日に連続して探索している。

今回は「序」ということで、歴代の地形図でルートの変遷を追いかけてみよう。
別にこの行程を経なくても旧道の存在は現地で明らかなのだが、小谷村が経験してきた自然災害の歴史と、それに伴う壮絶な路線付け替えの様子を、予め知っていただきたいのである。

まず最初にお見せするのは、現在の地形図だ。



「道の駅小谷(おたり)」がある北小谷下寺地区で、新旧の国道は並走している。
そしてここから姫川沿いを南下して、中小谷の中土地区に至るまで、外沢北側の一部区間を除く全線で、新旧道は別の路線になっている。
さほど距離に違いはないが、とにかく現国道はトンネルの連続で、北から順に外沢トンネル(1360m)平倉トンネル(706m)中土トンネル(1228m)という具合に、一本一本もかなり長い。

中でも最長の外沢トンネルは昭和49年竣功と、平倉(平成8年)中土(平成5年)よりもだいぶ古く、この一帯では最重点の改良ポイントとして優先的に工事が進められた事情が伺える。
今回の探索の中心となる(メインターゲット)のも、この外沢トンネルに付随する旧道である。

次に外沢付近の拡大図を見てみよう。
廃止から35年を経ている旧道は、最新の地形図にも未だ描かれ続けている。



全長1360mの外沢トンネルに対応する、約1.4kmの旧道。
昭和49年までは、国道148号の一部として信越間の幹線ルートを構成していた道である。

実は、だいぶ以前からこの旧道に関する情報提供や踏査要望は、かなりの件数が寄せられていた。
そして、そのいずれも「容易でない」ということを伝えていた。
特に、旧道のほぼ中央には今も地形図に描かれている一本の隧道(旧外沢隧道)があるはずだが、その姿を間近に見た者はいない…といような、なんとも刺激的なことを書いてこられる人もあった。

明治の廃道とかマイナーな林道の廃隧道というのであればいざ知らず、戦後もしばらく国道であった旧トンネルに近付けないなどというのは、いささか大袈裟ではないか。
本音を言えばそう思ったのだが、確かにざっとネットを検索した感じでは、トンネルの姿を見ることは出来なかった。
何がそんなに大変なのか?

とりあえず、小谷村の一帯は私にとって当時まったく未知であっただけに、風土の感じを掴むためにも現地からやや遠い糸魚川市根知(ねち)あたりから自転車で旧道行脚を続けた結果が、本編で述べる“夕暮れ迫る廃道探索”(私にはお定まりのパターンでもあるが…)になってしまった。



ところで、私は最初にこの辺りの地図を見たときから、気になるというか、疑問を感じることがあった。
皆さんも左の地図を見て貰いたいのだが…

旧国道(赤線)はこの外沢の前後で二度姫川の本流を渡河している。
北側が「小谷橋」で南側が「姫川橋」であるが、いずれも“大きな地名”を橋名に戴く“大橋”だ。
現国道(青線)についても同じで、北側は「新小谷橋」といい、南側は地図の外だが中土の南で姫川を渡って旧道に合流している。

この姫川右岸を通行している区間は、そこに大きな集落があるわけでもなく明らかに“迂回”なのだが、地形的な必然性に乏しい。
右岸はとにかく山また山の険しい道で、それは多数のトンネルや旧道の存在もそれを物語っている。地図上の等高線も明らかに密だ。

一方の左岸に目をやれば、そこには広大な原野(来馬河原(くるまがわら))が横たわっている。
南半分は右岸同様に険しい地形であるようだが、それにしても本流を二度も跨ぐリスクやコストを考えれば、黙って左岸をゆく黄緑色に描いたようなルートが存在しないことは不思議だ。
皆さんはそう思わないだろうか?

何か左岸には、敢えて道が避けるような事情でも存在するというのか。
その事が気になっていた。




さて、地形図を頼りに時代を遡っていこう。

まずは昭和28年版である。
この年、府県道大町糸魚川線は道路法改正に伴い、二級国道148号大町糸魚川線に昇格した。
そのルートは先ほどの最新地形図で私が赤で塗った旧国道そのものである。
なお、鉄道の大糸線が工事中の記号で描かれている。
これは戦時中から一部路盤が完成していたものの、実際にレールが敷かれて開業したのは昭和32年(大滝〜中土間開業…大糸線全通)だった。

次に昭和5年版であるが、左の画像にカーソルを合わせてご覧頂きたい。
違いは大糸線が存在しないことと、中谷川出合いの姫川橋が合流地点の上流に架け替えられた程度である。
旧国道のルートは、この当時から外沢隧道とともに存在していた。

これらの姿と大きく違う光景を見れるのは、一帯を描いた地形図では最も古い、大正元年版だ。
左の画像を見ながら、下のリンクにカーソルを合わせて欲しい。

【大正元年版の地形図を表示】 (見れない人はこちら→【リンク】

大正元年当時、外沢を通る旧国道ルートは描かれていない。
北から来た太い県道は、小谷橋を渡らず、左岸を来馬(くるま)集落まで来て消滅しているし、南側の県道も中谷川出合でやはり唐突に終わっていた。
この分断された区間を迂回するように破線の道が存在しているものの、その姿はいかにも頼りなく見える。

しかも、「まだこの区間に県道は開通していなかった」などという単純な話ではないのだ。
実は明治19年には、馬車も通れる当時としては立派な車道が、大町と糸魚川の間に開通していた。
「長野県史」に曰く、「七道開鑿」事業の第五線路(小谷新道)がそれである。

残念ながらこれより古い地形図が存在しないので、その馬車道のルートを完全に明らかにすることは出来ないが、「小谷村誌(文化編)」などの記述を総合すると、当時のルートは大概次のようなものであったらしい。



2本のルートを図示したが、破線は藩政期以前から続いてきた「千国街道」である。
今日では「塩の道」として観光地化されている部分もあるが、大概は廃道となって藪に埋もれている、いわゆる古道に属するものだ。
ここで千国街道の詳細を述べることはしないが、日本海岸の糸魚川と内陸の松本平一帯を結ぶ主要な街道で、宿場や一里塚などの街道らしい施設も整えられていた。
たとえばこの図中で言えば来馬集落はかつての宿場であったところで、明治時代になっても栄え続け、この大正元年の地形図にあっても、当時の「北小谷役場」が所在していたことが分かる。

黄緑の実線のルートは見覚えがあるかも知れないが、そうそのとおり!

先ほど、「こんなルートがないのはおかしい」と言ったばかりのルートにそっくりである!(わざとじゃないぞ)
やはり地形と道の関係は、時代が古くなるほど“自然”で分かり易く、理由無き迂回は存在しないとみていい。
明治時代の新道は、山側に迂回していて上り下りが激しかった古道を廃し、姫川左岸の崖を土木力で切り開くルートとして開通していたのである。

だが、この明治の立派な新道は、地形図が描かれた大正元年当時にはもう一部が消滅し、一部が破線として描かなければならないほどに荒廃していた。
そうなった原因については、いずれこの明治道自体のレポートを書くときに詳しく述べるが、今は次の地図と画像で察して欲しい。

とんでもないことが起きてしまったことが、分かると思う。







明治44年に撮影された、来馬集落北小谷村役場付近。(「小谷村誌・文化編」より転載)

明治44年に稗田山が山体崩壊を起こし、崩れ落ちた数億立方メートルの土砂が浦川を土石流となって下った。
それは即座に姫川を堰き止め、合流地点付近に水深60m以上の天然ダム(高瀬湖)を出現させた。
数ヶ月後にダムが決壊して下流に洪水となって押し寄せ、糸魚川河口までの全ての橋が落ちた。
来馬集落はこの洪水で山手に移転を余儀なくされ、従来は来馬河原を通っていた県道も廃道となった。




稗田山の話を出すと、明治道が主役みたいになっちゃうが…。

今回の主役はあくまでも、旧国道である。

小谷村誌によると、災害復旧のため大正2年にとり急ぎ建設されたルートだそうだ。


こんな怪しい経歴を持つ道が、ただの旧国道であるはずはなかったのかもしれない…。



下寺地区〜外沢地区の旧道


2010/5/18 14:56 《現在地》

昭和33年に北小谷、中小谷、南小谷の三村合併で小谷村が出来るまで北小谷村の役場が長く置かれていたこの下寺地区には、現在「道の駅小谷」が設置され、白馬と雨飾の秀峰に抱かれた清らかな山村風景と相まってドライバーたちの憩いの場になっている。
私の目には、明治44年の稗田山崩れ以来の大災害となった平成7年の水害のダメージも、ほとんど回復しているように見えた。

下寺集落の旧国道は道の駅の敷地を挟んで現国道と綺麗に平行しており、それは集落の端まで続く。
写真はもちろん旧道の風景で、やや北寄りにご覧の高さ制限バーがある。
制限高3.8mだというが、今のところ行き先にこのような制限を要するようなものは見えていない。




集落内の道はほぼ平坦であったが、端に近付いていくと登り始め、両側に低い石垣が現れ始める。
JAやガソリンスタンドなども沿道にあるが、後者はすでに営業していないようだった。
そして道は最後にやや右カーブして、丁字路に突き当たる。
突き当たりの向こう側は姫川であり、広い川幅を感じさせる遠いところに対岸の光明集落やその背景林が見えた。

現国道に対する旧国道という意味では中途半端な場所だが、明治新道に対する大正2年の付け替え道路としての外沢旧道(旧国道ルート)は、この丁字路が起点である。




丁字路に接近すると、この風景がいきなり目を奪う。

丁字路を左折するのが旧国道ルートで、即座に小谷橋を渡って対岸へゆくのであるが、そのいかにも古ぼけた多橋脚のコンクリート橋の真上を、なんとも軽々といった印象で現国道の新小谷橋がほぼ直交するように跨いでいる。

川の上で新旧の関係にあたる2本の橋が立体交差しているというなどというのは、かなり限定的ではあるが、もしかしたら日本中探してもここにしかないかもしれない道路風景だ。
少なくとも私は初めて見る。

ちなみに橋脚も変わっていて、左右非対称の門型橋脚だ。
川の流れというのは上流から下流に向かって非対称だから、こういう非対称橋脚が理不尽だとは思わないが、珍しいものに分類できると思う。
(上流側の柱が細いのは一見して脆そうだが、むしろ下流側の太い橋脚への衝撃緩衝が主目的なのかも)
加えてこの橋の“特徴”はもうひとつあるが、それは後ほど。




丁字路。

じゃないかも…?

地図上ではどう見ても丁字路だが、実際には左折する旧国道にか細い枝道が右に出て行っている感じだ。
また角の目立たないところに、御大典記念碑が建っているのを見つけた。

前述したとおり、この分かれていく枝道こそが明治時代に地域をあげて建設した新道(県道)だったが、開通から20数年後の稗田山崩壊という一事により沿道全集落とともに壊滅してしまった。
以来まもなく100年を経ようとも、再びここに交通の主力が戻ってくることはなかったというわけである。
現在は村で建てた青看版が教えるとおり、来馬温泉や紙すき山牧場に繋がる村道として使われている。




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それでは改めて小谷橋へ進もう。

この橋のもうひとつの特徴だが、それは糸魚川側のワンスパン(約20m)だけが片側に拡幅されていると言うことである。

古くて狭めの幹線道路の橋で、かつ交差点が橋頭にある場合にたまに見るが、たいていは後付けの改造である。
この橋の場合も拡幅部の橋脚だけカタチが異なっており、改造されているかも知れないが、銘板にある竣功年は昭和38年と驚くほどに古くはない。

拡幅の目的は言わずもがな、国道本線を通行する右折車両の便宜を図るためであろう。

そして川の上には、すでに見た3.8m制限バーの本領発揮となる、限界高さ3.8mの立体交差だ。




立体交差の地点から、これから向かう外沢方向の道形を遠望しつつ、この小谷橋の過去を振り返ってみたい。

この位置に小谷橋という橋が架けられた最初は、おそらく大正2年の付け替え道路開通のときであろうと思う。
だが、明治末頃にはすでにこの500mほど下流に簡単は橋が架けられていたことが地形図から読み取れる。
では、現在のコンクリート橋は何代目にあたるのだろうか。
これだけ大きな橋でありながら、小谷村誌には記録が無く分からない。

しかし少なくとも、過去2回は架け替えられているのではないだろうか。
昭和5年版の地形図における小谷橋は、滅多に見れない珍しい地図記号で描かれている。
それは二重線の片側が破線という「脆弱ナル橋」という記号であり、老朽化などのために戦車のような重車両が通行できないことを意味している。
これが昭和28年版では普通の「コンクリート橋脚の木橋」を意味する描かれ方である。
(あまり知られていないが、昭和40年代まで使われていた地形図の旧図式は、橋の素材まで描き分けていた)
そして現在ここにある橋は、見ての通りフル・コンクリートの橋である(昭和38年竣功の銘板あり)。
なお、上を跨いでいる新小谷橋(全長353m)の竣功は、平成12年とごく最近のことである。




小谷橋を渡るとこちらもすぐ交差点だったが、橋幅に変化は付けられていない。本線が直進だからだろうか。

そしてそのままもう一度、「3.8m制限高」が活きてくる。
JR大糸線のガードをくぐるのだが、ここの制限高も3.8mなのだ。
というよりむしろ、小谷橋の立体交差はこのガードの高さに合わせて設定されたものと見るべきだろう。




15:03 《現在地》

ガードをくぐり抜けると、右に折れてすぐに北小谷駅がある。
駅は山裾をなぞる旧道と真っ直ぐ走る線路に挟まれている。

今日はこの外沢の探索が終わり次第、この北小谷駅か次の中土駅から輪行して出発地の根知に戻るつもりであったから、無人の駅舎に立ち寄って列車の時刻を確認してみた。

…思ったよりも列車の本数が少ない。
糸魚川方面行きは、16:26を逃すと、18:58と21:20の2本があるだけ。
流石に21:20に乗るくらいなら自走した方がマシで、18:58もちょっと遅すぎるなと思った。
が、とりあえずこれが私の活動のタイムリミットになった。




駅を出るまもなく旧道は現道に合流する。
新小谷橋の袂である。
が、合流した旧道は、まるで現道に「いらない」と弾かれるようにして、また山側にひとつのカーブを描く。
こういうカーブひとつ分の短い旧道を「三日月路」と呼ぶそうだが(写真家の吉野正起氏に聞いた話)、まさにそれである。

このカーブひとつをショートカットしている現道の橋は新光明橋といい、平成18年に開通したばかりである。
文字通りのミニバイパスだが、直前の新小谷橋とも一連の国直轄道路改良事業「小谷道路」の平成22年現在、最新末端の開通区間である。
この「小谷道路」という名前は、先日ニュースにもなったばかりなので、聞き覚えがあるかも知れない。




新光明橋を過ぎるとすぐに旧道と合流し、今度こそ一本の道になる。
昭和28年に国道指定された当時のルートが今も国道として使われている区間は、前後の10km中、ここにある1.2kmほどだけだ。

長野オリンピック開催(平成10年開催)や7.11水害復旧(平成7年)など様々な要因が絡み合った結果、この小谷村一帯における国道148号の改良度は、元二級国道としては全国屈指のレベルに達しているといえる。
そして今残っているこの1.2kmについても、昭和63年に着手された「小谷道路」が全通すれば、旧来の風景を一新することになる。

先ほどニュースになったというのは、この残り僅か1.2kmで完成するという小谷道路について、平成21年4月突如として国が事業凍結を宣言し、それからまた3か月後の7月に事業再開が決定したという…、今から見ればドタバタ劇だが、地元を大いにもませた事件であった。




なおここで、現時点における国道改修区間の終わりを明示するかのように、山側の法面に突き出すようにして道幅を狭めているのが、この巨大な発電用水圧鉄管である。
これは上流の第三姫川ダムから取水した水を、下流の湯原にある北小谷発電所に導水するものだ。

← なかなか「立入禁止」看板のイラストがイカしていたので、拡大してご覧頂こう。
どうやって管内に立ち入れるのかは分からないが、最高にデンジャラスなウォータースライダーである。





小谷“立体交差”橋を俯瞰気味に遠望。

手前には北小谷駅を出て来たばかりの線路も見える。

なかなかにいい景色だと思う。





ずっと旧道を選んで走ってきた身にすると、むしろ「何でここに車がこんなにいるの?」とさえ感じる、古びたグネグネ道。
わずか1.2kmの未改良区間だが、ここだけが残っているという状態は確かに部外者が思う以上に、地元の人にとっては気持ち悪かろう。
と同時に、ここからも車列が消えたとき、いよいよ小谷村の全土から古き国道風景が消えるわけで、そこに一抹の寂しさを覚える…などと言うのは完全に私のエゴです。サーセン。

この車列は片側交互通行の信号待ちだった。
そして今は登り坂である。
山チャリストを含むサイクリストならば共感していただけると思うが、登り坂にある歩道のない片側交互通行は、かなりのストレスである。
特に今回みたいに片交区間が狭く長く、自転車一台のために対向車を待たせている場合は、極度に焦る。




さほど急ではないが、それでも確実なペースで河岸の山腹を上り詰めていく道。
途中の地形が凹んでいるところでは、橋が架設されようとしていた。
視界は姫川の広すぎる谷に半開しており、遠方は白馬の白峰、対岸は茫々たる来馬河原の原野。

良い眺めだが、対向車を待たせているので、結構全力で漕ぎ漕ぎ。
最近はこんな必死に自転車を漕いだ覚えがあまりないぞ…お陰で自分撮りしちまったぜ。





出た!!

屈強な旧道が待ち受ける、外沢トンネル!


意外に汚れた坑門と砂利敷きの旧道口を見て思う。

「こいつは、久々にガチかもな……。」